Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

大人の世界を見ましたか?

2010-03-21 10:36:45 | 日記


昨日は朝10冊の本をこのブログに掲げたのに、そのうち読んだのは1冊であり、別の本(リスト外の本)数冊を次々に読んだ。

しかもいちばん集中して読んだのは、“すでに読了した本”である鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の最後の部分を再読、熟読したのだ。

たとえばそこにはこういうことが書いてある;
★ 絶対的「私」とは、仮にすべての他者と狂気関係に陥るとしても自分の言葉を譲らない、と宣言する「私」である。絶対的「私」は超越言明に先立ちどこかにもともと存在しているのではない。全ての他者と狂気によって隔てられても自己の主張を譲らないという宣言によってのみ、絶対的「私」は存在するのであるから、絶対的「私」とは超越言明においてはじめて現れる存在なのである。約束するという行為が約束という現実を生成する言語行為であるように、超越言語とは絶対的「私」を生成する言語行為なのである。


この“ウィトゲンシュタイン最後の思考”は、上記引用部分を読んだだけでは、わからない。
この鬼界彰夫の“解説本”全部を読んでも、わからない、ぼくには(笑)

しかし、そこでは、なにか極限的なことが言われている(と感じる)
もちろん“それがわからない”ときに言うべきことではないが、ぼくはこういうのを読んでいると、“そもそも極限的なものを思考する”という思考は“ただしいか?”という疑問がわくのである。
しかしたしかにぼく自身も、“極限的思考”に関心があるから、このような本を読んでいる。


夜は、延々テレビを見ていた。
ぼくの加入しているケーブルテレビで最近チャンネル編成替えがあって、“TBSチャンネル”がうつるようになり、それで、「ふぞろいな林檎たちⅡ」の連続放映をやっていた。
「ふぞろいな林檎たち」についてここで説明するのは面倒だ、見たことがあるひとも多いだろう。
ぼくはこのシリーズを、見れるかぎり見ていた。
しかしこの1980年代のシリーズを具体的に覚えていたわけではない。
だから、とても面白かった。

3、4話ぐらいを見ることができたのだが、そのなかに“大人の世界を見ましたか?”というタイトルの回もあった。
中井貴一が嫌いな上司を(いろいろあって)、はじめて“飲みに誘う”。
その店には石原真理子が勤めている。
酔った上司が石原真理子のオッパイとお尻を“つかんだ”ので、石原真理子は中井貴一を軽蔑する。
中井貴一は怒って上司(室田日出男)に抗議するが、室田は“水商売をする女がその程度のことで騒ぐのは大人じゃない”というふうに反論する。
一方、石原真理子も親友(手塚里美)との会話では、“男なんてかんたんよ、こーんな眼つきすれば、イチコロよ”というような認識にめざめる。


さて次に、ロバート・デ・ニーロが監督した「グッド・シェパード」という映画も見た(最初の方は見そこなった)
これはキューバ危機をメインの背景とする(時代と場所が終戦時のベルリンなどと錯綜するが)、“CIA諜報員”のお話である。
このマット・デイモン演ずる主人公は、実在のCIA諜報員の“複合人格”であるらしい。

すなわち、“ほんとうのこと”が(ある程度)描かれているということらしい。
つまり“現代史における”、そして“現在における”、CIA(やKGBやその他もろもろの各国諜報機関の)活躍などというものが、明らかにされたことなどないからである。

しかしこの“諜報機関員”というのも、“公務員”なのである(笑)
ル・カレの“スマイリー・シリーズ”を読むとこのことがよくわかる。<追記>


さて上記に書いてきた“話題”は関係がある、のである。

つまり、“リアルな世の中”とは、何ですか?
あるいは、あなたは“リアルな世の中”を認識したいですか?


ぼくは最近こう思うようになった。

たとえば、“ウソをつく”という行為(言説)は、“嘘をつかない状態が世の中の平常状態である”ということを“前提”にしている。

もはや、そういう前提が崩壊した<世界>にぼくたちは、生きている。

つまりこの世界全体が嘘をベースに成り立っているなら、ぼくたちは、少しでも“ほんとう”を見出し、それを言葉にしなければならない。






<追記;ただちに>

この映画は、“なにをいいたいかわからない”映画である。
しかしこういう映画であっても、“真実は語られる”。

すなわち、逮捕され尋問中に自殺する“ソ連諜報員”のセリフである;
《アメリカは<産軍複合体制>を維持するためにソ連を必要としている》

さて、だが、“ソ連は崩壊した”のである。
すなわち“ソ連崩壊はアメリカの望んだこと”ではなかった。
もちろん、“ロシア”がアメリカにとって潜在的な敵であり続けないわけではないし、中国も北朝鮮もある。
なによりも“テロリスト”とその“支援国家”がある。

また、<冷戦>という“わかりやすい構造”の崩壊によって、“世界はわかりにくい混沌”と化したともいえる。
また、“資本主義の原理およびそれを実行するシステム”自体が、“バーチャル化した”という新しい問題がある。

この現実の混沌は、とうぜん、“言葉のカオス”として出現すべきなのに、“現実”は、まったく逆である。
現在言葉は、このカオスに直面せず、それを使い古された<紋切り型言説>の洪水で覆い隠すことのみに奔走している。

ユナイテッド・ステーツの本質、このグロバール資本主義の本質が、<産軍複合体>にあることは、現在においても“変わらない”。

“ショーバイと戦争”こそ、<変わらない>リアルである。

フセインもビンラディンもアメリカが育てた。

すなわち、考えれば考えるほど、<正義>とか<真理>は不明であるので、“ぼくら”は<相対主義>とか<シニシズム>におちいる。
どうせ、“わからない”のだから、適当に“受け流し”、とりあえず目先の“たすけあい”にふける。

たしかに、そういうライフ(生=性)しかあり得ないかもしれないし、<それだけ>が現実的であるのかもしれぬ。

しかし、この<状況>において、気狂いのように考えるひとがいるなら、それを<希望>と呼ばずしてなんと呼べばよいのか。






<今日の目標図書>

☆ レーヴィット:『共同存在の現象学』(岩波文庫2008)
☆ 熊野純彦:『ヘーゲル <他なるもの>をめぐる思考』(筑摩書店2002)
☆ 港道隆:『レヴィナス 法-外な思想』(講談社・現代思想の冒険者たち1997)
☆ 大澤真幸:『<自由>の条件』(講談社2008)
☆ テリー・イーグルトン:『イデオロギーとは何か』(平凡社ライブラリー1999)
☆ 大江健三郎;『作家自身を語る』(新潮社2007)
☆ 大岡昇平;『レイテ戦記』(中公文庫1974)




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