Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

大きな夢の集約

2010-03-26 17:53:20 | 日記


★ しかし『レイテ戦記』はある一点において、いわゆる戦史の枠をはるかに超えている。戦史と称するものが戦争を集団的行為として捉え、戦場で起こった苛酷な事態を統計的に処理する立場で書かれるのとちがって、『レイテ戦記』では、戦争は普通の人間がたずさわる悲惨事として描きだされるのである。戦場で戦うのは兵士という身分の人間であるという明確な事実認識が、『レイテ戦記』の叙述の基本的な立場を支えている。人間を抜きにした集団的な、あるいは統計的な事態の結果を綴ることに終始する通常の戦史と、そこで決定的な一線が劃される。たとえば、「山本五十六提督が真珠湾を攻撃したとか、山下将軍がレイテ島を防衛した、という文章はナンセンスである」という一節に出会うとき、われわれ読者は、『レイテ戦記』がどういう立場で書かれた記録であるかを、あらためて思い知らされずにはいない。戦争とは司令官や少数の軍神の事績ではなく、戦争という巨大な動きに翻弄される人間ひとりひとりの血と肉を塗りつけた史実であることが、そこには言外に物語られている。普通の人間が戦い、普通の人間が死んでいったというこの事実認識は、具体的に記述される戦闘の事実のすべての底に滲みわたっている。『レイテ戦記』は、こうして、戦記でありながら戦記をはるかに超えた文学作品としての質を獲得することになる。

★ 『レイテ戦記』を書くことをうながした「著者の内的衝動」は、したがって、すべての兵士の頭上を通過したはずの巨大な全体の圧力の様相を突きとめて、それを死んだ兵士たちに告げたいという衝動である、と言いかえることも可能であろう。(略)個の背景にそびえたつ見えない全体が、深く隠れたまま個を吸収する力学的な関係の劇を大規模にくりひろげ、それぞれの個が全体のなかで占める位置を、大岡氏は確定しようとするのである。

★ 見えない全体と個との力学的関係の劇――そう考えるとき、この作品は「結局小説家である著者が見た大きな夢の集約である」という「あとがき」の一節は、いっそう鮮烈な響を鳴らすように私には思われる。たしかに存在し、個を確実に拘束する力として作用はしたけれども、しかし誰にも直接に認知することのできないものであるという意味で、この巨大な全体は虚構に似ているし、「夢の集約」として捕捉されるしかないものなのであろう。すくなくとも、それが事実と虚構の微妙な接点に立っていることは確かである。

★ 虚構の性質を帯びた巨大な全体。『レイテ戦記』が、ひとつひとつ、著者の鎮魂の志を宿しつつ客観的に記述されてゆく無数の正確な事実を、互いに交響させたがいに劇的に結びつける方法で書かれているのは、それこそがそういう質の全体に到達することを保証する唯一の方法だからである。無数の具体的な事実の射しかわす光のなかから、虚構に似た全体は虚焦点のように浮かびあがり、作品の基層をかたちづくっている。具体的な個々の事実の積みかさねは、虚構に似た全体、夢に似た全体の開示という方向を示している。第2次大戦後、世界的に記録文学の深化はいちじるしいと言われるが、『レイテ戦記』は、とくに全体の開示という一点において、通例の記録文学とはあきらかに一線を劃しながら、しかも記録文学のひとつの頂点を極めると同時に、大きな夢を集約する小説の性質をも帯びた他に類例のない作品である。

<菅野昭正:大岡昇平『レイテ戦記』解説(中公文庫1974)>