例えば、目下世界には170程の国家、地域がある。
国際社会と言う枠組みの中で、夫々が、お互いに領土を保全され、主権を尊重しあい、対等な姿勢で接し合う事になって居る。
日本の主権のアメリカへの隷属関係は、この際置いておく。
互いに、世界の中での役割をにない、それ相応の代償も支払い、相対的に「自分の存在」を担保しあっている。
世界中の、如何なる国家といえども、単独で存在する事は出来ない。
「170余分の一」として、他国との関わりの中でしか、存在し、生存を続ける事は出来ないのだ。
周囲には、必ず「外国」が存在する。
往々にして隣国に限って、災いの元になりがちな物だ。
私の住むフランスも、16世紀にはスペイン、17世紀後は常にドイツが、頭痛の種であり続けた。
その「ドイツ」との、3世紀に渡る戦いを永久にやめ、平和な共存を目指して、独仏により「ヨーロッパ石炭鉄鋼連合」を形づくったのが、後の『EEC』そして『EC』、さらに発展しての『 EU』の母体である。
さすがの独仏も、21世紀の現在の立場をわきまえてか、異常に気を使いあって、仲良しをことさら演出している。
気持ち悪い程である事も有るのだが、まあ、取り敢えずは平和で良かった、と言うところ。
ところで、我が国ニッポンはと言えば、嗚呼。
そこに居るのは、中国。
いにしえの対中朝貢時代は、大和国家に取って、非常に得るところが多かったので、良しとしよう。
学ぶべきは、学ぶ。
歴史上の事は置いておくとして、現代の中国はまあ、何とかならんのか?
フランスでは、書物やテレビなどで日本の事を「le Pay du Soleil levant」と呼ぶ事があります。
直訳して「日いずる国」。
まあ、我らが『聖徳太子』が、自らをそう呼んで以後、その表現が歴史に留まり、フランス人達は「ことあるごとに」それを使う。
多少は「揶揄」的ニュアンスが無い訳では無いが、むしろ歴史上の使用の例をそのまま引いて、「日本の文化への尊敬を表して」いるのです。
フランス人は(少なくともインテリ層では)、日本への評価が「歴史的文化」と「現代技術」への高い評価の基に、結構好意的な見方を示してくれています。
そのように、日本が好意的に見られる様になったのは、ここ30年くらいだろうか。
それまでは、フランス人にとって、アジアとは即中国でありました。
古代中国の文化への認識はとても深く、異質の文化ながらも尊敬の念を持っておました。
それにしても、中国に関しては、そのまま『シノワ』と呼んで来たのですが、最近面白い呼び方にであった。
何かの雑誌での表現だったと思うのですが、「Pay Centre du Monde」、訳して「世界の中心国」。
一瞬、ぎょっとして、且つ不審におもったのですが、考えてみると何の事は無い。
『中華人民共和国』の<中華>を「世界の中心」と、いわば意訳したのですね。
しかし、この表現に相当の違和感を覚えるのは、私が日本人だからなのか。
フランス人には、まだ感想を聞いていないので、何とも言えない。
しかし、日本の事をよぶ「日い出る国」と言う呼び方程、敬意も友好的雰囲気も感じない事は事実。
なぜかとは、敢えて言わなくても、現代中国の「存在自体の矛盾」を、フランス人達も多いに感じ取っているからに他ならない。
中国人の、他に類を見ない「尊大さ」と、その影に見え隠れする「強烈なコンプレックス」は、如何なる国の人々の目をも、くらます事は出来ないのだろう。
『大国意識』
目を覆うばかりの大国意識。
ネット上に飛び交う「中国人民」達の言葉遣いには、必ずと言っていい程出て来る表現。
「世界の超大国になった以上・・・」
「もはや中国の力を認めない国は存在しない・・・」
「超大国中国に取って・・・」
「もはや中国に勝てる国は無い・・・」
いやはや。
強烈なる自意識過剰ぶりです。
そして、全て「勝ち負け」でしか、自己を認識出来ない。
全てにおいてアナクロ国家。
◆漢の時代の外交感覚。
▷「前原外相が日中関係での障害」とのたまう「時代錯誤」ぶり。
彼等は、漢の時代に、『卑弥呼』に日本の支配者の地位を認めた感覚で、未だに生きているらしい。
他国の政府人事に、平気で干渉する時代錯誤。
▷「王副首相とガートナー米財務長官の青島会見」
「忙しいアメリカの高官」を青島まで呼び出して会見する、という大国ぶりのアピールなんだとか。
要するに、謁見の間に呼ばれた外国使節は、膝でにじり寄り、五体倒地しながら『皇帝陛下』に謁見を賜る。
笑ってしまうが、「日本の様に弱腰」では無い国相手にそんな事をやっていると、確実に嫌われますね。
◆秦の時代の権力感覚。
自国の民に兵士が砲火を浴びせる。
あらゆる地域の民族を、皆ひとしなに強権的に扱う。
デモもストも認めない人民の統治の感覚は、始皇帝の時代の感覚から一歩も抜け出ていない。
何しろ、自国民が「ノーベル平和賞」を授賞する事を、力づくで取り消させようとする様な権力者の錯乱した感覚。
民草は力づくで押さえつけて当たり前の感覚は、峻烈で無慈悲な始皇帝の感覚そのままである。
◆『シルクロード時代』の商人感覚。
『羊頭狗肉』と言う言葉が有るくらいの国です。
誤摩化す事は才覚。
儲けるが勝ち。
儲ける為には、毒を入れようが、下水から回収した油で造ろうが、何でも有り。
やった者勝ち。
山ほどのコピー商品を雪崩の如くに売りさばく。
いい加減なニセモノであろうが、なんだろうが。
騙しや不正は当たり前。
『ミッキーマウス』のコピーを糾されて曰く、
「これはミッキーマウスなどではありません、耳の大きいネコです」
大笑い。
要するに、紀元前の頃から延々と保って来た、彼等の内なる権力機構とその意識とが、21世紀の今日まで、連綿と受け伝えられて来ているのだ。
そして、ただただ耐え忍んで服従するのみ、と言う庶民感覚に、共産党による開放で、「表面上の平等意識」を与えてしまった。
共産党時代の経済的欠乏状態が、西欧の経済進出のお陰でやっと「物質的覚醒」を獲得し、その事で「自信」を与えられた。
その結果として、13億の民に取っては、乗り越えるべき対象、敵視し打ち負かすべき対象を与えて、それを乗り越えた実感を持たせる事によって、やっと権力への批判をかわさねばならない程の、統治不能な混沌とした国民感情と、その持つ巨大なエネルギー。
どれを取っても、現代社会に置ける国家とその国民とは、言い難いまでの「国際孤児」中国が、現代の我が国の「隣人なのだ」という物理的不条理は、否が応でも認めない訳にはいかない。
日本に取っての「神が与えたもうた試練」並の困難なのだ。
おだて抜いてやらないと、へそを曲げる。
精一杯持ち上げてやらないと、すぐさま極端に走る。
「アンタが大将」で居ないと、自分の存在に自信が持てない、超コンプレックス国家が、『中華人民共和国』なのだ。
無理難題は、聞き流し。
しかし決して無視はせず。
常におだて、持ち上げ、頭を下げてみせる。
しかし、決して「恫喝には屈せず」、淡々とにこやかに、友好と親愛の情を示し続けて、祭り上げてやれば良いのだ。
それだけの、オバカな国なのだから。
ややこしい事おびただし。
しかし、彼等がそこに居る、以上は共存しなくてはならない。
それが我が国日本の宿命なのだ。
13億のエネルギーと、13億の経済力とを手にした、紀元前以来の皇帝陛下の感覚が抜けない、然も5才児程度の駄々っ子と同じレベルの自己中心的感覚しか持てない「共産党幹部」による、好き放題国家を相手にしなければならないのだ。
前原みたいに、訳も分からず口先だけで遊んでいると、しっぺ返しが大きい事は、十分に解かったであろう。
仙谷如きレベルでの「腹芸」なんぞ、手も足も出ない事も、十分に分かったであろう。
尖閣諸島は日本の領土である事は、歴史が証明している。
1970年代に、海底ガスの埋蔵が見込まれて以後、いきなり領有権を主張し始めて、「明の時代」からの領有を持ち出している始末。
とにかく、欲しい者は全て自分の物にしないと気が済まない強欲さ。
自分は未だ確り<ODA>をもぎ取りながら、アフリカ諸国には逆にODA を大盤振る舞いして、手なずけ、彼等の地下資源の優先開発権を着々と固めている。
アルジェリアに置ける「高速道路」建設を中国のゼネコンが請け負った事を機に、大量の中国人が彼の地へなだれ込み、1000人を超える中国人街すら出来ている。
彼等が、中国からの安価な商品を「特別枠」で持ち込んで商売を始め、現地の小売業界は大被害に遭っている。
何しろ、小商いが庶民生活の中心みたいな国において、ここの商いが潰される事は、死活問題なのだ。
さらに、彼等移民達は、中国から「特別枠」で工作機械を持ち込んで、あらゆる日常品の生産を現地で始めた結果、アルジェリアでの家内工業が壊滅的状況に追い込まれている。
一般庶民の、中国人に向ける敵意は、強烈である。
しかし、当の中国人達に取っては、痛くも痒くもないらしい。
何しろ、名だたる西アジアの商人相手に、引けを取らなかった「シルクロード商人」なのだ。
西アフリカ諸国で、ジャングルの中に、打ち捨てられた「綿花畑」が点々としている。
訳を聞いてみると、中国製の安価な化繊の繊維製品が市場を席巻してしまて、現地で木綿産業が消滅してしまったからだとか。
そのような、『唯我独尊』の国を相手にしなければならないのですよ、前原クン。
敵サンを、いかに徴発しない様に立ち回りながら、如何に平然と、日本の利害を世界に主張し、しかも中国に過激な反応を起こさせないか。
君たち仙谷菅内閣では、絶対に無理だった。
「訥々と仕事をするのみ」なんぞと、口先で言うだけでは、トツトツと国益を喪失して行く事になるのですよ、こりゃア菅総理大臣殿。
中国では、権力維持に、ありとあらゆる手段が用いられた。
政敵には、あらゆる不正も、悪事も躊躇せずに使用して、根絶やしにして来た。
政敵の、一族郎党を、乳飲み子まで虐殺して、おのれの地位を守った。
20世紀中庸においてすら、毛沢東から続いた共産党幹部の権力争いによる<弾圧>や<虐殺>は、天文学的数字の国民を、抹殺して来たのだ。
そのような「あらゆる悪行」と「不正な手段」とを、即真似するところが、類は友を呼ぶ訳だ。
しかし、小さな器で悪いところだけを真似する、民主党内閣の限界。
「邪悪な手段」を外交に使えば、まだ救い様もあった。
そもそも『外交』と言う物が、そのような物なのだから。
ところが。
菅直人君。
仙谷由人君。
前原誠司くん。
(以下略)
君たちは、そのような<卑劣な手段>を、党内抗争にのみ使って、権力の奪い合いにうつつを抜かして来たのだ。
<権力の座>が目的では無く、<日本の進路を正す事>が目的である『たった一人』の政治家相手に。
世界を相手に、独りよがりなムチャを続ける中国を隣人に持ちながら、他山の石どころか、党内の政局のみにムチャを辞めない君たちに、忠告しておく。
歴史は君たちを許さない。
君達自身の子供達が、孫達が、恥ずかしい思いをしながら生きて行かねばならない事になる。
これだけは、明言しておく。
国を滅ぼす事は、凡人にもたやすい。
国を救う事は、凡人には出来ない。
その凡人が、大きな存在を相手に、その行く手を阻み、日本の将来を救う可能性の芽を摘む事は、国を滅ぼす事に他ならない。
そんな事は、歴史が許さない。
それにしても、めんどくさい国だ。
中国も、日本も。
国際社会と言う枠組みの中で、夫々が、お互いに領土を保全され、主権を尊重しあい、対等な姿勢で接し合う事になって居る。
日本の主権のアメリカへの隷属関係は、この際置いておく。
互いに、世界の中での役割をにない、それ相応の代償も支払い、相対的に「自分の存在」を担保しあっている。
世界中の、如何なる国家といえども、単独で存在する事は出来ない。
「170余分の一」として、他国との関わりの中でしか、存在し、生存を続ける事は出来ないのだ。
周囲には、必ず「外国」が存在する。
往々にして隣国に限って、災いの元になりがちな物だ。
私の住むフランスも、16世紀にはスペイン、17世紀後は常にドイツが、頭痛の種であり続けた。
その「ドイツ」との、3世紀に渡る戦いを永久にやめ、平和な共存を目指して、独仏により「ヨーロッパ石炭鉄鋼連合」を形づくったのが、後の『EEC』そして『EC』、さらに発展しての『 EU』の母体である。
さすがの独仏も、21世紀の現在の立場をわきまえてか、異常に気を使いあって、仲良しをことさら演出している。
気持ち悪い程である事も有るのだが、まあ、取り敢えずは平和で良かった、と言うところ。
ところで、我が国ニッポンはと言えば、嗚呼。
そこに居るのは、中国。
いにしえの対中朝貢時代は、大和国家に取って、非常に得るところが多かったので、良しとしよう。
学ぶべきは、学ぶ。
歴史上の事は置いておくとして、現代の中国はまあ、何とかならんのか?
フランスでは、書物やテレビなどで日本の事を「le Pay du Soleil levant」と呼ぶ事があります。
直訳して「日いずる国」。
まあ、我らが『聖徳太子』が、自らをそう呼んで以後、その表現が歴史に留まり、フランス人達は「ことあるごとに」それを使う。
多少は「揶揄」的ニュアンスが無い訳では無いが、むしろ歴史上の使用の例をそのまま引いて、「日本の文化への尊敬を表して」いるのです。
フランス人は(少なくともインテリ層では)、日本への評価が「歴史的文化」と「現代技術」への高い評価の基に、結構好意的な見方を示してくれています。
そのように、日本が好意的に見られる様になったのは、ここ30年くらいだろうか。
それまでは、フランス人にとって、アジアとは即中国でありました。
古代中国の文化への認識はとても深く、異質の文化ながらも尊敬の念を持っておました。
それにしても、中国に関しては、そのまま『シノワ』と呼んで来たのですが、最近面白い呼び方にであった。
何かの雑誌での表現だったと思うのですが、「Pay Centre du Monde」、訳して「世界の中心国」。
一瞬、ぎょっとして、且つ不審におもったのですが、考えてみると何の事は無い。
『中華人民共和国』の<中華>を「世界の中心」と、いわば意訳したのですね。
しかし、この表現に相当の違和感を覚えるのは、私が日本人だからなのか。
フランス人には、まだ感想を聞いていないので、何とも言えない。
しかし、日本の事をよぶ「日い出る国」と言う呼び方程、敬意も友好的雰囲気も感じない事は事実。
なぜかとは、敢えて言わなくても、現代中国の「存在自体の矛盾」を、フランス人達も多いに感じ取っているからに他ならない。
中国人の、他に類を見ない「尊大さ」と、その影に見え隠れする「強烈なコンプレックス」は、如何なる国の人々の目をも、くらます事は出来ないのだろう。
『大国意識』
目を覆うばかりの大国意識。
ネット上に飛び交う「中国人民」達の言葉遣いには、必ずと言っていい程出て来る表現。
「世界の超大国になった以上・・・」
「もはや中国の力を認めない国は存在しない・・・」
「超大国中国に取って・・・」
「もはや中国に勝てる国は無い・・・」
いやはや。
強烈なる自意識過剰ぶりです。
そして、全て「勝ち負け」でしか、自己を認識出来ない。
全てにおいてアナクロ国家。
◆漢の時代の外交感覚。
▷「前原外相が日中関係での障害」とのたまう「時代錯誤」ぶり。
彼等は、漢の時代に、『卑弥呼』に日本の支配者の地位を認めた感覚で、未だに生きているらしい。
他国の政府人事に、平気で干渉する時代錯誤。
▷「王副首相とガートナー米財務長官の青島会見」
「忙しいアメリカの高官」を青島まで呼び出して会見する、という大国ぶりのアピールなんだとか。
要するに、謁見の間に呼ばれた外国使節は、膝でにじり寄り、五体倒地しながら『皇帝陛下』に謁見を賜る。
笑ってしまうが、「日本の様に弱腰」では無い国相手にそんな事をやっていると、確実に嫌われますね。
◆秦の時代の権力感覚。
自国の民に兵士が砲火を浴びせる。
あらゆる地域の民族を、皆ひとしなに強権的に扱う。
デモもストも認めない人民の統治の感覚は、始皇帝の時代の感覚から一歩も抜け出ていない。
何しろ、自国民が「ノーベル平和賞」を授賞する事を、力づくで取り消させようとする様な権力者の錯乱した感覚。
民草は力づくで押さえつけて当たり前の感覚は、峻烈で無慈悲な始皇帝の感覚そのままである。
◆『シルクロード時代』の商人感覚。
『羊頭狗肉』と言う言葉が有るくらいの国です。
誤摩化す事は才覚。
儲けるが勝ち。
儲ける為には、毒を入れようが、下水から回収した油で造ろうが、何でも有り。
やった者勝ち。
山ほどのコピー商品を雪崩の如くに売りさばく。
いい加減なニセモノであろうが、なんだろうが。
騙しや不正は当たり前。
『ミッキーマウス』のコピーを糾されて曰く、
「これはミッキーマウスなどではありません、耳の大きいネコです」
大笑い。
要するに、紀元前の頃から延々と保って来た、彼等の内なる権力機構とその意識とが、21世紀の今日まで、連綿と受け伝えられて来ているのだ。
そして、ただただ耐え忍んで服従するのみ、と言う庶民感覚に、共産党による開放で、「表面上の平等意識」を与えてしまった。
共産党時代の経済的欠乏状態が、西欧の経済進出のお陰でやっと「物質的覚醒」を獲得し、その事で「自信」を与えられた。
その結果として、13億の民に取っては、乗り越えるべき対象、敵視し打ち負かすべき対象を与えて、それを乗り越えた実感を持たせる事によって、やっと権力への批判をかわさねばならない程の、統治不能な混沌とした国民感情と、その持つ巨大なエネルギー。
どれを取っても、現代社会に置ける国家とその国民とは、言い難いまでの「国際孤児」中国が、現代の我が国の「隣人なのだ」という物理的不条理は、否が応でも認めない訳にはいかない。
日本に取っての「神が与えたもうた試練」並の困難なのだ。
おだて抜いてやらないと、へそを曲げる。
精一杯持ち上げてやらないと、すぐさま極端に走る。
「アンタが大将」で居ないと、自分の存在に自信が持てない、超コンプレックス国家が、『中華人民共和国』なのだ。
無理難題は、聞き流し。
しかし決して無視はせず。
常におだて、持ち上げ、頭を下げてみせる。
しかし、決して「恫喝には屈せず」、淡々とにこやかに、友好と親愛の情を示し続けて、祭り上げてやれば良いのだ。
それだけの、オバカな国なのだから。
ややこしい事おびただし。
しかし、彼等がそこに居る、以上は共存しなくてはならない。
それが我が国日本の宿命なのだ。
13億のエネルギーと、13億の経済力とを手にした、紀元前以来の皇帝陛下の感覚が抜けない、然も5才児程度の駄々っ子と同じレベルの自己中心的感覚しか持てない「共産党幹部」による、好き放題国家を相手にしなければならないのだ。
前原みたいに、訳も分からず口先だけで遊んでいると、しっぺ返しが大きい事は、十分に解かったであろう。
仙谷如きレベルでの「腹芸」なんぞ、手も足も出ない事も、十分に分かったであろう。
尖閣諸島は日本の領土である事は、歴史が証明している。
1970年代に、海底ガスの埋蔵が見込まれて以後、いきなり領有権を主張し始めて、「明の時代」からの領有を持ち出している始末。
とにかく、欲しい者は全て自分の物にしないと気が済まない強欲さ。
自分は未だ確り<ODA>をもぎ取りながら、アフリカ諸国には逆にODA を大盤振る舞いして、手なずけ、彼等の地下資源の優先開発権を着々と固めている。
アルジェリアに置ける「高速道路」建設を中国のゼネコンが請け負った事を機に、大量の中国人が彼の地へなだれ込み、1000人を超える中国人街すら出来ている。
彼等が、中国からの安価な商品を「特別枠」で持ち込んで商売を始め、現地の小売業界は大被害に遭っている。
何しろ、小商いが庶民生活の中心みたいな国において、ここの商いが潰される事は、死活問題なのだ。
さらに、彼等移民達は、中国から「特別枠」で工作機械を持ち込んで、あらゆる日常品の生産を現地で始めた結果、アルジェリアでの家内工業が壊滅的状況に追い込まれている。
一般庶民の、中国人に向ける敵意は、強烈である。
しかし、当の中国人達に取っては、痛くも痒くもないらしい。
何しろ、名だたる西アジアの商人相手に、引けを取らなかった「シルクロード商人」なのだ。
西アフリカ諸国で、ジャングルの中に、打ち捨てられた「綿花畑」が点々としている。
訳を聞いてみると、中国製の安価な化繊の繊維製品が市場を席巻してしまて、現地で木綿産業が消滅してしまったからだとか。
そのような、『唯我独尊』の国を相手にしなければならないのですよ、前原クン。
敵サンを、いかに徴発しない様に立ち回りながら、如何に平然と、日本の利害を世界に主張し、しかも中国に過激な反応を起こさせないか。
君たち仙谷菅内閣では、絶対に無理だった。
「訥々と仕事をするのみ」なんぞと、口先で言うだけでは、トツトツと国益を喪失して行く事になるのですよ、こりゃア菅総理大臣殿。
中国では、権力維持に、ありとあらゆる手段が用いられた。
政敵には、あらゆる不正も、悪事も躊躇せずに使用して、根絶やしにして来た。
政敵の、一族郎党を、乳飲み子まで虐殺して、おのれの地位を守った。
20世紀中庸においてすら、毛沢東から続いた共産党幹部の権力争いによる<弾圧>や<虐殺>は、天文学的数字の国民を、抹殺して来たのだ。
そのような「あらゆる悪行」と「不正な手段」とを、即真似するところが、類は友を呼ぶ訳だ。
しかし、小さな器で悪いところだけを真似する、民主党内閣の限界。
「邪悪な手段」を外交に使えば、まだ救い様もあった。
そもそも『外交』と言う物が、そのような物なのだから。
ところが。
菅直人君。
仙谷由人君。
前原誠司くん。
(以下略)
君たちは、そのような<卑劣な手段>を、党内抗争にのみ使って、権力の奪い合いにうつつを抜かして来たのだ。
<権力の座>が目的では無く、<日本の進路を正す事>が目的である『たった一人』の政治家相手に。
世界を相手に、独りよがりなムチャを続ける中国を隣人に持ちながら、他山の石どころか、党内の政局のみにムチャを辞めない君たちに、忠告しておく。
歴史は君たちを許さない。
君達自身の子供達が、孫達が、恥ずかしい思いをしながら生きて行かねばならない事になる。
これだけは、明言しておく。
国を滅ぼす事は、凡人にもたやすい。
国を救う事は、凡人には出来ない。
その凡人が、大きな存在を相手に、その行く手を阻み、日本の将来を救う可能性の芽を摘む事は、国を滅ぼす事に他ならない。
そんな事は、歴史が許さない。
それにしても、めんどくさい国だ。
中国も、日本も。