Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

現在の歴史としての<文学>

2010-03-30 13:28:31 | 日記


ここに3冊の本がある。
菅野昭正氏による“文芸時評1982-2004”である。
『変容する文学のなかで 上、下、完』(集英社2002、2007)

1982年から2004年までに、いかなる“文学”が書かれたか?

しかしぼくの関心は、上記のことではない。
そうではなく、“1982年から2004年”という20年は、“どういう時代だったか”を思い出したいのである。

この“作業”のために、ひとは、いろんな<方法>を試みることができる(できよう)
端的に“年表”を見たり、新聞縮刷版に当るひともいよう。
自分の“個人史”を、あれこれ思い出しながら記述することもできる。
入学したり卒業したり、就職したり、結婚したり、出産したり、子育てしたりした“時期”であるひとも、いよう。
どこに住んでいたかを考える(思い出す)、引越し貧乏なひと(ぼくのヨーなひと)もいるだろう。
自分が“社会のどこに”所属し、自分の“家族での位置”がドーだったかを、思い出すひともいるだろう。

しかし(笑)、それら<事実>のみが、人生ではない。
“私はなにを読んだか?”
“私はなにを読まなかったか?”

こういう“問い”もあるのである。

また“1982年から2004年”に生産された“小説”(とはかぎらないが)を、“その時点では読まず”、遅れて読んだり、なによりも<いま>読むことも可能である。

もはや残り時間が少なくなった年齢である者にとっては、最後の“たたかい”というものが、やはり<ある>のではないだろうか。

ぼくにとって<それ>は、自分が生きた時代と状況を“知る”ことである。

どぎつく言えば、“このまま、騙されたままで死にたくない”とでもいえるか?
もちろん、ぼくは、最終的な<認識>があり得ると信じて、そうするのではない。

どこまでも未完のプロセスの最後でよい。
しかし、放棄しない。

あるいは、どのように“放棄”すればよいのかが、わからない。
ぼくは、決して“人生の達人”では、あり得ない。

最後まで、不器用に無様に考えることだけが、ぼくの“生きよう”なのだ。

<文学>だけがあるのでもない、文学は、この人生の<すべて>(その混沌・カオス)への手がかりなのだ。




21グラム

2010-03-30 11:47:05 | 日記


毎日のように“映画”をテレビで見ているが、ロクな映画が生産されていないことがわかるだけである。

もちろん、“これらの(テレビで放映される)映画には、近年のものも昔のものもある(つまり”最新作“はまだ放映されない)。
つまり映画館に行かずテレビだけで映画を見ているひと(ぼく)は、数年遅れで映画を見る。
また“テレビで放映される”のが、公開された“すべての映画”でもないし、そもそも世界中で作られた映画すべてが日本で公開されているわけでもないはずである。

“テレビで放映される”映画では、やたらに何度も放映される映画と、一回コッキリでまた見たいのにさっぱり放映されない映画がある。
たぶん“視聴率”(その映画に人気があるか否かの、テレビ局の“判断”)が関与している。

昨夜見た「21グラム」は、ぼくにとってはじめて知る映画であった。

ぼくはこの映画に出ている、“ベニチオ・デル・トロ”という俳優を近年知り、好きになった。
けれども、最近のぼくは映画とか俳優に“うとい”ので、このひとがどういう経歴のひとかを(どんな映画にでてきたか)を知らず、だいいち“ファースト・ネーム”さえ記憶することができなかった。
“なんとか……トロ”とかいう俳優としか認識していなかった。
昨夜「21グラム」のテレビ番組案内で、“ベニチオ・デル”であることを認識した。

さらにWik.で検索したら、“ゲバラ”になったひとなんですね(笑)
ぼくは“ゲバラ映画”にまったく関心がなかった。
「トラフィック」でこのひとを認識したひとが多いだろうね。
このひとが出た映画で、テレビで1回だけ見た「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」は傑作だと思ったが、まさにその後放映されない(また見たい)

さて“ベニチオ・デル・トロ”ではなくこの映画=「21グラム」はどーだったか。
Wik.から引用する;
1つの心臓をめぐり、交差するはずのなかった3人の男女の人間ドラマが描かれる。時間軸が細かく交差する構成になっている。人がいつか失う重さとは、いったい何の重さなのかを問う作品である。
ヴェネチア国際映画祭男優賞(ショーン・ペン)を受賞。
タイトルの「21グラム」とは、20世紀初期のアメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルが行った、魂の重量を計測しようとした実験に由来する。
(以上引用)

この映画が“良い映画”であるか否かは、ここで論じない。
ぼくにとって興味深かったのは、この<人が死んだとき失う重さ=21グラム>であった。

上記の引用にある、この重さを“魂の重さ”と言ってしまっては、つまらない。
映画では、“魂の重さ”という言葉は出てこなかったはずだ。
“チョコ・バー1本の重さ”である。

つまり、映画とは、“魂の重さ”というようなことを言わないから映画なのである。

そういうことを“誤解”している、“説明的な映画”ばかりがつくられるなら、つまらない。

映画とは、そこに登場する<人物たち>のリアルである。
その<関係>が、ある<風景>のなかで展開される<映像>のリアルである。

だから、その“人物たち”を“演じる”俳優がリアルでなければならない。
“監督”は素材としての“俳優”と“風景”を音と映像として現出させなければならない。

映画とは、何かを“説明”するものではない。
その点滅する、滅びやすい<映像>に、血と肉と“魂”を出現させる<事件>でなければならない。




<注記>
ぼくが<魂>という言葉を使用するとき、そこにはいかなる“宗教的ニュアンス”もない。
あるいは<日本民族の魂>というようなことにも、無縁である。
近年、ぼくが<魂>という“言葉”に感動したのは、大江健三郎の短篇「火をめぐらす鳥」における伊東靜雄の詩の一節の引用であった。
この「火をめぐらす鳥」という短編が、<この魂>についての記述となっている;

<私の魂>といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう

しかも<私の魂>は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを老年のために
書きとめた

<私の魂>といふことは言へない
しかも<私の魂>は記憶する