晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

腹は借り物? 神の領域に踏み出す事

2008-01-30 22:37:06 | フランスと日本の文化比較
代理母の問題が、法的に騒がしいいようです。

『生命の営み』を、人間が<科学>の実験と同様のレベルで行ってもいい物でしょうか。
子宮は、試験管と同じ物とみなして良いものなのでしょうか。
言い換えると、人間の肉体、生命、という領域は、人間自身が人工的にどこまでタッチできるのか。
難しいですよね。

盲腸の摘出手術と、心臓移植との間に、どれだけの差があるのか。
コンドームを使ってセックスする事と、中絶手術に、どこまで人道的に差がある物なのか。
試験管で受精させられるのなら、受胎した卵子を(誰かの)子宮に挿入して、成長が進むのであれば、切り傷を縫い合わせる事と、どこに差がある物なのか。

こういった事を突き詰めて行くと、理論は破綻してしまいます。
キリスト教の一派のように、『一切の医学的処置を拒否する』、所まで行ってしまうわけですね。

代理母を肯定する方々の言い方の上の共通点は、「子供が欲しくて、子宮を無くした女性であれば、可能な限り、、、」という言い方です。

しかし待てよ。

その言い方が通用するのであれば、「マイホームが欲しいのに、お金がない人には、可能な限り、、、』とか、『あの大学に入りたいのに、学力が足りない人には、可能な限り、、、」とか、「アノ女性にほれてるけど、相手がいう事を聞居てくれないのであれば、何をしてでも、、、」と、どんどんこの理論を発展させて行く事が出来るのではないでしょうか。

ものすごい避難を覚悟でいえば、<子宮を無くした女性>はそれがその人の運命であって、家を立てたいのに資金力に限りが有る人も、その人の運命なのでは。
誰でも、欲しい物はたくさん有ります。
しかし、<求めても手に入らないものが有る>、その状況を受け入れる事が、人間の生きて行く上での、倫理ではないのでしょうか。

早い話が、<神の領域>に、人間はふみこんではならない、と思うのですが、間違っているでしょうか。

そして、欲しい物はいかなる手段を取ってでも手に入れたい、という考え方も(かなりこじつけに近い表現ですが)本来おかしいのでは無いか、と思うのですが。

お医者様が、科学者の立場で<患者=人類>を心身ともに救える限り救いたい、という情熱は、数学者が未解決の定理に解を求めたいと立ち向かう情熱、生理学者が完全なクローンを造り出したい、という情熱と、同じ<科学者>の崇高なパッションである事は、理解出来ます。

しかし、それらの科学者達の情熱が、現代の避けて通れない資本主義と結びつくと、ある野菜の持つ欠点(と言っても本来当たり前の事なのに)をなくす為に、海老の遺伝子をくわえたり、異常な行為にまで行ってしまって、それを生み出した科学者自身その異常性に気が着かず、資本側は堂々と商品として世界中に売りさばく、という現状を迎えてしまったのです。

フランスでは、『代理母』の法的規制は伝聞でしか把握していないので、ここでは書きません。
しかし、フランスの社会では、養子(アドプテッド・チャイルド)がごく普通に市民権を得ています。
白人同士のご夫婦が、あきらかにアジア人やアフリカ人と分かる子供をごく自然に連れています。
その家族の間には、犯しがたい愛情が通っているのが、第三者が見ても分かる。
そんな光景は、日常的に見る事が出来ます。

どうしても子供が欲しくて、養子を貰った後に実子ができた、というようなケースも多々あるようですが、ハタから見てその子達の間に、全く差別待遇が見られないことも、普通です。
日本人の感情からいけば、後から出来た実子を偏愛して、先の養子に辛くあたる事も有りそうな事ですよね。

何らかの原因で生殖機能に欠陥を持ってしまわれた方は、本当にお気の毒ですが、それがその人の定めなのでは無いでしょうか。
相手の家系のだれかから、(本来相手は誰でもいいはず)養子を貰って、愛情を注いでいただきたいと思うのですが、不遜な意見でしょうか。

子供を生んで、平気で捨ててしまったり、殺したり、そんなケースで生まれる子供達がいる世の中でも、社会に養子を得やすいシステムが確率していれば、子供が欲しくても得られない人、子供が出来ても育てられない人、育ててもらえない環境に生まれた子供達、そして、少子化に悩む日本の社会、これら全てが救われると思うのは、期待のし過ぎでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の役人

2008-01-28 00:59:39 | フランスと日本の文化比較
東京都北区で、DV被害者女性の子供らに、住民登録が無いにも関わらず、『緊急避難的措置』で予防注射の接種等に必要な住民票を発行していた、というニュースに驚きました。
法律の定めない事、前例のない事、何かの時責任を誰が取るかということが想定出来る事、を一切やらない(と少なくとも私は固く信じています)日本の役人に、こんな発想を持てる人がいらっしゃった事に、ただただ嬉しく、少しだけ世の中を見直しました。
ちなみに類似のケースが足立区でもあったそうです。

フランスは、窓口業務にあたる公務員に、現場決済の権限をかなり広く認めています。
(そうでないと、実際物事が進まないですよね)
したがって、私の如き外国人に取って悪夢の様な、『滞在許可証/労働許可証』の拾得/更新手続きなども、自分はどの窓口の係にあたるか、で結果がかなりちがってくるのです。
召喚状に明記していない書類を持参していないというあり得ない理由で、受付を拒否されたり、さんざん粘って必死に事情を説明すれば、条件を満たしていなくても書類を受理してくれる事もあったり。

これは、係が拒否すればそれまで、逆に係が好意的に判断してくれれば何とかなったり、全く不条理な事ですが、事情は百人全部違う、というきわめて当たり前の現実の前で、ケース・バイ・ケースの対処が可能だという事になります。
日本とは全く逆ですね。

例え飢え死にしかかっていても、酷暑の老人のアパートにエアコンが有る、というだけで生活補助を打ち切ったり、瓦礫の下で助けを待っている地震の被害者が数多く居るにも関わらず、動物検疫を受けていないという理由で、遭難者救助犬の入国を拒否したり。
担当のお役人にとって、『法』は絶対で、あらゆる柔軟な適用など拒否して何ら不思議と思っていない(と見受けられますね)。
想像力の欠如。
さらにいうなら、人間としての自覚の欠如。
親の顔が見たい、配偶者の顔も見たい、子供の顔も見てみたい、という様なお役人様しか日本にはいらっしゃらないと、固く信じておりました。

そこへ持って来て、今回のニュースです。

担当者は後で懲戒されなかったのだろうか、ト心配しながらも、北区と足立区の市民課へ、遠いフランスからせめて拍手大喝采を送らせていただきたいと思う次第です。
久しぶりに、実に久しぶりに、心が温かくなりました。
でも、あえていえば、そんな事『当たり前』の事なんですけどね。日本以外では。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人の嗜好と幼児性と 企業側の過剰反応と

2008-01-20 02:44:53 | 社会問題
神社のお祭りポスターをJRが拒否した問題といい、末広涼子のコカコーラのCMの問題といい、何で日本ではこんな事が問題になるんでしょう。

概して日本人(特に女性の一部?)の中に、人間の身体に対する過剰反応を示す人々が常に存在することは、国外から見ると、精神的に<大人>になりきれていない民族性を、表している様に見受けられます。
ある特定の世代に、特に良く見かける様な気がします。

『ブラジャーが透けるくらい汗をかいたの、、、』のどこに、何故、不快感を感じなければいけないのだろう。
まさか、汗臭い不潔な感じを受ける、なんて言い出さないでくださいね。

これは、言語としての日本語の表現力に対する、日本人自体の一部(ごく少数?)の人の理解力の欠如、そしてその一般的想像力の欠如がなせる反応だと、思えてならないのですが。
それから、『何か』へのコンプレックスの裏返し、だと思えるのです。

『いい汗タップリかいた爽快感』を、何故感じ取れない人がいるのか、不思議です。

コカコーラ社も、このCMにOKを出した時点で、もっとプライドをお持ちになれなかったのだろうか?
人間絶対100%同じ価値観ではあり得ないですよね。
100%の人が「イイ」と言ってくれる物を目指すのなら、それは既に『個性』、言い換えると『商品価値』の放棄を意味しているのでは、と思いませんか?
100人全員が買ってくれる事はあり得ない。
それなのに。100人が納得するCMにしたいなんて、意味が無いでしょう。
特に今の日本の社会では、必ず文句を言ってくる人が居るのですから。
八方美人を目指さずに、しっかり自己の個性を主張していただきたい物です。
おそらく、あのCMに文句をいう人は、CMが無くても、最初からコカコーラ社の製品は買わない、とおもいますよ。

JRの反応も、根底は同じ事のようです。

本来、『人間の体』という物は、崇高なものはずです。
自然界で、生き物の造形は、神のなしたもうた技。

一般的に、個人個人の嗜好の差は避けられないもので、どんな美しい裸体でも、必ず<不快>に感じる人は居るでしょう。
先のコカコーラの例と同じで、精神的に未成熟な反応を示す日本人の女性(ごく一部です)の中には、必ず居るでしょう。
でも、それだからといって、伝統的神事に関わる人間の肉体の表現を、しかもプロであるデザイナーの生み出した創作である作品で、神社も自治体もOKを出している作品に、<『不快』に感じる人が居るだろう>とかってに先走りして、デザイン的要素の判定も出来ない様な担当者が、かってにNGを出してしまう、その現状に、深い憂慮と、不安を覚えてしまいます。

人間の身体に関する、あまりに俗悪な物の叛乱する現在の日本で、逆に人間の身体的爽快感や本質的美しさ、魂の叫び、等が、それら俗悪な物と混同されてしまう、そして、悪貨ばかりはびこって良貨をどんどん駆逐する社会に、ブレーキは掛らないのでしょうか。

それ以前に、何でもかんでも、直ぐクレームを付けたり(しかも匿名で)、自分の好き嫌いと物事の本質を混同して正義ズラする事は、そろそろ終わりにしませんか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴れのち曇り、時々パリ 今後よろしく

2008-01-18 03:17:57 | Weblog
パリ在住30ン年。祖国日本と、第二の祖国フランスと、その両方のいい面悪い面も知り尽くした上で、日々雑感を書いてみたいと、このブログを立ち上げました。
きっとあれこれ脱線しそうな予感を抱きつつ、これからいよいよスタートです。
どうか贔屓にしてやってください。

ここ数日、パリは天気がはっきりしなくて、風も強く雨がち。
始まって一週間のソルド(バーゲン)も人手例年に比べていまいち。

それにしても、フランスの小売り業は12月のクリスマス時期に一年の年商の50%を売り上げるとは言え、年明けと共にバーゲン開始でごった返すのです。

フランスの市民は、年末どうしても買わなければならないもの以外は、じっと我慢してバーゲン開始を待ちます。
初日に行かないと本当に欲しい物は残っていない(サイズや色)し、欲しい物はバーゲン対象外の事も。
一般的にフランスでは、本当に欲しい物は、売り出された時買っておかないと、一ヶ月くらいで商品構成が次々変わります。
ですから、値段に関係なく、欲しい物は見つけた時買う人種と、バーゲン時に、その時有る物から選んで買う人種と、
2種類。
前者(ブルジョワ)が10%、後者(庶民)が90%という所ですか。
開始一週間経って、バーゲン価格からさらに再値下げも始まり、今日も、小雨の平日にも関わらず、パリのデパートはかなり込み合っていたようです。

筆者もつい。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする