18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

ダ・ヴィンチコード

2006-05-14 22:38:48 | 映画

▲六本木ヒルズ森タワー

 あと残すところ一週間!どきどきワクワクの世界一斉公開の映画。最近では珍しいのかな?

 そのダ・ヴィンチコード展が六本木ヒルズで催されているので見てきました。観覧料大人1500円・・・これって映画代2倍とられてるってことかいな?と思いつつもまあ、楽しみましょ、楽しみましょ

 1500円は、人によっては高いかもしれない評価が下るかもしれないが、けっこう展示内容も充実していて楽しめました。公開後になるともっと内容に近づいた展示ができるのでしょうけど、まあ公開まえなのでこれぐらいが限界かな?

 圧巻だったのが、「最後の晩餐」の原寸大での再現である。今回の展示はすべてハイビジョン画像で、ほんとうに”空気”の流れさえ感じられそうな映像の数々で舞台となったフランス、イギリス、宮殿、寺院をくまなく、逃げ切ることができた飛行場さえも、映像で紹介されていて気分は盛り上がること請け合いである。

 さて、この「最後の晩餐」の原寸大の再現は、ハイビジョンの4倍の解像度を持つ画像によるもの。いまのプラズマテレビでは再現できないので、特殊なプロジェクターをつかって真っ白な壁面への投影画像である。

 映されていた時間は3分ぐらいだろうか。ふつうのプロジェクターの安っぽさなどかけらも感じさせない超高解像度である上に壁面投影画像である。まるで壁に本当に描かれているかのような高再現性。ただただ映像のきれいさに圧倒された。本当の絵からの息吹は実物を見ない限り伝わってこない。「最後の晩餐」もそうだろう。しかし、今回の画像は中途半端なレプリカよりも迫力を感じさせられた。

 映画の公開後も開催しているので時間があれば足を運ばれることをおすすめする。休日だった今日も大混雑というわけでは無かったからゆっくりと楽しめる。


▲六本木ヒルズ森タワーからの眺望



いじめる側も、いじめられた側も

2006-05-14 22:09:16 | 
 陰惨な殺人事件が報じられる中、過去にいじめられ続けてきたことの恨みからの殺人事件は、なんとも言えない事件だ。

 以前にもここに書いたが、”いじめる”あるいは”いたぶる”心理の根底には、相手に対して自分の弱さを見つけてしまうことがある。

 自分自身で認めたくない自分の欠点や弱点、もちろん誰にも知られたくないし、見せたくもない。しかし偶々近くにその自分の欠点や弱点をもっている人物があらわれたとすると、”意味もわからずに”嫌悪感を抱いてしまうのだ。

 自分自身で認めたくない筈だった欠点、あるいは弱点をもった人物がすぐ近くに居るといつか自分とある部分がシンクロしてしまいやしないかと不安になり”毛嫌い”するようになる。

 例えば、片思いしている彼、あるいは彼女とたまたま同じ、ペンだとか、財布だとか、あるいは同じブランドの同じ色のジャケットを着てたりすると、「あ、趣味があうのかも・・・」とちょっと良い気分になるが、大嫌いな課長とか、同僚と同じものをたまたま持っていると、「げー」と思って即ゴミ箱に捨てるとか、二度と着ないとか、、、極端な反応を取ってしまう。

 つまり、「同じものを持つこと=感性の一致」を認めたい或いは、認めたくないという典型的な反応なのだ。相手の事をいやがる、何となく嫌い、というのはちょうどそういう心理と同じである。

 もちろんいじめの原因は多種多様でもある。自分がいじめられる側にまわりたくない、みんなからのけ者にされたくないという心理も働くというが、それも、よくよく考えてみれば、いじめられている側として同一視されるのを避けていることもある。

 本当は一つまちがえば、いじめられる側にまわっていたかも知れない。気づいている人もいるのではないか?

 しかし、物事には想像を絶することがある。いじめ続けることに対して鈍感である人、人のこころの痛みを理解できない感性。理解しようともしない”人間”性の欠落。日本は法治国家であるので、殺人は罪である。しかしながら、それ以外に方法がなかったとしたらそのいじめられた側の生きる権利として、酌量されるべきではないかと思う。

 このニュースを見ていて、あの山形マット殺人事件が思い出された。裁判の結果に関係なく、一人一人の心がどうだったか?もう一度問いたい。事実として事件に関わっていなければそれ以上の事はない、事件に関わっていたが、それを認めるとその後の人生が・・・という話は、理解できない訳ではないが、一人の少年の命、つまり人生が無くなっている事実は厳然としてあるのだ。その事実に、事実で応じられないとしたならば、それはあまりにも卑怯である。”人間として”卑怯である事をしてしまったらどんな小さなことだってこころの中からは決して消えない。

 いじめられたという事実、殺人を犯したという事実、彼は殺人者だが、卑怯者ではない



少子化

2006-05-13 20:17:14 | 社会・経済
 森元首相が政府に対して少子化対策のあり方について注文をつけたことが報道されている。まさにその通り、お金や手当があるから子供を産んで育てる訳では決してない。政府のできることには限界があろう。制度や仕組みを変えて環境をつくることぐらいしか直接手を出すことも色んな問題もありできないのであろうが、森元首相の発言のポイントは忘れてはならない。

 子供を育てる環境、子供が将来大きくなったときの環境、学歴教育の問題。もちろん社会人になってからの年金負担の問題。他方で、自らの年金老後の問題。自分自身も含めて将来の不安を訴える多くの人たちの声から考えても、子供をノビノビと育ててゆけるような環境であるとは、言い切れないのが実情である。

 人は誰でも老いる、老いてもまだまだ元気な人もいれば、どうしても体が言うことをきかなくなるひとも居る。だれでもそうなったときに不安や寂しさを感じるものだ。これからどうやって生きてゆこうかと。その為に年金がある。つまり老後の不安を取り除くことが出来る、残りの人生を充実して生きる事が出来るそういうプランを描ける制度を用意することが年金のあり方の本質な筈である。それは何もお金だけではない。

 人生80年~85年とすると定年を65歳として考えればなんと20年もの時間ができる。20年間を夫婦二人でなんとか暮らしていこうとするとだいたい最低でも1億円ほど必要になる。子供をそだてて、家を建ててさらに一億円など普通の仕事をしていて簡単に貯められる物ではない。ここに不安が生まれるのだ。

 年金は若い世代が先達の年金を負担する形式で来たが、もはやそれだけで維持するのは難しい。預かってきた年金を好き放題に使われた始末は、国がそれこそ無駄を削って、歳費を抑え、歳入を確保し補わなくてはならない。 その仕組みや制度をしっかりと明確にして、「みなさん老後に不安はありません」納められている年金だけで成り立たない、不足する部分はこのようにして補い、結果として何ら問題のない年金生活を迎えて頂けます。 その為には国は、このような施策で歳出を徹底的に抑えますから、住民サービスがいくつかは無くなります。 また税金もこのように上げる必要がありますと、きちんと説明し、各方面からの徹底的な試算やチェックを経て制度としてさせれば、増税も納得できる。

 増税をみんなが反対するのは、”歳出を抑えず”に”歳入(増税)”でなんとかしようとする国の努力のなさに対してなのだ。

 老後に確たる安心ができれば、夢を描けるようになる。子供や孫と過ごす時間、子供が少々自分の夢を追いかけても、この国では根幹の社会保障がしっかりしているから、夢を追わせてもいいかという気持ちの余裕も生まれる。あらゆる可能性を試せるようになる。一度オチこぼれても、学歴が無くても、きちんと働く場と、自分自身を活かせる場をもてることがわかると、必ずしも勉強だけで優劣つけられて悩むことはない。それよりも、いろんな人と人が知り合い、年長者と話し合えるコミュニティの方がより重要な存在にさえなるだろう。

 少子化対策は、子供に夢を持たせて育てることが出来るように、大人たち、親たち自身の日々の生活や将来の不安を取り除くことを約束するところから始まるように思える。 そう考えると決して目先の児童手当だけが対策ではなくなる。保育所の入所条件を緩和する、保育所費用を必要経費としてみなし税金の還付につなげるなどは、働くお母さん達には児童手当よりも必要な事である。お父さんが子育てに参加するため、幼稚園や保育所の送り迎えの為に、出勤時間や退出時間を調整することを受け入れた事業主には事業税や法人税の一部を還付するなども考えられる。

 公共の施設の大人料金も、子供と一緒なら安くなれば、もっと利用者も増えるだろう。周囲も国も子供の存在が国にとって、自治体にとって、大切なのだということをもう一度改めて考えなければならない。

 そう考えると箱物行政といわれたようなやりかたよりも、もっと効果的なアイディアが浮かぶように思うのだがどうだろうか?

 少子化対策は、生みたい人が2人3人4人と家族を増やすことが心おきなく出来る、親側の環境や将来、そして親も子も夢の描ける環境を整える事が何よりな筈である





コミュニケーションの習慣

2006-05-13 11:46:19 | 

▲長者ヶ崎・・・晴れて見通しがよければ富士山が見えるらしい


 ”おはよう””おやすみ””いただきます””ごちそうさまでした””いってきます””ただいま””ありがとう””ごめんなさい”

 大人も子供もどれくらいの割合の人たちが普段の挨拶を交わしているのだろうか?

 毎朝、子供の顔をみて「何か言いたいことがありそう」だとかは朝の挨拶一つでわかるものだし、”ただいま”のひと言で「今日なにかあったの?」と気になって声をかけてしまう。

 コミュニケーションがどうたらこうたらいろいろと取りざたされているけども、”タイプアウト”された文字では伝わりきれない部分を、人と人の肉声によるコミュニケーションは補っているはずである。

 大人も子供も本当になさけないぐらい出来ていない。いやもしかしたら子供のほうがきちんと出来ていないのかもしれない。

 電車で下車するときなど、どうしても乗降口に出るには人に退いてもらわなければならないときも、「無言」で体をぶつけてくる。”おまえじゃまなんだよ”というボディーランゲージである。これが大人のやることか?と言いたくなる。年齢を重ねた人ほどこの傾向が強い。

 名古屋の駅で50代の大人二人がもみ合って線路に落下、一人が死亡するという悲劇も、ちょっとしたあいさつや言葉で防げたかも知れない。

 つい最近、三浦半島までバイクで出かけたときの事。まだハイシーズンではない時期だったので、葉山マリーナなどもまだ混雑は全くしていなかった。ちょうど長者ヶ崎で休憩してたときに、地元の人から、「近くに新しい道路が開通したからバイクでなら気持ちいいよ、いってみな」と声をかけられ、ちょっと走ってみた。その道路は適当に曲がりくねっていてバイクで走るのにはほどよい爽快感が味わえた。その道路の反対側の入り口で、Uターンしようとバイクを停めていたら「もう、この道路つながったの?」なんて声をかけられた。たわいの無い会話なのだが、全くの初対面で、見ず知らずの人と簡単に声を掛け合えるそういうことに触れることが出来てすこし嬉しくなった。

 都会は便利でいろんなものがあるけども、こういうコミュニケーションは明らかに不足しているのは否定できない。



退職金

2006-05-12 19:50:25 | 風景
いまちまたで話題になっている「小泉発言」から波及した退職金問題、いずれにしても民間の感覚から考えると高額で、支払い回数が多いのは間違いない。

 今回の問題に対して、千葉県の堂本暁子知事は、「それぞれの事情」などと言っているが、その発言からまったくもって民間の事情に通じていないことを感じざるを得ない。少々呆れてしまったというのが本音だ。

 そもそも民間の退職金規定はどういうものか?一般的な中堅中小企業ではどうなっているのかご存知なのだろうか?

 ほんの数年勤めただけで数千万円の退職金を受け取ることや任期毎に支払われるという事対する違和感は、民間の退職金事情を知っていれば、自ら改訂、是正の措置に踏み込むのが、自治体の長である知事の姿勢だと思うのだがどうだろう?

 私財を担保に入れて、親戚縁者に借金をして、自分の会社を立ち上げすべてのリスクを背負い、社員を雇って、規模が大きくなればその社員の家族の生活もかかっているという意識のもと事業運営を進める。一般企業の経営者。倒産すれば借金が残り、再生するにも血を吐く努力をしても難しい、再雇用の道も険しい、そういう一般的な中堅中小企業の社長が一体どれくらいの退職慰労金を受け取るというのだ?

 ましてやそこに勤める社員など、20年間勤続しても6~7ヶ月分程の退職金しか得られない事実を知っているのだろうか?

 知事は知事経験者としてのステータスも付くだろう、自治体は倒産しないから、”倒産させた社長”のようなレッテルを貼られることも無く、またどこかの金融機関や市中金融、親戚縁者への借金もないから、それなりに肩身の狭さも無く、次の道を探すこともできるだろう。

 確かに選挙に出馬となれば膨大な借金は必要だ。その返済に退職金を当て込んでいるというのであったとしても、一般企業からすればまだ甘い考えである。ましてや任期毎にもらえるなんて訊いたことがない!

 その退職金、一度計算してみればいい、県職員、県会議員、などいったい総額いくらになるのか?そしてそれをその県民に問えば良い。わたしたちは、正々堂々とこれだけの退職金をもらっていますと。そしてそれは受け取る権利があるんだと。
 
 県民は、自らの税金の使われ方のどれだけが退職金に使われているのかを知り、そしてその結果そういう制度に対して異論を唱えるなり賛成するなりすればいい。

 保育園、幼稚園、小学校など子育ての環境が不十分だったり、自治体の運営する交通サービスが赤字だったりと、もっともっとお金がいるところはあるはずではないか?

 退職金問題に対する既成事実、規定路線の上での権利主張はこの際潔くやめて、退職金制度の大幅な改訂か、あるいは自らの主張に間違いがないと信ずるならば、県民に、納税者に問う勇気を期待したい。本当に一般的な人たちの声に耳を傾けているならば、給料ともかくとしても、退職金が金額も、回数も如何にもらいすぎであるかわかると思うのだがなぁ・・・