Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

経験がなくても小説は書ける

2010-03-03 13:25:15 | 日記

3月になったので、“ファッション”を変えるため、毛糸帽をやめて綿キャップに戻し、薄いコートに替えたら、昨日は寒かった。

仕事の帰り、例によって紀伊国屋書店で本を見た。
筒井康隆『アホの壁』というのが、ベストセラーに挙がっている。
ぼくはだいぶ昔、筒井氏の本をほとんど読んだが、最近は関心がない。
かんがえてみれば、そういう著者も多い。
安倍公房、寺山修司、吉本隆明のような人々、ミステリやSFもひところ相当読んだ。
そのなかで、現在まで残る人々は少なく、むしろ“未知(未読)”の人々を読みたい。
また、ひところ読んで遠ざかっていた人々、大岡昇平、大江健三郎、サルトルの評論は読みたい。

新刊文庫の、丸谷才一+鹿島茂+三浦雅士『文学全集を立ちあげる』(文春文庫)を買い、一気に読んだ。
この本がどういう本であるかは、この文庫裏表紙にある紹介文を掲げる;
☆ まったく新しい文学観、「いま読んで面白いもの」という大原則で、古典から現代までの世界・日本文学全集を編み直す壮大な試み。(略)谷崎3巻、芥川1/2。「大江健三郎は私小説である」などなど。全300巻を選ぶ侃々諤々の編集会議のすべて。


こういう企画が、“面白い”か否かは、読む人の“教養度”によるだろう。
この3人の“独断と偏見”に腹が立つこともあるのだが(ぼく自身も)、彼らが“ぼくより多くの本を読んできた”ことは認めるべきだ。
もちろん、彼らの“選択と評価”に異議を持つのは、よい。
たとえば、“世界文学”の選択に、ル・クレジオがないのは、ナンセンスである。
“日本文学”の選択が、大江健三郎で終わっており、中上健次がないのは、愚劣である(村上春樹がないのは、よい;笑)

たとえば“小林秀雄”の評価である。
今日の読売編集手帳は、小林秀雄を“相変わらず神格化”している;

《◆同書は小林の思索の到達点とされ、録音テープはその成立過程をたどる貴重な資料である――といった学問的な関心は薄い人も、“修羅”をくぐり抜けた話術がどういうものであったか、ちょっと心が動くに違いない◆小林は『批評家失格』と題する一文に批評の気構えをつづっている。〈毒は薄めねばならぬ。だが、私は、相手の眉間を割る覚悟はいつも失うまい〉。思い入れの深い作品を語る声からは、きっと、その気迫が聴き取れることだろう》(引用)

しかし、この3人の評価は、ちがっている、引用する;

丸谷:僕は小林秀雄というのはよくわからないからねえ。
鹿島:僕も正直言って、わかんない。
(・・・・・・)
鹿島:小林秀雄が、あのレトリックをどこからもってきたかを研究すると面白いと思うよ。僕もひとつ見つけた。「花の美しさがあるわけじゃない。美しい花があるだけだ」というやつ。あれは「ゴリオ爺さん」ですね、ネタは。ヴォートランのセリフにある。
三浦:ジャック・リヴィエールにもそっくりのレトリックがあるよね。
(・・・・・・)
三浦:だからあれ(「モーツアルト」)は、評論というより本来的な意味での私小説なんですよ。そして、鹿島さんの言葉で言えば、陽ドーダなんだ。
鹿島:小林秀雄ほどの陽ドーダはいない。
(以上引用)
* 注;ここでの“陽ドーダ”というのは東海林さだおの概念(“ドーダ、俺はこんなにエライんだぞ”と自慢すること)で、“「俺が俺が」というあからさまな自己肯定”を意味する(“陰ドーダ”は、装われた謙遜)


この本でぼくがいちばん面白かったのは、“イギリス小説”の章での、“経験がなくても小説は書ける”である、引用する;

丸谷:もう一つは、それまで小説家は自分が体験したことを書くのだとみんな信じていた。ところが彼女(ジェーン・オースティン)は、恋愛をしたこともなければ、結婚も一度もしていない。そういう人が書いた恋愛と結婚の小説なんだよね。だから、おそろしいくらいに観念的というか、前衛的なんだね。(略)
もう一人いるのを思い出した。ヘンリー・ジェイムズ。彼はセックスの体験が一遍もないらしいのね。
鹿島:ええっ。ほんとうですか?
三浦:エミリー・ブロンテだって、そうでしょう?「嵐が丘」に描かれたのは結婚と言えるかどうかわからないけれど、まったく体験がないでしょう。
鹿島:セックを知らないで書く「元祖少女マンガ」だな(笑)。ブロンテ姉妹だけが今でも女子学生に人気があるのはそのためか。
(・・・・・・)
鹿島:(ヘンリー・ジェイムズの)さっきのセックスの体験がないという話はすごいですね。女ならわかるけど、男でそんなことがあるんですね。
丸谷:二説あって、少年時代に背中にケガをしたためだという説。もう一つは、理想の女性と結婚したいと思っていたけれども、いつまでも理想の女性に出会わなかったから、結婚しなかったというんだよ。しかし、小説家という職業上、男女関係についての情報は絶対に必要だから、知人にその体験をいろいろ聞いていたそうですね。「ヘンリー・ジェイムズは想像力と情報によってセックスを書いた」とデイヴィッド・ロッジが書いている。
三浦:「ねじの回転」だって男と女の話ですけど、すごくよく書けてますよね。むしろ、体験がないからよく書けたのかな。
鹿島:小説家は体験する必要はないんですよ。
(以上引用)



さてぼくは、“体験が乏しい”けれど、小説は書かない(書けない) 爆。






今日は、”ぼくたち”の、結婚記念日であった。

1972年3月3日に、ぼくは当時住んでいた杉並区役所に婚姻届を出したのである。

その朝、ぼくの歯は腫れ上がり、妻の調子は悪かった(”新婚旅行”はキャンセルされた)

ああ、この歳月!

小説に書かなくても、生きることは、”奇なり”。