晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

アルジェリア西部都市と、西サハラ大砂丘帯を行く <3> トレムセンを歩く Ⅰ

2018-04-07 14:49:52 | 旅行とレジャー

 

大モスク広場に憩うおじいちゃん達

 

 

この辺りには、石器時代から人が住み着いていた。

 

古代ローマの時代は『ポマリア』という名で栄えた街で会ったそうだ。

しかし、今日の街の基礎は8世紀、アラブ人の襲来とともにある。

相前後して地元のベルベル人が蜂起し、ゼニアデス朝が興きる。

彼らは、長大な城壁に囲まれた大要塞都市を築き、マンスラーと名付けられた。

今モロッコのフェズに砦を築いてフェズ王朝を起したメリニデス朝イドリス1世の短期間の支配の後、1079年マラケシュに居を定めたアルマニデス朝ユセフ・イブン・タシュフィーヌの手で、モスクを含む城壁に囲まれた街が築かれ、位置が経ち賑うようになって、トレムセンと名付けられた。

そのユセフ・イブン・タシュフィーヌ王の壮麗な半恒久的王宮テントの後に、宮殿都市が形作られ『マンシュアール』と名付けられて、トレムセンの旧市街を形成する。

 

さて、その中央広場「Grand' Mosqué 広場」の片隅に、小さな古いモスクが残っている。

地元の人は、単純に「古いモスク」と呼んでいる。

これが、とても愛らしく味わい深い。



 「古いモスク(Ancienne Mosquée)」

 

 

小綺麗に修復されて、今では「イスラム考古博物館」になっている。

実際には、名前負けのものですが。。

今は、すでにモスクの資格は持ちませんが、昔の名前は『Mosqué Sidi Belhassen(シディ・ベルハッセン)』

 

 

中は、左右で雰囲気が異なり、片側はモスクというよりは屋敷の室内といった趣。

 

 

 

 

中央部の天井が、半分吹き抜けのような感じで少し高く持ち上げられた構造になっている。

 

 

 

 

この形式は、おそらく館の中庭「パティオ」の流用でもあろうか。

ならば、その下は小さな噴水を持つ四角で極めて浅い池(プール)になっているはずだ。

 

 

 

 

案の定、床は周りよりやや低くタイル張りで、中央に水を出す噴水の跡の窪みが残っている。

 

これはモスクとしては極めて異例で、このモスクがある大身の貴公子の個人的礼拝室だったことを、物語っている。

 

その周囲には、雑多な展示物が置かれていた。

コーランに由来する物と、日用品の土器など。

 

 

 石版に彫られたコーランと、皮に手書きのコーラン

 

 

建物の残り3分の二程が、礼拝堂らしい作り。

 

 

 

 

 

壁の上部には、起源の雰囲気を忍ばせる繊細なレリーフが再現されている。

 

天井は、木組み。

 

 

 

 

中央部の複雑な構造が醸し出す、六角形がイスラム美術の細工の技術の高さをうかがわせる。

 

展示物の中でも見るべきものは、数が多いわけではないが、主に古い『コーラン』に関するもの。

 

 

コーランを書き記した筆記具

 

 

 

手書きのコーラン

 

 

羊皮紙とい言うほど繊細には鞣されていない羊の皮に手書きされたコーランの一章。

先出のものとは、書体が異なっている。

 

 

 

コーラン

 

 

祈りを捧げる時に向き合う『ミヒラブ』

必ずメッカの方向を示す。

 

 

ミヒラブ

 

このミヒラブと呼ばれる壁のくぼみに正対して、イマム(宗教指導者)が座って、礼拝を執り行うのです。

会従(信者)たちはそのイマムの後ろに、同じようにミヒラブに向かって座る。

 

 

        ミヒラブ上部

 

 

ミヒラブの上部は、とても繊細な透し彫りの石灰岩のプレートの細工が貼られている。

 

この辺りの装飾方法は、アンダルシア王国の装飾形式と共通のものを感じさせる。

 

 

ヒミラブの龕の天井部

 

 

アルハンブラ宮殿の装飾に、似てると思われないだろうか。

 

それもそのはず、実はこの小さなモスクがが建てられた頃、歴史の悲劇的エピソードが、隠されているのです。

 

 

1266年ごろ、セヴィリア(当時アンダルシア王国)の貴族であった「アブウ・アブデラアー・エショウディ』なる人物が、家財一切を捨ててトレムセンにたどり着き、コジキのような生活に身をやつして神の教えを説いていた。

 

時のその地の支配者の王族『イブン・イナン』という貴公子が、アブウの静謐と清廉なる生活ぶりと近隣に響いていた人徳に感銘し、子供達の家庭教師に取り立てたのです。

 

ところがイブン・イナンの侍従が、(おそらく主人の寵愛を特別に受ける彼への嫉妬からか)アブウを「怪しげな教えを説く背教者」として断首の刑に処してしまうのです。

1305年のことだそうです。

 

その後イブン・イナンは、彼のイスラムの教えへの敬虔な忠誠心と深い教養とを讃えるために、アブウを偲ぶ『モーゾレ(墓所)』を建立することにした。

結局、イブンの後を受けた時のスルタン、メリニデス家の『アブウ・イナン・ファレス』の手により、街の中心よりやや北東に外れたあたり、現在の『Place des Martyres(殉教者広場)』の一角に1354年から建立が開始され、モスクの様式でモーゾレがが建てられた。

 

そして、それはアンダルシア様式なわけです。

繊細な細い円柱に支えられたアーチを持つ美しいパティオがあります。

そのモスクは『Mosquée Sidi El=Halaoui(モスク・シディ・エル=ハラウイ)』と名付けられています。

シディは、後世まで慕われた徳の高い宗教家のことを指す敬称です。

アブウ・アブデラアー・エショウディは、敬虔なイスラム信仰を持っていたがゆえに殺された、つまり殉教したからですね。

 

 

その『殉教聖人』を建てさせたアブウ・イナン・ファレスの皇子の一人が、別の聖人『シディ・ベラッセン』をたたえて建てた個人の礼拝用モスクが、これ。

だから、アンダルシア様式で、貴公子の邸宅風なのです。

 

 

外に出ると、抜けるような青空にグランド天モスクが控えています。

 

 

 

この Grande Mosqué 大モスクのご紹介はやや後に譲って、次回は町の発祥の地をご紹介しようと思います。

 

 

 

 

コメント (12)
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