Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ハードボイルドな休日;A long time see you

2010-03-20 11:59:02 | 日記


今日は仕事なく休日(最近土曜に仕事があることが多かった)、妻はパーキンソン病患者グループの一泊旅行で留守の、独身生活である。

ららら、良い天気、マンション入口の“おくて”木蓮も、満開となった。
セブンイレブンのまずいサンドイッチも、春モードで、“やわらか春キャベツとジューシーハムサンド”と“いちごサンド・ひとつぶ増量”!!である。
これと昨夜残りの豚カツに、これだけは“こだわり”のアッサム・ティーで豪華に朝食(昼飯兼)。

おもわず、“昔の”矢作俊彦ハードボイルドを思い出すではないか!

孤独な私立探偵(元刑事)の休日である(笑)

彼の舞台は、ヨコスカ~ヨコハマであった。
ぼくの舞台は、東京都下の団地と老人ホームとガッコウばかりあるさえない土地ではあるが、あまりにも“のどやか”で犯罪の影さえないが、いやいやどこにダークネスがひそんでいるかは、わかりません。

ハードボイルドといえば、ぼくもハメット、チャンドラー、スピレーン、マクドナルドとかを読み、その後の海外ハードボイルドと呼ばれるものを読んだことがあった。
また日本のハードボイルドと呼ばれるものも読んでみたことがあった。

ハードボイルドとは何か?
それは“しけた探偵”がうろうろして、てきとーに事件を解決したり、その過程で殴られたり、なぜか美女にもてたり、“すげなく”される、というお話のことではない。

ハードボイルドとは、その文体における“比喩”の使用である。
その例を矢作氏の小説から引用しようと思ったが、本棚の奥にしまったので、さがすのが面倒だ。

ぼくは最近、大新聞コラムとかの“比喩と形容詞と引用”を<批判>したのだが、それは比喩や形容詞をつかってはいけない、と言いたかったのではない。
適切でない比喩と形容詞の使用と、比喩や形容詞の過剰使用を批判している。
“過剰使用”どころではない。
不適切な比喩と形容詞と引用“だけ”で成り立っている文章なのだ。

チャンドラーとかが近年も流行ったが、チャンドラーが面白いのは、まさにその文体の比喩なのだ、華麗な比喩である。
華麗でない世界が、比喩によって輝くことがある。

だから矢作氏以外のニッポンのハードボイルドがつまらないのは、比喩が華麗でなく、“びんぼー臭い”からなのだ。
“びんぼー”なのはやむをえないが(ぼくもそーだ!)、“びんぼー臭い”のは、御免である。

チャンドラーの翻訳者でもある村上春樹氏は、“ハードボイルド”なひとだった(過去形)。
もちろん彼には、“ハードボイルド”という言葉をタイトルに含む長編小説があったはずである。

かれの初期の文体を参照しよう;

★ 背筋をまっすぐにのばして目を閉じると、風のにおいがした。まるで果実ようなふくらみを持った風だった。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子のつぶだちがあった。果肉が空中で砕けると、種子はやわらかな散弾となって、僕の腕にのめりこんだ。そしてそのあとに微かな痛みが残った。
<村上春樹:“めくらやなぎと眠る女”>

《まるで果実ようなふくらみを持った風だった》
《そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子のつぶだちがあった》
《果肉が空中で砕けると、種子はやわらかな散弾となって、僕の腕にのめりこんだ》
《そしてそのあとに微かな痛みが残った》


いっぽう矢作氏は近年、“純文”志向なのであろうか?;

★ そのとき、匂いが蘇った。新しい紙と印刷インクの匂いだ。それが彼を取り巻いていた。30年暮らした中国の村では、活字はどれも黄ばんだ紙に印刷されていた。
もう一度、思い切りその匂いをかいだ。そのとたん、胸がつかえた。胃が暴れ、何かが喉にこみ上げてきた。歯を食いしばってそれを止めると、涙がわっと溢れでた。
<矢作俊彦:『ららら科学の子』>

この文章は、<ストレート>である。

ぼくがこの文章が好きなのは、べつに中国をバッシング(小バカにする)のではなく、“新しい紙と印刷インクの匂い”に対する、<激情>なのだ。

すなわち、“初心忘するるべからず”。

ぼく自身は経験のないことなのだが、“戦後”、岩波書店などが本を売り出したとき、それを買うために長蛇の列ができた、というようなエピソードを聞く。

いま、ぼくらは、“活字に飢える”ことがない。
<情報>は、つねに過剰だから。

ぼくたちは、飢えを知らない。

さて今日も、初心に帰り、読みかけの本に取り組む;

☆ 大江健三郎;『作家自身を語る』(新潮社2007)
☆ スタンダール;『パルムの僧院』(大岡昇平訳、新潮文庫1951)
☆ 大岡昇平;『レイテ戦記』(中公文庫1974)
☆ 霧生和夫:『バルザック 天才と俗物の間』(中公新書1978)
☆ テリー・イーグルトン:『イデオロギーとは何か』(平凡社ライブラリー1999)
☆ 魚津郁夫:『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫2006)
☆ レーヴィット:『共同存在の現象学』(岩波文庫2008)
☆ ヴィガースハウス:『アドルノ入門』(平凡社ライブラリー1998)
☆ ハーバーマス:『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社ライブラリー2000)
☆ 辻邦生:『海そして変容 パリの手記Ⅰ』(河出文庫1984)




After a long time

2010-03-20 10:01:15 | 日記


鳥男ブログが書いている;

この数ヶ月、いや、もっとか、オイラはブログを書けずにいた。そのわりにはtwitterしているではないかという意見もあるかもしれないけど、それとこれとは違う。少なくてもオイラにはね。
twitterはあくまで「つぶやき」であって「文」じゃない。
別に「芸術的な」とか「文芸的な」とか秋山真之のような「歴史に残るような」モノをここに書こうとは思っていないが、それでも(未来の自分も含めて)読み手を意識して誠心誠意書いている。twitterにはそれはない。twitterの目的は「今」であって「過去」でも「未来」でもないのだ。だから、そういう誠意ではなく、140文字でいかに伝えるかってことしかない。いや、むしろそれがtwitterの誠意かな。
小説と(短)歌の違いのようなものだな。

「新聞配達屋とかビル清掃とか働く気になればあるでしょう?」とオイラのことを言う人がいる。
実は2つとも落ちているがね。まぁ2つとも面接までたどり着けた稀有な職種だが…まぁその2種類を何個もうけたわけではないので…やっぱりやる気がないのだろう。必死で生きていく気がないのだろう。
確かにない。オイラには「必死に生きていく気がない」
きっと多くの人が言うように甘えているのだろう。
(以上引用)


前半と後半とでは別のことが書いてある。
しかし“鳥男君”にとっては、この前半と後半は密接に関連している(のだろう)

ある朝、ぼくは上記の“ような”文章を読むわけである。
鳥男君とは、Doblog以来の関係である。
しかしぼくは彼のブログを毎日熱心に読んできたのではないし、かれの時事的発言については、まったく逆の立場にあるようでもある。
また彼とぼくの歳の差は、“親子ほども”ある。

たしかに“親子ほど”歳の差があるひとが、いま、なにを考え、感じているかを知るには、ぼくにとっては、ブログしかない。

ブログしかない。
ゆえに、ここで鳥男君が言っていること;
《twitterはあくまで「つぶやき」であって「文」じゃない》
を支持する。

こう書くと、またもや、<ぼく>が、twitterを批判していると、とられる(だろう)

しかし、ぼくは“twitterを批判”してなどいない。
まず、ぼくはtwitterをやってないので、twitterについては、わからない。
しかしtwitterをやらないのは、そういうコミュニケーションに興味がないからである。

すなわち、鳥男君が正確に指摘したように、
《twitterはあくまで「つぶやき」であって「文」じゃない》
のである。

すなわち、ぼくが関心を持つのは、<文>である。

それが“ブログ”とかであっても、文を書けず、“つぶやいて”いるだけのひとは、いくらでもいる。

あるいは、ある本という形態をとって、ぼくらの前にあらわれる“権威づけられた”言説であろうと、ただ無意味につぶやいているだけのものも、いま書店にあふれている。

ぼくはそういう“文章=言説”のサンプルとして、大新聞コラムや内田樹ブログを取り上げてきただけである。

またそういう“事態”を現在“象徴”している作家として、村上春樹を指摘しているだけである。

つまり“つぶやく”ことは、勝手である。
ただぼくが求めているのは<文>である。

ぼくは《必死に生きる》ということが、どういうことか、あまりわからない。

すなわち、《必死に生きる》ということを選択できないほど、必死に生きざるを得ない状況がある。
しかしたしかに、この“豊な日本社会”は、そういう状況になかった。
必死に生きることを選択しなくても生きられるなら、“必死に生きる”ことも、そのひとの人生のスタイルである。

そういう意味なら、ぼくは“必死に生きる”というスタイルは、好きではないし、だれもが必死に生きる必用もない。