70才。役に立つ話が次々現われる。

世界で最低の日本人の声を改善する方法を95%まで独自に確立しました。

松下政経塾の限界(中物育て) 2

2012年07月03日 17時04分45秒 | Weblog

 俳優座俳優養成所が大物をどんどん排出した。特に一番最後の15期生は信じられない俳優を増産した。

夏八木勲、原田芳雄、前田吟、林隆三、太地喜和子、地井武男、浜畑賢吉、三田和代、村井国夫・・・・など40名前後の生徒数で輩出した。そこで「花の15期」と言われた。

 その原因は故千田是也師の「講師には日本で一番という人に」お願いした考えがあった。

 私は俳優としては大成しなかった。卒業後、TBSのアルバイトAD で「芸どら」を賞を取る作品の重要な働きもした。巨匠演出家の専属ADを望まれたが、大阪万博で渡辺プロの美佐女史の下でプロヂュウサーを務め、そこで知り合ったアメリカの大学の先生を頼り旅行ビザで渡り、途中で学生ビザに切り替え、大学院を無事卒業した。

 この時、演劇科の修士課程で入学に当たり「俳優座養成所を卒業した」が生きた。故三橋先生が講師としておられなかったら、私は「中退」で演劇科には入れなかった。

 33才で大学院生、英語は何時も赤点すれすればかりで府立高校、関西大学経済学部をギリギリで卒業していた。それが英語をメインにするアメリカの大学院、しかも「演出コース」という一番難関に挑む。

 日本の大学を経験している私は、田舎の私立の大学院のすさまじい勉強に、俳優座時代の何倍もの苦しみを味わう。乗り越えられた(修士課程修了)は故千田先生のお蔭と感謝した。

 私の声のトレーニング法は修士論文でほぼ完成させた、私式発声法・呼吸法が、日本に帰国後、40年近く「声のトレーナー」の職を維持させている。

 70才からどんどん私の方法はより進歩して、生徒さんを喜ばせている。

 「育てる」方法はいろいろある。私は俳優座卒で一番「冷や飯を食った一人だが」それでも人が知らない声のトレーニング法を開発したと自負している。何しろ生徒の声が限界を超えるところまで開発されているからだ。「うるさい、ダムの放水サイレンだ」と常に教室で私は叫んでいる。77才の私の声も大きいのだ。

 松下政経塾の福岡サン、「この短い文章から政治家を育てるヒントを」得てほしい。

 


松下政経塾の限界(中物育て)

2012年07月03日 09時43分42秒 | Weblog

 故松下幸之助氏に意思で、本物で日本で役に立つ政治家を育てようと発足した松下政経塾は、そこそこに活躍する政治関係者を生み出した。

 しかし頂点・総理大臣でつまずいた。本物・大物を育てることができなかった。「育てる」ことは永遠の課題だ。師が育てるのか、自ら育つのか。後者だと教育者はいらない。

 ここで私が卒業した、俳優座俳優養成所の故千田是也師の考えが思い出される。「俳優は一つの形にはめ込んではいけない、だから教育は大変難しい」

 そこで千田師が導き出した結論は「その道で日本で一番という人を講師に選ぶ」であった。例えば体操は故三橋喜久雄、当時体操協会会長。彼は文部省の費用でドイツに留学した。そしてバレーボールを日本に持ち帰り、日本の体操競技をオリンピック常勝に導いた。ラジオ体操、第一、第二を作った。リトミック体操も持ち帰った。

 俳優養成中の若者に体操を教える環境はない、気持ちも少ない。そこでやっていた事は六本木の三河台公園でのバレーボールであった。ありあわせの材料でポール代わりにして、ネットをはり、2組に分かれて試合をした。地面は悪く転ぶと怪我をした。だからみんな手抜き、適当にやった。しかし私だけは例外でけがを承知で地面すれすれのバールを拾っていた。私は養成所時代は生活苦と仲間との軋轢、親の経済力の違いで浮き上がっていた。3年間のうち毎日「辞めよう」と思った。しかし体操の授業がある金曜日午後までは我慢した。

 遊びに近いようなバレーボールに気が狂ったように集中する私に、三橋師はそっと「つらいか、我慢しろ」と誰にも聞こえないよう耳元でささやかれた。これでまた1週間養成所で耐える力が湧いた。

 結局、俳優座には残れず、「ゴミ」のように捨てられた。当時は仲代達也、平幹次郎などかっこいいスターが沢山いた。私などは「平凡、、並み以下の俳優」として見捨てられたわけだ。

 卒業後、私は三橋先生を訪ね彼の「三橋体育研究所」に特別なメンバーとして加えられた。相変わらず貧乏で通うための交通費もない、ある時は片道だけのお金で体育研究所の練習に向かい、出席していた参加者から帰りの交通費を恵まれたりした。お昼は全員でかけそばを食べる。しかし私にはお金がない。にも拘わらず、私の前にかけそばがある。誰かが恵んでくださったのだ。結局、7年間三橋先生に直接教えを受けた。

 この7年間が私に多くのものを齎した。挙句はクリントン前大統領から「感謝」のお手紙をいただくほどの声のトレーナーになった。

 さて松下政経塾の講師はどのような構成であったのか。お金と松下の財力でレベルは高いと思いたい。

 しかし一部の専任担当者の名誉欲がなかったか。これは自ずと狭い範囲で囲い込む。

 長くなるので以下は、2として後日、続けるつもりです。