晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

アルジェリア西部都市と、西サハラ大砂丘帯を行く <3> トレムセンを歩く Ⅰ

2018-04-07 14:49:52 | 旅行とレジャー

 

大モスク広場に憩うおじいちゃん達

 

 

この辺りには、石器時代から人が住み着いていた。

 

古代ローマの時代は『ポマリア』という名で栄えた街で会ったそうだ。

しかし、今日の街の基礎は8世紀、アラブ人の襲来とともにある。

相前後して地元のベルベル人が蜂起し、ゼニアデス朝が興きる。

彼らは、長大な城壁に囲まれた大要塞都市を築き、マンスラーと名付けられた。

今モロッコのフェズに砦を築いてフェズ王朝を起したメリニデス朝イドリス1世の短期間の支配の後、1079年マラケシュに居を定めたアルマニデス朝ユセフ・イブン・タシュフィーヌの手で、モスクを含む城壁に囲まれた街が築かれ、位置が経ち賑うようになって、トレムセンと名付けられた。

そのユセフ・イブン・タシュフィーヌ王の壮麗な半恒久的王宮テントの後に、宮殿都市が形作られ『マンシュアール』と名付けられて、トレムセンの旧市街を形成する。

 

さて、その中央広場「Grand' Mosqué 広場」の片隅に、小さな古いモスクが残っている。

地元の人は、単純に「古いモスク」と呼んでいる。

これが、とても愛らしく味わい深い。



 「古いモスク(Ancienne Mosquée)」

 

 

小綺麗に修復されて、今では「イスラム考古博物館」になっている。

実際には、名前負けのものですが。。

今は、すでにモスクの資格は持ちませんが、昔の名前は『Mosqué Sidi Belhassen(シディ・ベルハッセン)』

 

 

中は、左右で雰囲気が異なり、片側はモスクというよりは屋敷の室内といった趣。

 

 

 

 

中央部の天井が、半分吹き抜けのような感じで少し高く持ち上げられた構造になっている。

 

 

 

 

この形式は、おそらく館の中庭「パティオ」の流用でもあろうか。

ならば、その下は小さな噴水を持つ四角で極めて浅い池(プール)になっているはずだ。

 

 

 

 

案の定、床は周りよりやや低くタイル張りで、中央に水を出す噴水の跡の窪みが残っている。

 

これはモスクとしては極めて異例で、このモスクがある大身の貴公子の個人的礼拝室だったことを、物語っている。

 

その周囲には、雑多な展示物が置かれていた。

コーランに由来する物と、日用品の土器など。

 

 

 石版に彫られたコーランと、皮に手書きのコーラン

 

 

建物の残り3分の二程が、礼拝堂らしい作り。

 

 

 

 

 

壁の上部には、起源の雰囲気を忍ばせる繊細なレリーフが再現されている。

 

天井は、木組み。

 

 

 

 

中央部の複雑な構造が醸し出す、六角形がイスラム美術の細工の技術の高さをうかがわせる。

 

展示物の中でも見るべきものは、数が多いわけではないが、主に古い『コーラン』に関するもの。

 

 

コーランを書き記した筆記具

 

 

 

手書きのコーラン

 

 

羊皮紙とい言うほど繊細には鞣されていない羊の皮に手書きされたコーランの一章。

先出のものとは、書体が異なっている。

 

 

 

コーラン

 

 

祈りを捧げる時に向き合う『ミヒラブ』

必ずメッカの方向を示す。

 

 

ミヒラブ

 

このミヒラブと呼ばれる壁のくぼみに正対して、イマム(宗教指導者)が座って、礼拝を執り行うのです。

会従(信者)たちはそのイマムの後ろに、同じようにミヒラブに向かって座る。

 

 

ミヒラブ上部

 

 

ミヒラブの上部は、とても繊細な透し彫りの石灰岩のプレートの細工が貼られている。

 

この辺りの装飾方法は、アンダルシア王国の装飾形式と共通のものを感じさせる。

 

 

ヒミラブの龕の天井部

 

 

アルハンブラ宮殿の装飾に、似てると思われないだろうか。

 

それもそのはず、実はこの小さなモスクがが建てられた頃、歴史の悲劇的エピソードが、隠されているのです。

 

 

1266年ごろ、セヴィリア(当時アンダルシア王国)の貴族であった「アブウ・アブデラアー・エショウディ』なる人物が、家財一切を捨ててトレムセンにたどり着き、コジキのような生活に身をやつして神の教えを説いていた。

 

時のその地の支配者の王族『イブン・イナン』という貴公子が、アブウの静謐と清廉なる生活ぶりと近隣に響いていた人徳に感銘し、子供達の家庭教師に取り立てたのです。

 

ところがイブン・イナンの侍従が、(おそらく主人の寵愛を特別に受ける彼への嫉妬からか)アブウを「怪しげな教えを説く背教者」として断首の刑に処してしまうのです。

1305年のことだそうです。

 

その後イブン・イナンは、彼のイスラムの教えへの敬虔な忠誠心と深い教養とを讃えるために、アブウを偲ぶ『モーゾレ(墓所)』を建立することにした。

結局、イブンの後を受けた時のスルタン、メリニデス家の『アブウ・イナン・ファレス』の手により、街の中心よりやや北東に外れたあたり、現在の『Place des Martyres(殉教者広場)』の一角に1354年から建立が開始され、モスクの様式でモーゾレがが建てられた。

 

そして、それはアンダルシア様式なわけです。

繊細な細い円柱に支えられたアーチを持つ美しいパティオがあります。

そのモスクは『Mosquée Sidi El=Halaoui(モスク・シディ・エル=ハラウイ)』と名付けられています。

シディは、後世まで慕われた徳の高い宗教家のことを指す敬称です。

アブウ・アブデラアー・エショウディは、敬虔なイスラム信仰を持っていたがゆえに殺された、つまり殉教したからですね。

 

 

その『殉教聖人』を建てさせたアブウ・イナン・ファレスの皇子の一人が、別の聖人『シディ・ベラッセン』をたたえて建てた個人の礼拝用モスクが、これ。

だから、アンダルシア様式で、貴公子の邸宅風なのです。

 

 

外に出ると、抜けるような青空にグランド天モスクが控えています。

 

 

 

この Grande Mosqué 大モスクのご紹介はやや後に譲って、次回は町の発祥の地をご紹介しようと思います。

 

 

 

 

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アルジェリア西部都市と、西サハラ大砂丘帯を行く <2> トレムセンに向かう

2018-03-05 21:24:56 | 旅行とレジャー

 

 

1400年代後半のベルベル人イスラームのマグレブ地方

 

 

 

ムハンマドが昇天した後、正当な預言者(神の代理人)ハイーファ(カリフ)を誰にするかで、シーア派とスンニ派の起源ができた。

 

シーア派の言う、ムハンマドの従兄弟にしてムハンマドの娘婿であるアリーのみを正当ハリーファとするシーア派によって広大なウーマイア王朝が作られ、その過程で主流派に追われて、ムハンマドの教えに忠実であれば正当ハリーファであるというスンニ派のカリフたちがメッカを落ち延び、エジプトに入ってマムルーク朝の起源を作り、その後もシーア派の追討を逃れて北アフリカ沿岸部を西に逃げながら現地住民たちをイスラム化していき、ついにはジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島全域を占領して『後ウマイア朝』を起こした。

 

メッカ系のアラブ人イスラムに変わって、マグレブ地方の中央部に900年代初頭に成立したのが『ズィアニデス朝』と言われる権力。

発祥の地で、中心となったのがトレムセンという町である。

した月『トレムセン王国』と呼ばれることもある。

 

 

上の地図でオランはトレムセンの右上の海岸にあたり、トレムセンからへブジア(ベジャイア)の2/3ほど行ったあたりに、のちのアル・ジャザイール(アルジェ)が築かれるのはもっと先のこと。

 

 

ところで、1世紀以上に及んだフランス統治の終盤マルジェリア独立戦争で現地ではフランス軍による激しい現地住民の弾圧が続いた。

最終的に、1963年7月初め国民投票で独立が確認され、アルジェリア民主人民共和国として独立を宣言したのは同年7月6日であった。

 

 

オランから、トレムセンを目指す。

現アルジェリアと現モロッコとの国境に近いあたりを、オランからトレムセンまで南下する。

 

南西に140㎞ほど。

順調に走れば、2時間ほどの道中である。

 

 

途中で、面白いものを散見した。

 

 

 

 

 

ボルドーあたりのワインの産地に行かれた方なら、見覚えがあるかもしれない。

 

典型的ボルドー地区のワイナリー。

 

左の平屋が新酒の樽を熟成する熟成倉庫(シェ)で、右が母屋(シャトー)兼醸造所であろうと思われる。

 

 

アルジェリアの独立達成後、多くのフランス人たちが、着の身着のまま生まれ育った土地から、母国フランスへと引き上げた。

まさしく、敗戦後の朝鮮半島や満州からの引き揚げ者のように、何年も何年も、フランス人引き揚げ者が先祖の地に向かった。

 

そこから、フランスの影響をいかに排除しながら国家の独立を維持発展させてゆくかが、新生アルジェリアにとって常に付きまとう問題であった。

 

 

 

同じマグレブでも、モロッコは王朝が確立していたので、フランスはその王朝をそのまま維持し、保護国として背後から経営に当たった。

そこで、日干しレンガの城壁に囲まれた旧市街『メディナ』がそのまま残り、エキゾチックなアラビア社会の構造が保たれてきた。

 

しかし、多くの部族の支配が入り混じって、中央集権的国家体制がなかったアルジェリアのあたりは、フランスはサクッと『植民地』にしてしまった。

地名もフランス風に改め、主だった街はフランス風に作り直していった。

 

したがって、アルジェを始めかなりの町々が「マルセイユの裏通り」然としてたたずまいである。

 

 

フランス文化は、独立後もいたるところ、あらゆる分野に避けられないものとして残っていた。

言葉も、行政制度も、教育制度も、何もかもフランス式であった。

 

些細な一例を挙げると、地中海沿岸の西端は水に恵まれていたので野菜や果物の生産が容易で、ワイン造りも積極的に取り入れられ一大産業となっていた。

 

独立後、アルジェリアの安価でそこそこ美味いアルジェリアのワインは、フランスから禁輸対象品にされてしまう。

 

フランス政府は当然自国のワイン産業を保護するためにも、安価なアルジェリア産のワインを国内から締め出してしまったのだ。

 

アルジェリアの、オランとトレムセン間の産地のワイン生産者たちが本国に引き上げた後、現地のアルジェリア人が引き継いで経営していたのだが、最大の商売相手であったフランスを失った。

 

アルジェリアのフランス人たちの多くが家族の誰かはフランスに行っており、逆にアルジェリア人も宗主国フランスに出稼ぎに行っていた。

そんな彼らこそが、アルジェリアのワインの購入者たちだったのです。

 

 

 

 

地域全体のワイン生産者のフランス人の帰国と、土地と施設を取得したアルジェリア人への技術移転、アルジェリア人による事業の引き継ぎには、なんやかんやで20年ほどはかかったに違いない。

 

しかし、新生アルジェリア民主人民共和国は、国教ではないにせよ国民のほとんどがイスラム教徒。

つまり、ワインを飲まない。

輸出先を失い、他の販路もないアルジェリアのワイン業界は、衰退の一途であったことは想像に難くない。

 

そのままイスラム政党の国政独占と、それに反発した軍部のクーデターによる軍事政権の誕生とが、ワイン造りに壊滅的打撃を与えたと思われる。

 

 

 

はるかに広がる穀物畑

 

 

1990年代の経済封鎖。

そして現ブーテフルか大統領の登場で民主化と対外開放を遂げた後、アルジェリアのワインの畑は、政策で次々と穀物畑と野菜畑に変えられていった。

 

 

 

ひっこぬかれて積み上げられたブドウの木

 

 

この辺りの国道の両側には、畑の畔に引き抜かれたブドウの木が、積み上げられているところが各所に見られる。

 

 

 

 

コルサ(菜種)の畑の畝に未だにブドウの木が残っている。

 

 

 

 

穀物か野菜畑に作り変えている途中。

ブドウの株が未だに引き抜かれずに残っている。

 

 

別のワイナリー

 

 

このワイナリーは相当大規模なものであったのだろう、

シャトーも立派だ。

ブドウ畑であったところは、牧草だろうか麦だろうか、2月の冬空のもと青々と新鮮に芽吹いていた。

おそらく建物の裏側は、もっとずっと広いブドウ畑であったに違いない。

 

 

 

国道からシャトーへの私道のオリーブの並木が素晴らしかった。

 

 

それにしても、農地の境界線を示すオリーブの樹の列が、どこも素晴らしい。

 

牧羊犬が一頭

 

 

 

さらに走ると、徐々にブドウ畑の痕跡はなくなって行き、牧畜の光景が見え始める。

 

 

 

 

アルジェリアの羊は、美味しいですよ。

モロッコのケバブと違って、飽きがこない。

 

 

中間店の町エル・マラーでコーフィー・ブレーク。

 

 

 

かってはオランとトレムセンとの往来の途中で食事をしたりと、賑わった街だったが、国道が整備されて街を迂回するようになって、静かな街になってしまった。

 

まるでキリスt協会のようなモスクをのミナレットが、中央広場を見張らしている。

 

 

明らかに、フランス統治時代の教会をモスクに転用したことが、想像に難くない。

 

 

 

 

肉屋の前に、店主の友達だろうかおっちゃんが二人座り込んでおしゃべりに花を咲かせている。

 

ちなみに、イスラム社会は店主も買いに来る客も、ほとんどが男性であります。

 

 

 

牡羊(角が大きく後ろへ湾曲している)のあんよ。

 

店先で「看板」兼「本日のおすすめ」を主張していた。

 

 

牡羊の頭

 

羊に限らず、頭はご馳走なんです。

鯛のお頭だって、そうでしょ?

 

 

 

 

 

この街は、通りに沿って裕福なフランス人たちが残した瀟洒な家並みが、しっかり維持されている。

 

 

 

 

見事な装飾の石塀の中には、フランス中央部地方の様式のお屋敷が。

一体どんなアルジェリア人が住んでいるのだろうと、想像が膨らんでゆく。

 

 

 

 

 

 

こちらの屋敷は、どちらかというとスペイン風。

立派なのには変わりはない。

 

 

グリウェック

 

50/50と呼ぶ、ミルクとコーヒーを半々にガラスのコップに入れて飲むカフェオレのお供は、私が一押しの「古典的」お菓子のグリウェック。

カリカリに揚げたプレッチェルみたいな生地に、ローズ・シロップとハチミツを「これでもか」と染み込ませた自信の一品!

 

こめかみに沁みる甘さですが、病みつきになります。

 

 

さて、途中で時間を食いすぎてしまった。

 

トレムセン目指して先を急ぐことにしよう。

 

 

畑の境界線のオリーブの列柱

 

 

ん?

 

彼方の空が俄かにかき曇って。。。

と思ったら。

 

 

ツグミの大群

 

 

 

 

 

いやはや、雲霞のごとくに何万羽のツグミが、群れを緩めたり固まったり。

 

アフリカ大陸の中央部から飛んでくる渡りだそうです。

 

 

ということで、夕刻トレムセンに着きました。

 

背後の丘に登って行って、陽の入りでも拝むことにしよう。

 

 

RQRQララ・セッティの丘の展望台

 

 

ララ・セッティの丘の上には、リビアのカダフィーの弟だかが所有する超高級ホテルや、公園、展望台がある。

 

展望台から下を見る

 

 

 

 

トレムセンの町に先立って築かれた『エル・マンスール』のミナレット(右)が見える。

明日、訪れることにしよう。

 

 

 

夕日が沈んでいく。

 

 

では続きをお楽しみに。

 

 

グリウェック作り

 

この写真は、別の機会に別の町で撮影。

 

 

 

 

 

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アルジェリア西部都市と、西サハラ大砂丘帯を行く <1> オランを訪れる

2018-02-28 21:25:14 | 旅行とレジャー

オラン『11月1日広場』 

 

 

一年ぶりにアルジェリアを巡ってきた。

 

短期集中連載でもやってご紹介しようかと思う。

 

 

アルジェリアは広大(283万㎢、世界で10番目)であるが、人口の90%は北の地中海岸に住んでいる。

 

地中海岸からすぐ背後には山並みが始まり、まとめて『アトラス山脈』と言われる1500mから3000mほどの山脈が三列ほど、連なって、南のサハラと隔てている。

 

首都アルジェは人口230万人、東のチュニジア近くコンスタンティーヌが70万人、西のモロッコ近くがオラン。

 

オランはアルジェリア第二の都市で、周辺人口入れると100万人を有する。

 

10世紀初頭に、イベリア半島を制圧していた『アンダルシア・アラブ人』によって建設された。

 

スペイン支配が長かったために、旧市街はスペイン時代の建物が多い。

街の中心部は、フランス統治時代の美しい建物が、数多く残っている。

今では相当傷んでしまっているけれど。

 

 

旧スペイン人街区

 

 

オランのオペラ座

 

フランス統治下の建設になる、ナポレオン三世様式に、地中海様式の香りを取り混ぜた立派で瀟洒なオペラハウスは、1905年に時のオラン市長イポリット・ジローのイニシアティヴで建設が始まり、2年の歳月をかけて完成した。

このジロー市長という人、かなりの教養人であったらしい。

アルジェのオペラ座より新しく、規模も小さいが、市立劇場としてアルジェリア西部スペイン文化圏における、重要なミューズの拠点となっている。

 

 

 

郵便貯金局かなんかであったこの建物は、目下修復工事中。

アール・デコの装飾が見事だ。

モール兼住居ビルになる模様。

 

 

ところで、西アルジェリアのあたりの地中海沿岸は、古代エジプト時代はヌミビア王国、マウリタニア王国を経てカルタゴ、ローマの支配下に入り、ローマ帝国滅亡後はヴァンダル族の徹底破壊を経て、イスラムの浸透による後ウマイア朝の分派の支配下に入り、アラブ・イスラムに反発したベルベル人イスラム政権と続き、1509年スペインの領土となった。

レコンキスタを成し遂げたイザベラとフェルナンドの孫『カルロス・キント(カール五世)』は、母親からイスパニア王位を受け継ぎ、父方の祖母からフランドル伯(ベルギー・オランダの辺り)、父方の祖父からオーストリア大公位を相続。それらの毛並みと、フッガー家の資金援助で神聖ローマ皇帝に選出。その神聖ローマ皇帝の権利としてのイタリア王、そしてアンダルシアの権利から「モロッコ王」を併せ持った。

そのスペインが、海上防衛のために要塞を築く。

そのあと、17年代初頭にオスマン・トルコ帝国の領土になるや、トルコ皇帝の兄弟の太守が、スペイン要塞のあとに宮殿を建設。オスマントルコでは、皇帝「SULTAN」の兄弟の太守は「BEY」と名乗った。

Palais de Bey (ベイ宮殿)が、町の中心からやや西側の地中海まで降った高台に、廃墟となって残っている。

 

ベイ宮殿

 

スペイン要塞時代の強固な城壁に、まず圧倒される。

 

 

トンネルの様な城門を抜けると、目の前に海が開ける。

 

 

そして、宮殿跡。

例によってのイスラム庭園。

 

 

 

砂漠の民にとって、「塀に囲まれた中の、緑が茂り、花が咲き誇り、甘い蜜の香りが漂い、水音と共に小さな泉水があって鳥のさえずりが聞こえる秘密の空間」が『天国』そのものを意味していた。

建物は、今後の復興を待つといった状態。

白大理石の瀟洒な円柱。

はめ板の彩色画も見事な天井。

扉の美しいはめ板。

往時の豪華さがしのばれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

このパティオは、深い貯水槽であった。

雨水と、山から引いた水がたたえられて、パイプで下の階の部屋の壁の中に導かれて「クーラー」の役を担っていた。

その後のフランス統治時代に、この宮殿が軍の司令部となり、貯水槽を塞いで浅いプールのパティオに作り替えられてしまったと言う。

 

厩舎の跡も残っている。

 

 

街中に戻ると、フランス統治時代の旧カテドラルがある。

 

 

19世紀後半にフランス本国ではやった、新ビザンチン様式の見事な教会堂であるが。。。

独立以後ながらく放置されていたらしいが、近年市立図書館の一部に利用されている。

 

 

 

 

教会堂は、普通は平面図が十字架の形をしている。

その交差部の大ドームは鳩が巣をかけて沢山住み着いており、その下は糞だらけ。。。

教会参事会席と聖歌隊席は見る影もなく、朽ち果てようとしている。

 

 

しかし、細部の装飾は見事で、ビザンチン様式の特徴の一つであるモザイクの文様が美しい往時の姿をとどめるため、時間に抵抗しているかのようだ。

 

 

外に出て一周すると、改めて建築の美しさが際立っている。

 

 

アルジェリアは、20世紀末の西欧諸国からの経済封鎖で経済が行き詰まり、21世紀にやっと10数年の停滞から再スタートを切って、今全国の再整備を行っているが、この手の建築物の修復の優先順位はあまり高くないのだろうと思うと、少し残念だ。

ところで、オランから南西へ200㎞ほど降ったモロッコ国境近くのトレムセン、そこから500㎞ほどなんかしたベジャールまで、フランス政府は貨物列車を通す鉄道を引いた。

 

南から石炭を運ぶ為であった。

北部海岸沿いの動脈以外に、内陸部に惹かれた最初の鉄道線であって、立派な駅舎を持っている。

 

 

外観からして素晴らしいオラン駅の駅舎。

 

 

内部も古色蒼然。

 

 

出札窓口の素敵な格子細工、壁の小窓はステンドグラス。

 

 

案内カウンターも情緒たっぷり。

 

 

そんな中で、電光掲示板が違和感と存在感とを誇示している。

 

 

キオスクはお約束通り。

 

 

さて、市場に行ってみようか。

 

 

どこに行っても、市場でまず目につくのは八百屋ですね。

 

 

店の主は必ず男の人。

 

 

海に面しているので、魚屋も活気がある。

少し遅めの時間だったから、商品は結構残り少なくなっていた。

 

 

 

ちょっと不気味だったのは。。

 

 

臓物屋。

 

そして、建物の入り口に何と猫の親子が。

 

 

 

どうやら、市場のみんなのマスコット的存在のようだった。

 

 

街の西のはずれに小高い丘がある。

 

 

その頂の要塞があたりを睥睨している。

 

 

16世紀スペイン領時代の、海上保安のための要塞で、フランス統治時代1860年に改築されてそのままフランス軍が地中海の守りとして使っていた。

『サンタ・クルーズ要塞』

 

 

城門

 

街のどこからでも見える、オランのランドマーク的存在である。

 

そして、そのすぐ手前にマリア様の像が立っている。

 

 

20世紀初頭、ペストが大流行した。

街の人々は、ペストの恐怖から神の助けを求めたくてバジリカ聖堂を立てた。

 

『サンタ・クルーズ教会』

 

もちろんアルジェリアはイスラム教徒が圧倒的多数で、フランス人が去った後は、キリスト教徒は一握りしかいない。

しかし、アルジェの『バジリカ・ノートル・ダム・ダフリック』とともに、ローマカトリックから神父t修道僧とが派遣され続けている。

 

後日ご紹介する予定だが、フランスの軍人からアルジェリアに住み着いて修道僧となり、サハラの遊牧民トウアレグ族と親交を深め、没後「ベアト(福者)」に列せられているシャルル・ド・フーコー師の築いた修道院にも、修道僧が赴任して活動している。

 

さらに、シナゴーグ(ユダヤ礼拝堂)もあった。

旧シナゴーグ

 

オランのユダヤ教徒のために1880年ごろ建設が始まるが、完成まで紆余曲折があり、完成は1917年。独立後は、モスクに転用されている。

建築としては、東方教会『ビザンチン様式』で、立派なものである。

 

 

最後に、オラン国立博物館をご紹介しよう。

 

正面玄関

 

自然史(恐竜骨格やら動植物の歴史)・先史時代(矢じり、骨格器、石器、土器云々)、古典文化(ローマ)、イスラム美術、民族史、美術などの分野に分かれて、結構多彩である。

 

小恐竜の全身骨格

 

なんだか、とってもレトロで懐かしい展示室の雰囲気。

 

昆虫見本

 

彩色アンフォラ

 

北部地中海沿岸山岳地方の土器

 

この土器は焼成してなく(粘土をこねただけ)、食品貯蔵に使われてきた。

 

アラビアのポット

 

ジョルジェ・ド・ラトウール『イエス生誕』

 

結構面白い。

 

中央の大通りに沿って、結構な規模の博物館であります。

 

本日はここまでにしよう。

次回は、トレムセンまで下って行く。

 

 

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陽はまた昇る…謹んで初春のお慶びを申し上げます。

2018-01-02 11:34:43 | 四季の風景

セーヌ川越にルーブル宮の上に朝日を望む



年頭に思うこと。



平和に生きたい。

平和に生きられる社会にしたい。

平和に生きられる社会を維持する、そんな社会が欲しい。


家族を慈しみ、家族の属する社会を慈しみ、家族の属する社会を含み世界のあらゆる人々を慈しむ、そんな世の中が欲しい。

過不足なく食事ができ、等しく子を育て、出自にかかわらず安寧な一生を送られる、そんな社会が欲しい。



日は昇り、日は沈む。

新年の初日の出は、新年の初日没を迎え、行く朝には同じ太陽がまた昇る。

今日がダメなら、明日。

明日がダメなら明後日。

明後日もダメなら、その次の日には。

みんな揃って、胸を張って、新しい日の出を迎えよう。

胸を張って。

自信に満ちて。

新しい日を迎えよう。



そんな明日が、今年こそは訪れてくれるよう、それに向かって準備をしたい。

平和と情愛に満ちた、階層差のない日本と言う国を、この目で見たい。



年を改めて、痛切にそう感じる、そんな新年であった。




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悲惨で最凶で逃げ場のなかった年が過ぎて行く。来る年は、それにも増して凄惨で禍々しい年になりそうだ。。石の上に3年、安倍下で6年目。。。

2017-12-31 17:28:03 | もう黙っていられない

ナザレの裏通りでお婆ちゃんと孫



日本は壊れてしまった。

倫理観も、正義感も、道徳も、謙譲の精神も、自制心も、徳も愛も、情も優しさも、平和を愛する精神も、「温かい部分」が見事なまでに一切ない人間が、独裁政治を続けて6年目を迎える。

その悪逆非道な独裁政権を、盲目的に支持する自虐的な人々が跋扈し、上に揚げた何らかの要素に批判的な言動をすれば、歯をむき出しにして罵倒し、攻撃してくる人々が横暴なまでに跋扈して今日に至る。

おかげで、閣僚経験者から国会議員たち、地方の政治家、高級官僚、特に財政と警察と法務と外務・防衛に関する官僚たち、日常を取り仕切る地方行政に官僚たち、はやりたい放題に弱者切捨て。

大人は乳幼児を嬲り殺し、子供は老人に平気で刃を突き立てる。

車で人をはねても、救助にも当たらずにトンズラし、注意されては逆ギレし、サービスが気にくわないと言っては袋叩きにして、心も傷めないらしい。

企業が稼ぐことを金科玉条として、原発も兵器産業も汚染土壌の中央市場も、ゴリ押しにして恥じない。

毎日全国でいくつの遺体が見つかっているか。

こんな無茶苦茶な国は、ない。
少なくとも「先進国」と呼ばれる国々の中には、ない。



日本人は、辛いこと、苦しいことを、黙って耐えしのぎ、やがては無かった事としてやり過ごしてきた。

今の日本は、お上が悪事を「無かったこと」にして終わらせる。

除夜の鐘をつこうが、年越しそばを食べようが、はたまた御神籤で大吉を引き当て様が、辛い現実は無かったことになならないのに。


まあ、政治家と官僚と、マスコミと学者たち有識者たちとが、打ち揃って「自分たち勝ち組」の立場を守ることのみに奔走し、悪政の根源を隠し、ごまかし、嘘の方向へ皆の目を誘導する。


政権側はスローガンだけ煌びやかに打ち出すことで、国は栄えていることにしてしまい、野党は「三野党の統一会派」と共産党を含めた共闘とを裏で潰してきた奴が第1党となって肩で風を切っている。

何をどうすれば、アリ地獄から脱出できるのか。

一握りの、覚醒した人々が頑張っても新しい流れは作り出せず、創り出せるきっかけすらない。


酷い国になってしまったものだ。


そんなこんなで、2017年が終わる。


長らく続いた「米国による世界秩序」からあっ客するためには、米国自体が一度崩壊する以外に道がなかろう、とトランプ当選を期待してみたものの、結果は遥かに酷い混乱をもたらしてくれている。

米国産軍複合体と、それを資金的に支配している階層が、戦争で繁栄することに味を占め、その流れの中での最悪の選択しかしない大統領になってしまった。

そのトランプのパシリでATMをやらされて喜んでいる安倍晋三が、下手すると米国のやりたがらない前線活動を引き受けかねない行動を取っていて。。。

ISが崩壊しようとする中で、イランとイラクを逃げ出した残党は、火種を周辺諸国に拡散するだろう。

シリアはアサドを倒すために米国の干渉は終わらないだろうし、イランも同じ方向へ向かっている。

イスラエルもトランプと組んで、パレスティナ人をより一層挑発して、紛争を拡大して領土のさらなる拡大を狙っている。


もうね。

紛争だらけ。
庶民の命は在庫一掃で打ち捨てられようとしていて、なおかつ紛争を起こす側に貪り尽くされるために、必要最低限の環境で生かされている。


もうね。


こんな人生、何のためにあるんだろ。
こんな世の中、どうして終わらないんだろ。



年が変わる。

でも、2017年1月31日23時59分59秒から、1秒過ぎるだけ。

実態は、何も変わらない。


時間が変わらないのなら、その時間の中で生きる自分が変わるしかない。


さてさて、もうね、いい加減に堪忍袋の緒が切れるんだよね。


見てやがれ!


冒頭の写真。

優しいおばあちゃんが、可愛い孫にご飯食べさせてる。
心配事があるとしても、この二人の間に流れる情愛の妨げにはならない。

そこには、優しい家族愛と、平和な日常がある。


兵器産業も、原発産業も、国際機関投機家も、民族対立を煽る外交も、そこに介入する余地はない。

人間としての、家族間の、愛情があるだけ。


そんな生き方ができる世の中にするのが、お上の仕事じゃねえのか!


もうね。


いまに見ていやがれ、でございます。


年の移り変わりとともに、人間も変われるんだ。







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フランスから見た日本の総選挙 『ル・モンド』の論評

2017-10-22 15:38:02 | 政治と社会

風雨のもとでの総選挙


日本が、はっきりと腐り始めている明確な表れである、衆議院議員選挙をナマヌぬるーく眺めながら、フランスではどう報道されているかを、単純に『ル・モンド』の記事の翻訳紹介で、お見せしよう。

ちなみにル・モンドは、発行部数わずか35万部という、超高級オピニオン紙であることは、ご存じの方も多いとおもう。

掲載した写真は全てル・モンドの元記事より。
(All photos by Le Monde)



Japon : Shinzo Abe s’achemine vers une large victoire aux législatives



【以下 翻訳文全文】




《日本 : 安倍晋三総選挙を大幅な勝利で終わる》

速報の第一報で、 国粋主義総理大臣率いる保守連立与党は、衆議院465議席中311議席に届く勢い。

日本政府の主、安倍晋三63歳は、10月22日の解散総選挙において、出口調査に寄る結果、20時(パリ時間13時)投票終了と同時に、大勝利を獲得。
現地民法テレビTBSによると、首相の連立与党自由民主党(PLD)が衆院議席465のうち311議席に達する勢い。その他のテレビ局各局も、前政権連立与党は2/3にやや欠ける議席数を確保することを推定している。最終的集計結果は月曜日の午前中に発表される。

安倍氏は、2012年12月に権力の座に就くと、2006年07年の第一次政権の失敗の後、今後2021年まで国の指揮を摂る事となった。この事は第二次大戦後の在任最長記録の総理大臣となる。


《選挙戦が明らかにする事》

温故主義スキャンダルに自縄自縛となり支持率の降下に見舞われた安倍氏は、さる9月末に任期を1年以上残した衆議院を解散する手にでた。
北朝鮮の危機と経済問題を中心に据えたわずか12日間という短い選挙戦の後 、南西部から直接日本列島を襲った、太平洋上で最大風速216km/hを記録した台風がもたらした降りしきる雨風の中で投票が行われた。
国民の老齢化に直面する日本は、過去2世代にわたって侵されてきたデフレと、息切れを続ける経済成長下に、安倍氏は自らの経済回復政策、バラマキ予算と裏付けのない証券市場の水準維持による通貨政策、いわゆる<アベノミクス>を自慢した。
首相はまた、もう一つの繋争点である、米国占領下で施行された平和憲法、特に国軍対外戦争行為を禁じるという遺産を消去する改憲という、野望を争点としてきた。
(10月22日13時31分パリ時間)




Japon : Shinzo Abe, le révisionnisme en héritage


【以下 翻訳文全文】





《日本 : 安倍晋三、歴史修正主義者》


任期満了前の解散による22日の総選挙は、自由民主党安倍晋三にさらなる4年間の権力を与えるであろう。
この人は第3期目の総理大臣の地位の委託を確保するだろう。
フィリップ・ポンス東京特派員
フィリップ・メスメル東京特派員
ル・モンド10月20日12時59分パリ時間


高貴なる政治家一族の家系出身の総理大臣安倍晋三は、こんにちおそらく日本でも傑出し続ける人物の又従兄弟であり、その後継者である。

1964年から72年まで、その8年間に及ぶ日本政府の長であった佐藤栄作はその祖国に3つの原則、核兵器を日本領土内で「作らない」「所持しない」及び「持ち込ませない」という約定、『非核三原則』を打ち立てた事で、特筆される。
その事は、勿論三原則制定と時を同じくして米国に日本国内の基地に核兵器の保有を約束した密約を行っていたとしても、彼をしてノーベル平和賞を1974年に受賞させるに値した。

それから40余年を経て、彼の又従兄弟である63歳の安倍晋三が、彼もまた新たな歴史に、とはいえ、その一族とは全く遠くかけ離れた政治哲学において、名を刻む事を画策している。彼は、日本をして<偉大さ>特になにより<絶対的支配権>に重きを置き、『憲法第9条』—1946年米国支配下において制定されたー戦争を解決手段とする事の禁止を、それに障害となると考えている。
北朝鮮との間の緊張、そして中国との敵対関係が日本国民を心配させ、それが<国難>に直面する日本に安倍晋三が必要であると訴える彼の立ち位置を強化している。

中国と韓国は、安倍氏のそうした国粋主義と軍事的傾向に、常に批判の声を上げている。
実際のところ、この人が世界の他のほとんどの指導者たち以上に国粋主義的というわけではないし、狂信的軍備信奉者でもない : と言うのも日本の年間国防予算は、彼が2012年に権力の座に返り咲いて以後(彼は2007年に一度辞任している)コンスタントに増加しているとはいえ、せいぜいDGPの1%超に過ぎない。
しかし、安倍氏は修正主義者である : 憲法改変の信奉者であり、それが日本を皇国史観で再編する為の大きな原動力となり、さらにはかつて旧日本軍が行った様々な出来事を最小化するか、なかった事にする上で・・・(以下有料記事)




Le vice-premier ministre japonais Taro Aso, roi des gaffes douteuses


【以下 翻訳全文】





《怪しげな失言王、日本国副首相兼財務相麻生太郎》


非常に国粋主義的なこの副首相兼財務大臣の北朝鮮と、特にヒトラーに関する発言は、日本国内では、それほど騒ぎを引き起こす事はない。
ル・モンド 10月22日10時20分パリ時間


北朝鮮危機は日本国内で22日の総選挙における大きな争点を占めているが、副首相兼財務相、麻生太郎の新たな放言を引き起こした。

現状に乗じて総理大臣安倍晋三が引き合いに出し、9月28日の衆議院解散の理由にした危機に関して、麻生氏は10月14日の岐阜県(日本列島の中央部)における講演会において、朝鮮半島での有事の際の北朝鮮からの日本への<武装難民>の大量流入のリスクに関して言及した。9月23日に彼は既にこの問題に触れ、北朝鮮からの難民が10万人に及ぶ恐れを指摘し、「警察はどの様に対処できるのか。自衛隊は展開して発砲できるのか、真剣に考える必要がある」と話した。

非常に刻す主義者である麻生氏は、それらは最初の失言ではなく、繰り返される彼の放言は単に彼の軽率さに由来するものか、考えさえられるものである。九州(南西部の大きな島)出身の彼は、麻生鉱業、のちの麻生セメントのいう企業のオーナー家族の継承者である。この会社は朝鮮半島植民地時代(1910年から1945年)に、朝鮮の人々と戦時捕虜を強制労働させた企業である。

さらに朝鮮人に対する彼の指摘は、彼が総理大臣であった2008年から2009年の間にアドルフ・ヒトラーとナチのそれにに類されるものであった。「たとえ正しい動機を持っていたとしても、数百万人を殺害したヒトラーは悪である。」と8月29日に発言し、批判に対して「適切な表現ではなかった」と訂正した。
限られた憤り

一般的に、日本社会はこの様な立ち位置の発言に、気分を害したりしない。8月28日、NGOで反人種差別活動のシモーヌ・ヴァイセンタール・センターは・・・(以下有料)


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処理不可能な『使用済み核燃料高濃度汚染廃棄物』の最終貯蔵施設の建設現場に行ってきた《後編》

2017-09-25 21:55:22 | 社会問題
間隔が空きすぎの感があるが、続編です。







全ては運頼み。

地殻変動や、地震や出水や、核戦争やテロや、その他何か想定できないことまで含めて「ありとあらゆる災害」から、無事に放射線汚染廃棄物を数千年単位で守り続けることを「期待して」地下550メートルにトンネルを掘っている訳です。


フランス東部、ロレーヌ地方ののどかな田園の中に。



30年程前、ノルマンディー地方のコタンタン半島の最先端に位置するラ・アーグ使用済み燃料廃棄物処理工場を訪れたことがあった。

硅素分の多い特殊ガラスで固化する処理を細々と行っていて、世界中でそれができるのはそこだけ、という時代。

ガラスは、水と同じく放射線を通しにくい。

日本も、国内で処理できないので使用済み核燃料廃棄物をそこに送って、処理を依頼していた。

プールの上を歩きながら、足元のグリルの隙間から見える、真っ青な水の底20メートルほどの位置に沈めてある使用済み燃料棒のうちどれが日本から来たものなんだろうと、寒気を覚えながら歩いた。


その頃は、処理(固化)した廃棄物をどうするか諸説あって、なかなか決められないと聞かされた。

ロケットで宇宙空間に持って行くのが、地球上に止めるよりほぼ完全に放射能被害からは隔絶される。
しかし、打ち上げ失敗で地上や大気圏内で爆発したら、地球規模の核戦争と同じほどの汚染が見込まれるので不可。

数千メートルの深海に沈める。
これも、容器が1万年の物差しで腐食したり、壊れたりしないとは誰も保証できない。

それで、地下に置くしかない、と。

当時は、オーストリアのハルシュタット近郊に、青銅器時代よりの岩塩の産地で、掘削したトンネルがあり、それを利用してヒロ進めれば地下700メートル以上で岩塩の結晶層が、物理的にも化学的にも安定度が理想的、などと説明された記憶がある。


しかし、その後の使用済み核燃料廃棄物の国際条約で「他国に」押し付けることが禁止された。

そこで、仏国内で地質学的に、地方自治体の政治的に、候補地を5箇所ほどに絞って始まった最初のサイトが、ここ。

ロレーヌ地方のビュール村周辺。







前編でご紹介した広報用のショウルームの敷地から800メートルほど離れた、実際の貯蔵施設サイトに移動。







実際に現場に降りる前に、簡単にブリーフィングを受けなければなりません。










簡易酸素マスクと、トンネル内GPSで位置を把握するための装置などを、使い方をレクチャーされた後に身につける。

右側の黒いケースを腰につけ、なんらかの事故で倒れたらセンサーが働いて地上の管制センターに知らせる、
どkで倒れているかの、位置も含めて。







二本の縦坑は、右が地下500メートル、左が550メートルまで下ろしてくれる。

そこから、縦横にトンネルが伸びている訳だ。







赤く塗られたエレベーター・シャフト。






上昇中を示すパネル。






こんな格好で、降りてゆく。



ドアが開き、エレベーターに乗り込む際に、隙間から下を見下ろしてみた。





さすがに550メートルでは、地底は見えない。








地底550メートルに降り立ったら、当初要所に説明用パネルがある。

これは、トンネル自体をどのように掘るのか。







試験掘削なので、実験ラボと呼ばれている将来の各種作業用スペースに成る横トンネルが、827。

縦坑が44。

その基本部分からさらに細かな穴が掘り巡らされ、総延長距離11キロメートル。

などなど。







この◯と➕の信号は、火災や事故の際、向いている方向に前進可能の時◯がグリーンに点灯。
その方向に行くと事故現場、という場合は◯が赤で真ん中に横線がです。

➕はその方向に避難壕ありのサイン。







一切に掘削したトンネルの内壁を固めるシールド用のコンクリート製隔壁様ブロック部品が、あちこちに積んである。







トンネルの交差部には、凸面鏡も。








トンネルの隔壁から、『高濃度汚染廃棄物』のカプセルを封じ込める横穴を掘る掘削機。






その横穴に、さらにコンクリートのパイプを押し込んで行く。

そこが貯蔵横穴となる。






完成した部分もあった。







放射線漏れが起こった際の臨時避難カプセル。

工事現場の簡易トイレほどの大きさで一人が数時間、救援が来るまで避難できるらしい。

ここは14人分。




ちゃんとした避難壕も数箇所ある。




入り口。





内部の様子。


上は排気用ダクト。

右の壁の細いパイプは空気を送ってくるパイプ。




どちらの方向から送られる空気か、明示してある。

事故現場と違う方向からのパイプの空気を利用するわけだ。



水も備わっており、半日ほどは耐えられる。





非常用のブレーカーと地上との直通電話も。








避難壕の位置を示すパネルの拡大。





こういう場所に避難することが距離的に困難な場合に、前述の簡易カプセルがあるのだった。








内側のシールドをせず、実際の土壌が見えるようにしているところがあった。



この辺りは、粘土層。


地下100メートルほどは表土層で、地下水脈などもあるはずの地層。

その下に300メートルほどの厚みで石灰岩の岩盤。


そして、その下が粘土層。


さらにその下に、また石灰岩の岩盤。


岩盤は物理的に非常に安定しているが、水は浸透する。

粘土層は水を多少含むが、内部までの浸透を防ぐ。

つまり、安定した厚い岩盤の間に、サンドイッチの具のように粘土層があり、安定した器の中の水を防ぐ、理想的なところが、この地下500メートル前後だったわけらしい。







粘土層といっても、いわゆる工作用の粘土のように柔らかいわけではなく、泥岩として石化している。

しかし、意外ともろいので掘りやすい。




その粘土層の泥岩を掘り抜き、壁面をコンクリートを吹き付けて固める。









要所要所に各種パイプ類。








その上に、前述したコンクリートの隔壁ブロックを張り合わせて行く。






この写真の右端が、隔壁ブロック設置済みの位置。




まだ実験機関でもあるので、トンネルの表面のコンクリートの吹き付けのやり方を変えたり、隔壁ブロップの設置のやり方を変えたり、各種の工法を実際に行って、比較実験もやっている。



そして中濃度汚染物(燃料棒の容器その他)はこのトンネルに、さらに前回書いたように横に二列、縦に3段に積むスペース以外は、コンクリートの隔壁ブロックで固められてしまうことになる。





赤く塗った部分が、実際のトンネル。

内側のグレーの部分は、先に挙げた写真の湾曲した隔壁ブロックを張り合わせた最終形態に、廃棄物を収めたカプセルを複数収めたコンテナーの位置ギリギリまでさらにコンクリートの保護ゴブロップで固めた部分。

白の部分が積み重ねたコンテナーとコンクリートとの隙間。

一番上は横に動くクレーン・ロボットが動くスペースだが、下に2段積んだ位置には順次3段目を積んでんクレーンは引き返してゆく。






そろそろ地上に戻ることにした。







エレベーターを呼ぶと、上から降りてくるん胃15分ほどかかってしまう。

幸いシンドラーではなかった。







やっと、お天道様の下に出てきてほっと一息。

この四角い建屋が、エレバーターシャフトを持つ縦坑の一つなのです。







敷地内には、作業員、研究員、技術者たちの住居が立ち並んでいます。









実際に完成すると、地下500メートルのラボ(研究施設)を除いて、550メートルの貯蔵トンネルの位置は無人となり、使用済み燃料廃棄物のカプセルは、全自動で地上から下に下ろして、所定のトンネルまで全てロボットが運んで積み重ねる。

しかし、メンテナンスや事故処理のために、人的介入が必要なので、そのための対処は全て考慮されているというが。。。。






このサイトの直近の集落『ビュール村』に寄り道してみよう。



近づくにつれ、交通標識にいたずらが。








村は、以外と広いメインの道路の周囲に民家が寄り添っており、閑散としていた。








村長さんの自宅。





たまたま通りかかった女性に話しかけたら、避けるように通り過ぎようとした。

考え直して、立ち止まって話を聞いてくれたが、実に偶然なことに現村長の奥様だった。

貯蔵所の受け入れを決めてから、「補助金で潤っただろう」とか「環境破壊して」とか、村の住人伊賀の外部者から散々嫌味を言われ続けて、外部者を避けるようになったとか。

考えさせられるお話だった。。。







やや坂道を登っていくと古い教会があった。


やはり、遠くから一番最初に見えるのは教会の尖塔という、お約束通りの位置関係にあった。


この13世紀に起源を持つらしい、ロマネスクの見事な古刹と、核燃料廃棄物の貯蔵施設とは、相容れぬ違和感を覚えながら。現地を後にした。



六ヶ所村は、どうするつもりだろう。


少しググってみたら、「やっぱり」なブログを見つけてしまった。


『【驚愕】知っていますか?青森県には平均年収1,300万円の村「六ヶ所村」があることを。』



確かに、批判したくなることはよく分かる。

私自身も、施設を受け入れた六ヶ所村の姿勢を批判していた。



しかし。

住民たちを批判する前に、原発自体を否定しなければ、意味はないのではなかろうか。

この種の住民批判は、やっかみと取られてしまう。



原発は、事故を起こしても、起こさなくても、人間社会には相容れない異端者だ。


電力事業者と建設するゼネコンと、政治家だけが美味しい思いをして、数千年単位一万年単位で、母なる大地とそこに生きる我が人類の現在と未来に取り返しのつかない悪影響を残す権利は、今の人類の誰にもないはずなのだから。



重たい気分でパリに向かった。







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運頼みで貯蔵するしか方法が無い、処理不可能な危険物『使用済み核燃料高濃度汚染廃棄物』最終貯蔵施設の建設中の現場訪問記《前編》

2017-08-04 23:01:54 | 社会問題







すぐる四月、『核燃料廃棄物』最終貯蔵庫の建設中サイトを訪れた。


先ず真っ先に言っておきたい。

日本で言う様に『廃棄物最終処理場』ではなく『最終貯蔵施設』である。

『最終処理場』というと、なにやら『処理されて無害』だという誤った印象を与えることに、繋がりかねない。




パリから東、シャンパンで名高いシャンパーニュ地方を通り過ぎ、ドイツ国境ライン河畔のアルザス地方の一つ西側『ロレーヌ地方』に入ってすぐ。

モーゼル県の田園地帯のど真ん中『ビュール』という小村の外の畑の中にある。






ロレーヌといえば、アルザスと並んでフランスとドイツとが取り合った場所。

かつては鉄鋼業で栄えたが、日本の製鉄業に淘汰され、かつての「高炉」の数々は恰も廃墟のごとくに残っている。
70年代の斜陽産業を代表し、ロレーヌは失業者で溢れかえった。

その後、世界の製鉄業は韓国に席巻され、さらに今では中国が君臨している。






パリから東進すること260km、ロレーヌに入ってすぐはムーズ県。

その名の通り、ムーズ川が北進し、ベルギーに流れてゆく。

ちなみにそのすぐ東側はモーゼル県で「モーゼル河」がドイツに流れるこみ、ザール川と合流したのち北進して、ライン川に注ぎ込む。

そのムーズ県の県庁所在地「バー・ル・デュック」の南30kmほどで、ビュール村。




日本の方でご存知の方もいらっしゃるでしょうが、名物料理として『キッシュ・ロレーヌ』という、一種のホット・パイが世界に知られている。



キッシュ・ロレーヌ


ネギとベーコンをたっぷり入れた、茶碗蒸しをパイ形に固めたみたいなもの。



訪れた時は、まさに菜の花が周囲を覆い尽くしていて、天国のようなのどかな光景であった。






しかし村に近づくと、地名表示のサイン・ボード『ビュール核燃料廃棄物貯蔵施設』はペンキで汚されていた。




汚された表示のサイン・ボード



サイトに到着。




正面ゲート



のんびりムードに包まれた正面ゲートから身分証を出して、あらかじめ準備してあった「入館証」を受け取る。




入館証


『一般 / 地下研究所』と書かれたこのIDを、首からぶら下げて歩き回ることとなる。


まず最初は、数キロ離れた広報センターに案内された。




核燃料処理地下実験所広報センター


ここは、事前連絡をしておくと誰でも見学できるらしい。

ガラス張りの明るい内部には、核と放射線のABCから、廃棄物をどのように貯蔵するのかの概要がつかめるように、パネルや模型などが展示されている。






『1mSvの被曝とは   

  肺のレントゲン撮影を3回行った場合 
  パリ首都圏で17ヶ月暮らした場合 
  標高1500メートルの高地で3年
  花崗岩岩盤の土地(ブルターニュ地方 中央山塊地方)で9ヶ月
  パリ/サンフランシスコを飛行機で7往復

に相当』






放射線を防ぐには。。。

『α線は紙を通さ無い
 β線は紙は透過するが、アルミフォイルやガラス板は通さ無い
 γ線は、紙もアルミフォイルやガラスも透過するが、コンクリートと鉛板は透過し無い』





それぞれの物資の防護フィルターの例。






貯蔵施設の概念図。






低濃度汚染廃棄物は地上保存。

中・高濃度汚染廃棄物は地下貯蔵。






ガラス固化した中濃度汚染廃棄物を入れる鋼鉄カプセルと、複数のカプセルを収納するコンクリート容器。






高濃度汚染廃棄物のカプセルとコンクリート容器。


それぞれの原発から回収された各汚染濃度の廃棄物は、処理工場で裁断圧縮され、この写真のような容器に封入されて、最終貯蔵所に搬入されるらしい。






この広報センターのすぐ近くに搬入受け入れ建屋を作る。

そこで特殊車両から降ろされた廃棄物は、コンクリート容器ごと頑丈な鉄枠のコンテナーに収めて、4000メートル離れた深度500メートルの地下貯蔵庫の位置まで、無人搬送機で降ろされる。


地下500メートルの貯蔵所は高さ6メートルほどのトンネルが張り巡らせた様な構造となっている。






壁のコンクリート色の部分がトンネルの大きさを表し、カプセルを収めたコンテナーを2列に2段に積み重ねる。

上の薄緑色の部分がクレーンで、自動操縦でコンテナーを所定の位置に運んで積み重ねる。

それが済むと、クレーンの高さに3段目を押し込んで重ねてゆく。

最後は2列3段貯蔵となる。






鉄枠の囲まれて固定されたコンクリート製コンテナーの実例。



それとは別に、トンネルの特定の場所の壁面から直角に小さな直系の長いトンネルを掘る。

その中に『高濃度汚染廃棄物』のカプセルが数珠繋ぎで押し込まれて保存されるそうだ。






高濃度汚染廃棄物を一列に繋いで押し込む例。






一列にカプセルを押し込む装置。






右側のオレンジ色の大きな部分が、押し込む際のピストンを押す機械部分。






これらのパイプは実際にはトンネルであり、岩盤の中に穿たれているのでこの様なむき出しの姿ではないことは、言うまでもない。







貯蔵される使用済み汚染核燃料廃棄物の種類と質量、線量の比較チャート。

『HA』は、高濃度汚染廃棄物。
貯蔵体積は0,2%ながら、貯蔵線量は98%を占める。

『MA-VL」は、長期崩壊放射線中濃度汚染廃棄物。
体積が3%で、線量は2%。

『FA-VL』は、長期崩壊放射線低濃度汚染廃棄物。
6%で、0,01%。

『FMA-VC』は、短期崩壊線量低濃度汚染廃棄物。
60%で、0,02%、

『TFA』は、微線量汚染廃棄物。
30%で、0,000004%:

ということになるらしい。





『TFA』は、オーブ県(ロレーヌ地方)シール村の地上保存所。
『FMA-VC』も、同じ県内の施設の地上保存所。
『FA-VL』は、底深度地下貯蔵を検討中。
『MZ-VL』と『HA』を、当地にて深度500メートルの地下貯蔵。



一渡り説明を受けたら2時間半経っていた。

一旦昼食のために中断することとなる。


サイトの柵の外、中央ゲート近くに、職員用と訪問者のためのレストランがあるそうな。






外観はなんとも「素敵なレストラン」の雰囲気。





バー・カウンターまである。






一般社食より高いメニューの、レストランで食事。

窓からの眺めものどかそのもの。

なんと「原発の出した核のゴミ」の貯蔵施設から、のどかな田園の背景に並ぶ『風力発電の風車』の列。

なんともシュールな眺めとしか…。



そしてロビー。





この上の会には客室があり、ホテルとなっている。

世界中から、研究者や原発関係者の訪問が多いらしい。







ゆっくり昼食をしたためて、午後はいよいよ地下500メートルに降りて行きます。


【次回に続く】





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今日は、世界で最も過酷で最も名高い自転車ロードレース『トウール・ド・フランス』の最終日だった。

2017-07-23 20:50:06 | 四季の風景



夕方散歩をしていて、セーヌの河岸に出ると道路が封鎖(車に)してあった。

こんな時間から今日はなんだったか、と考えてたら『トウール・ド・フランス』の最終日だった事を思い出した。

早速スマホで検索してみると、パリ郊外の街を16時50分にスタートしてパリに向かっている事がわかった。

あと一時間も待ってたら来る!

長らくパリに暮らしているが、トウール・ド・フランスを間近で見た経験は一度もなかった。

当然、待ちましたよ。



待つこと小一時間。

時折プレスの車がやってくるのだが、本体のくる気配は依然としてない。

そして、やっと「白バイ」が近づいてきたのでカメラを向けたら、オートバイ警官の前を自転車が2台通り過ぎた。







先頭集団にしては静かだし、どうやらペースメーカーだったのか。。

その後、いきなり頭の上に轟音が聞こえ、周囲から歓声が。

見上げてみると、フランス空軍アクロバット部隊の、トリコロール飛行編隊が上方を通過中。










その後も、数分おきにオートバイ警官やプレスのバイク、車が通るが事態は変わらず。







で。

やっと。

これまでとは雰囲気の違う(感じるのですねこれが)オートバイ警官。

これで、そろそろ本当にやってきそうな機体が膨らむ。

しかし、前方では観客がルートの中に佇んで待ちわびていたり。

平気でルートを横断して両側を移動したり。

車のラリーでもそうですが、そのようなことは公道ラリーにおいて警備当局の規制対象ではないらしい。

実際にトウール・ド・フランスで応援中の観客と選手が接触して選手が転倒し、後続選手が巻き込まれて多重事故が起こることもあるのです。。







これまでに通らなかったタイプの警備車がやってきた。

いよいよ。







来たあー!




ここからは、実は「あっという間」なのですが。

ちなみに黄色いジャージー(マイヨー・ジョーヌ)の選手が、全行程の通算トップタイムの選手で『マイヨー・ジョーヌ』と呼ばれます。

今日は最終日なので、総合優勝する可能性が大きい選手です。

毎日、ニュースで区間表彰式の報道がなされ、ヒーローなのです。














後で写真を見て分かったのですが、この「マイヨー・ジョーヌ」の奴め、並走中の選手とおしゃべりしてる!!
























160名ほどの選手が通り過ぎるのはあっという間だと急に思い出して、あわててカメラの向きを変える。










ああ、行っちゃった。

また向きをかえて、追走する応援車両を撮ろうとおもったら。

最後尾の選手らしき姿が。







しかも、並走するプレスのオートバイの後部座席にしがみついたカメラマンが、片手でウエッブカメラかなんか突き出して、撮影してた。






あとは、追走車両の集団。







全国を走り回っている間は、パンクしたり転倒してフレームがひん曲がったりした時に取り替える「代替え自転車」を屋根の上にたくさん積んで走っていたはずだが。

さすが最終日。

もう代替え車両を積んだ車は少なかった。



と、いうわけで。

先頭集団が見えてから、通り過ぎるまで、わずか2分くらいか。



ちなみに、このトウール・ド・フランスは、毎年コースが変わります。

フランス国内が原則ですが、近年スタート地点は周辺の国であることが多い。

今年はドイツのデュッセルドルフを7月1日にスタートした。



ここからの画像は『トウール・ド・フランス大会本部』のHPより、お借りしました。


  
  photo : La Tour de France Official Site



 全行程18区間を、休息日と移動日をいれて22日間で駆け抜ける。

毎年必ず「アルプス」と「ピレネー」の山岳コースが含まれ、その際は高低差1000メートルなんてのもザラ。


途中何箇所か、都市部で街路を何周かする「スプリント区間」が含まれ、空路の移動日もある。

最終区間は、必ず近郊の町からパリに入って、シャンゼリゼを周回する。



  
  photo by Tour de France Official Site



今年の最後は、今日22日。

パリ南東部のモンジュロンを16時50分にスタートしてパリの環状道路に南から入り、時計回りに5kmほど走って、パリの南西の角のセーヌがパリを出るところから市内に入り、川岸を通って「グラン・パレ」と「プティ・パレ」の間を通ってシャンゼリゼにはいり、凱旋門とコンコルド広場を7周。

走行距離104kmで争われた。



  
  photo by Tour de France Official Site


  
  photo by Tour de France Official Site


  
  photo by Tour de France Official Site


  
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   photo by Tour de France Official Site



そして、今年の総合優勝はイギリスのクリス・フルーメ。
なんと彼にとって、トウール・ド・フランス4回目の制覇となった。



    
    photo by Le Monde

チームの同僚選手と「肩を組んで」のゴール。




そして、今日の区間優勝は、オランダ選手グローネンヴェルゲンが獲得。



    
    photo by Le Monde



チームで参加し、そのチームのエースを勝たせるためにチームメイトが交代で前走して風を受けたり、他のチームの選手をけん制したり、かなり高度な作戦がとられるらしい。

栄誉としては、まず『総合優勝』
そして『区間賞』と『ポイント賞』と『最優秀若手選手賞』などがある。


前日までの通算最高タイムの選手が『マイヨー・ジョーヌ(イエロー・ジャージ)』を着用し、もし通算記録の選手が変わることがあれば、その日の区間優勝者の表彰時にマイヨー・ジョーヌを引き渡す儀式がある。

特定区間で行われるスプリント(いわば短距離計測走)での勝者『スプリント賞』は、白地に赤の水玉のマイヨーを受け取り、次のスプリント区間まで着用する。

さらに、各区間でポイントも決められており、通算ポイント最多選手はグリーンのジャージ『マイヨー・ヴェール』を着用。

若手優秀選手はホワイト・ジャージ『マイヨー・ブラン』を着用。


今年の総合優勝のフルーメは、総合タイム86時間20分55秒で、2位と「54秒」差であった。





普仏戦争後、1870年の新体制となったフランス『第三共和制』の末期、第二次大戦前夜の混乱期には、政権が頻繁に変わり短命の大統領が続いた。

その頃フランスでは、その年のトウール・ド・フランスの優勝者の方が、大統領よりはるかに知名度が高い、とさえ言われたくらいで、フランス人にとってかけがえの無い大きなスポーツ・イヴェントなのです。




これで、7月14日『革命記念日』の花火大会と並んで、恒例の夏の風物詩が終わった。。。




   




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2017年5月14日、フランスの新大統領就任

2017-05-14 13:05:14 | フランスとヨーロッパの今日の姿
全くつまらなかった、何もやらず、なにもやれなかった『フランソワ・オーランド大統領』の最後の日がやってきた。


大統領府『エリゼー宮』(大統領府)では、去る人を送り、来る人を迎える儀式が行われる。

と言っても、去る人は別に式典などはなく、来る人を迎えるだけ。

来た人が、式典を行うのですが。。。


写真は全て「ル・モンド」より流用。




フォブール・サン・トノーレ通りに面したエリゼー宮の門を入ると、中庭があり、宮殿に入る階段に赤絨毯を敷き始めている。






屋根の上も「警備」の目が光る。






片隅には山ほどの報道陣が、押し合いへし合い。






最後の点検。

大統領儀仗兵も準備。






窓から、新大統領受け入れの準備の具合を覗く「去る人」フランソワ・オーランド。

この時点では、まだ大統領だ。






エマニュエル・マクロンの強力な支持者の一人で、リヨンの市長「ジェラール・コロン」が到着。

有力閣僚の候補。






選挙期間中の選対本部のメンバーたちも到着。

戦友たちも、就任式典に臨む。






中道の小政党「Mouvement Democratic(民主運動)党」の党首「フランソワ・バイルー」も。

旧与党保守党から割って出た少数派。

今回の『マクロン政権』の中核をなす可能性を打診され、首相候補とみなされた。

政策のすり合わせがうまくいかず、物別れに終わりかかったが、結局まとまりがついたようだ。






エマヌエル・マクロン到着。






「来る人」を出迎えに出てきた「去る人」が、エリゼー宮のエントランスの階段上で握手を交わす、新旧両大統領。

この時点で『権力移譲』がなされた。






大統領となった「来た人」は、再度「去る人」と階段を降りて別れの握手を交わす。






新大統領『エマニュエル・マクロン』はファースト・レディーと、大統領府で大統領夫妻としての最初の写真撮影。






去る人『前大統領フランソワ・オーランド』は、大統領府の警備陣に最後の挨拶を送って、私邸へと去って行った。



これから、エリゼー宮の中で『大統領就任式』が行われる。

その後、凱旋門の『無名戦士の墓』へ献花に向かう。



◇5年前の2012年5月19日『フランソワ・オーランド』の就任式の記事も参照されたい。
 結構詳しく写真で書いています。

http://blog.goo.ne.jp/veritas21/e/c6b2f68c85d95a61ec02fe2041850f0d



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決戦前夜。明日『パリは燃えているか?』

2017-05-06 23:17:33 | フランスとヨーロッパの今日の姿
フランス・グリンピースが巨大な横断幕を掲げた。

反国民戦線を謳って。




(Photo by Le Monde)

エッフェル塔に。

『自由・平等・博愛  抵抗せよ』



日本で、NHKを筆頭にマスコミが騒ぎ立て、煽りに煽ってきた『極右政権誕生とEUの危機』
は、残念ながら訪れそうもない。

しかし、かなりのフランス人たちは、たしかに悩みに悩んだ。

ある若い女性はかたった。

「どっちに投票するかですって? 言えない。なぜなら、今いっても6時間後にはまた変わるかもしれないから。寝る前にやっと決心して、朝起きたら変わってるのよ。6時間おきに心が揺れるんです。。。」


別のご婦人は。

「決まっています。 マクロンに入れます。私は第一回目にはメランションに入れました。彼の主張が私の価値観に一番近かったから。しかしもう彼はいません。しかし、フランスの価値を完全に否定している人たちに、祖国を与えるわけにはいきません。マクロンに投票します。」


別の中年の男性。

「(投票に)行くか行かないか、未だに悩む。投票したい候補者がいないからね。しかし過激な国粋主義者に国を任せるわけにはいかないし。



さる3日水曜日、ル・ペンとマクロンとのテレビ討論会が行われた。

どこか然るべき場所に『パブリック・ヴュー』が設営されるか探してみたが、どこにもなかった。

大きなTVスクリーンを置いたカフェやラウンジバーを当たってみたが、いずれの店もその夜は「当然」サッカー中継だそうだ。
ヨーロッパクラブカップ準決勝のモナコ vs ユベントス があるにだから、当然だ。

しかし、パリのある劇場でやるらしいと聞きつけた。

オペラ座からほど遠からぬ場所にある『アテネ座』という由緒ある劇場で。

聞いてみると、その日はある公園の初日だそうだが、通常の開演時間を30分繰り上げて19時半に開演し、20時45分の終わって、そのまま中間フロアーロビーのカフェ・バーのあるフロアーでテレビを据え付け、興味のある人はそのままそこに居残ってみてもらおうと、考えたそうだ。





劇場の公央担当責任者の女性曰く。

「おそらくフランス人にとって、とても大切な夜になりそうだから、やってみようと考えたのです。初めての試みだし、一体どのくらいの人が参加するかわからないけれど、やってみるべきだという結論に至ったのです。」

何だか『フランス人スゴイ』と思った次第。

その劇場は、ギリシャ人劇作家のシメーヌの前衛独り語り劇『3つの要素による悲劇』の初演。

面白そうだから、行ってみましたよ。





500人ほど収容する、「イタリア様式」の劇場の典型で、フロアー席の周囲に4層の桟敷。

赤い天鵞絨に優美な天井








私は小さな両開きの扉を開けると、椅子が2脚ある桟敷にご招待して頂きました。





50歳くらいの女優さんが、1時間15分を静かに独り語りで演じる熱演でした。

しかし、お芝居の方は今回は話題にしません。


終わってからのテレビ討論会は、結局50人くらいが飲み物や軽食を取りながら、熱心にスクリーンに見入っていました。








マリーヌ・ル=ペンのトンチンカンな発言があると、微かなブーイングやせせら笑いが沸き起こっていました。

前衛劇を見に来るほどの人たちなので、少なくともル=ペンを支持するような人は、居ないようでした。



実は、翌日の報道によるとル=ペン候補はその世の2時間超の討論で、『11の虚偽の発言と多くの内容の疑わしき発言、明らかに扇動と取れる発言』でマクロンに論争を挑み、簡単に論破されていた。


その討論会の翌日、選挙戦最後の投票動向の調査結果が発表され、『マクロン 62% vs ル=ペン 38%』という結果になっていた。


3日を前に、そろそろ自分なりの結論を出す人が増えてきた、ということのようです。


それにしても、マリーヌ・ル=ペンの陣営は、今回の選挙戦を通じて事実無根の情報を、あたかも事実のようにsnsで流す、いわゆる『フェイク・ニュース』を連発して、エマニュエル・マクロンの公私両面での人気を失墜させようという行動事実が、次々と明らかになってきた。

『マクロンはバハマ諸島(タックス・ヘイブン)に隠し口座を持っている』というル=ペン側のツイートは、あっという間の10万回もリツイートされた。

それまでもヨーロッパの報道界では、不正確や虚偽の情報を報道してしまわないように、フェイク・ニュースを見極めることにかなりのテマヒマをかけてきた。

サルトルが基礎を作った左派系リベラル日刊紙『リベラシオン』紙を訪ねて、実際の現場を見せてもらった。




編集フロアーの一角。


フェイク・ニュース対策セクションは、常勤が5名、他の仕事と兼務が2名だそうで、目の回るような忙しさだとか。





一番右端の男性が「チーフ」で、まあ係長とでもいいましょうか。

かれは、10年前に専従セクションの必要性を会社に問うたが、社内の同意をまとめきれずに頓挫。

8年前に再度意見を具申して採用となり、セクションが作られて責任者となったのだそうです。





最初は日々の政治家の発言と文書が「正しい」かどうかを考証するのが、仕事のほとんど出会ったが、ここ数年はsnsの急速な普及により、ネット上での虚偽の情報を見つけ出して「警告する」ことが仕事のメインとなったそうだ。

日本のマスコミは、政治家の発言の真贋どころか、最初から政府にとってうれしくない「正確な事は報道しない」というスタンス。
なんという違いだろう。

専門のサイトを立ち上げてあって、毎日ヨーロッパ中から「問い合わせ」が送られてくる。

先ほどの隠し口座に関しての公式見解は。

『出来る限りの検討と調査をした結果、今現在<事実である>という根拠はどこにも見出せない』

というもの。

勿論サイト上にアップされ、このような微妙な時期の重大な影響を与える可能性のある事案に関しては、紙面でも発表する。





セクションのあるブロックの仕切り壁に『CHECK NEWS.COM』というセクションのサイトのプレートが貼られていた。


ちなみに、奥の一角では編集会議中で、耳を澄ましていると「マクロン…」という声が何度も聞こえてきた。







その「注目の」マリーヌ派、とにかくイスラム系住民へのヘイト発言が頻発しているのだが、目下パリ近郊で明らかにイスラム教への国を挙げてのイジメが行なわれている。


パリの東30kmほどにある静かな小都市『トルシー』で、先の4月13日警察によるモスクの強制閉鎖が行なわれた。





モスクといっても、提供された駐車場みたいな敷地にプレハブの建物が3棟ならんでいるだけなのだが。
写真は日常に礼拝に使われている、いわば「本堂」のような建物。



20012年に同市で起きたちょっとした爆破騒ぎ(ほとんど花火程度のもの)で逮捕された青年が、そのモスクで時折お祈りに参加していた。

その事件はすでに犯人には刑期も課せられ、全て終わっているらしいのだが。

『その犯人を含む若いイスラム系住民たちを、モスクで過激派への誘導を行っていた』という容疑で、捜査令状もないまま特殊部隊の警官10数人が早朝やってきて、何からなにまで引っ掻き回して捜査をおこない、同時に『イマム(指導者)』の自宅も襲われて徹底的に引っ掻き回した挙句、なんの証拠も見つからないまま『閉鎖命令書』を貼りつけ、あらゆるドアの鍵を交換し、モスクの運営団体(NPO)の閉鎖も行なわれて銀行口座を凍結した。

イマム本人は、フランス国籍を取得して30年来その町で高校の数学教師を務めてきたが、『公教育の現場での宗教色を禁ずる』法令に違反したかどで、職務停止処分。

本人の銀行口座も凍結されている上に給料ももらえなくなって、ひどい状況に置かれているそうだ。





普段礼拝に使う1棟目、女性専用の2棟目と、奥の突き当たりは事務所、右側は手洗い所。

全て閉鎖命令書が貼りつけられており、鍵が取り替えられているので誰も入れない状態。

発効日も公印もない命令書には「不法に侵入した者は罰金75000ユーロを課す」とも明記されている。



住民たちは仕方なく、コンクリート敷きの地面に敷物を敷いて、毎日5回のお祈りを行っている。

日の出の祈りが6時前後。
午前の祈りが14時前後。
午後の祈りが18時前後。
日没の祈りが20時前後。
夜の祈りが22時前後。

これは夏時間なのでややピンとこないかもしれませんが。
しかも月齢日に基づいて、時間は毎月少し変わって行くのです。

多い時は200人ほど。
少ない時で20人ほど。

たまたま訪れた日が雨だったので、2棟の隙間をビニールシートでカバーした狭い空間にひしめき合って、お祈りを挙げていた。







この措置を警察(内務省)が行った後、4月の22日に裁判所による「訴訟手続」が書類化され、5月3日にその措置が閣議決定された。

つまりわかりやすく言えば、裁判所による令状なしに『非常事態宣言』を根拠に内務省が暴走し、一週間後に裁判所が形式を整えるために書類化して、さらに2週間後に閣議決定で政府が追認したわけです。


これは、明らかに「社会的な見せしめ」としか言いようがない。

すでに結審している事件、しかも5年も前の事件を根拠に、当時は捜査もされていなくて無関係とみなされていたモスクとイマムを犠牲にした。

非常事態宣言は、行政にフリーハンドの権限を与えることになると言うことが、明確に分かる事例ではあります。

それまで使っていた「臨時」のモスクを閉鎖されてお祈りする場所を奪われたこと以上に、運営組合も閉鎖され口座が凍結されて所有財産を失うことが閣議決定で公式になったため、まともなモスクを建設するために10年掛りで住民たちが小銭を寄進して集めた浄財で購入したばかりの、将来のモスク建設予定地も没収ということになってしまった。

数学の教師で、宗教的は話などする時間すらなく、同僚教員たちも誰一人イマムであることも知られていなかった、イマムその人も定年目前にして、職を失う、年金までもしかしたら、という事態になってしまったのです。


さらにもう一つ。

パリの北に隣接する町『クリッシー市』でも、市当局が賃貸で提供していたモスクの建物を、昨年保守党の市長に変わった途端に契約期間の満期を理由に契約解除されて、遠く離れた狭い建物に移るように勧告。

反対してそこに居座ろうとしていた住民たちを強制排除してしまって、モスクを失った信者たちが抗議の一環として「市役所前」の道路で礼拝を行っている。

イスラムの戒律により礼拝は当然のことで、しかし公道上などで皆に迷惑をかけてお祈りすることは許されていない。

フランス共和國憲法で、宗教の自由は権利として認められている。

キリスト教徒が教会で、ユダヤ教徒がシナゴーグで、仏教徒が寺院でお祈りするように、イスラム教とはモスクでお祈りする権利がある。

にも関わらず。。。





毎日午後の礼拝を19時半頃。

金曜日は昼の礼拝13時半と午後の礼拝19時半。


最初に、市役所前の通りから市役所前の角を曲がったところの、市場の斜め前の小さな広場で、礼拝の前半を行う。

信徒代表による『アザーン(礼拝への呼びかけ)』がなされる。

イスラム諸国では、ミナレットの上のスピーカーから流されるあれだ。






その後、イマムの講話。






広場の、イマムに向き合う側にはなんとマクドナルドが。






女性たちは、別のシートの上にひとかたまりになって集まる。

本来はモスクでは男女別なので、このような街頭でのいっしょくたの場合は、女性はあまり多くは集まらない。

それから全員が市役所前の通りへ移動する。

巨大なビニールシートを引っ張りながら。






市役所前の通りは4車線。

歩道も5メートルはある。

その歩道全部と、車道3車線分を使って整列。






イマムの短いアザーンのあと、一斉に五体投地のようにひれ伏すことを繰り返す。






警官が数名で1車線を走る車を整理し、お祈りする人々を車から保護している。






今日は500人くらいが集まった。

最前列からもう一度見てみた。



この異常な光景は、イスラム人口の割合の多い町に住み、イスラムになんとなく反感を抱いている人たちには、とても醜い光景に移るようだ。

顔をしかめて横を通り過ぎる女性のお年寄りもいた。

このクリッシーの町は人口25000人。
そのうち4000名ほどがイスラム教とだとか。


そしてこの様子を我らがマリーヌ・ル=ペンは「この醜いフランスを、(フランス人の手に)取り返そう!』とツィートした。



『美しい国を取り返そうではありませんか、皆さん』

『教育勅語を暗唱し、総理大臣万歳!』と叫ぶ幼稚園児に笑顔で手を振るトップ・レディー。



日本も、着実に同じ歩行に進んでいる。

幸い明日の20時には、国民戦線の大統領は実現しないことは明らかだ。

日本の方が先に、ずっとずっと極右国粋主義の政府を戴いてしまったのです。


『秘密保護法』
『盗聴法』
『安保法』
『(テロ等)共謀罪』

そして、教養のない扇動家の総理大臣。


日本は危ない。

日本が危ない。





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大統領選挙の決選投票まであと1週間、そんな中でのメーデーのデモ行進は如何にと、凸ってみました。

2017-05-01 21:21:03 | フランスとヨーロッパの今日の姿



英国のEU離脱のあとを受けて、ドイツやオランダ、ハンガリーなどの極右勢力の台頭に重ね合わせて、日本のマスコミがこぞって『EUの危機』を煽り立てて何かが起こるのを待ち焦がれている<フランス大統領選挙>の、第一回投票を経て上位二人の候補者による決選投票『第二回投票』までの、2週間の選挙戦。


その、ちょうど中日の今日5月1日はメーデーということで、例年のデモ行進以上に両陣営に対する国民の支持の行方に、注目が集まっていた。


まさに両候補とは、保守派『共和党』でもなく、左派「社会党』でもないエマニュエル・マクロンと、国民の大半から蛇蝎のごとくに嫌われてきた「ヘイト政党」である極右『国民戦線(Front national)』の新党首マリーンヌ・ル=ペンとの一騎打ち。


もともと「国粋主義」を旗印にするFNは、この『労働者の祭典』がサヨクの象徴のごとき存在で、実にお気に召さない。

そこで、この5月1日になんとフランスの国家守護神『聖ジャンヌ・ダルク』に花束を捧げる式典にしてしまった。
1週間後の5月8日が、カトリックの聖人一覧で『ジャンヌ・ダルクの祝日』とされているにもかかわらず、である。

一方労働者の祭典としてのメーデーの行進は、時と場合で変更になることはあっても、基本的には「デモの王道コース」である『共和国広場(Place de la République)』から『バスティーユ広場(Place Bastille)』を経て、『国家広場(Place de la Nation)』であることが普通である。

今年も、同じそのコース。



そこで筆者は、その両方に突撃してみることにした。


それにしても、2002年のジャン=マリー・ル=ペンに次いで、支持者たちの悲願を受けて今回の大統領選で決選投票に残ったのが、娘のマリーヌ・ル=ペンである。

この娘、底意地の悪い性格でもともと人気がなかったことに加えて、父ジャン=マリーの右腕を務めてきた、副党首でジャン・マリー自身が推すブルーノ・ゴルニッシュに対抗して党首の座をもぎ取り、父親を党から追い出す様にして全ての関与を封じてしまったことで、結党以来の支持者、長年苦楽を共にした支持者を完全に怒らせてしまった。

その彼女は今年のジャンヌ・ダルク献花は行わないと宣言し、パリ北部シャルル・ド・ゴール空港に近い『ヴィルパント見本市会場』での政治集会を開催することを宣言。

その集会への参加を広く呼び掛けた。

対する父親、党の伝統を破壊されてなるものかと、ジャンヌ・ダルク献花を強行することを決定した。


はたして、「おとーさん」の権威は復活するのか、それとも…。



参加者は、これまで通り「パレ・ロワイヤル広場』に10時に集合。

そこから400メートル行進して、ジャン・ヌダルクの騎馬像のある「ピラミッド広場」へ。



集合時間の15分前。





まばらな人集りが、あちらに10人、こちらに5人。

既に早々と待ち構えている報道陣の数の方が、圧倒的に多い有様に「なんだかなあ」状態。

それでも、スキンヘッドの怪しげな風体のガタイのいいお兄さんたちや、背筋をピシッと伸ばした、着古してはいるもののクリーニングの行き届いた古めかしい背広姿のおじさま方が、徐々に集まってくる。

三色旗を配っているお姉さんも。






そして、集合時刻に20分遅れて親分ジャン・マリーの車が着くと、待ち構えていた報道陣のカメラが文字通り殺到した。



それから行進開始。

「ブルー・ブラン・ルージュ!(青白赤)」
「イスラム主義者は出て行け!」
「テロリストはやっつけろ!」

などのシュプレヒコールを繰り返しながら、5分でピラミッド広場に到着。

総勢150人も居るだろうか。。。







広場中央のジャンヌ・ダルクの騎馬像前には演壇がしつらえてあり、やがて白い百合の花束が据えられる。






天気予報は外れて雨は降らないが、冷たい風が吹き抜ける中を、震えながら30分待たされて、ジャン・マリー御大が登壇。

大音量のワーグナーのメロディーに送られて。







騎馬像に向かって頭を下げること30秒。

向き直って、演壇でスピーチを開始。







おん歳89歳!

しかし「アジ演説」はお手の物。

語り始めて15分、突如音声が途絶える。

マイクが効かなくなった。

アンプの故障か、断線かと皆が気を揉み「ジャン・マリー聞こえてないぞー」という皆の悲鳴を物ともせず、彼は語り続けた。

最前列の少数以外は、誰も何も聞こえない。
彼の口が動いているのが確認できるので、かれが演説を止めていないことがわかる。

『ドン・キホーテ』ル・ペン健在!






結局、30時分以上にわたって、彼の孤独なパフォーマンスが続き、やっと音声が戻って皆が拍手した10分後に、彼のスピーチはおわった。

1時間10分の演説中、聞こえたのは30分も無かった。


<ジャン・マリー、おまえの時代は終わったのだ。ゆっくりと休め>と、天の声が聞こえてきた気がしてならなかった。

前回まで1500人から2000人は集まっていた事をおもうと、実に寂しい「おそらく最後の「ジャンヌダルク集会」であった。

テレビカメラと新聞雑誌のスチール・カメラを合わせると、カメラの数が10倍はあったような…。



彼の演説の最後の言葉。

『フランス、フロン・ナショナル(国民戦線)、マリーヌ万歳!』

そして、

『ジャンヌ(・ダルク)よ (フランスを)救ってくれ!』






さて、その後元来のメーデーのデモ行進の出発基点『レピュブリック広場』に場を変えることにする。



14時半出発の予定。

1時間前には、結構な人が集まってスピーカーから溢れ出る強烈なビートに体を揺す振りながら、あちこちで其々のブループが集っている。

恒例の屋台もお約束通り。







キャンデーの屋台。







ミント・ティーを売る「アラブ系」市民。







ソーセージと串焼きバーベキューの屋台からは、逆らいがたいいい匂いが。。。







共和国広場のシンボル、広場中央にそびえる『共和国の女神』の像の台座に、何やらおもしろそうな人々が。

被っているお面は、見憶えが有る様な無い様な。

ん、マリーヌ・ル=ペン…にしては「より」不気味、とよく見れば、なんと親父のジャン・マリーの顔に、娘マリーヌの髪を被せた面白い作品。

聞いてみると、国民戦線とマリーヌに反対する人の一グループで『ジャン・マリーヌ』と言うのだそうで、皆で大笑い。

黄色いプラカードには「ハッシュタグ」Le Pen NON とある。







10以上もある労組の其々、さらにそれらの各産業ごとのグループ、パリとフランスで暮らす世界各国の人々の組織の旗が、数え切れない程はためいている。

なかには「マルクス・レーニン主義者労組」なんていう、半世紀前にタイム・スリップしたかと錯覚させられるものまで。


スタート時間を待ちわびて、「輪になって踊る」娘たちも出現。

通りかかる、いろいろなグループの女性たちが飛び入りで踊りだした。

最初5人くらいだったのが、20人以上が連なっていた。







そして、出発の準備を始めるグループもそろそろ。

最前列の横断幕に『一票たりともル・ペンに入れるな』という表記が見られる。







団体に属さないと思しき人たちも多く、各種思いを表す手製のプラカードやゼッケンを持つ人も多い。

『棄権することは、(ル・ペンを)サポートすること。憎悪の政治は拒否』と書いたゼッケンを胸にするご婦人。

写真を撮れなかったが、ユニークなユーモアたっぷりのものも多い。

若い女性が胸に『マリーヌを堕胎しよう』と書いていた。

選挙戦から「降ろせ」と、伝統主義にこだわり『堕胎反対』を唱える国民戦線の女党首への皮肉とを掛けているものと思われた。


下の写真は『炎を消そう。憎悪の政治にNON』というゼッケンのご婦人。

ちなみに国民戦線のロゴが「燃える炎」で、最近の彼らの台頭を消そう、という掛け。






「ル・ペンは危険、マクロンに投票しよう」






残念ながら枠に写らなかったけれど、カラフルな女性運動団体の横断幕にも「ル・ペンに反対」とあった。







そして、広場にいた『Le Pen NON』の黄色いプラカードの『反ル・ペングループ』の人たちも300人ほど続いた。







『棄権するということは FNを支持するということ』
という手書きのプラカードも結構目につく。







盛り上がる『反ルペン・デモ隊』








そして。

ある意味で多少期待していた訳だが…
和気藹々だったはずのデモ隊の一部が、後半機動隊と小競り合い。







デモ隊の一部が機動隊に向けて、建物の外壁材を剥がして投石。

機動隊に一気に緊張が走る。

先を行く人々との間隔を開けるために、デモ参加者を継ぐyすぎと「前へ前へ」と押しやる。







ついに催涙ガス弾発射。


デモ参加者は一斉に抗議。


普通デモ隊が暴徒化すれば、機動隊や軍隊が威圧して追散らす。

しかし、ここの彼らは防御線を弾きながら、下がる。

それより前のデモ隊と混ざらないように「阻止線」を維持しながら、下がる。

デモ隊は、機動隊に抗議の声を上げながら、機動隊の制止線を跳ね返す勢いで、迫り、前進を続ける。

怖がる気配など、微塵もない。






機動隊の催涙ガス弾による「攻撃」を非難しながら、機動隊員の阻止線を押しのけるように前進を続ける。

下がりながら食い止める機動隊の列と、機動隊に抗議する暴れた一部を含むデモ隊との、相対する最前列。




もう、報道陣の中には「ガスマスク付きゴーグル」着用、なんていう凄いカメラマンまで出現。







時折、部分的に衝突が繰り返され、投石の石の飛ぶのが見える。

しかし、それ以外の人たちは「われ関せず」と、それまでのリズムを崩さないところが凄い。

一部の参加者に聞いてみると、帰ってくる答えは決まって同じ。

「跳ね返る者たちはかならず居るもの。残念だけど、デモの本質は変わらない。私たちが今日ここを歩かなければ、ル・ペンの時代が来るかもしれない、そうなると、毎日こうやって歩かなくてはいけなくなるだろう。だから、私たちは今日歩いている。フランスの伝統的価値観に相容れない人たちに国を渡すわけにはいかない。自由や博愛や平等を否定し、多民族国家フランスをズタズタにしてしまう政権を、許すわけにはいかない。」






行進は止まる事なく、みな声を上げ続ける。

機動隊員も、暴徒化しない一般の参加者には一切圧力は加えない。

足元には、投げつけられた割られた外壁材が散乱していても。







6歳くらいのお嬢さんが、お父さんに肩車されて「ル・ペン・ノン」のプラカードを得意げにかざしていた。

今年のメーデーの『象徴的』光景だった。







筆者は、70年安保以来実に久しぶりに『催涙ガス』を浴びてしまった。

なんだか、懐かしく嬉しい1日だった。



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決選投票まで後一週間。投票する候補がいない…盛り上がらない大統領選。

2017-04-29 18:16:14 | フランスと日本の文化比較
仏大統領選の第一回投票、いわば予選リーグが済んで、決勝トーナメントにあたる第二回投票まで2週間の選挙戦。

その半分が過ぎて、フランスは混迷の度を深めてきた。

なぜならば、候補者がいない。


元来、フランスは第二次大戦後の第五共和国になって以来、常に左右の対決で今日まで続いてきた。

拙ブログを始めて以来、頻繁に書いてきた通り、ローロッパは階級社会。

今は、官吏階級と労働者階級。

教養も人生観も生活様式もまったく違う。

それを政治的に集団化すると、「右派」と「左派」とに分けることが多かった。

右派はウヨクとは違うが、複数の保守党が利益代表者であり、左派もサヨクとは違うが、通常は「社会党」「共産党」が代表してきた。

中間層は一応官吏海草に含まれ、保守で右派。

労働者は組合に属し、その組合毎に政党が違う。
正しく言えば、自分が支持する政党の傘下の組合員になる。

弱小政党も含めて、各政党は選挙には必ず候補者を立て、第二回に残れなかった政党とその支持者たちは、上位二名の決戦投票に残ったそれぞれの左右の候補者に投票する。。。


ところが今回は、右派も左派も自分たちの候補を持た無い選挙となってしまった。

一回目で一位となったエマニュエル・マクロンは、中道右派ということになっている。

社会党の党員として積極的に活躍していたにせよ、政治家としてのキャリアが見えにくく、思想的に確立していと思われている。

言っていること、やろうとしていることは、けっこう新自由主義的なところも多い。
ロスチャイルド銀行の頭取に気に入られ、ネッスルの毛営幹部を務め、億の単位の年俸を取っていた彼は、とても「左派」の代表とは言い難いと、思われている。

かといって、社会党の重鎮ジャック・アタリに見出されて政治の世界に入り、ミッテラン政権の重鎮ジャン・ピエール・シュヴェルヌマンの側近で、現大統領フランソワ・オーランドの経財相を務めた彼が、右派側から言えば「サヨク」そのもの。


他方マリーヌ・ル=ペンは、ギトギトの極右。

左派からも右派からも、アウシュヴィッツの存在を否定し、ナチを信奉する、蛇蝎のごとくに嫌われてきた極右政党『国民戦線』の現党首で、先代の名物男ジャン=マリー・ル=ペンの実の娘と来ては、到底支持できるものではない。


というわけで、今回の大統領候補は、右派からも左派からも「自分たちの代表」が居ないとう、極めて変則的な選挙と相成ってしまったのです。


こうなると、あとは憎悪のぶつけ合いで、敵の敵は味方、味方の味方は敵、みたいな「ワケワカメ」状態に立ってしまったワケなのです。

政治的立場というより、嫌悪感のぶつけ合いのような。。。

街角の選挙ポスター掲示板は、引っ剥がし合いの様相。

とっても嘆かわしい状態。



エマニェル・マクロンは、エリートの中のエリートみたいな人間ですが、以外と苦労人なのです。

彼は、北部フランスの都市アミアンの出身。

高校二年までアミアンで過ごし、三年からパリの超名門校『アンリ4世高校』に編入した。

今でこそ衰退しているものの、その頃のアンリ4世高校といえば、同じくパリのルイ・ル・グラン(ルイ大王)高校と並んで、shぽうわ40年代種痘の日比谷高校みたいなものだった。

日本以上に超超学歴社会のフランスでは、学校格差は日本どころではないのです。

地方の高校から(おそらく成績優秀だったであろうが)全国の高校最高峰の最終学年に編入するという、リスクというか冒険に飛び込むには相当の自覚と野望とがあってのこそ。

普通入れてもらいない。
地方の高校の成績優秀でいた方が、いきなり最終学年だけ超一流校に入って、その中でどういう成績を取れるか不透明である以上、その後の進路の計算を立てにくい。

フランスは世界の中でも極めて珍しい学校制度を確立しているのです。
しかし、そのことは今日は話題にしない。

彼はアンリ4世校を終え、高校卒業資格試験バカロレアはS(数学・理系)で最優秀のメンション付きで合格すると、大学よりもっと高度な『大学校(グランド・エコール)』に進むための「予科」に残る。

最終学年だけ在籍したアンリ4世校の予科に、そのまま進めたこと自体彼の優秀さを物語る。

2年の予科在籍ののち、フランスの最高学府『国立行政院(ENA)』に願書を出したが、2年連続で筆記試験に失敗。

第一回目の挫折。

しかし彼はパリの大学に進む。
予科の2年は大卒(学士)扱いなので、3年生(修士課程)に編入して、なんと哲学を専攻した。

パリ第10大学(パリ=ナンテール大学)で哲学修士号、上級修士学位を取得と同時に『パリ政治学院(シアンス・ポー)』(ENA、ポリテクニーク、ENSの三大GRANDES-ECOLESに次ぐ難関校)に進み、24歳で卒業ディプロムを取得。

これだけでも十分なエリート資格なのだが、さらに彼はここから念願のENAに進学に成功。


要するに一部で言われているようなボンボンとはまったく違う、ものすごい努力と才能に恵まれた人なのです。


フランスのエリートは、右も左も最高学府を出ていて、エリートとしては同格。

権力の座にあるとき(与党の間)は要職を歴任し、政権を失えば大企業や国の機関の要職を歴任する。

そういう意味では、仲間同士みたいなものではあっても、政治の土俵では政策の目標が「企業」か「国民」か、しっかり左右に分かれている。

そういう意味で、マカロンはイメージ的に損をしている。



マリーヌ・ル=ペンは、出来損ない。

創業家の二代目。

わずか80名ほどで45年前に創設された Front Natinal (国民戦線)という極右政党は、創業者ジャン=マリー・ル=ペンの、常に喧嘩腰で、歯をむき出して醜く歪めた顔でアジ演説をする、ナチスムん傾倒し、社会の問題のすべてをイスラム移民のせいに初手を罵倒し、フランス国内の日の当たる場所には居所がないという感じで、ひねくれたハグレ者たちの集団だった。

時代が違っていれば、スタジアムで暴力沙汰を起こすフーリガンになっていたか、もしも中東に生まれていれば<IS>を組織していたかもしれない、要するに哲学のない反体制の象徴で,逆に言えば社会に必ず少数存在するヤクザ者たちの受け皿であった。

そういう理由では、それに集う社会的落ちこぼれで弱者でもある不良大人たちのシンボルのジャン=マリーの娘として、取り巻きからはちやほやされて育ってきたわけだ。

父親自身が、自分の狂犬的言動にブレーキをかけて、政治勢力としての存在を確立しようと奮闘していた右腕たちを追放したりというかなりのバカ殿ぶりを見て育ち、結局FNの党首を引き継いだあと、父親を締め出してその影響力を排除してしまった、ツッパリ娘でもある。

まったく畑違いだが大塚家具の娘みたいな、危うさがある。

教育は、国の舵をとる立場を担うような階層のそれとはまったく違って、単にパリ第二大学(Paris=Assas 大学)で修士どまり。

今の時代なら、極めて平凡で中間層にすら止まれないレベルの教育しか受けられなかった。

政治学はおろか、社会経済学、その他リーダー層を担う分野の教養はまったくないに等しい。

ただ、FN自体が代替わりした分支持者たちも代替わりしてきており、世代が若くなってくるにつれ国の「経済的問題」の多い時代にそれぞれの分野でまともに暮らすのに困難を覚えている人たちに「目先の受け」がよく、支持を拡大している。

マリーヌ本人の力量でというよりは、右肩下がりの時代の流れが必然的に味方した、という感じ。


そこで本題に入れば、安定した社会の延長を求める「保守層」は、必然的に右派であるフランス人社会にあって、マクロンの姿はサヨク的に見える。

「サヨクに政権が移ったら、私はフランスから出て行く!」と喚いてる老婦人がいたが(左翼政権の最中なのに)、彼の立場をよく表している。

では、その老婦人がル=ペンに投票するのか。

これまでなら「ありえない」ことだった。

ただ、トランプ大統領が登場し「あの手の」リーダーが、あんな風な滅茶苦茶なやり方を『アメリカ』でやっている現状を見るにつけ、ためらいが薄れ始めているようなのだ。

EUという鎖が『フランス共和国』を縛り付けている。
共通政策の足枷で、農業を筆頭に各種産業が「コスト(人件費)」の低いEU内の新興諸国に太刀打ちできない腹立たしさ。

農産品は、EU毛生直後はスペインとイタリア、その後ギリシア、そして今やハンガリーはチェコ、スロヴァキア、ルーマニアなど
もともと物価の安い、従って人件費も安い新加盟国に対抗できずに多くの農家が廃業の憂き目を見ている。

何しろ、ハンガリーの人件費はフランスの1/8なのだから。

経済的に国境がない以上、長距離トラックや観光バスなども完全にシェアーを奪われてしまう。

フランスやドイツの税金である供出金で、旧東欧各国に高速道路やその他のインフラを建設する腹立たしさ。。。

ヨーロッパが「なぜ」統一しようとしてきたのかという背景、その理由や目的、それがもたらす筈のもの、という価値観に理解の及ばない「労働者層」は短絡的にEU反対を唱えるル=ペンに共感を持ってしまう。


右派は右派で、経済的背景以前にフランス共和国の存在価値の低下、EU 官僚の独走に見える理想主義運営に反発し、EU政策がこれまでと変わらないマクロンに批判的視線を投げてしまう。

それに加えて、イスラム移民の多さ、彼らの社会のフランス社会に溶け込めない状況による社会の矛盾(溶け込めないのは、イスラム移民たちへの差別が有形無形に存在するからなのだが)がもたらす周辺自治体の荒廃、社会的安定の揺らぎ、治安の悪化、などなどに日々ふれていると、どうしても『EUの移民政策』には承服しがたい。

その感情は、国民戦線の側と同じ線上に立ってしまっているわけだ。

そんな右派保守派の市民たちは、マクロンに二の足を踏んでしまう。

しかし、だからと言ってル=ペンに大統領になられるようなフランスはありえない。


思いは千々に乱れ、複雑に交錯し、最終的は互いの反対派への憎悪が膨れ上がって行く、非常に理性にかけた選挙戦になってしまっている。


二大勢力の戦いであるフランス社会は、政治も二大勢力の戦いであった。

右派の政治が庶民階層に不満を積み上げて行くと、次の選挙で政権交代する。

左派政権が飽きられ始めると、次でまた政権交代。

その度に、高級官僚は総とっかえ。

それで、お互いの勢力の不満を吐き出させ、吸収して、フランス社会は均衡を保ちながら今日までやってきたのだ。



5年前、超不人気であったニコラ・サルコジーには、勝ち目はなかった。

フランソワ・オーランドが楽々と当選し、シラクとサルコジーに次いで三政権ぶりに社会党政権となったものの、オーランドの間抜けぶりに国民は呆れかえってしまった。

サルコジーに次いで、たったの一期で政権を明け渡すはめになる。

ここで、左派政権は『社会党』の枠組みを超えて「左派統一候補」的に全国で予備選挙を行った結果、社会党でもなく、共産党でもない候補者エマニュエル・マクロンの登場となったわけだ。

ただ、現政権の負の影響は大きく、右派の『共和党(共和国党)』の政権奪還は既定事実のはずだった。

しかし、最も大物だったアラン・ジュペ(シアク政権の首相を務め、シラクをコケにして遠ざけられた)が名乗りを上げて混乱が始まる。

サルコジー政権で首相だったフランソワ・フィヨンが、共和党内では極右であるが、結局候補者となり楽勝のはずだった矢先に「妻のスキャンダル」が暴かれる。

20年来妻を政策秘書に登用し、給与が支払われていた。

支配階層(政治家)の人物の政策秘書の給料としては妥当な金額であったのだが。

その妻というのが何とも不愉快な女性で、テレビカメラの前での言い訳の仕方に国民が総反発。

いやはやの事態となり、結局フィヨンは最後の最後で盛り返し絵きたとはいえ、4位に終わってしまった。

そのフィヨンの支持者たちが、にっくき対抗勢力である「左派」マクロンに投票するくらいなら、移民政策で近いル=ペンに、という「95年に鼻をつまみながらシラクに投票した社会党支持者たち」のような、極右ブロックのための理性的投票をやりたくない人たちが結構出てきている。

共産党を割って出た左派の極左メランションも、極右を阻止するためにマクロンに投票を、と呼びかけない卑劣漢ぶりに共産党もカンカン。


そして、ついには文字通りの『狂想曲』てき大統領選挙に成り下がってしまっている


フランス社会を二分してきた勢力である『右派』と『左派』と、両方ともに自分たちが推したい候補者がいない、悲劇的で力の入らない大統領選挙。。。


残りの一週間で、果たしてフランス人の理性は目覚めるのか。

それとも、NHKを筆頭に日本のマスコミが煽り立てて期待する『反EU極右政権』が誕生してしまうのか。


長く暮らしてきたフランスだが、今回はフランス人の良識に「少しばかり」不安を抱かざるを得ない状況になりつつある様な気配が感じられる。


「私は断固として白票を投じる」と断言したおじさんがいた。
この人は、第一回投票ではアモンだった。
奥さんはフィヨンに投票し、第二回目はル=ペンだと、夫を見ながら。。。


白票は、確実に増えるだろう。

白票が増えれば増えるほど、マクロンには不利になる。
ル=ペンに入れる人は確信的だから。


最後には、良識が目覚めるとは信じているのだが。。。


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大統領選挙の第一回目投票の日にあたって

2017-04-23 00:43:16 | フランスとヨーロッパの今日の姿
NHKその他の日本のマスコミが、極右候補の台頭を言い立てて煽っている大統領選挙の当日となった。

ただし、今日の投票では決まらない。

11候補が立候補しているが、今日の第一回目の投票で過半数を取る候補者がいなければ(居ないが)、2週間後の第2回目の決選投票で決まることとなる。

ちなみに、これまで1回目の投票で決まった例はない。

1981年のフランソワ・ミッテラン、65年のシャルル・ド・ゴールが、それぞれ43%台と44%台まで行ったが、決まらなかった。

今回の選挙の特異性は、現政権の候補者が形だけの泡沫候補扱い、と追うことであります。

なにしろ前大頭領のニコラ・サルコジー人気が悪すぎて、楽勝した社会党のフランソワ・オーランドが、見事に期待を裏切って「何もしない・何もやる気が見えない」無能ぶりをさらけ出し、左派の候補者選びの選挙運動で「社会党公認候補」が選べなかった事。

これまでの閣僚が数名名乗りを上げたものの、結局弱小左派の政党を率いるエマニュエル・マクロンにさらわれてしまった。

すったもんだで、社会党自体からも「降りずに」残ったのがブノワ・アモンなのでありますが、第二回投票まで残れる可能性は、限りなくゼロという有様。

一応『主要五候補』をあげると以下の通り。

最終調査の支持率の順に。

エマニュエル・マカロン(24,5%)
マリーヌ・ル=ペン(23%)
フランソワ・フィヨン(19%)
ジャン=リュック・メランション(19%)
ブノワ・アモン(7,5%)

ちなみに、連日のように行われたテレビの候補者討論会では、この5人しか出てこないと視聴者の一部から不満の声が上がっていたことは、NHKやらと同じで笑ってしまったが。

後の「本物の」泡沫候補は、毎回のいずれも1%台の支持率しか得られない、体制には影響のない候補者であります。
(比例代表の通常の議員選挙とは違うので、影響なし)

つい4〜5日前までは、極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ル=ペンがずっと一位の座を守ってきて、日本で『ドイツの行方』などの台頭と合わせて、日本マスコミが面白おかしく騒ぎ立て、英国の脱退に次いでEUの崩壊の可能性を楽しみにしていたようだが、フランス人は極右を大統領にするほどの阿呆ではないのです。

4回もの革命とその間に復活捨反動政治とをくぐり抜けて、ダテに勝ち取った民主主義とはわけが違う。

さて、第一回目で誰も過半数が取れないとどうなるか。

上位2名の候補者による決選投票と、相成る次第であります。

実は、フランスの政界は非常にわかりやすく、極右から極左まで各社会構成と思想に応じて、それぞれの政党が絶賛共存中で今日に至っており、最後は資本主義の住人である保守勢力と、一般大衆労働者階級とが政権を争う形になるのです

前哨戦である第一回目投票は、それぞれの政党の支持者たちが、それぞれの政党の候補者に投票する。

しかし、第二回目の決選投票では、左派と右派とは「小異を捨てて」まとまって、それぞれの側の候補者に投票する。

例えばミッテランの一時期を除いて、共産党は社会党政権には連立しない。
閣外協力もほぼしない。

それでも、共産党支持者たちは、決選投票に残った社会党候補に1票をと投じるのであります。

かって、ミッテランの二期目のあと、当時の首相だったリオネル・ジョスパンが次の大統領とほぼみなされていて、第一回目の投票で「油断しきっていた」社会党支持者たちの多くが投票に行かず、それまで風刺漫画のネタ扱いだったFN(国民戦線)のジャン=マリー・ル=ペンが思いもよらぬ2位を獲得し、一位のジャック・シラクとともに決戦投票に残ってしまった。

ジョスパンの落選がわかると同時にかれは「政界からの引退」を表明。
全国の左派の国民がテレビの前で「悲鳴を上げた」ものだった。

上品で学者然として、テニスが上手く自ら軽飛行機の操縦間でやってしまう、「インテリ」ジョスパンらしい潔さで、左派の国民たちは「極右ル=ペン」を落とすために「鼻をつまみながら」シラクに投票した写真が新聞を飾ったものでした。

つまり、日本のマスコミがどれだけ期待しようが、極右が大統領に当選することは「ほぼ」ありえないくになのです、フランスという国は


実は、国会議員選挙の場合は、2位と3位が僅差の場合、第二回投票に3人が残ることがありえます。
完全小選挙規制で、(国政に)比例代表はないので、その場合は1位と2位が保守で3位が左派の場合、保守票が割れて、結局1名だけの左派陣営の方が勝つ、ということが起こりうる。

いずれにせよ、一回目と二回目の間に、両陣営はそれぞれ落選した他の政党と協議して、選挙協力を取り付けるのが定石となっている。

ちなみに日本では、メランションが『反EU』と宣伝されており、「ル=ぺンとメランションが残ったら究極の選択になる」と煽っておるようですが。

メランション候補は共産党の急進派から独立した小数グループを率いて「極左」のごとくに言われているけれど、極左政党の候補は別にいて、消費税全廃、法人税大幅引き上げ、退職年齢引き下げ、年金大幅増額などと、いかにも急進左翼らしい公約を並べている。

メランションはあくまで現在の仏共産党の内部闘争でおん出た急進派というだけ。

フランスのEU離脱には、条件付きながら反対している。

ヨーロの廃止とフランス独自通貨の採用にも、反対。

ただ、不法移民の過剰な社会の中で、テロ対策などからの移民政策上で、一切の国境手続きを廃止した『シェンゲン条約』からの脱退を支持している(5人の中で唯一)

ちなみに、国家財政の大幅な赤字の解消(これはEUにとどまるための義務)のために、公務員の削減が話題になっている中で、保守『共和党』のフィヨンがバッサリと50万人削減、マクロンも12万人の削減を訴える中、メランションは教職員6万人増員など、公務員国家フランスの中で削減には逆方向を向いている。


細かな公約の比較はここではしないが、一つのポイントだけ上げておきた。


つまり、右派保守党『共和党』の候補が、意外に台風の目である、という点。

かれは、配偶者を20年来「公設秘書」にしていたことで、税金から支払われる給料の「身内の不正取得」を暴かれて、一気に劣勢に立たされてしまった。

月額3500ユーロ強を20年間(最も20年前はそんなに高額ではなかった)を数字だけで見ると巨額の不正取得に見える。

しかし、中間層の収入としてはごく控え目で、身内にポストを与えることも、それほど例外的に酷いこととは言えない中で、公示直後に嵌められたというのが正しい解釈であろうと思われる。

しかし、極右ル=ペンは問題外として、マクロンもメランションも「左翼側」の候補者であり、保守党の候補者が決選投票に残らないという、これまでには考えられない異常事態に見舞われる恐れが大きくなった。

そこで、対外的びは「大ぴらにに」支持すると言い難いフィヨン支持者は結構居る筈だということを見逃してはならない。

公表されたフィヨン候補の支持率は低いものの、保守党の中でもかなり右寄りのフィヨンは、隠れフィヨン派の投票に加えて、第二回投票を前にして「正気に返った」ル=ペンに投票した人たちの支持もみ込めるかもしれず、状況は全く余談を許さない混沌とひているのが、現状なのです。

もし万一「ル=ペン vs フィヨン」なんてことになったら、消費税のさらなる増税を訴え、家族手当や社会保証制度の見直し(=改悪)をい唱えるフィヨン大統領という最悪の事態にも、備えておかなければならなくなってしまうのかも。

さて、どうなることやら。



コメント

英国のEU 離脱の騒ぎが、日本の現実に重なって見えてしまう…。

2016-06-24 20:45:05 | フランスとヨーロッパの今日の姿
「やっちゃったなあ…」



ヨーロッパは階級社会である。

アンシアン・レジームにおいては『王侯・貴族・高位聖職者』と『平民』との対立構造。
人口比でいうと、2%と98%程であったようだ。

この二つの階級に間には、ほぼ乗り越えることは不可能な壁が存在した。

唯一の例外は、庶民の若い娘が年老いた貴族の、妾ではなく「老後の妻」となる例。
又は、口減らしで修道院に入れられた貧民の息子が、才能を発揮し、努力が報われて「高位」の聖職者に上り詰める例。


この階級制度は、19世紀の産業革命で旧支配階級に変わって「産業資本家」という新顔が登場するに及んで、構成が変化した。

産業資本家、つまり金持ちの町人が経済的には力をなくしてしまった「旧支配階級」と婚姻関係を結んで地位固めをして行くこととなり、いわゆる「閨閥」が形作られていったのである。


そして現代において『政財界の頂点を構成する統治階層・高級管理階層・中級管理階層・ハイレベルな文化人』と『下級管理層・一般労働者』という構図になる。

一言で言えば『富裕層』と『平民層』である。

この二者の間にも、越えられない高い壁が存在する。


そしてこれら夫々の階層の人たちは、生活の豊かさだけではなく、価値観・教育レベルが全く異なるのだ。

『富裕層』の子弟は、小学校から既に庶民とは違い、約束された人生を送れる高度な教育を受けられるコースを歩む。
社会に出ると、官民問わず最初から年収5万ユーロ位を得て、中間管理階級の地位から人生をスタートすることになる。
その後、階段を登って行くごとに年収は飛躍的に増えてゆく。
年金も、年収の最も高かった20年分の平均値でほぼ100%支給される。


『平民層』の子供たちは、国家が提供する無償の教育受け、年収1万5千ユーロ(つまり最低賃金をほんの少し上回る程度)で、せいぜいセクションの長まで行ければいい方でおそらく40年ほどの人生を送り、年収の50%程の年金を頼りに老後を過ごす。

教育水準が、初等教育の時点から既に桁外れに違うので、義務教育の後で「平民層」子弟が「富裕層」の子弟が通う学校に経済的に行けたとしても、恐らくついて行けない。

従って「管理階級」は、高度なが教育的訓練を積むおかげで、長期の視点を持って物事を把握できるし、分析力も優れている。
もちろん個人差もありミスもあるだろうけれど。


日本ではエリートと思われている銀行員でも、支店長と次長は「管理階級」者でも、その他の行員は「平民層」なので、作業はトロいし接客にもミスが多い。

フランス語は綴りや発音が複雑で、動詞の活用や性(ジェンダー)の一致など真面目に学んでこなければ身につかない事も多いので、スーパーでレジを打ってる係、郵便配達の人、水道工事人、工場の工員さんたち等は自分の名前を書くのが精一杯というレベルも、大袈裟ではないのです。


この様な社会構造は、英国もフランスも変わらない。

そして、社会が経済的に苦しくなってくると、当然「平民層」が犠牲になる。

失業率が高止まりし、経済成長率が2%前後でしか推移しない現在、庶民が最も敏感になるのは「移民」問題になるのは、仕方のないことなのだ。

そこに、極右の台頭する余地が出てくる。

経済的に困難に直面すると、庶民は過激な思想に流され、扇動されやすくなりる。
そして、状況把握が正確にでくないので、正しい判断ができにくくなる傾向が出てくる。


話が回りくどくなってしまった。


今回のイギリスにおける、国民投票の結果は、まさしくこの構図が当てはまっているようだ。

街頭にインタヴューを見る限り「離脱派」の根拠は「移民が多すぎる」という事の様であった。

『私たちの税金が、移民のために使われている。教育も病院も社会保障も、』
『EUで国境がなくなって、移民が大量に増えてしまった。』
『選挙で選ばれていない(EUの)官僚が方針を決め、加盟国の自治が無視されている。』
『イギリスは強い国だ。EUなんかに居なくても十分やっていける。』

という様な意見がほとんどであった。

そこには、EUが築かれてきた歴史の流れも理念も理解されないままに、ただ刹那的感情論で長期的な視点に欠けた動きが、熱病の様に広がっていった様だ。




それに加えて、日本では理解されていないが「連合王国民」は「ヨーロッパ人」ではない、という背景が存在する。

かって、各種国籍の混じり合った人たちがいる場で、「英国はヨーロッパではない」という話題になった事があった。

問いただしてみると、その場にいたフランス人もイタリア人もベルギー人も「ああ、イギリスはヨーロッパじゃないよ」と答えたのです。

英国人に取って自分たちの言語で「European」(ヨーロッパ人)というのは『大陸』の人たちを指し、自分たちの事は「British」と言うのです。


11世紀なかば、7つの土豪国に分かれていた「イングランド地方」を、仏大貴族が全イングランドを初めて統一して誕生した『イングランド王家』が、その後他のフランスの大貴族の血も入って、百年戦争で大陸側に所有していた領土を最終的に全て失い、ブリテン島の支配だけに専念するようになって以来、大陸に対する特別な感情を形作ってしまった。

ナポレオンが全欧州を席巻した時には、その勢力がブリテン島にまで及ぶ事を極度に恐れ、ナポレオンに敗れた各国の王家を糾合して『対仏大同盟』を形作ってフランスを封じ込めようと努力したことも、英仏海峡トンネルを経由してフランスのTGV(高速鉄道)の英国乗り入れに長らく反対していたことも、全て彼らの独特の感情が見え隠れする証左なのであろう。


EUは各国の一定の独立は保ちながらも、社会の規格や経済の制度の境界線を撤廃して、一つの大きな社会経済単位を作り、米国と日本(当時)、今は米国と中国という二局に対抗する第三極を形成して、国際的存在感を高めて維持しようという、試みである。

主権国家の独自の権利である「通貨」まで統一して、「ドル」と「円」対抗して行こう。
ましてや出入国管理や関税を撤廃し、資格制度を相互に認め合う、まさしく広大な一つの連合国にしようと。

西ローマ帝国崩壊後の、15世紀にも及ぶ敵対関係をなくすという、「戦争放棄」を歌った日本国憲法とも比較できるほどの壮大なる「夢のような」試みだったわけです。


しかるに英国は、ユーロを採用せず自国通貨にこだわり、メートル法に統一することも拒否し、車の左側通行も国境での出入国管理(要するにパスポート検査)もそのまま継続してきた。

いわば、欧州統合による各種利益だけは享受して、協調はしないという「良いとこ取り」で今日までやってきた。


メルケル独首相の一人勝手な独演会で「移民受け入れ」を拡大して以来、英国の世論が一気に移民(難民流入)への不満で固まってしまった。

(メルケルは、中国の不平等ビジネスをEU内部で強引に受け入れさせて、中国の利権を握るという自分勝手もその後に大きな対中国貿易に大きな問題点を残してしまったが)



『EUのおかげで、移民がどんどん入ってくる。』

全く根拠のない主張である。

イギリスは、出入国管理を続けている。
難民が自由に入国できるわけがない。

英語しか話せないシリアやアフリカの難民が、英国入国を目指してフランスの英仏海峡の町カレーで足止めを喰らい、数万人がテント生活を強いられてきている。

島国英国に、ヴィザなしで自由に人が流れこむことが不可能なことは、すでに現実として目に見えている。

移民の増加は、EUのせいではない。


そして、EU圏内との商業取引が60%とも言われている経済にとって、今後関税やら法的な様々の輸出入手続きやら、これまでの特権を全て無くしてどうやって国力を維持できると思っているのやら。


『英国は世界屈指の強国だ。EUがなくとも、英連邦(南ア・オーストラリア・ニュージーランド・インド・カナダその他)があるので十分だ。』

本当にそう思っているところが、おめでたいのではなかろうか。

英連邦(コモンウエルス)だって、経済的つながりは、米・中・EU・そして日本)との関係だって大きいはずだ。

そういった「相対的、長期的分析」も「展望」も持てないのが、今回の国民投票で「離脱」に投票した「一般大衆」階級なのである。
悲しいことに。


これこそが、洋の東西を問わずに極論に走る過激集団のつけこむ隙なのだ。

そこには、過激なことを言いふらせば言いふらすほど、その種の庶民を洗脳しやすくなる、という事実につながっている。


『北朝鮮がミサイルを発射する』
『中国が軍事拡大が止まらない」
『沖縄も攻め込まれるゾ』

『だから自衛隊の装備を拡充せよ』
『米国と組んで中国封じ込めのために共同作戦を』

『そのためには平和憲法を変えなければならない』


『日の丸と君が代の義務化』
『国民統制法』
『愛国心を高めよう』


「参院選で安保法制ガー、とか平和憲法ガー、とか言ってても食うや食わずの若者の胸に響かない」という声が、一部の反安倍政治側と思しき若者の側から聞こえて来る。

欧州とは違う日本で、教育水準が低いからとか価値観が…などとは言わない。

しかし、大局的に物事を見てその奥にある事実を見抜けない、という意味で今回の英国の「離脱派」と同じ思考形態であると危惧する。

そこには、どうしても教養というか、常識の深さが関わってくるのは否定できないのです。



ところで『イギリス』いう国はない。

『グレート・ブリテン連合王国』というのが国名。

「イングランド王国」が「ウエールズ大公国」と「スコットランド王国」と「アイルランド王国」を武力で統合した結果である。

そのうちの「イングランド人」という言葉「イングリッシュ」を幕末に耳で聞いて『エゲレス』と表記するようになって、未だに『イギリス』を国名のように使っている。

しかし、連合されてしまった側は当然不満がたまっている。

いつまでも「連合王国」にとどまっているのはうんざりだ、という思いが当然存在する。

そして、スコットランドもアイルランドも、英国がEUから離脱してバラ色の明日があるとは思えない人々が多いのだ。

だからこそ、スコットランドをアイルランドは「残留」の方が多かった。


離脱ということになると、スコットランド人たちはますますイングランド離れの心理状態になって行くだろう。


一昨年の住民投票で、分離派が一度負けたとはいえ「分離独立」の声はますます高まらない訳がない。

独立を問う住民投票の再度の実施を求める声が、すでに高まっている。

もし、近々住民投票が行われれば、独立派が大勢を占めるやもしれない。

そして『スコットランド王国』が「連合王国」から独立すると、次は北アイルランドの番だろう。


そういった視点は、分離派の人達には持てないのだろう。



目先の不平不満に動かされる。

これは、庶民の本能であろう。
それを否定することはない。

だがしかし。

階級による「教育水準」の差。
その差が生み出す、階級の永久的固定化と、統治制度の安泰化。



現在フランスでは、サッカーのユーロ選手権が開催中。

そして、各国のサポーターが各地で衝突し、街のあちこちで騒動を引き起こしている。

そもそも日本と違って、ヨーロッパではサッカーは下層階級のスポーツなのだ。
上流階級はラグビー。

その現実は、小学生からかわらないのです。

普通の人たちの子供達が通う公立校では、当然のごとくに子供達はサッカーに打ち興じる。
しかし、富裕層が通う私立校ではラグビーなんです。

その差は、サポーターを見れば一目瞭然。

サッカーのサポーターは、刺青だらけでビールをラッパ飲みしながら騒ぎ立てる。
もちろん、これは類型化して言ってるだけで、そうではない平和な家族やカップルも応援しているのは事実。

しかし、ラグビーでサポーター同士が乱闘騒ぎなど、聞いたことがない。

これが現実。



いま、日本も「階級社会路線」をひた走っている。

すでに、富裕層でないと大学に進学することも不可能になりかかっている。

社会人になると、当たり前の雇用形態であるはずの「正規雇用」が全体の6割を切って、経理的に原料や部品と同じ扱いの、使い捨て『非正規』『派遣』雇用が増え続けている。

いまは、まだ曲がりなりにも「かなり均質な」社会構造を持つ日本も、この政治が続けばいずれは欧州型の社会になることは、火を見るよりも明らか。

日々生きてゆくのが精一杯の庶民。
それすら不可能になりかかっている人たち。

かつかつの収入で、精神を豊かにする文化や芸術などに触れるチャンスもなくなって行けば、犯罪ももっと増えるだろうし、日頃のウサは贔屓のサッカーチームに入れ込むことで晴らそうとし、社会や国家の将来のことなど考慮する発想もなくなり、『貴族と平民』の社会が完成してゆく。

一応平等を謳ってはいたものの、これまでだって知る人ぞ知る通り日本の統治構造も「閨閥」で占領されてしまっているのです。

その事実が、否定しようもない衆目の一致する処となれば、国民の連帯感などもこれまでとは違った形態に移行するだろう。



日本では、イギリスをヨーロッパだと誤解してきた。

そして、国際語となった「英語」の国だということで、英国は日本の政治や経済でも欧州各国の中でも、特別な扱いを受けてきた。

多くの企業が「欧州本社」をロンドンに置き、生産や販売の拠点をロンドンにおいて、そこから全欧州へのビジネスを展開しようとしてきた。

そして、その発想の危険性が今回の英国のEU離脱決定によって、あぶり出されて来たことになる。

多くの商品移動に関する法制上の問題、税制上のマイナスが、現実のものとなるかもしれない。


欧州では、昔から「ヨーロッパ」とは『大陸』を意味するのです。


これから、日本の皆さん方にはヨーロッパを、英国からの視点ではなく、大陸の側から見る視点を持って頂くのに、いい機会になったのかもしれない。



大陸側としては、これまで構築してきたEUの試みを一挙に瓦解させることは、大陸側にとってもかなりの負担を強いられることになる以上、英国に対してEU加盟国に準じた扱いをしてあげるのか。

それとも、散々「いいとこ取り」でわがままを貫いてきた英国に、きっぱりとした対処をとるのか。

それは、まだわからない。


しかし英国は、離脱すれば世界の中の一つの小さな国の一つ、として生きてゆかなければならなくなる事も大いにあり得ると、覚悟して投票したのだろうか。


おそらく、想像ができていないと思われる。

特に、散々「離脱」を煽ってきた扇動家の政治リーダーたちの、あの喜ぶ表情をみると、そんな思いが強くなる。


『東京五輪』決定の際の、安倍やら森やら、猪瀬やらの顔とダブって見えてしまった。


人ごとではない。。。









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