1400年代後半のベルベル人イスラームのマグレブ地方
ムハンマドが昇天した後、正当な預言者(神の代理人)ハイーファ(カリフ)を誰にするかで、シーア派とスンニ派の起源ができた。
シーア派の言う、ムハンマドの従兄弟にしてムハンマドの娘婿であるアリーのみを正当ハリーファとするシーア派によって広大なウーマイア王朝が作られ、その過程で主流派に追われて、ムハンマドの教えに忠実であれば正当ハリーファであるというスンニ派のカリフたちがメッカを落ち延び、エジプトに入ってマムルーク朝の起源を作り、その後もシーア派の追討を逃れて北アフリカ沿岸部を西に逃げながら現地住民たちをイスラム化していき、ついにはジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島全域を占領して『後ウマイア朝』を起こした。
メッカ系のアラブ人イスラムに変わって、マグレブ地方の中央部に900年代初頭に成立したのが『ズィアニデス朝』と言われる権力。
発祥の地で、中心となったのがトレムセンという町である。
した月『トレムセン王国』と呼ばれることもある。
上の地図でオランはトレムセンの右上の海岸にあたり、トレムセンからへブジア(ベジャイア)の2/3ほど行ったあたりに、のちのアル・ジャザイール(アルジェ)が築かれるのはもっと先のこと。
ところで、1世紀以上に及んだフランス統治の終盤マルジェリア独立戦争で現地ではフランス軍による激しい現地住民の弾圧が続いた。
最終的に、1963年7月初め国民投票で独立が確認され、アルジェリア民主人民共和国として独立を宣言したのは同年7月6日であった。
オランから、トレムセンを目指す。
現アルジェリアと現モロッコとの国境に近いあたりを、オランからトレムセンまで南下する。
南西に140㎞ほど。
順調に走れば、2時間ほどの道中である。
途中で、面白いものを散見した。
ボルドーあたりのワインの産地に行かれた方なら、見覚えがあるかもしれない。
典型的ボルドー地区のワイナリー。
左の平屋が新酒の樽を熟成する熟成倉庫(シェ)で、右が母屋(シャトー)兼醸造所であろうと思われる。
アルジェリアの独立達成後、多くのフランス人たちが、着の身着のまま生まれ育った土地から、母国フランスへと引き上げた。
まさしく、敗戦後の朝鮮半島や満州からの引き揚げ者のように、何年も何年も、フランス人引き揚げ者が先祖の地に向かった。
そこから、フランスの影響をいかに排除しながら国家の独立を維持発展させてゆくかが、新生アルジェリアにとって常に付きまとう問題であった。
同じマグレブでも、モロッコは王朝が確立していたので、フランスはその王朝をそのまま維持し、保護国として背後から経営に当たった。
そこで、日干しレンガの城壁に囲まれた旧市街『メディナ』がそのまま残り、エキゾチックなアラビア社会の構造が保たれてきた。
しかし、多くの部族の支配が入り混じって、中央集権的国家体制がなかったアルジェリアのあたりは、フランスはサクッと『植民地』にしてしまった。
地名もフランス風に改め、主だった街はフランス風に作り直していった。
したがって、アルジェを始めかなりの町々が「マルセイユの裏通り」然としてたたずまいである。
フランス文化は、独立後もいたるところ、あらゆる分野に避けられないものとして残っていた。
言葉も、行政制度も、教育制度も、何もかもフランス式であった。
些細な一例を挙げると、地中海沿岸の西端は水に恵まれていたので野菜や果物の生産が容易で、ワイン造りも積極的に取り入れられ一大産業となっていた。
独立後、アルジェリアの安価でそこそこ美味いアルジェリアのワインは、フランスから禁輸対象品にされてしまう。
フランス政府は当然自国のワイン産業を保護するためにも、安価なアルジェリア産のワインを国内から締め出してしまったのだ。
アルジェリアの、オランとトレムセン間の産地のワイン生産者たちが本国に引き上げた後、現地のアルジェリア人が引き継いで経営していたのだが、最大の商売相手であったフランスを失った。
アルジェリアのフランス人たちの多くが家族の誰かはフランスに行っており、逆にアルジェリア人も宗主国フランスに出稼ぎに行っていた。
そんな彼らこそが、アルジェリアのワインの購入者たちだったのです。
地域全体のワイン生産者のフランス人の帰国と、土地と施設を取得したアルジェリア人への技術移転、アルジェリア人による事業の引き継ぎには、なんやかんやで20年ほどはかかったに違いない。
しかし、新生アルジェリア民主人民共和国は、国教ではないにせよ国民のほとんどがイスラム教徒。
つまり、ワインを飲まない。
輸出先を失い、他の販路もないアルジェリアのワイン業界は、衰退の一途であったことは想像に難くない。
そのままイスラム政党の国政独占と、それに反発した軍部のクーデターによる軍事政権の誕生とが、ワイン造りに壊滅的打撃を与えたと思われる。
はるかに広がる穀物畑
1990年代の経済封鎖。
そして現ブーテフルか大統領の登場で民主化と対外開放を遂げた後、アルジェリアのワインの畑は、政策で次々と穀物畑と野菜畑に変えられていった。
ひっこぬかれて積み上げられたブドウの木
この辺りの国道の両側には、畑の畔に引き抜かれたブドウの木が、積み上げられているところが各所に見られる。
コルサ(菜種)の畑の畝に未だにブドウの木が残っている。
穀物か野菜畑に作り変えている途中。
ブドウの株が未だに引き抜かれずに残っている。
別のワイナリー
このワイナリーは相当大規模なものであったのだろう、
シャトーも立派だ。
ブドウ畑であったところは、牧草だろうか麦だろうか、2月の冬空のもと青々と新鮮に芽吹いていた。
おそらく建物の裏側は、もっとずっと広いブドウ畑であったに違いない。
国道からシャトーへの私道のオリーブの並木が素晴らしかった。
それにしても、農地の境界線を示すオリーブの樹の列が、どこも素晴らしい。
牧羊犬が一頭
さらに走ると、徐々にブドウ畑の痕跡はなくなって行き、牧畜の光景が見え始める。
アルジェリアの羊は、美味しいですよ。
モロッコのケバブと違って、飽きがこない。
中間店の町エル・マラーでコーフィー・ブレーク。
かってはオランとトレムセンとの往来の途中で食事をしたりと、賑わった街だったが、国道が整備されて街を迂回するようになって、静かな街になってしまった。
まるでキリスt協会のようなモスクをのミナレットが、中央広場を見張らしている。
明らかに、フランス統治時代の教会をモスクに転用したことが、想像に難くない。
肉屋の前に、店主の友達だろうかおっちゃんが二人座り込んでおしゃべりに花を咲かせている。
ちなみに、イスラム社会は店主も買いに来る客も、ほとんどが男性であります。
牡羊(角が大きく後ろへ湾曲している)のあんよ。
店先で「看板」兼「本日のおすすめ」を主張していた。
牡羊の頭
羊に限らず、頭はご馳走なんです。
鯛のお頭だって、そうでしょ?
この街は、通りに沿って裕福なフランス人たちが残した瀟洒な家並みが、しっかり維持されている。
見事な装飾の石塀の中には、フランス中央部地方の様式のお屋敷が。
一体どんなアルジェリア人が住んでいるのだろうと、想像が膨らんでゆく。
こちらの屋敷は、どちらかというとスペイン風。
立派なのには変わりはない。
グリウェック
50/50と呼ぶ、ミルクとコーヒーを半々にガラスのコップに入れて飲むカフェオレのお供は、私が一押しの「古典的」お菓子のグリウェック。
カリカリに揚げたプレッチェルみたいな生地に、ローズ・シロップとハチミツを「これでもか」と染み込ませた自信の一品!
こめかみに沁みる甘さですが、病みつきになります。
さて、途中で時間を食いすぎてしまった。
トレムセン目指して先を急ぐことにしよう。
畑の境界線のオリーブの列柱
ん?
彼方の空が俄かにかき曇って。。。
と思ったら。
ツグミの大群
いやはや、雲霞のごとくに何万羽のツグミが、群れを緩めたり固まったり。
アフリカ大陸の中央部から飛んでくる渡りだそうです。
ということで、夕刻トレムセンに着きました。
背後の丘に登って行って、陽の入りでも拝むことにしよう。
RQRQララ・セッティの丘の展望台
ララ・セッティの丘の上には、リビアのカダフィーの弟だかが所有する超高級ホテルや、公園、展望台がある。
展望台から下を見る
トレムセンの町に先立って築かれた『エル・マンスール』のミナレット(右)が見える。
明日、訪れることにしよう。
夕日が沈んでいく。
では続きをお楽しみに。
グリウェック作り
この写真は、別の機会に別の町で撮影。
あの羊の頭、足、やっぱりダメです。
いつも思うのですが、冷蔵庫にもいれない、腐らないのでしょうか。
それとも、直ぐに売れる?一体お肉がどういう状態なのかと、心配に
なります。
あのお菓子、きっと、バクラヴァの様に甘いのでしょうか。
食べて見たいとは思いますが、作っている人たちの作業服?の汚さに
やめます。😆
モンクばかりで、済みません🙇♀️