他人の不幸と私の不幸or他人の悲しみと私の悲しみ。
すなわち、他人の不幸を、私の不幸として感受することはできるだろうか?
あるいは、他人の悲しみを、私の悲しみとして、悲しむことができるか?
読売編集手帳は言う;
きのうはチリ巨大地震による津波の警戒に明け、暮れた。震源は地球の裏側でも津波は押し寄せる。“遠い国”も“近い国”もない。誰もが同じ、ひとつの星に暮らしている――当たり前の事実を、いまさらながら噛みしめた方もあったはずである◆現在のところ、国内で人的被害は出ていないが、チリの被災地を思えば「幸いにも」と言い表す気持ちにはなれない。瓦礫の下で、大勢が生死の境にあろう。球形の巻き貝に同居する友に、救いの手を急がねばならない。(引用)
天声人語は言う;
▼ うち153編を収めた『千の風になったあなたへ贈る手紙』(朝日文庫)が近く発売になる。「息子よ。私も、お父さんも泣くまいと思ったのです。悲しんだら、あなたは、親不孝者になってしまうから」と59歳の母は語りかける▼「葬儀から帰って洗面所を覗(のぞ)くと、今はもう主の居ない化粧水の壜(びん)が空(むな)しく並んでいました。『さよなら』と言いながら全部を流しました。コポコポと泣いていました」。だが79歳の夫は再び前を向いて歩き出す。亡き妻への手紙は「もう大丈夫」と締めくくられている▼悲しみの荒野にも緑の芽は吹く。春を喜べる日がきっと来る。空を渡る風の励ましが、胸に染みるような一冊である。
こういう“ロジックとセンス”は、ただしいか?
あまりにも安易ではないだろうか。
いったいどこに、《球形の巻き貝に同居する友》はいるのか。
<友>とは、ただ地球の上にいる“すべてのひとびと”のことなのだろうか。
もし地球の上にいるすべてのひとびとが、そうであるが故に<友>であるなら、あらゆる争いも妬みも戦争も存在しないはずである。
まさに<世界>は、そのようでなかったし、現在もそのようではない。
“そのようでない世界で”、<友>を見つけるのは、友達になるのは、“自然状態ではなく”、個々人の(球形の巻き貝に同居する個々人の)意志である。
《悲しみの荒野にも緑の芽は吹く。春を喜べる日がきっと来る。空を渡る風の励ましが、胸に染みるような一冊》
いったいどこに、《一冊の本》はあるのか。
なぜ、私たちは、“他人の悲しみ”を読むのか。
私と同じ悲しみを、<他者>に見出して、安堵するのだろうか?
しかし、<その悲しみ>は、同じであろうか?
私が喪った<あなた>はみんな、《千の風》に、“ならなければならない”のだろうか?
<私とあなたの>の唯一の機会は、どこにもないのだろうか。
<友>とは、“私とあなた”の唯一の機会である。
この地球という環境が、<球形の巻貝>であるなら。
“友と私”のかたわらに、<1冊の本>があってもよい。
一冊の本に友を見出してもよい。
一冊の本を共有して、友となるのもいい。
もし<友>が、リアルに現前し、輝くなら(イルミネーションのようではなく)、<一冊の本>も、静かに燃えている。
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