☆ なんにせよ、“意見を言う=書く”というのは、<情報>の<認識>によっている(かかっている)
☆ このとき、<情報>が、すでに、“いいかげん”なら、ぼくらはなにを<認識>し、<意見>を言う(書く)のか?
☆ 当然、いま、たとえば、“政局”について発言するなら、その政局についての<情報>を、ぼくたちは自ら“取材”してきたのではない。
これら情報は、“メディア”による、“非直接(間接)”情報のみである。
もし“取材”したひとが、自ら言う場合も、彼らも“すべてを”直接取材できるわけではないので、ぼくがここで述べていることは成り立つ。
☆ 次に、“情報を認識する”という場合の、<認識>ということも、当然、問題である。
☆ あることを、直接目撃したとしても、まったく客観的で公正な、<認識>などというものは、ありえないのである。
☆ つまりある<事件(事実)>というのは、客観的・公正に認識すれば、<ひとつ>であるなどということは、ありえないではないか。
☆ すなわち、<ひとつの事実>として、<背景(状況・歴史)>から切り出せる、<事実>などというものは存在しない。
すべての事実=事態は、錯綜しているのだ。
☆ むしろぼくたちが“信じ込まされる事実”というのは、いつもある先入見によって、単純化された<事実=言説>である。
この<単純化>(切捨て)を行う操作を<イデオロギー>と呼んでも、<常識(惰性態)>と呼んでもよい。
☆ もし事実を、“ありのままに見る”ことを望むなら、そういうことの<不可能性>について意識的であって、しかも、<認識>を放棄しない、思考の運動が求められる。
☆ ただ自分の目が見、手が触れたものを、信じていればよいのではないはずである。
ただ自分の脳内に点滅する信号(意識!)を、信じていればよいのではないはずである。
☆ だから、異なった<他者>の、ことなった<言説>を聞く必要がある。
☆ 実際に“会って聞く”ことができないなら、<本>を読む。
<当面の目標図書>
★テリー・イーグルトン:『イデオロギーとは何か』(平凡社ライブラリー1999)
★大岡昇平;『レイテ戦記』(中公文庫1974)
★ 内田隆三:『国土論』(筑摩書房2002)
★ ザフランスキー:『ニーチェ その思考の伝記』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス2001)
*写真は、ナンニ・モレッティ「エイプリル」
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