18年にもなりますか

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モノ作り

2004-08-25 00:06:18 | 
モノ作りを体験させようというカリキュラムが小学校の授業の一環で叫ばれ出してから久しいが、その必要性を実感することが多い。仕事がらコンピュータソフト開発に携わっていることもあり、「作る」という言葉や「工夫」「知恵」「想像」などという言葉や人間の活動に大変敏感になっている。

ちょっと専門的になるが、こんな例がある。コンピュータの中に、あるファイルを書き出すプログラムがあったとする。そのプログラムが1つのコンピュータのそれぞれ別のユーザーによってほぼ同時に動かす指示が出された場合、そのプログラムがもし、”コンピュータの中にいまから書きだそうとしているファイルはあらかじめ存在してはいない”ことを前提に作られていたら、きちんと動作しないことは想像に難しくない。よってもし”そのようなことがあったら”を考えてプログラムを作らなければならないが、これができていない。

そのような事が発生して実際に、”あとからファイルを書き出そうとしたプログラム”が異常終了してしまって、担当したプログラマー君がいろいろと考えているのだが、これがまた横着で、発生した現象を”表面的にしか”理解しておらず、それで”あーでもない、こーでもない”と考えている。

自分が作ったプログラムが意図したとおりに動かないことが分ったとき、普通は自分のプログラムの書き方が悪かったんだろうかだとか、なんらかの対応ができないものだろうかと考えるものだが、コンピュータがご丁寧にその動かなかった理由をメッセージとしてプログラマーにわかるように画面にだしてくれるものだから、そのメッセージ文だけを理解して全てを知ったような気になって、自分の作ったプログラムを点検(デバッグ)しないでいる。

そのプログラマー(見習い)君が、”これは対応の方法がありません”などと報告してくるものだから、怒りというより呆れに近い感覚でしっかり”指導”することになる。


こういう問題が発生したときに、自分の意図した動きはそもそもどういうものかを、白い紙に鉛筆書きで絵や図にして考えると大変わかりやすいし、自分で気づかなかったことや、そもそも自分の意図した動きそのものに問題あった場合など、たちどころに分ることが少なくない。

それすらしないで、”対応の方法がない”といわれると、本気で仕事する気があるのだろうか?とさえ思ってしまう。

少なくとも何かを作ろうということに興味があるのなら、”紙に書き出して考える”といったことは、それまでの時間のなかで学んできただろうにと思うのだが、パソコンの中でのモノ作りの経験しかなく、片思いの手紙さえもワープロするような時代にあっては、思いもつかないのだろうか?

竹ひごを曲げてつくったゴム動力の飛行機や、竹やバルサ、かまぼこ板や糸巻きの芯をつかった木工細工などを十分に経験しないでいると、”紙や実物で考える”ことから誘発されるいろいろなアイディアが解決につながることをわからないものなのだろうか。

大学を卒業して社会人となった見習いプログラマー君を、モノ作りの基本から教育しなければならない。彼らにも体験学習が必要なのかなぁ。