Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

欲望が劣化した

2010-03-04 12:21:15 | 日記


ぼくが前にやっていたDoblogは、昨年の今頃、機能不全におちいっていたのではなかったか。
1年がたった。

そこでのささやかな<関係>も壊れた。

しかし、ぼくも“いい歳”である。
“そういうこと”は繰り返し経験してきた。
<人>は、出会って別れるものである。

残るのは、<言葉>であり、曖昧な<映像>(涙にぬれた写真でもよい)である。

この消滅したDoblogを記念して2008年に<そこ>へ書いたブログを(その後半を)引用する;


ぼくは東浩紀氏が<動物化>と言った時に、彼の論議に反発したのではなかった。
しかしこの<動物化>という言葉=概念には納得できなかった。

つまり、ぼくは<オタク>というのは、反動物、非動物であるように思える。
tomatoと彼等が作成した“女と水”の映像は美しかった。
鳥男君が言うように、そこには現在のテクノロジーによる<完璧>なものへの接近がうかがえる。

しかし(笑)、
しかしである。

この映像は、“あまりにも清潔ではなかろうか”。

<動物>というのは<不潔>なものなのである。
<動物>である<人間>は、その生存の新陳代謝により、<不潔>であり、その<実存>は<ばい菌>とともにあり、<病気>や<不具>と共にある。

だから、<ぼくらの欲望>は“不純”であり、“曖昧”であり、“矛盾”である。

だからぼくが、ある人やある人々を<嘘つき>と呼ぶときは、<純粋さ>において言っているのでは、ない。

ぼくは自分の欲望の<自覚>のことを、たぶん、言っているのだ。

ぼくは<だれでもいい人を殺せる>ことは、これと“関係がある”と考える。

だからぼくは<欲望が劣化した>という“テーゼ”を掲げる。

[ 更新日時:2008/06/15 12:50 ]


ならば、欲望が劣化していない言葉とはなにか。
ぼくが何度も引用する<言葉たち>は、ぼくに<それ>を思い出させ、ぼくの感情の“基準点(ベイス)”を示すものである。

もちろん、ぼくの<感情>は、日々ゆらいでいる;


★子供たちがとても幼かったころ、母親は、ときどき、子供たちを乾季の夜景を眺めに連れだした。彼女は子供たちにこう言う、この空を、まるで真っ昼間のように青いこの空を、見渡すかぎり大地が明るく照らされているのをよく見てごらん。それからまた、耳を澄ませてよく聴いてごらん、夜のざわめきを、人びとの呼び声、笑い声、歌、それからまた、死にとり憑かれた犬の遠吠えを、あれらの呼び声はみんな、孤独の地獄を語り、同時にまたそういう孤独を語る歌の美しさを語っている。そういうことも、耳を澄ましてちゃんと聴かなければ。

★普通は子供たちには隠しておくことなのだけど、やっぱり逆に、子供たちにはっきりとそれを語らなければいけない、労働、戦争、別離、不正、孤独、死を。そう、人生のそういう面、地獄のようであり、同時にまた手の打ちようもない面、それもまた子供たちに知らせなければいけない、それは、夜空を、世界の夜の美しさを眺めることを教えるのと同じことだった。

★この母の子供たちは、しばしば、母の語る言葉がどういう意味なのか説明してくれと求めた。すると母はいつも、子供たちに、自分にはわからない、それはだれにもわからないことなんだと答えた。そして、そういうことも知らなければいけない、と。何にもわからないんだいうこと、何よりも、それを知ること。子供たちに向かって何でも知っているよと言う母たちでさえ、知らないんだ、と。

<マルグリット・デュラス;『北の愛人』(清水徹訳)>


中上健次ならどこを引用してもよい(笑);

★ その腐肉のにおい立つ共同作業場にいたM青年に会った時も、その彼女と同じ物があるのを感じた。青年は作業場の一等奥、物陰になり外から見えぬ場所であぐらをかき、切り取ったまだ肉のついた馬の尻尾から、毛を抜いていた。自分の肩ほどの長さの馬の尻尾である。腐肉のにおいの中で青年は、台に一台小さなラジオを置き、手ばやく毛を抜きとりそろえている。肉のついた尻尾はもちろん塩づけにしてはいるが、毛に何匹ものアブがたかってもいる。衝撃的だった。

★ その衝撃は、言葉をかえてみれば、畏怖のようなものに近い。霊異という言葉の中心にある、固い核に出くわした、とも、聖と賤の還流するこの日本的自然の、根っこに出喰わしたとも、言葉を並べ得る。だがそれは衝撃の意味を充分に伝えない。私は小説家である。事物をみてもほとんど小説に直結する装置をそなえた人間であるが、一瞬にして、語られる物語、演じられる劇的な劇そのものを見、そして物語や、劇からふきこぼれてしまう物があるのを見た。それが正しい。つまり、小説と小説家の関係である。

★ いや、そこで抜いた馬の尻尾の毛が、白いものであるなら、バイオリンの弦になる。バイオリンの弦は商品・物であると同時に、音楽をつくる。音の本質、音の実体、それがこの臭気である。塩洗いしてつやのないその手ざわりである。音はみにくい。音楽は臭気を体に吸い、ついた脂や塩のためにべたべたする毛に触る手の苦痛をふまえてある。弦は、だが快楽を味わう女のように震え、快楽そのもののような音をたてる。実際、洗い、脂を抜き、漂白した馬の尻尾の毛を張って耳元で指をはじくと、ヒュンヒュンと音をたてる。

★ その夜、山谷君がよく行くというスナックに飲みに行った。二台の車に分乗し、田辺に出た。朝来の大谷と田辺、そこが赤坂であっても六本木であってもいっこうにおどろかないシャレたスナックで、山谷君の昔からの友人であり仕事仲間であるK君の、エレクトーン伴奏で歌う山谷君を見て、共同作業場で毛をすいていたM青年も、仕事を終えると風呂を浴び、体にオーデコロンをふりかけ、服を他所行に取り換え、外に出るのだろうと思った。女が肌に化粧をほどこすようにである。

★ 大谷の後ろは熊野の山々だった。霊異は、その谷の中にある。みにくい物をえもいわれぬ音の楽器に変える不思議さは、その谷の中にある。「秘すれば花」とはこの日本的自然の中心をうがつ美意識であり、美の方法論であるが、花に幽玄があるのではない、と、山谷君の歌をききながら思った。秘する、それに不思議はこもる。
案の定、翌日は雨だった。大谷を出て、救馬渓観音に行った。そこから、大谷は幾つもの山のかげにかくれて見えない。
<中上健次;“朝来(あっそ)”―『紀州-木の国・根の国物語』所収>


そして、

★だが、あらゆる部族の名前がある。砂一色の砂漠を歩き、そこに光と信仰と色を見た信心深い遊牧民がいる。拾われた石や金属や骨片が拾い主に愛され、祈りの中で永遠となるように、女はいまこの国の大いなる栄光に溶け込み、その一部となる。私たちは、恋人と部族の豊かさを内に含んで死ぬ。味わいを口に残して死ぬ。あの人の肉体は、私が飛び込んで泳いだ知恵の流れる川。この人の人格は、私がよじ登った木。あの恐怖は、私が隠れ潜んだ洞窟。私たちはそれを内にともなって死ぬ。私が死ぬときも、この体にすべての痕跡があってほしい。それは自然が描く地図。そういう地図作りがある、と私は信じる。中に自分のラベルを貼り込んだ地図など、金持ちが自分の名前を刻み込んだビルと変わらない。私たちは共有の歴史であり、共有の本だ。どの個人にも所有されない。好みや経験は、一夫一婦にしばられない。人工の地図のない世界を、私は歩きたかった。

★「私、死のことならもうなんでも知っているわよ、おじさん。いろんな臭いも全部知ってる。どうやったら苦痛を忘れさせてやれるか。いつ大静脈にモルヒネを打ってやればいいか。死ぬまえに塩水で腸を空にしてやる方法もね。あんな仕事、軍のお偉方にもやらせればいいんだわ。一人一人、全員に。川越の命令を出す人間は、看護の経験を持つ者に限るべきよ。こんな責任を押しつけて、いったい私たちをなんだと思っているの。看護婦は牧師じゃないのよ。誰も行きたがらないところへ導いてやって、おまけに苦しまないようにもしてやれ、なんて。そんな方法を、私たちがどうして知ってるっていうの。軍隊が死者のためにやってる葬式なんて、私には信じられない。あのくだらない演説!よく言えるわよ。人の死をよくあんなふうにぬけぬけと……」

★この屋敷は男ばっかり……。ハナは、むき出しの腕に口をつけ、肌の匂いをかぐ。なつかしい匂い。自分だけの味と匂い。はじめてこの匂いに気づいたのは、十代のいつ……いや、どこでだったろう。時間より場所だったように思える。自分の前腕に吸いついてキスの練習をし、手首の匂いをかぎ、かがんで腿に鼻を寄せた。両手をカップにして息を吹き込み、跳ね返ってくる自分の息をかいだりもしたっけ……。投げ出した裸足が、まだらの石の上で白く見える。ハナはその足をさすりながら、工兵が戦争中に見てきたというあちこちの石像のことを思った。あるとき、半男半女の美しい嘆きの天使像の横で眠った、と言っていた。寝ころんでその像を見上げながら、戦争中はじめて平穏な気分になれた、とも。

★砂漠は風に舞う布。誰のものでもなく、誰も所有できない。石でつなぎとめることもできない。砂漠は古い。カンタベリーが生まれたとき、西洋と東洋が戦争と条約で結ばれたとき、砂漠はすでに何百という名前をもっていた。砂漠のキャラバンは、不思議な文化だ。連夜の饗宴のあとに何も残さない。火の燃え残りすらない。私たちはみな、国という衣を脱ぎ捨てたいと思うようになった。遠いヨーロッパに家や子どもをもつ者もいたが、その人々も例外ではない。砂漠は信仰の場。人はオアシスの港を出て、火と砂の風景に消える。オアシスは水が立ち寄る場所……アイン、ビウル、ワジ、フォッガラ、ホッタラ、シャードゥーフ。じつに美しい。その美しい響きの横に、醜い人名をさらすのは恥ずかしい。人の名前を消せ。国名を消せ。私は砂漠からそれを教えられた。

★ときおり、男の部屋で女が一夜を過ごせることがある。夜明けまえ、市内三つのミナレットで祈りが始まり、二人を目覚めさせる。南カイロと女の家のあいだには、インディゴ市場がある。男と女はそこを通る。一つのミナレットの呼びかけに、別のミナレットが応え、美しい信仰の歌が矢のように空気中を飛び交う。だが、歩いていく二人には、自分たちのことを噂し合っているように聞こえる。炭と麻の匂いが漂いはじめ、冷たい朝の空気の奥行きが増した。聖なる町を二人の罪人が歩いていく。

★二人が過ごした数時間のあいだに、部屋は急速に暗くなった。いま、川面と砂漠からの光だけが残る。めずらしく雨音が聞こえはじめた。二人は窓際に歩み寄り、両腕を突き出す。思い切り外へ乗り出し、体じゅうに雨を受け止めようとする。どの通りからも、夕立への歓声が上がる。

★カイロの夕暮れは長い。海のような夜空に、タカが列をなして飛ぶ。だが、黄昏の地平線に近づくと、いっせいに散る。散って、砂漠の最後の残照に弧を描く。畑に一つかみの種がまかれたように見える。

★ いま、砂漠にだけは、神が存在すると認めたかった。外には通商と権力、金と戦争しかない。金力と武力の亡者がこの世界を形作っている。だが、砂漠にだけは神がいると信じたかった。
男は砕かれた国にいた。やがて砂から岩の領域へ。女を心から締め出し、さらに歩く。中世の城のような丘が現れる。男は影をひきずって歩きつづけ、丘の影に入り込む。そこには、オジギソウとコロシントウリの藪。男は岩肌に向かって女の名前を叫ぶ。こだまこそ、虚空にみずからを励ます声の魂なれば…・・・

★ 女はいつも言葉をほしがった。言葉を愛し、言葉で育ってきた女だ。言葉は女を明晰にし、理性と形をもたらす。だが、私はちがう。言葉は感情をゆがめると思う。棒を水の中に入れれば、ゆがんで見えるようにな。
女は夫のもとにもどった。お互い、これから自分の魂を見つけるか、失うか、二つに一つね・・・・・・。そうささやいて去っていった。
恋人は去る。海でさえ去っていくのだから。エフェソスの港。ヘラクレイトスの川。
いずれは消え、沈泥のたまる入り江に変わる。カンダウレスの妃はギュゲスの妻になる。図書館は燃えてなくなる。
私たちの関係は何だったのだろう。周囲への裏切りか。別の人生への欲求か。
女は家にもどって夫に寄り添い、私はバーのトタン板のカウンターにへばりついた。

<M. オンダーチェ;「イギリス人の患者」 >





‘かぷかぷ’さんへの手紙

2010-03-04 10:25:19 | 日記

★<算数のレッスン>への‘かぷかぷ’コメント引用;

Unknown (かぷかぷ)  2010-03-04 06:02:48

引用部分があまりに短くて何とも言えませんが、とりあえず正しいものとして読めば、正しいもののように、私には思えます。
ただ、正しいものとして読み、心から納得するには、やはりキリスト教的な思考を土台にしないと、難しい気がします。
むしろ、この引用を読むと、キリスト教的な思考を土台にしてしか機能しないものである印象すら受けます。
多分、日本人として、共感する必要はないのではないでしょうか?(というか、一般的な日本人には無理なのかも?)
つまり、「神様がいて、人間は決まった道徳心に基づいて行動する、そんな世界でなら上手く行くかも知れないけど、世の中そんなに甘くないから」ぐらいの付き合い方でいいのではないでしょうか?
あるいは、時を経て、全てを否定しないまでも、踏み台にすべき思想に、なったのかもしれません。



★ warmgun返信

かぷかぷ さん

あなたがここに書いたことにそくして、いちいち考えてみることにします。

☆ 《引用部分が短い》
ぼくが引用したのは、もう昔の東大の『思想史』の教科書です。
ぼくは東大生ではないので、この本が実際に東大の教養課程などで教科書として使われていたかどうか知りません。
ただこの本は一般書店でも売っていて、だからぼくも買って読んだわけです。
ぼくが知る限り、こういう“思想史”とか“社会思想史”の本で日本人が書いたものは、意外と少ないのです(“哲学史”というのは、もっと多い)
いちばん肝心なのは、戦後あるいは現在、ぼくたちの“常識”である“西欧思想史”というものが、いったい何であるかということです。
つまり簡単に言って、“この本で述べられていること”ぐらいが、われわれの<常識>ではないでしょうか。
たとえば、アダム・スミスの思想自体についてもっと突っこんで読むことも、アダム・スミスの<影響>としての“古典派経済学”や“新古典派経済学”についてさらに読むことも、そのアダム・スミスを“勉強して”<批判>したマルクスの思想についてさらに読むことも可能です。
しかし、“誰がそのような努力”をするのでしょうか?

☆ ここでぼくが言うことは、“わかりにくい”と思いますがよく聞いてください(笑)
単純に言えば、上記のように継続する“読書=自分で考えること”が必要です。
しかし“現実の論議”、たとえばブログなどで政治・経済・社会などを現在論じている人たちは、この<短い引用(のみ)>の“常識の範囲”でしか論じていないと思う。
だから、この<短い引用>部分“のみ”を論じることが(も)重要なのです。

☆ だから、この<短い引用(のみ)>をあつかったこのブログで、ぼくが言いたかった事は、おっしゃるとおり(アダム・スミスの思想は)《キリスト教的な思考を土台にしてしか機能しないものである印象》ということなのです。

☆ その上で、《多分、日本人として、共感する必要はないのではないでしょうか?(というか、一般的な日本人には無理なのかも?)》ということは、たしかに“言える”のです(笑)

☆しかし、ぼくにとっては、
《つまり、「神様がいて、人間は決まった道徳心に基づいて行動する、そんな世界でなら上手く行くかも知れないけど、世の中そんなに甘くないから」ぐらいの付き合い方でいいのではないでしょうか?》
ということには、なりません。
なぜなら、ぼくら“日本人”は、明治以来、この《神様がいて、人間は決まった道徳心に基づいて行動する、そんな世界》という思想を自らのベースとする<世界>に生きることになったからです。

☆ 上記について‘かぷかぷ’さんも、文末に<?>マークをつけてますね。
《「・・・・・・世の中そんなに甘くないから」ぐらいの付き合い方でいいのではないでしょうか?》
まさに、ここで<?>なんです。
西洋原理で政治-経済-社会(関係)をまわす、けれども、《世の中そんなに甘くないから》というわけです。
これを“和魂洋才”と呼びます。

☆ ぼくは、そういう“付き合い方”が、破綻したと考えます。

☆ もちろんアダム・スミスの思想は、他の数々の“西洋思想”(カントでもヘーゲルでもマルクスでもニーチェでもフッサールでもフロイトでもウエーバーでもケインズでもベンヤミンでもフーコーでもいいのですが)のように《踏み台にすべき思想》だと思います。

☆ その上で、このぼくのブログの<論点>は、もちろん、<キリスト教>および<宗教一般(信仰)>へ向かいます。
もちろん、<批判>へ。





本も映画も消滅することは、ありうる

2010-03-04 00:21:38 | 日記


★ 映画に必用なのは、ものに対する畏怖だ、と誰かが言った。その言葉を実感として噛みしめながら生きてきた。だから、あれらの映像と、こちらが作ろうとする映画はちがうものだ、と自分に言い聞かせようとするが、しかしそれも無償の言い訳にすぎない。はっきりしっている。あれとこれは同じものだ。だからこそ、それは祈らなければ映ってくれないのだ。映ってもほとんど誰にも気づかれず、その意味は理解されえない。ただ、ごく少数、それに気づいた者たちの間に小さく奇妙な連帯が産み落とされる。あれだ、とその名状しがたいそれを指差してそのかすかな光の下にゆるゆると集まってくる、ユニクロかなにかで買った曖昧な色の服を無雑作に着た覇気のない者たちが、しかしいつか作りはじめる奇妙な連帯。集まったところでどこへ向かうあてもない、そんな冴えない連帯しか生み出せないそれにも存在理由があるなどと、誰も認めることはないだろう。

★ 実に冴えない、か細いこの連帯の線を、それでも守っていく必要があるとしたらそれは、たとえばその連帯がほとんどあの『華氏451』の終幕に集う、焼かれた書物の文章を頭の中にまるごと記憶して自らが書物になろうとする人々の、痛ましい連帯に酷似するからだ。

★ 弾圧という形を取らなくても存在を抹殺することはできる。それが無用の長物である、とマジョリティを洗脳すればいいのだ。誰からも見向きもされないものは、そのうち淘汰される。フィルムもまたそのようにしてやがて消えてなくなる。連帯は雲散霧消する。ここには誰もいない。それを信じることができない。だがしかし忘れないためにすべきことがある。あのかすかな光を、か細い線を。それを摑むのだ。

<青山真治『地球の上でビザもなく』(角川書店2009)>



上記引用個所は、『地球の上でビザもなく』という小説の最初に出てくる。
すなわちぼくはこの本を読みはじめたばかりであり、どう展開するかまったく予想できない。

だから上記の“Gの遺書”の意図(意味)も、これに青山真治という書き手がこめた意図(意味)もまだ不明である。

だから誤解であるかもしれないが、これはぼくがこの頃感じていることに、とてもちかい。


すなわち、現在進行中の<危機>について。

説明したくない。
タイトルに掲げたとおり;<本も映画も消滅することは、ありうる>

当然、音楽も、ブログも。

このブログも。