ここに3冊の本がある。
菅野昭正氏による“文芸時評1982-2004”である。
『変容する文学のなかで 上、下、完』(集英社2002、2007)
1982年から2004年までに、いかなる“文学”が書かれたか?
しかしぼくの関心は、上記のことではない。
そうではなく、“1982年から2004年”という20年は、“どういう時代だったか”を思い出したいのである。
この“作業”のために、ひとは、いろんな<方法>を試みることができる(できよう)
端的に“年表”を見たり、新聞縮刷版に当るひともいよう。
自分の“個人史”を、あれこれ思い出しながら記述することもできる。
入学したり卒業したり、就職したり、結婚したり、出産したり、子育てしたりした“時期”であるひとも、いよう。
どこに住んでいたかを考える(思い出す)、引越し貧乏なひと(ぼくのヨーなひと)もいるだろう。
自分が“社会のどこに”所属し、自分の“家族での位置”がドーだったかを、思い出すひともいるだろう。
しかし(笑)、それら<事実>のみが、人生ではない。
“私はなにを読んだか?”
“私はなにを読まなかったか?”
こういう“問い”もあるのである。
また“1982年から2004年”に生産された“小説”(とはかぎらないが)を、“その時点では読まず”、遅れて読んだり、なによりも<いま>読むことも可能である。
もはや残り時間が少なくなった年齢である者にとっては、最後の“たたかい”というものが、やはり<ある>のではないだろうか。
ぼくにとって<それ>は、自分が生きた時代と状況を“知る”ことである。
どぎつく言えば、“このまま、騙されたままで死にたくない”とでもいえるか?
もちろん、ぼくは、最終的な<認識>があり得ると信じて、そうするのではない。
どこまでも未完のプロセスの最後でよい。
しかし、放棄しない。
あるいは、どのように“放棄”すればよいのかが、わからない。
ぼくは、決して“人生の達人”では、あり得ない。
最後まで、不器用に無様に考えることだけが、ぼくの“生きよう”なのだ。
<文学>だけがあるのでもない、文学は、この人生の<すべて>(その混沌・カオス)への手がかりなのだ。