18年にもなりますか

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少子化

2006-05-13 20:17:14 | 社会・経済
 森元首相が政府に対して少子化対策のあり方について注文をつけたことが報道されている。まさにその通り、お金や手当があるから子供を産んで育てる訳では決してない。政府のできることには限界があろう。制度や仕組みを変えて環境をつくることぐらいしか直接手を出すことも色んな問題もありできないのであろうが、森元首相の発言のポイントは忘れてはならない。

 子供を育てる環境、子供が将来大きくなったときの環境、学歴教育の問題。もちろん社会人になってからの年金負担の問題。他方で、自らの年金老後の問題。自分自身も含めて将来の不安を訴える多くの人たちの声から考えても、子供をノビノビと育ててゆけるような環境であるとは、言い切れないのが実情である。

 人は誰でも老いる、老いてもまだまだ元気な人もいれば、どうしても体が言うことをきかなくなるひとも居る。だれでもそうなったときに不安や寂しさを感じるものだ。これからどうやって生きてゆこうかと。その為に年金がある。つまり老後の不安を取り除くことが出来る、残りの人生を充実して生きる事が出来るそういうプランを描ける制度を用意することが年金のあり方の本質な筈である。それは何もお金だけではない。

 人生80年~85年とすると定年を65歳として考えればなんと20年もの時間ができる。20年間を夫婦二人でなんとか暮らしていこうとするとだいたい最低でも1億円ほど必要になる。子供をそだてて、家を建ててさらに一億円など普通の仕事をしていて簡単に貯められる物ではない。ここに不安が生まれるのだ。

 年金は若い世代が先達の年金を負担する形式で来たが、もはやそれだけで維持するのは難しい。預かってきた年金を好き放題に使われた始末は、国がそれこそ無駄を削って、歳費を抑え、歳入を確保し補わなくてはならない。 その仕組みや制度をしっかりと明確にして、「みなさん老後に不安はありません」納められている年金だけで成り立たない、不足する部分はこのようにして補い、結果として何ら問題のない年金生活を迎えて頂けます。 その為には国は、このような施策で歳出を徹底的に抑えますから、住民サービスがいくつかは無くなります。 また税金もこのように上げる必要がありますと、きちんと説明し、各方面からの徹底的な試算やチェックを経て制度としてさせれば、増税も納得できる。

 増税をみんなが反対するのは、”歳出を抑えず”に”歳入(増税)”でなんとかしようとする国の努力のなさに対してなのだ。

 老後に確たる安心ができれば、夢を描けるようになる。子供や孫と過ごす時間、子供が少々自分の夢を追いかけても、この国では根幹の社会保障がしっかりしているから、夢を追わせてもいいかという気持ちの余裕も生まれる。あらゆる可能性を試せるようになる。一度オチこぼれても、学歴が無くても、きちんと働く場と、自分自身を活かせる場をもてることがわかると、必ずしも勉強だけで優劣つけられて悩むことはない。それよりも、いろんな人と人が知り合い、年長者と話し合えるコミュニティの方がより重要な存在にさえなるだろう。

 少子化対策は、子供に夢を持たせて育てることが出来るように、大人たち、親たち自身の日々の生活や将来の不安を取り除くことを約束するところから始まるように思える。 そう考えると決して目先の児童手当だけが対策ではなくなる。保育所の入所条件を緩和する、保育所費用を必要経費としてみなし税金の還付につなげるなどは、働くお母さん達には児童手当よりも必要な事である。お父さんが子育てに参加するため、幼稚園や保育所の送り迎えの為に、出勤時間や退出時間を調整することを受け入れた事業主には事業税や法人税の一部を還付するなども考えられる。

 公共の施設の大人料金も、子供と一緒なら安くなれば、もっと利用者も増えるだろう。周囲も国も子供の存在が国にとって、自治体にとって、大切なのだということをもう一度改めて考えなければならない。

 そう考えると箱物行政といわれたようなやりかたよりも、もっと効果的なアイディアが浮かぶように思うのだがどうだろうか?

 少子化対策は、生みたい人が2人3人4人と家族を増やすことが心おきなく出来る、親側の環境や将来、そして親も子も夢の描ける環境を整える事が何よりな筈である





コミュニケーションの習慣

2006-05-13 11:46:19 | 

▲長者ヶ崎・・・晴れて見通しがよければ富士山が見えるらしい


 ”おはよう””おやすみ””いただきます””ごちそうさまでした””いってきます””ただいま””ありがとう””ごめんなさい”

 大人も子供もどれくらいの割合の人たちが普段の挨拶を交わしているのだろうか?

 毎朝、子供の顔をみて「何か言いたいことがありそう」だとかは朝の挨拶一つでわかるものだし、”ただいま”のひと言で「今日なにかあったの?」と気になって声をかけてしまう。

 コミュニケーションがどうたらこうたらいろいろと取りざたされているけども、”タイプアウト”された文字では伝わりきれない部分を、人と人の肉声によるコミュニケーションは補っているはずである。

 大人も子供も本当になさけないぐらい出来ていない。いやもしかしたら子供のほうがきちんと出来ていないのかもしれない。

 電車で下車するときなど、どうしても乗降口に出るには人に退いてもらわなければならないときも、「無言」で体をぶつけてくる。”おまえじゃまなんだよ”というボディーランゲージである。これが大人のやることか?と言いたくなる。年齢を重ねた人ほどこの傾向が強い。

 名古屋の駅で50代の大人二人がもみ合って線路に落下、一人が死亡するという悲劇も、ちょっとしたあいさつや言葉で防げたかも知れない。

 つい最近、三浦半島までバイクで出かけたときの事。まだハイシーズンではない時期だったので、葉山マリーナなどもまだ混雑は全くしていなかった。ちょうど長者ヶ崎で休憩してたときに、地元の人から、「近くに新しい道路が開通したからバイクでなら気持ちいいよ、いってみな」と声をかけられ、ちょっと走ってみた。その道路は適当に曲がりくねっていてバイクで走るのにはほどよい爽快感が味わえた。その道路の反対側の入り口で、Uターンしようとバイクを停めていたら「もう、この道路つながったの?」なんて声をかけられた。たわいの無い会話なのだが、全くの初対面で、見ず知らずの人と簡単に声を掛け合えるそういうことに触れることが出来てすこし嬉しくなった。

 都会は便利でいろんなものがあるけども、こういうコミュニケーションは明らかに不足しているのは否定できない。