晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

【日曜フォトの旅】<乗馬のメッカ>フランスで、パリ近郊の乗馬クラブを訪れる。

2013-11-24 21:59:20 | 歴史と文化
復活【フォトの旅】で、パリの近郊の乗馬クラブをご紹介しよう。


「乗馬」と言うと、敷居が高く感じるかもしれない。

しかし、ヨーロッパで日常に存在する伝統の一つであります。

日本の様に各学校にプールが有る訳ではなく、放課後の「クラブ活動」と言う物もほとんど無いフランスでは、各家庭で子供達にスポーツクラブに通わせる。

各区にある公営プールでは、子供のお小遣い程度で資格を持った水泳指導員に、水泳を教わる事が出来る。

テニスコートも多数あり、レッスン制度も確立している。


そのような社会制度の一貫として、乗馬クラブも市民の生活の中に根付いている。


世界では、乗馬の様式が大別して二種類有ります。

欧州式とアメリカ式。

欧州式乗馬は、手綱を両手で持ちます。

アメリカ式は片手。
もう片手はライフルを持つから、だとか。


そのヨーロッパ式乗馬術に、また二種類の流れが有ります。

ウイーンの宮廷で栄えた『スペイン式乗馬術』と、ヴェルサイユの宮廷で行われていた『フランス式乗馬術』です。


『ドレッサージュ』(フィギユア・スケートの昔の規定演技の様な物)という馬場馬術と、『ソー・ドブスタークル』(障害飛越)です。


ちなみに、日本では「ウエスタン馬術(米式)」と「ブリティッシュ馬術」と言っている様ですが、それはあくまで『アングロ・サクソン人』だけの呼び方で、ヨーロッパ(大陸側)ではあくまで、スペイン式とフランス式です。




パリ市内は、総てが中層の建築で被われて居いてスペースが無いが、西に隣接する「ブーローニュの森」に乗馬クラブが有る。

後は、エッフェル塔下の「陸軍大学(旧陸軍士官学校)」には、フランスでも最もレベルの高い乗馬学校があり、ウエイティング・リストが長大ながら、一般の子弟も週に一度のレッスンを受けられる。



パリ周辺に何か所かある乗馬クラブの中で、最も充実しているクラブをご紹介所用。

オー・ド・セーヌ県立『アラ・ド・ジャルディ乗馬クラブ』である。

パリの南西の角から、高速A13号線で最初の出口<ヴェルサイユ>を出ると直ぐ。

パリの出口からだと、僅か10分で到着。



     
     エントランスのロータリー



隣接する9ホールのゴルフ場と打ちっぱなしも含めて、オー・ド・セーヌ県が所有する広大な敷地に、屋内馬場や屋外馬場、場房やその他の施設が点在している。


     
     馬房の一つ


幼稚園児から大人まで、誰でも登録して受講生になれる。

週に一コマ1時間の授業に登録する。
初心者から上級者まで、身長に合わせて三種類の馬種での講習となる。


最も小さい種類は『シェトランド』
体高1m前後。

中間は『ダブル・ポニー』
体高148センチまで。

最後が『ホース』で首の付け根までの高さが148センチ以上、と決まっている。


     
     シェトランドに乗る生徒


入門科は「シェトランドのイニシエーション」。
導入科とでもいいましょうか。

フランス乗馬連盟と言う半官半民の組織が、技術段階を認定する制度が有り、1段階目から最高9段階まであり、下のクラスから始めて、一年の終わりに試験を受けて、合格して始めて公式な「DIPLOME(認定証)」を授与され、次の年に一段階上のクラスに登録出来る。

このDIPLOMEは、国家資格である。

ちなみに段階は『GALOP(ギャロ)』と呼ばれ、<ギャロ 1>から<ギャロ 9>までのがあり、このクラブには7段階までのクラスが有る

言い添えておくと、<GALOP 5>か<6>で、インストラクターになれ、オリンピック代表選手も、大体6か7の所有者である。

ちなみに、ここ『アラ・ド・ジャルディー』のディレクター(場長)は<GALOP 9>を所有しているとか。

試験は、勿論実技も大切だが、それと同じ程理論のペーパーテストも大切で、馬の解剖学的知識や生理学、ドレッサージュ(馬場馬術)に置ける走行トレースやその時の姿勢など、非常に専門的な知識を求められる。

普通、週一の受講で認定証を取る事は無理かもしれない。



     
     シェトランドとダブル・ポニーのセクションのクラブハウス



     
     シェトランド種の馬房の一枠



外の開口部には、広い空間を求めて首を出している事が多く、とても可愛らしい。


     
     首を突き出しているシェトランドの一頭



授業開始30分前に、生徒1人1人にその日の馬があてがわれる。


     
     インストラクターから今日の馬の名前を知らされている女子児童


通常一クラス12名程。

馬の割当が決まると、その馬が居る馬房へ言って、ブラッシングや装備の装着などの、準備を行う。



     
     鞍や手綱の置き場


夫々の馬には、専用の手綱や鞍が決まっており、それらを馬房まで運んで装備する。

シェトランドには、鞍は有りますが「鐙(あぶみ)」が有りません。
足をぶらぶらさせた状態で騎乗します。


「仕事」するのをいやがって、ハミと轡を付けさせない馬が多く、親もお手上げでインストラクターを呼びに行く光景もまま見られる。

馬は、人を見て、従ったり言う事を聞かなかったり。
舐められない様に、かつ信頼してもらえる様に接しないと、装備も付けられず、講習中も思う様に走ってくれないのです。



     
     準備中



     
     マネージュと呼ばれる屋内馬場



ちなみに、メリーゴーラウンドの事も、フランス語では「マネージュ」と言います。


30分間で準備を行い、合図と共にいよいよその日の馬場に行きます。

先ず、ぐるぐる並足で回って、ウオーミング・アップ。


     
     マネージュ内での授業風景



     
     広い屋内馬場での授業風景



     
     授業風景




生徒の身長が、150センチ程になると『ダブル・ポニー』での授業になる。

従って、全くの素人でも高校生くらいなら、シェトランドではなくダブル・ポニーでの「イニシアシオン・クラス」から始める訳です。

資格を取得して上級へ進んでも、まだ小さければシェトランドで「GALOP 4」を続けている事もあり得ます。

     

     
     ダブル・ポニーの一頭


ちなみに日本では「ポニー」を「子馬」と訳すが、本来ポニーは大型馬とは別種の中型馬の総称であります。

馬の子供は「プーラン(英語ではCOLT)」と言います。



     
     装備室



ポニーになって、鐙も腹帯も付いた本格的装備になるのです。



     
     馬房


シェトランドとダブル・ポニーの馬房は、中央に通路が有り、左右に夫々の房が並んで、2頭ずつ入れられている。



     
     前支度中


各馬の房の中で支度をして、授業開始を待ちます。



     
     支度中


丁寧にブラッシングをして、ひずめの泥を取り去り、ゲートル(足首のプロテクション)を装着して、いよいよ授業へ。



     
     準備が終わって馬場へ向かう一クラス



好天の時は野外の馬場、悪天候の時は屋内での授業ですが、いろんなクラスが有るのでその日の状況により、変わる事が有ります。

講習内容によっても、場所が変わります。



     
     野外の馬場での授業




そして、いよいよ「CHEVAL(シュヴァル)(HORSE)」のクラス。



     
     早く出たい…


馬は、各房に一頭ずつ。


     
     外の空気が美味しい…



馬房に中央通路が無いので、前面で前支度。



     
     支度中



授業は、基本的にはシェトランドもダブル・ポニー、シュヴァルも変わらない。

一クラス12~13人。



     
     授業風景



     
     授業風景




ところで、この乗馬クラブは近隣の人達の「憩いの場」にもなっている。

小さな子供連れが、散歩に集まって来るのです。
広いし、緑は豊かだし。
子供達は、走り回ったり、自転車漕いだり。

クラブの駐車場は皆に解放されています。



     
     子供連れ



     
     馬とにらめっこのお嬢ちゃん達



小さい子供達にとって「おうまさん」は憧れの様です

散歩していると、色々な光景に出っくわします。




     
     飼い葉用の干し草



     
     生まれたての子供



     
     休憩時間中



     
     いいぬもよろこび ばばかけめぐる~♪



     
     ちょっと手直し


このクラブでは「馬場馬術(ドレッサージュ)」と「障害(ジャンプ)」の他にも興味深いクラスが有って、『ホース・ボール』という競技のクラスが有ります。



     
     ホース・ボールのゴール


これは、ホッケーとバスケットボールとを合わせた様な競技です。

1m程の柄の付いた、網で出来たおしゃもじ様のスティックで、ハンドボールくらいの大きさのボールを奪い合って、ゴールに入れる競技です。

馬と馬とが激突したり、こすり合いながら走ったり、結構ハードな競技です。


それから、各種大会に出場する事を目的の「コンペティシオン」クラスも有ります。



     
     授業中のタイム・トライアル



     
     計測中は必死




付き添いの親達が休息したり、受講生が昼食を摂ったりできるクラブ・ハウスも有ります。



     
     クラブハウス全景



     
     食事中の受講生親子



     
     カウンター



ちなみに、シェトランドのセクションのクラブハウスには、飲み物の自販機しか有りません。


その他、ウエアーや装備品を売るクラブ・ショップも。



     
     ショップ




このクラブは、パリ周辺でも設備が整っているので、国際大会も開催されます。

前回は、9月に行われた『欧州選手権大会』でした。



     
     クラブのエントランス・ロータリーに出された告知の横断幕



     
     準備中の備品



     
     準備中の馬場を望む



     
     準備の整った馬場


普段は無い、屋台のテント等も並び、お祭り気分は上々。



     
     馬場へのアクセス



周辺は、鉄のモダンアートの作品が飾られて、更に雰囲気を盛り上げていました。



     



     



     



     



     
     競技中に参加する選手のウォーム・アップ



     
     ドイツの選手が愛馬と共に到着



受講生に登録するのは簡単です。

ただ、最初の新規登録は、新年度の9月になる半年ほど前から行わないと、席が無くなります。



     
     教務科受付のある管理棟



     
     行われて居る各種クラスの一覧表と年中行事



料金は、県の住民と他県の住民で10%程差があります。

通年講座でシェトランドの初級(イニシアシオン)の週1時間コースで500ユーロ前後。

シュヴァル(馬)で1000ユーロ前後、と言った所です。

競技選手用の1時間半コースもあり、土曜日曜は9時から20時くらいまで。
その他の曜日は17時半から20時半までに、各クラスが配置されています。

その他、不定期に単独で乗る「1時間講習」の個人授業も有り。



     
     料金表




最後に、『DIPLÔME』の実物をお目にかけましょう。

<GALOP 5>の国家認定証です。



     
     GALOP 5 の ディプロム



さあ、貴方も馬に乗ってみませんか。


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タッシリ・ナジェール最終回/かってはライオンも食料だった。高原台地の下にも岩絵…。【日曜フォトの旅】

2013-02-17 22:31:34 | 歴史と文化
サハラの生き証人『タッシリ・ナッジェール』を、三週に渡ってご紹介して来た。


月の世界の様な荒涼かつ時の止まった台地を再び下って、麓一帯をご紹介して今週で最後としようと思う。


下界は砂漠が連なる。


     
     後方に続く「タッシリ」台地の断崖


国立公園で自然博物館である「タッシリ」の麓の南端から東側に入り込む様に、タッシリの台地の東側にワジ(涸れ沢)の砂漠地帯がリビア南端の国境から、続いて下って来る。

『タドラールト渓谷』と呼ばれる。

渓谷と言っても、そこはサハラ。

谷川も早瀬もない。

リビア側の「アカクス台地」とアルジェリア側の「タッシリ・ナッジェール台地」の狭隘部の砂地である。

数年に一度の「大雨」が降ると、あっという間に水流が押し寄せて辺り一帯の地形を変え、やがて又太陽にじりじり焼かれてワジとなる。



     
     タドラールト渓谷の出口で、砂の中に孤立しているシンボルの山



そこを北側へと四駆で入って行くと、奇岩の岩窟有り、大砂丘あり、そして岩絵もある。

この「タドラールト渓谷」の岩絵は、近年になって発見され始めている。



     
     渓谷の南端辺りを入った所から南向き(ニジェール方向)の光景


最初の頃は、だだっ広く白っちゃけた礫漠の用な光景が続くのだが、その内眼を奪われる様な光景に変わって行く。


砂漠の砂が、とにかく美しい。



     
     奇岩と砂漠


     
     『亀岩』(または「ハリネズミ岩」)



この場所に、画期的な岩面画が見つかっている。

『ライオン狩り』

つまり、いにしえの先住民達が、狩りの獲物としてアンテロープ(羚羊)やその他の草食動物だけを追い回していた訳ではなく、なんと「ライオン」までが狩りの対象であった事が、確認される岩絵だったのだ。

サイトは、回廊状の「砂の渓谷」の縁取りの部分の岩だなにある。


     
     「ライオン狩り」の岩絵の有る岩だな



四駆を降りて、二十メートルほど登った壁龕に、それは有った。


     
     集団でライオンを狩って居る光景


全体の右端に、抵抗するライオン。

その前面には、倒されて死んでいる狩人が数人。

左上の方には、這々の体で逃げている集団の後ろ姿。

果敢に闘う狩人の投げる槍が、ライオンの周りに飛んでくる。


     
     「ライオン狩り」部分



つまり、ご先祖達は、百十の王ライオンまで狩りの対象にしていた訳だ。

果たして、美味しいのだろうか…。



走りながら、時折止まるとその他にも岩絵がある。

やはり一番多いのは「牛」である。

家畜として飼育すれば、凶暴なライオンと命を賭して闘う危険を侵さずとも、タップリ食事にありつけると言う物だ。


     
     サハラの岩絵の牛は殆ど「長角牛」である。


この「長角牛」は、現在でもアフリカ全土で広く飼われている。


     
     長角牛の実物(カメルーンにて)


ここ「タッシリ」の彩色画に描かれたこの長角牛は、側面から描かれているが、角は正面から見た様に広がっている事が普通である。

ピカソの絵の様に。

ところが、このタドラールト辺りに見つかる牛の岩絵は、角も「プロフィール」に近い。

やはり、時代が少し遅いのか、棲んでいた人種が違ったのだろう。


あとは、やはり様々な動物達が描かれているが、タッシリの「上」と違って、彩色画だけではなく線刻画も半々に混じっている。

これも、時代が下って来ているからだろう。



     
     初期ティファナグ文字


一般的に言って、彩色画の方が遥かにデッサンも優れ、表現力は秀でている。

線刻画は、かなり乱雑な物が多い様だ。



そして、とにかく「岩窟」が素晴らしい。


     
     岩窟


     
     内部


岩の壁の割れ目から水が侵入し、水流は徐々に割れ目を拡大し、広がり、水の流れを多く激しくなって行くと、更に壁面が抉れ削られて、回廊の様になって行く。


その回廊が更に広がり、壁面が浸食されて崩れ、岩のタケノコの様な光景に変わって行ったのだ。


そして、その崩れた岩が砕け、更に細かく風化し、遂には砂になる。

悠久の時の作業である。



     
     濃い黄土色の砂漠


     
     殆ど赤に近い砂漠


タッシリの拠点「ジャネット」の町から二泊目、一番リビアに近づいた辺りに大砂丘が有る。

『ティン・メルズーガ』大砂丘である。


     
     ティン・メルズーガ大砂丘


     
     徐々に近づいて行く



     
     標高差は三百メートルは雄に有る大砂丘



この麓で野営する。

明朝は、砂丘に登る余裕が有れば是非「ご来光」を拝みたい。


朝日は写真の手持ちが無いが(起きられなかった…)、途中での幻想的な光の写真を一葉。


     
     光と岩山との幻想的な姿



あとは、この驚異の世界の主人公達を、写真で紹介して行こう。




《岩絵に描かれた住人達》


     
     キリン(線刻画)



     
     キリン(彩色画)



     
     アリクイ



     
     犀



     
     ゾウ


     
     ウマ


     
     サーモン



     
     ナマズ



     
     ライオンの足跡



     
     ラクダの足跡



     
     フルベ人



     
     キリンと狩人




《現代の住人達》


     
     移動中のトアレグ人のノマッド(遊牧民)



     
     臨時に定住中のノマッドの小屋



     
     旅人



     
     先住民の残した調理器具



     
     定住したトウアレグの盛装した男



     
     主人は近くに見えないが、ノマッドの追うラクダの群れ



     
     おそらく逃げ出して野生化したラクダ



     
     放牧されている子ラクダは、逃げ出さない様に脚を縛られている



近年イナゴが大量発生し、中央アフリカから北へと草木を喰い尽くしながら北上して来た。

お陰で、アフリカ大陸の北半分の緑地の減少が、急激に勧められてしまった。


     
     砂漠の中の貴重な植物の枝の中にもイナゴが



岩棚のひさしから、トカゲが覗いていた。


     
     トカゲ


砂漠には欠かせないのが、フン転がし。


     
     フン転がし



     
     鳥の足跡


良く蛇の這った後も見られる。


雄大な砂の海の中にも、生命が生息している。

実に逞しく。



     
     一見命を拒んでいる様に見える砂漠だが…。


こんな過酷に見える環境でも、生命は育まれ、太陽がそれを育てる。


中には、現代の都会人を怖がらせる様な奴も。


     
     現地のトウアレグの人によれば<無害>だそうです…




陽は昇る。

都会にも、田舎にも、人の住む所にも人の住まない所にも。


そして、陽は沈む。

一日が終わる。


     
     夕日が遠くの岩棚に最後の明かりを当てている



砂漠のまっただ中で「トウアレグ」の人々が作ってくれる夕食は、一日の最高の楽しみである。



     
     手作りのクスクス



後は、朝までぐっすり眠るだけ。


     
     筆者のテント



これで、『タッシリ・ナッジェール』の旅は終わりにします。

又どこかを旅する日まで、おやすみなさい。



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1万年のサハラの変遷に立ち会った『セファールの白い神』/タッシリ・ナジェールの至宝【日曜フォトの旅】

2013-02-10 14:29:38 | 歴史と文化
アルジェリア最南東部、東はリビア、南はニジェールに接する部分が『タッシリ・ナッジェール』と呼ばれる。


     
     南側の上辺にカーブする中程に小さく飛び出した窪みが登山口




固くて脆い岩の岩盤が、数万年の時の流れで浸食され、割れてくだけて崩れ落ちて、更にくだけて風化して、砂漠になって行った。

その、硬度の高かったと思われる部分が未だに崩れずに、高原台地として残った部分を中心に、その周辺の低地砂漠地帯も含めて「タッシリ・ナッジェール」と呼ぶ。

『タッシリ』は、古いトウアレグ語で「台地」を指す。

『アジェール』は「水の溢れた所」を指す。


隣接するリビアの南部砂漠地帯「アカクス地方」から、ここ「タッシリ」を経て、ニジェールから更に西行してニジェール河添いのマリ北部砂漠地帯や、チャド湖北岸に至る土地に、古代の岩絵が点在している。

これらの土地は、古代の「フルベ人」今の『トウアレグ人』の分散地域と一致する。

ちなみに、トウアレグ人はモロッコでは「ベルベル人」と呼ばれる人達とかぶっている。

遊牧民と訳される山羊とラクダを飼う非定住民であった。



それらの岩面画の有る土地の中でも、質と量共に他を凌駕するのが、『タッシリ・ナッジェール』の高原台地上である。

南北に800キロメートルにも及ぶ宏大な、人っ子一人棲んでいない荒涼たる岩と砂との死の世界にも、崩壊途中の岩だながソコカシコに存在し、そのえぐれた壁龕部分に数多くの古代岩面絵が残されている。



     
     人の棲んだ形跡の残る壁龕(おそらく墓もある)



この「タッシリ」の古代岩面絵の中で、世界中に名高い「存在」が、セファールと呼ばれるサイトに残されている『セファールの神(和名: 白い巨人)』である。



     
     セファールの神「白い巨人」



このサハラの地での岩面画の発見は、19世紀半ばに遡る。

先ず、線刻画が発見され、20世紀になってからフランス人探検隊の踏査によって、リビアからチャド、マリまでの間で、徐々に彩色画も発見され始める。

一部の地元トウレグ人だけがその存在を知っていた「岩面画」を、一躍世界中の注目を浴びる事にした大規模な発見を、タッシリの「死の世界」で為し遂げたのが、1950年代のフランスの軍人ロート大尉の探検隊の調査であった。


おおよそ一万年前から千八百年前までの、八千年にわたる住人達が書き残した岩絵は、夫々の生活の発展段階ごとの呼び名がつけられている。


「狩猟民の時代」

     



「牛の時代」

     



「馬の時代」


「ラクダの時代」



狩猟民の時代は、そこに住む住人達が未だ牧畜も農耕も知らない、狩猟の時代に描かれた物である。

主な住人は「ネグロイド族」いわゆる黒人の先祖である。

頭部が球形なので「円頭族の時代」とも呼ばれる。



その後、人々は野生動物を飼いならし家畜化して、牛を飼う時代が来る。

それと共に定住が始まり、家畜の数で身分差が形成され、長老や族長等が出現する。

人種も、南方のネグロイドに加えて、東かだ来て新たに加わった頭部が縦長の「長頭族の時代」とも言う。

この辺りから、現在のトウアレグ人の先祖である「フルベ人」達が姿を表して来る。

そして、この頃から肩幅に対してウエストが極端に狭くなって、「糸巻き型」の描き方が登場する。



その後、更に古代ギリシア・マケドニアのアレクサンドロス大王の遠征以来、馬が登場する。

二輪馬車までが描かれている、侵略の時代である。


そして、辺りの気候条件が変化し始め、乾燥化が始まり、徐々に家畜を飼って暮らす行き方が不可能になり始め、夫々が緑を求めて移動し始める。

相前後して、ラクダに乗ったアラブ人の先祖が主役の座を奪い始める。

ラクダの時代の到来である。

それで、岩絵の表現は稚拙となり、芸術的価値が失われ手行く事となり、岩絵自体が描かれなくなって行った。



そのタッシリ高地の無数に残されている岩絵は、数千年の乾燥気候によって風化し、色落ちが激しく、剥離もあって、今後はそれほど長くは存続させる事は無理なのでは無いかと思われる。

ユネスコは、未だ「危機遺産」には指定していないが、その他の後世の世界遺産の様に「レストア」して修復すれば良い物では無い。

一部では、未だに新発見のサイトも見つかっているのだが、基本的には朽ち果て、消え去るのを、ただ見ているしか無い、かけがえの無い文化遺産である。



そのタッシリ・ナジェールの岩面画の中の至高の存在が、セファールと呼ぶ場所に残る『セファールの神』である。

日本の研究家達の間では『白い巨人』と呼ばれている。



     
     「セファールの神」



高さは3メートル程も有ろうか。

角(?)の生えた平らな頭部。

力こぶとも、腕輪とも就かない上腕部の突起。


その周りには、神を崇めて跪き両手を打ち振って祈祷をしている様に見える小さな人々。

あるは、種々雑多な動物達や、不思議な模様が描かれて居る。



     
     「神」の横でひれ伏すかの如くに見える小さな人間(?)達


     
     身をよじって拝謁する様子や笑顔の存在(?)


     
     キリンと思しき動物や恐竜の様な生き物の群れ


     
     意味不明の各種のポーズの人間(!)達


     
     別の群れ


     
     見事な角を誇る羚羊


     
     羚羊とサイと思しき動物とクラゲ(!?)



この「クラゲ」の如き物は、各地で多数見られる。

「太陽と雨」で、天空を表し「シャーマン」の力の象徴では無いか、と言う説が有力視されている。




「狩猟民の時代」又は「円頭族の時代」


     
     女性と思しき人物



狩りの光景を描いた物に、上半身に猪の様な毛皮をかぶった「シャーマン」と思える存在が、くっきりと現れている物が有る。


     
     かなり稚拙な狩りの情景



既に何らかの私物を持ち、腕飾りをした腰蓑を纏った人も居る

しかし、宇宙服を纏った様にも見える。


     
     腰蓑の円頭人? それとも宇宙人?



中には『泳ぐ人』と呼び習わされている人物像もある。

まさに、遊泳中の様にも見える。


     
     「泳ぐ人」(遠景) 


     
     「泳ぐ人」(近景)



その直ぐ横には、弓を手にした人物も描かれて居り、戦いで倒れた人だという解釈も有る。


     
     「弓を持つ人」と「泳ぐ人」

しかし、中央に描かれている人物は、死んで倒れて居ると言うより、やはりどう見ても泳いでいると考えた方が、妥当なようだ。


更には、明らかに黒人と思える三人の人々。


     
     三人の円頭人達


膝に飾りヒモを巻き付け、体中に入れ墨をしている様に見えるが、この姿は今日でも、中央アフリカで見られる人達と同じである。


さらには、ヒモを巻き付けて頭髪を丹念に結い上げ、首飾りを付けたり、後ろで結んだ腰蓑を纏った人物像も有る。


     
     髪を結い上げた二人の円頭人



踊っているのか、前屈みの人物像も。


     
     踊る人々

右側の人物は、太ももの途中から脹ら脛にかけて布を巻き付け、肘の所に袋をぶら下げている。



さらに、何やら両手に持った一人の人物像。


     
     両手に荷物を持った人物


この「瓢簞型」のポーチは、現在でも中央アフリカの黒人の一部で使われている物入れである。

しかし、頭部はまるで宇宙服のヘルメットのようである。




そして「牛の時代」又は「牧畜の時代」となる。


     
     長角牛



所有する牛は、おそらく長老が管理したであろう。

牛飼いの長老は、当時の彼等に取って神に近い存在であった。


     
     牛飼いの長老


牛の肛門に指を突っ込んでいる牛飼いは、牛の繁殖を支配する能力を有している事を表す。


狩猟民族は、獣を追って暮らすので定住しないが、家畜を飼う様になると、定住が始まった。

テントの様な簡単な物であっただろうが、住居が登場する。


     
     牛を飼う家族戸牛の群れと住居


     
     牛を飼う家族と牛と家(ディテール)


男は牛と共に立っており、女は座って篭でも編んでおり、子供達が近くで遊んでいる。


それと共に、人体が腰のくびれた「糸巻き型」に描かれる事が増えて来る。


そして、財産が形成され始めると「戦い」も始まる。


     
     闘う人々



中には、船に乗っての戦いも行われていた様だ。


     
     船での戦い


     
     別の船での戦い


要するに、今岩と砂以外に何も無いこの「死の世界」に当時は大河が流れていた事になる。


牛が横一列に何頭か繋がれているので、家畜である事が判る。

中央の丸い物は、ブラック・アフリカで今も普通に見られる日干し煉瓦で創った「丸い家」であろうか。


     



糸巻き型人物が、長い杖を持って牛を追っている。


     
     杖を持った糸巻き牛飼い



そして、財産である牛の数がドンドン増えて行った。


     
     大量の牛の群れ


ただし、牛は多量の草を食べて生きる。

あまり牛が増えすぎると、徐々に草が不足して来る事も有ったであろう。



その内、ギリシャ人の一部が「馬」と「二輪戦車」でせめて来た。

牧畜で暮らしていた素朴な人々に取っては、大変な脅威であった。

タッシリに「馬の時代」がやって来た。


     
     馬という速く走る戦闘用の動物が侵入した



多くの人々は、殺されたり奴隷に連れ去られたりして、侵入者達は去って行った。

馬は残ったが、草地が減って行って、岩と砂の台地に変化して行くと、馬は不便であり、それほど広範囲には広がらなかった様だ。


そして。

牛の時代も終わりに近づいて行くと、人々はかなり図案化されて、本当の糸巻きの様になって来る。


     
     典型的「牛の時代終盤」の糸巻き人間



そして、草が喰い尽くされて行く程に乾燥化が進み、それが牛を飼う事を不可能にして行く。

牛飼いの人々は、定住を止めざるを得なくなり、水と草とを追って移動が始まる。


その後に、ラクダに乗った東のアラブ人達がやって来た。


「ラクダの時代」の到来である。


     
     ラクダの群れ



そして、部族間の民族間の戦いは繰り広げられた。



     
     個人の戦い?


     
     集団の戦い?



その頃から、描写が稚拙になり始め、逆に文様が現れ始める。



     
     立派な規模の住居であろう


     
     何やら不明の「幟」ででもあろうか


     
     梯子の様にも楽器の様にも見える文様


丸太に横木を付けた梯子は、マリに棲む「ドゴン族」の間では今でも創られ、使われている。

或は、長いネックを持つ三味線のような楽器も、アフリカの各地で見る事が出来る。


そして、ついに文字が登場した。


     
     岩絵に書かれた文字


これは『ティファナグ文字』と言って、現在でもトウアレグ人達が使っている。

楯にも横にも書け、右からも左からも書く。

これは一種の表音文字で、現代のトウアレグ人達も読む事は出来るそうだ。

しかし、意味は解読出来ない。




人口密度ゼロの「タッシリ」の高原台地を野営して行く。

その際、夜の食事の時間は多いに盛り上がる。


トウアレグの人々の料理は、羊か山羊の肉をトマトソースで煮込む。

クミンが利いていて、疲れも吹っ飛ぶ。


     
     山羊肉のシチュー



傍らで、彼等は「トウアレグのパン」を焼き始めた。


まず、粉を練る。


     
     生地を練る


お茶を沸かしていた後を整理して生地を置く準備をする。


     
     焼け木杭を拡げて生地を置く場所を作る



火元の薪を取り払った後に、生地を置く。


     
     火をたいていた砂地に生地を置く


その生地を、火をたいた後の焼け木杭で被う。


     
     生地の上に焼け木杭を被せる


完全に被ってから一時間程そのまま放っておく。

そして、取り出したら出来上がり。

     
     
     火元の焼け木杭を取り払いパンの砂を払う。


     
     出来上がり



酵母を混ぜない「ナン」のようなパンが出来上がる。

これが美味いのです。

山羊肉のシチュウと一緒にたらふく頂きます。

ちなみに前菜は、麓から持って来たニンジンやトマトやキュウリ等生野菜の大盛りサラダ。


食後は必ずお茶です。


トウアレグ千家のお手前。
 
常に火を欠かさず、やかんでお湯を沸かして、中国製の緑茶を煮出す。


     
     やかんは必ず二つ以上


大きいやかんで湯を沸かし、小さい方に茶葉と一緒に入れて火にかける。

決して沸騰させない弱火が原則。

真っ黒になるまで煮出して、山ほどの砂糖を加えて、やかんから別のやかんへ何度も移す。

そうすると、お茶と砂糖が充分に混じり合い、泡が立つ。


     
     やかんやカップを利用して高い所から注ぎ込む事を繰り返す


頃合いを見計らって、専用のガラスのカップに注ぐ。


     
     こってりした濃くて甘いお茶



皆でお茶を飲めば、自然に歌が出て来るのだ。


     
     お茶を囲んでトウアレグ族の歌で盛り上がる


水用のポリタンクが、タムタムの代わりに。


     
     お代わり


トウアレグのお茶は、一杯では終わらない。

最低三杯は振る舞われる。

一杯だけ飲んで後を断るのは、失礼な事なのだ。

コックが煎れてくれて、ロバ使いの長老が煎れてくれて、案内のバルカさんも煎れてくれた。


そうやって、実に哀愁の溢れる歌声で盛り上がり、宴は続く。

但し、アルコールは一切無し。



     
     岩棚の向こうに夕日が沈んだ直後


おまけ。

        
     自分のテントの前での筆者      セファールの神の前の筆者




かくして、月世界の様に一切の音の無い夜は更けて行く。。。



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時の流れの止まった『タッシリ・ナジェール』は、人間のサハラと地球との関わりを残す。【日曜フォトの旅】

2013-02-03 23:47:53 | 歴史と文化
先週に引き続き、今週の「フォトの旅」では、アルジェリア最南部の別世界『タッシリ・ナジェール』の迷宮にお誘いしよう。


『サハラ』とは、アラブの古語で「何も無い所」「褐色の無の空間」と言う様な意味である。

アフリカ大陸の北側を、西は大西洋から東はシナイ半島を経て中東に至る宏大な砂漠のベルト地帯の、アフリカ側の呼称である。


北アフリカは、人口の殆どが地中海岸に沿った、限られた狭い沿岸部に集中している。

直ぐ背後は、幾すじかの山脈「アトラス山脈」で後背地と切り離されている。

数億年前、今のアフリカ大陸とユーラシア大陸とが衝突した際の衝撃で盛り上がった北側が「アルプス山脈」で、南側が「アトラス山脈」となった。


両大陸がぶつかり合い、押し合って山脈を形成しあと、反動で両大陸が後戻りして出来た裂け目が、「地中海」である。



     
     アトラス山脈の山中



そのアトラス山脈は、冬は冠雪する。



     
     雪をかぶった山並みが望める


     
     雪の峠越え



しかし、城壁の如くに人口集中地帯を護る三筋程に別れた「アトラス山脈」を越えると、あとは少しずつ荒涼とし始めて、やがて砂漠地帯が続く。


そして、首都アルジェから2000km南下して、最南端のオアシスの一つジャネットに至る。

そのジャネットの東北部から北側に掛けて、長さ800km、幅50km程の高台が、台地の様に連なっている。

標高千四~五百メートル、最高二千二百メートルの『タッシリ・ナジェール高地』である。

南端は、数百メートルの断崖が続く。



そのタッシリの上に、八千年間の人間の営みが「岩絵」となって残されているのだ。

それを見るのは、徒歩で最短コースで4泊5日、強行スケジュールで3泊4日を要する。


夏期は気温が高すぎて、行く事はお勧め出来ない。

冬季限定。



その南端の断崖の、ジャネットから近い峠『タファルレット峠』を登って、頂上を目指す。


午前中の、未だ涼しい時間帯で登る為に、早朝7時頃ホテルを発ち、四駆で走る事45分。

高原の南の断崖の下に着く。


あとは、歩いての登山となる。

標高差、およそ800メートル。


荷物は最低限にして、殆どをロバで運んでもらう。

人の登山道は、急すぎて段差も多く、ロバは登れない。

かといって、ロバ道を人が登ると、登山路の3倍程の時間がかかってしまうのだ。

五人のパーティーなら、案内人や料理人等の荷物も含めて8頭程のロバを使う。



     
     ロバ使いの長老



1956年、フランスの考古学探検隊「ロート大尉」が、人っ子一人り住まぬ死の台地に「岩絵」を発見して、大センセーションを巻き起こしたとき、彼等はラクダを使っていた。

探検が終わる頃、全てのラクダは脚を切り刻まれた様に傷ついて、二度と歩けない状態になっていたと言う。

それ以来、ロバを使う様になった。



     
     登山路



両側を厳しい絶壁に挟まれた隘路を、斜面、やや平、斜面、やや平、斜面と、三度の登りで頂上を目指す。



     
     最初の斜面、その後のやや平らなルートから、二度目の斜面で途中休憩



     
     頂上から、登って来た登山路を見下ろす



この写真の真下の隘路を登って来たのだ。

15分から30分毎に休憩しながら4時間程で、頂上にたどり着く。


『タッシリ・ナジェール』とは、現地の遊牧民トウアレグ人の言葉で「水の溢れる台地」と言う意味である。

文献によって「山脈」と書かれていたり、「山地」と訳されたりするが、頂上はあくまで平なので、私は「台地」と言っている。


北向きに歩くのだが、右手(東側)は50キロも行けばまた断崖で、『タドラールト渓谷(涸れ沢)』に下りて、そのまま東行すれば、リビアに入る。


黒褐色の岩面が、平に浸食し、所々に碁盤の眼の様に筋が走って、数千年単位で割れて浸食して行く形が想像出来る。

あずき粒大の小石が被う、何処までも平な頂上を、北を目指して歩く。


数千年間代わらずに、遊牧民が歩いたあとがうっすらと「道」を表し、やがて交差する所が有った。

右がリビア、左へ行くとニジェール、マリに至る。



     
     「街道」の交差点で佇むトウアレグ人二人



途中に、不思議な石積みが有った。


遊牧民達が通行中に家族を失った時に葬った、墓標である。



     
     大きい方が親、小さい方が子供



     
     



200年前のものかもしれないし、2000年前のものかもしれない。

誰も知らない。

殆ど雨が降らないこの場所では、二千年ぐらいで地表が変化したりはしないのだ。

実際、石器時代の矢じりが転がっている事が有る。



更に、同じ様な石積みでも、スペースをハッキリ区切ったものも有る。

遊牧民達が残した「モスク」である。


ちゃんと入り口があり、メッカの方向を示す祈りの対象壁「ミヒラブ」も作ってある。


     
     仲仕きりで、男と女と別れて礼拝した



通り過ぎながらの日々の礼拝なら、ただ敷物を敷いて座って行う。

このように「モスク」を建設するのは、この辺りに何日も滞在したからであろうと、思われる。


タッシリの上を行くと、このような墓やモスクはそう珍しいものでは無い。


一か所、岩絵の有るサイトに立ち寄りながら、2時間程で行く手に屏風の様に立ち塞がる岩の連なりが見えて来る。



     
     岩の屏風 



最初に野営する『タムリット』と呼ばれる場所である。


テントで一夜を明かす。

ちなみに、この「タムリット」と名づけられた場所辺りから、岩が浸食されて出来上がった、岩の林や迷路が始まる。



あとは、この世のものとは思えない、摩訶不思議な光景の中を進む事となるのだ。



     
     明らかに岩の亀裂の間を何百年も水が流れて出来た通路


岩の一部がやがて風化して「砂」に代わって行く。



     
     岩棚の下にたまったきめ細かな砂



狭い「通路」を抜けると、周りは正しく「岩の林」としか言い様が無い光景が続く。

きのこの森の中に棲む昆虫になった様な錯覚にすら、落ち入ってしまいそうだ。



     



     



数万年前は、頂上はもっと高かった。

それが、割れて崩れ、浸食されて、いまだ倒れない固い部分が樹々の様に林立している。

大きくマクロの視点で見ると、タッシリ全体と下の砂漠地帯との関係である。


命の気配がない「死の世界」タッシリ。

しかしそこに、生き物が居た。

遊牧民からはぐれてしまって野生化した山羊の子供であった。



     
     大岩の真ん前に、小さな野生の山羊の子



そして、足元が砂が多くなって来る。



     



     



     



     



まさに、岩の林と砂漠の結合部である。

そして、その岩肌の下部の岩棚の様にえぐれている部分に、人が住んだ痕跡が残されている。



     
     その側に石の塀で囲った住居跡


このようにハッキリ塞ぐ様に作られているのは希で、普通はただ石ころを並べて線を引いただけのものが多い。

それが、いにしえの遊牧民達の住居なのだ。

数千年前から、40年前に最後のトウアレグ人が下山するまで、殆ど同じ要領で人は暮らして来た。




     
     「遠慮深く」区画が表現された住居



時には、通過した遊牧民が、帰路持って行く取り敢えず必要でない物、を置いて置く事も有るらしい。



     
     誰かが所有している筈の「雑嚢」



さらには、しっかり「目張り」された、一種の倉庫みたいな物まであった。



     
     荷物が保管されているらしい「目張り」された壁龕



こんな、人間の生の営みを感じさせる物も有るものの、おそらく10平方キロに今この時生きている人間は自分達だけ。

この台地を初めて訪れたヨーロッパ人は、「死の世界」と呼んだ。


しかし、他にも生命は存在していた。


最初に野営した「タムリット」は、直ぐ近くに岩場の水場がある。

苔むした溜まり水のある岩場だが、数十年に一どの大雨が振ると河になるらしい涸れ沢があり、そこに樹齢4千年と言われる糸杉が生えている。



     
     齢四千年の糸杉


元来「糸杉」は、その名の通り糸の様に細く真っすぐ天を目指して伸びているものだ。

しかし、ここまでの樹齢ともなると、複雑怪奇な曲がりくねった瘤だらけの「老や」となるのだ。

この涸れ沢の地下には「伏流水」が流れているらしく、数キロおきにこの同じ糸杉の根っこが繋がって4本くらい、生えていると言う。

「木」の生命力、恐るべし。


更には、小さな生き物も居た。



     
     タッシリの砂の中に居たサソリ


私のテントの直ぐ外で見つけた。

同行のトウアレグの友人に「毒をもっているか」聞いたら、ケラケラ笑って「平気だよ」と返事した。


そして、正しくこんな岩だなの下の壁龕に、紀元前八千年から紀元一世紀くらいまでの、およそ8千年間の「岩絵」が残されているのです。



     
     岩絵の残された壁龕サイトの一例



1956年、フランスの考古学探検隊ロート大尉を案内して、これらの岩絵の場所を教えたトウアレグ人の遊牧民のお孫さん『バルカ』さんが、我々を案内してくれる。

ジャネットに住んでいて、時に観光客をこのタッシリに案内するプロのガイドでも、時には方向を見失う程、複雑に入り組んで克つ単調な同じ様な土地の中で、岩絵のサイトは数百か所に登る。



     
     淡いグリーンの民族服の男性が「バルカ」さん



彼は、眼をつむっていても、この土地の全てを知り尽くしている。

何故かと言うと、彼はここで生まれて、ここで育って、この高地に最後まで留まった遊牧民の最後の家族なのだ。


ジャネットに下りて、まだ四十年しか経っていない。



来週は、いよいよ「岩絵」をご紹介しようと思います。

お楽しみに。


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今、あえてアルジェリアの美しさを伝えたい/タッシリ・ナジェールの魅惑 その1【日曜フォトの旅】

2013-01-27 23:43:39 | 歴史と文化
哀しみを乗り越えて、今この時だからこそ、アルジェリアが美しいことをお伝えしたい。



地中海に臨む首都アルジェから一路南へ二千キロメートル、約2時間半のフライトで「ジャネット」というアルジェリア最南端の町の一つがある。

直線80キロ(遊牧民で直線を歩いて一中夜、四駆だと走れる所230キロで丸二日間)でリビア再南西端の国境に至り、南下すると270キロでニジェールに至る。



世界遺産『タッシリ・ナジェール』の基点の町である。

普通夕刻にアルジェを出て、300キロ西のトウアレグの都会「タマンラセット」にトランジットする事が多いので、現地着は深夜に近い時刻となる。

明るいうちのフライトが運良く有れば、窓から延々と砂漠のうねりを見ながら飛び続け、かなり現地に近づくと、砂漠と黒い塊とが交互に入り交じる不思議な光景になる。



     



飛行機が高度を下げ始めると、それは岩山である事が分って来る。



     



かつては海底であった土地が隆起して岩盤となり、そこから数億年間の時の流れで、岩盤の脆い部分から崩れ、くだけ、朽ちて砂粒となって行った過程が、実物大で理解出来る。



空港は砂漠のまっただ中。

形ばかりの空港ビルの建物を出ると、夜半の人気の無い駐車場から、熱い大気の中に満月が浮かんでいた。

そちらが北東ででもあるのか、メッカの方向に向かってこの日五回目の祈りを捧げる人が居た。



     
     空港の建物の直ぐ外で夜中の礼拝する人




この町は、15年程前迄は四千人程の、定着した遊牧民トウアレグ族が住んでいた。

標高二千メートルのタッシリ高原地帯の麓にへばりついた、この小さな遊牧民の町は、鎖国状態が解かれたいま、タッシリ・ナジェールの観光の基地として、人口は三倍程に膨れ上がろうとしている。

(しかし、カダフィー大佐の失脚以後、この辺りを残党が党売り抜けてニジェールに逃げて行く「通り道」にされてしまったため軍が作戦展開し、この辺りを旅行目的とする外国人へのヴィザの発給の審査が厳しくなって、閑古鳥が啼いている状態で、住民達は悲鳴を挙げている…)



     
     町の俯瞰



     
     町を行くトウアレグ人のご夫人



     
     町の市場の一隅



     
     市場の中の肉屋の看板



     
     市場の菓子屋




町の背後に垂直に切り立つ大岸壁の上部には、まるで月世界の様な荒涼たる不思議な光景が果てしなく広がって居り、そこに紀元前8千年から、1万年間程の長い間に先住民族達の手で描き続けられた、「岩絵」が無数に残されている。

円頭族(ネグロイド族)から長頭族(フルベ族=トウアレグ人の先祖)の間の「牛の時代」と呼ばれる時代、アレクサンダー大王の時代からもたらされたの「馬の時代」、紀元前後からのアラブ人の先祖の「ラクダの時代」。

民族の攻防と、人が頼った家畜の違いに寄る文明の変遷、その間の時代に添っての美術的劣化、が見事に残されている。

世界遺産に登録されている『タッシリ・ナジェール』の岩絵群である。


何ら保護の仕掛けもなく、大気と太陽と夜の冷気とに晒されたまま今日迄伝わって居り、やがて消え失せてしまう可能性の高い、人類史上貴重な文化財である。

(残念ながら、既に消えかかっている、見づらいものが多い)



その「タッシリ高原大地」に登る前に、ジャネットの町の周辺を取り敢えずご紹介しよう。


なんと言っても、その唯一にして最大の魅力は砂漠である。



     
     砂漠の夜明け


非常にきめ細かな美しい三色の砂が、真っ平らに、或は雄大なうねりで、ジャネットの周囲を取り囲む。

特にジャネットから西側、タマンラセットに抜ける砂漠の入り口の部分は『エルグ・アドメール』と言う名の大砂丘帯で、三色の色の砂漠が連なっている。

白い砂漠。

黄金色の砂漠。

赤い砂漠。



     



     



     



     



そんな砂漠の中を、舗装道路が延々と続いている。

北北西に車で走ること2時間で礫漠と砂漠の混じる辺りに、水場が有る



     
     砂漠の水場「オアシス」



その近くに、高さ2メートル、幅10メートル、長さ25メートル程の黒い一枚岩がある。

「ディーデル」という名で呼び習わされている場所の古代岩絵サイトである。


その表面に5~6千年前の岩絵が無数に刻まれている。

タッシリ高地の上の様に「彩色画」ではなく「線刻画」である。



     
     全体に見た岩



靴を脱いで登る決りになっている。

そうすると、足元に無数に彫り込まれた線刻画がいきなり現れる。



     
     牛



     
     駝鳥



     
     子ガゼル



この「子ガゼル」は、アルジェリアの1000ディナール(1200円)紙幣に描かれている。



     
     線刻画のガゼルと紙幣



     
     人間



     
     足跡の線刻画まであった




更には、東へリビアの方向へ四駆で一時間の行程に古代の墳墓もある。


この古代墳墓は、いつ頃の誰を葬ったものか、発掘調査をされていないので全く分っていないが、この辺りの先住民族が大掛かりな墳墓を残さない習慣だった事から、特殊な人物のものであろうと思われている。

ちなみにアルジェリアの中央部の同種の墳墓からは8千年前の女性権力者の遺物が見つかっている。



     
     近くの岩山の上からの俯瞰



     
     実際の地上の墳墓の様子



更に、ジャネットの方向へ引き返すと、町の直ぐ近く「エルグ・アドメール」砂丘地帯の入り口辺りに、ポツンと単独の大岩が突っ立っている。

高さ15メートルも有ろうか。

周囲も20メートル程。

その一面に、人の背丈の高さよりやや高い位置に、見事な線刻画が有る。

俗に「泣く牛」と呼ばれて来た。

数頭の牛の頭だけが、かなり深く太い線で、くっきりと彫り込まれた線刻画である。



     



その内の二頭が、眼に涙を浮かべているのだ。



     
     涙を流す牛



     



     



溜め息が出る程の表現力。

数千年の時を一気に飛び越えて、現代でも傑作と呼ぶに値する美術作品である。



豊富な水に恵まれ、多くの牛を放牧していたタッシリの高地で徐々に気候が変化して水を失って行った。

高地に居たフルベ族(今のトウアレグ人などの先祖)は、やむを得ず高地を下りて、水のある場所を求めて西へと移動して行った。

結局彼等は、大河ニジェール河流域と、巨大湖であったチャド湖沿岸迄たどり着いた。

だから、現在のトウアレグ人達は「遊牧民族」となり、リビア南部から、アルジェリア南部、ニジェールを経てマリやブルキナ・ファソ、ベナン北部、カメルーン北部にまで分布しているのである。


この「泣く牛」は、環境が変わり水が無くなった為に住めなくなって、住み慣れた土地を離れる哀しみを表していると、今日迄信じ続けられて来た。



現代のトウアレグ人達は、過酷な環境で山羊とラクダを飼って移動している人達も居れば、ジャネットと、500キロ西の都会タマンラセットに定着して、商業活動で生計を立てている定着民とに別れている。



     
     砂漠の中で、日々の礼拝をするトウアレグ人の男性



     
     お祈りする別のトウアレグ人



次回は、標高差800メートル以上を登って、タッシリ高地へと「古代岩絵」をご覧に入れる事にしよう。


朝まだ涼しいうちに半日掛けての岩場の登山になる。

今夜はせめて、トウアレグ人の音楽家の砂漠の音楽で、心を落ち着かせよう。


     
     トウアレグ族の天幕の中でのトアレグ・ミュージシャン





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イスラムの地のキリスト教聖地/大聖人アウグスティヌスの眠るアンナバ(アルジェリア)【日曜フォトの旅】

2013-01-13 22:43:15 | 歴史と文化
北アフリカのアラブ諸国を『マグレブ諸国』という。

モロッコ、アルジェリア、チュニジア。

その東のリビアとエジプトは、マグレブという括りには入れない様だ。

歴史的には、フェニキアが植民してローマに支配権が移り、ローマ帝国分裂後は東西ローマに別れて、更に東はビザンティンと名を変え、西はゲルルマン民族のヴァンダル族に破壊され尽くした後、アレクサンドリアの海賊に支配が移る。

その間に起こったイスラムが、ムハンマドの孫娘の系統と、その婿の系統とで正統を争って破れた「スンニ派」が次々とイスラム化して、ベルベル人と呼ばれるアラブと混血した北アフリカ系イスラムの勢力下に入って言って『マグレブ』圏の外郭が出来上がって行った。



ところで、東西ローマに分割し、夫々に「正帝」「副帝」をおく『四分統治』のローマ帝国に有って、西の副帝でった「コンスタンティヌス」が、大変ややこしい権力闘争の末、「西ローマ正帝」となり、東の正帝リキニウスと共同で「全ローマ帝国民に信仰の自由を認める」決定をする。

これが、俗にいう『ミラノの勅令』である。

実際には、東方のニコメディアで発表された「覚え書き」であるが、後の歴史でこの事が、彼をしてキリスト教を公認したローマ皇帝、と呼ばれるに致す。

その後、彼はフランク族やアレマン族などのゲルマン諸族の反乱を何度も鎮圧しながら支配権の勢力を東へと移して行く。

結局、リキニウスも倒した後、他に有力者が居なかった事も有って、全ローマの支配権を確立した。

実質的「東西ローマ」の終焉であり、旧統一ローマ帝国の再現である。

その際、彼は帝国首都をローマから、ギリシア野ビザンティオンに写し、新しいローマを建設した。

キリスト教をローマの国境に下のは更に半世紀の地のテオドシウス帝であるが、東方の優位性を造り上げたコンスタンティヌスが「東方教会」で列聖される所以となった。

337年、ニコメディアにて没。




そのほんの少し後、北アフリカの「ローマ帝国の穀倉」と呼ばれていた領土の町「タガテス」で生まれたのが、後のキリスト教大学者、大聖人となるアウグスティヌスである。

アルジェリアの西の外れ、リビア国境に近いその町は現在「スーク・アハラス」と呼ばれている。

以下に「アウグスティヌス」の生涯の概略を、Wikipediaから転載する。

(転載開始)
アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのス-ク・アハラス)に生まれた。若い頃から弁論術の勉強をし、370年から西方第2の都市カルタゴで弁論術を学ぶ。父パトリキウスは371年、死の直前に受洗した。翌372年、同棲中の女性(氏名不詳)との間に私生児である息子アデオダトゥス(Adeodatus、a-deo-datusから「神からの贈り物」の意)(372-388)が生まれる。同棲は15年に及んだといわれる。当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と『告白』で述べている。
キリスト教に回心する前は、一時期(373年-382年)、善悪二元論のマニ教を信奉していたが、キケロの『ホルテンシウス』を読み哲学に関心をもち、マニ教と距離をおくようになる。その後ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知り、ますますマニ教に幻滅を感じた。
当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマに383年に行き、更に384年には、その北に位置する宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をするうち、ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となった。受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したといわれる。
アウグスティヌスは、387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を行ったが、この時に彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった(聖アウグスチノ修道会はアウグスティヌスの定めた会則を元に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同して出来た修道会である)。
391年、北アフリカの都市ヒッポ(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、更に396年には司教に選出されたため、その時初めて聖職者としての叙階を受けた。
430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日とあわせるように古代思想の巨人はこの世を去った。
(転載終了)



その、アウグスティヌス終焉の地「ヒッポ」は、現在アンナバと呼ばれる都会になっている。

生地タガステからきたに100キロ、地中海に面し背後が山となって守られた、要害の地である。



     
     背後の山頂から見下ろすアンナバの町


町の外れの海岸は、柔らかな砂浜である。


     
     アンナバ周辺の浜辺


海岸線の遊歩道から数メートル下の砂浜におりると、漁師が何人かテント掛けでその日の漁の揚がりを売っている。


     
     カジキマグロは、見事な角を残して殆ど売れてしまっていた


     
     眼鏡越しに、真剣に品定めする買い物客の男性も


余り多種に及ぶ訳ではないものの、魚の種類ごとにお行儀良く並べられていた。


     
     鯛の一種


     
     サヨリ? にしては「口先」が短いが…。


     
     これは正体不明のギョロ目君



現在のアンナバの町外れに「ヒッポ遺跡」が有る。

ウイキで述べられているが、4世紀の西ローマ帝国の北海岸で、カルタゴに次ぐ二番目に大きな町であったそうな。


     
     当時の邸宅跡


     



     
     当時の洗礼堂


後世の水盤ではなく、イエス自身がヨルダン川の中に腰迄入って跪いた如くに、当時の洗礼はちょっとした大型の風呂桶の様な感じで、腰迄浸かる様に作られていた。


     
     

この洗礼堂で、時のヒッポの司教アウグスティヌスは多くの「異教徒達」を改宗させたのだろう。




その背景の小高い丘の頂上に、現代のバジリカ聖堂が「聖アウグスティヌス」に捧げられて建立されている。


     


     



草むした小径を辿って、聖堂迄登って行こう。

そうすると、聖堂の正面と反対側、十字架の形の頭の側にたどり着く。

そのまま、正面に回り込んで行くのだ。



     
     バジリカ「聖アウグスティヌス聖堂」正面


さすが、フランス統治下の19世紀の建立だけ有って、リヨンの丘の天辺に建つ「ノートル・ダム・ド・フールヴィエール」や、マルセイユの丘の頂上に聳える「ノートル・ダム・ド・カンウヴィエール」にとても似た感じがする。

流石に土地柄、正面の一部装飾はタイルのモザイク文様である。


     
     身廊から奥の内陣を見晴らす


天井は見事な格子。

北アフリカの伝統建築で、天井は椰子の木で作られるのを、踏襲しているのだ。


     
     身廊の格天井


縦(身廊から内陣へ)と横(翼廊)の交差部、主祭壇の上の天井部分は塔が立ち上がり、クーポラで閉ざさずにそのまま明かり取りで抜けている。

さすがに雨に少ない土地柄ならではと言えるのだろう。


     
     明かり取りの塔


そして、内陣の方を向くと、天井の半ドームの見事なモザイク壁画が素晴らしい。

ただ、ほんの少し下部がくびれて、イスラム風。


     
     四分の一球面の「半ドーム」


そしてその下に、ひと際目を引くのが、大聖人の「聖遺物」である。



     


     
     聖アウグスティヌスの聖遺物匣


近くによってみると。。。


     
     聖人の涅槃像の前面に聖人の遺骨の一部を納めた水晶の聖器が



聖堂の壁面は、聖人の生涯を表したステンドグラスで飾られている。


     


     


     


     


     




再び外の出て、正面を背にする側の参道を下って行く。


     
     聖人の銅像の背後に聖堂


椰子の木が、いかにも地中海世界に居る事を実感させてくれる。


街の中心に至ると、見事な並木のトンネルの遊歩道が有った。


     
     不思議な枝振りの並木のトンネルは心地よい日陰を作っている



     
     所々に置かれた現代アート



     
     別に種類の木の並木


     
     とてつもない大木も




ところで、街の中にも現代的なホテルは有るのだが、背後の山の上迄登って行く事をお勧めする。

下の写真を良く見て頂きたい。

街の中央よりやや左の白いビルの当たりの真上に、微かに白いものがへばりついているのがお解りだろうか。

山頂の峰の一角に小さな集落があって、そこにすこぶる気分のいいホテルが有るのです。


     
     海から見たアンナバは三角形に飛び出した岬になっている



山頂の村のホテル。



     
     通りに面した全景



     
     エントランスを示す矢印



     
     内部のオープン・デッキ風サロン



     
     階段で屋根の上に上がって行ける



屋上からの眺望は、魂を揺すぶられる如き、絶景です。

街と反対側の斜面から見晴らす、山脈の遠望は素晴らしい。

まさに眼福。


冬季なので水が入っていないが、プールも有った。



     
     屋上プール



     
     別の角度からの反対側の海の眺め



     
     バー・ラウンジ



ちなみに部屋は、素朴ですが清潔です。



     
     やはりタイルの装飾


経済封鎖されて鎖国状態になる以前、国営ホテルとして作られて、その後保守点検がなおざりで、相当古びた感じはするけれど、異国情緒タップリのノスタルジー溢れたこのホテル、お勧めです。




「聖アウグスティヌス聖堂」の直下、に小さな考古学博物館が有る。

その前に置かれていた、カルタゴ時代の石碑が素朴で素敵でした。
     

     
     素朴な石碑



フェニキア人の町として誕生し、カルタゴが栄えさせ、アフリカ沿岸あって西ローマ帝国屈指の港町だった『ヒッポーネ』は、ローマ遺跡に重なってキリスト教の大聖人の聖遺物を守る聖地として、ヨーロッパ全土や小アジアや、アフリカ全土のキリスト教徒が、巡礼に訪れる町でした。



     





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『8月6日』と『8月9日』は毎年やって来る。「核の無い平和な社会」はいまだやって来る気配もない。

2012-08-08 23:53:15 | 歴史と文化
今年も、8月6日はやって来た。
今年も、8月9日もやって来た。


昨年のこれらの日も、特別な日であった筈である。

原子力発電所が爆発し、放射能が国土を汚染した年の、原爆忌であったのだから。


そして、一年が過ぎて、今年のこの日は、更に加えて特別な日である筈であった。

停止されていた原発を、安全性の確認が何もなされないまま強引に、再稼働させた年であるのだから。



@asunokaori asunokaori(紫野明日香 脱原発に1票+α)
福島の女子高校生の挨拶。「普通の高校生だった私たちはある日突然被災者となりました。避難所の生活は辛く過酷なものでした。今回広島に来て、広島でも同じように放射能の悲しい過去があったことをたくさん学びました。これだけははっきり言えます。私たちの未来に核兵器や原発はいらない!!」



▶<平和記念式典>福島から広島へ 避難の小6が願い込め(毎日/見出し)

>「平和とは、世界中すべての人が幸せになること」。東京電力福島第1原発事故後、福島から広島に避難した小学6年、三浦友菜(ゆうな)さん(11)が、戦争と放射能汚染のない世界を願って書いた作文が、「平和の歌声・意見発表会」(広島市教委主催)で優秀作に選ばれた。

>友菜さんの作文「幸せな世界」の全文は次の通り

    ◇

>私は、平和とは、世界にいるすべての人間が幸せになる事だと思います。

>私には、家族がいます。私の事を支えてくれる家族がいます。私の友達にも家族がいます。三人の家族もいれば、五人の家族もいます。私の家族は五人います。でも今、広島にいるのは、四人だけです。お母さん、お姉ちゃん、妹と私はお母さんのふるさとの広島でくらしていますが、お父さんは今までみんなでくらしていた福島県いわき市にいます。なぜ、はなれてくらしているかというと、2011年3月11日の東日本大震災が起きてしまったからです。

>3月11日、地震がきました。とっても大きな地震で、建物がくずれたり、津波が来たりして、たくさんの死者が出ました。地震や津波だけなら福島にいられたのですが、その数日後、福島第1原発が爆発して大変な事になりました。

>「放射能をあびると体に悪いえいきょうがあるから福島にはいられない」。とお父さんは言いました。そして、私の家族は広島に住むことになりました。しかし、お父さんは会社の仕事をしなくてはならないので、広島に住むことができません。一人残って文ぼう具店の仕事を一しょうけん命しています。時々、私たちに会うために広島に来てくれますが、数日するとまた福島にもどります。お母さんも私たちの世話をしながら1ケ月に一度、家のことをしたり、福島の人に安全な野菜をとどける仕事をしたりしています。

>私はあの大震災が起きるまで家族はいつもいっしょにいるのがあたりまえの事だと思っていました。でも今はお父さんと、はなれてくらしていて、少しさみしい時があります。いわきの友達にも会ってみたいし、いっしょに遊びたいなと思う事もあります。

>世界には、戦争などで家族を失っている人がたくさんいて、一人ぼっちになってしまった子もいると思います。私は家族とははなれてくらしていますが、家族を失ってはいません。家族がいない人は私よりさみしい思いをしていると思うのです。

>去年の平和学習で平和記念資料館に行きました。そこにはひふがはがれている人のもけいや写真、ぼろぼろになったふくやおべんとう箱の実物などがあって、それを見た時、原爆ってほんとうにおそろしいな、目に見えない放射能ってすごい力をもっているんだなと思いました。そして、広島と福島とはなれてくらすことを決めた、お父さん、お母さんの気持ちがあらためて分かりました。

>私は、戦争をすると、する分だけ、世界から幸せが消えると思います。でも、戦争をしていなくても放射能のことを心配してくらさなければならない今の日本も決して平和とは言えないと思います。

>今、福島には、自分の家でくらしたくてもくらせない人がたくさんいるし、反対に福島第1原発からはなれたくても仕事でそこに入らなければならない人もいます。

>私は、世界から戦争が消えて、放射能の心配も消えて、いろいろな国と仲良くできたら良いと思います。早く世界のみんなも幸せになってほしいと願っています。そして、私も一日でも早く、福島で家族5人が安心して、楽しくくらせるあたり前の日が来てほしいと思っています。
【毎日新聞/8月6日(月)2時30分配信】



野田佳彦。
菅直人。
枝野幸男。
仙谷由人。
細野豪志。
勝俣恒久。
西沢敏夫。
班目春樹。
近藤駿介。
鈴木篤之。
山下俊一。


これらの子供達の声を、如何に聞く!



▶平和記念式典で首相「原発に依存せぬ社会」(日テレ/見出し)

>広島は6日、66年目の原爆の日を迎えた。平和記念式典に出席した菅首相は、国のエネルギー政策についてあらためて「原発に依存しない社会」を目指すとした。市民の受け止め方は様々だったようだ。

>広島市に原爆が投下された午前8時15分、式典に参加した約5万人が一斉に黙とうをささげた。

>静かな祈りの一方、福島第一原子力発電所の事故を受け、被爆地の市長が「平和宣言」の中で求めたのは、国のエネルギー政策の見直しだった。

>広島市・松井一実市長「原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。日本政府は、このような現状を真摯(しんし)に受け止め、国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです」

>菅首相も、あらためてこの問題に言及した。

>菅首相「私は、原子力についてはこれまでの『安全神話』を深く反省し、事故原因の徹底的な検証と安全性確保のための抜本対策を講じるとともに、原発への依存度を引き下げ、『原発に依存しない社会』を目指してまいります」

>広島市民の女性「親も原爆に遭っているし、脱原発の方がいいと思う」

>広島市民の男性「原発は、今はまだ必要じゃないか。原爆はもう、絶対いかん」

>菅首相と懇談した被爆者からは、原発に関する首相の発言に対して注文もついた。

>広島県被団協・坪井直理事長「もうちょっと具体性が欲しいという願いはあるから、その面からいうと、まだまだこれからだ」

>菅首相は最後に、「放射能による色々な問題を引き起こさないような社会を目指す重要性を、あらためて強く感じた」と述べた。

>原発も含め、「核」について思いを巡らす66回目の「原爆の日」となった。
【日テレ24ニュース/8月6日 20時34分配信】



「原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。日本政府は、このような現状を真摯(しんし)に受け止め、国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです」

松井一実広島市長のこの声明が、「産学官政報」一体になっての『原子力マフィア』の耳に届くとは、到底思えない。


「私は、原子力についてはこれまでの『安全神話』を深く反省し、事故原因の徹底的な検証と安全性確保のための抜本対策を講じるとともに、原発への依存度を引き下げ、『原発に依存しない社会』を目指してまいります」

菅直人の、この政界での存在回復の為の見え見えの発言が、広島はおろか福島や、ひいては日本全国の国民の琴線に触れるとは、到底思えない。


松井市長も、「原発廃止」と直接表現しない、或る種の「逃げ道」があざといのみである。



▶広島67回目の「原爆の日」総理や浪江町長らも参列(ANN/見出し)

>広島は原爆投下から67年を迎えました。野田総理大臣は平和記念式典で、エネルギー政策についてほとんど触れませんでした。

>松井一美広島市長:「日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立して下さい」

>一方、野田総理がエネルギー政策について触れたのは、約6分間のあいさつのうちわずかに一文です。

>野田総理大臣:「脱原発依存の基本方針のもと、中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立を目指します」

>福島・浪江町、馬場有町長:「私は『中長期』なんて言葉で言い表してもらいたくなかった。本当にやる気があるのか分からない」
【ANNニュース/8月6日(月)13時13分配信】



私は、人類の頭上に「原子爆弾」を平然と投下したアメリカを、決して許せない。

勿論、原爆以外にも「如何に日本の市街地を焼き尽くすか」と『焼夷弾』の研究開発をしたアメリカの精神も許せない。

非戦闘員である民間人を攻撃目標にして、一晩で20万人もの市民を焼き殺した「東京大空襲」も、許せない。

勿論、大阪大空襲も、横浜大空襲も、その他米軍機が民間人を殺しまくった、総ての大空襲を許せない。


ちなみに、本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べている。

「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」

このカーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。


そして、極めつけ。


昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、カーチス・E・ルメイ将軍に対して勲一等旭日大綬章を贈っている。

時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。



これが、日米の関係性である。

わたしは、このような「白人以外」の人間の命に全く無頓着なアメリカ人が、許せない。



▶核廃絶への役割考えたい…原爆B29搭乗員の孫(讀賣/見出し)

>6日の広島原爆忌を前に、広島、長崎に原爆を投下した米軍爆撃機B29のレーダー士、ヤコブ・ビーザーさん(故人)の孫で写真家のアリ・メイヤー・ビーザーさん(24)が5日、訪問中の広島市で読売新聞のインタビューに応じた。

>アリさんは「日米の歴史を乗りこえた和解を求め、訪れた。核兵器廃絶という目標のため、果たせる役割を考えたい」と語った。

>祖父について「核時代の幕開けの先頭にいた」とする一方、「人類は世界を破壊する能力を持っているのだから、仲良く折り合いをつける方法を考えないといけない」と語っていたことを紹介。「核兵器廃絶に向けて、人類は責任がある。今回の訪問のように小さな歩みの積み重ねをしていきたい」と訴えた。
【讀賣新聞/8月7日(火)10時18分配信】


この手のアメリカ人が、どれだけ「和解」や「核兵器廃絶」などと言う言葉を使われても、どこか引っ掛かる物が有る。

素直に、手を差し伸べる気になれない。



▶トルーマン孫、長崎で献花=被爆者と面談「胸張り裂ける」(時事/見出し)

>広島と長崎への原爆投下を決定したトルーマン元米大統領の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(55)が7日、長崎市内の「原爆落下中心地碑」に献花し、犠牲者の冥福を祈った。

>ダニエルさんは「皆さんの話を聞き、胸が張り裂ける思いだ。行動を起こさないといけない気持ちになった。米国に帰って若い人たちに何が起きたのかを伝える」と述べた。
【時事通信/8月7日(火)18時42分配信】


どなたかのブログに帰されていた言葉が、頭をよぎる。

「消費税を導入した責任を、竹下登の孫のDAIGOに求めても意味は無い」

確かに、その通りである。


そして。

平和に対する普遍的な価値観を広め、核の非人道性を世界中の人々に理解してもらう為にも、この手のアメリカ人の来日と原爆忌への参加は、有意義なのだろう。

頭では理解出来る。

しかし、心の奥で反発する何かが有る。

きっと、私は偏狭なのだろう。



▶<長崎原爆の日>9日の平和祈念式典 首相や米大使出席(毎日/見出し)

>長崎市は9日、67回目の「原爆の日」を迎える。平和公園(長崎市)で開かれる平和祈念式典は午前10時35分に始まり、被爆者や遺族の代表、野田佳彦首相ら政府関係者、各国大使らが出席。米政府代表として初めて駐日大使も参加する。原爆投下時刻の同11時2分に全員で黙とうをささげる。

>核保有国では、米国のジョン・ルース駐日大使のほか英、仏の大使も初参加するなど計43カ国(7日時点)の代表者を含む約6000人が出席予定。参加国は過去最多だった昨年の44カ国に次いで多い。

>福島第1原発事故で被害を受ける福島県川内村の遠藤雄幸村長も参加する。

>米政府代表者の出席は昨年の首席公使が初だった。ルース大使の出席について、米国大使館は7日、「第二次世界大戦の全ての犠牲者に敬意を表すため、式典に出席することを光栄に思う。現在の日米の友好関係はこれまでになく強固であると誇りを持って言える」との同大使のコメントを発表した。
【毎日新聞/8月7日(火)19時18分配信】


「自分達が投下した<原爆の被害者>の冥福を祈るため」とは、彼等は言わない。

絶対に。

あくまで「第二次世界大戦の全ての犠牲者に敬意を表すため」に参加するのだ。

その中には、当然アメリカ兵も含まれる。

彼等の冥福を祈る事も、当然重要である。

一昨年まで、米国政府代表が参加しなかった事を考えれば、大きな前進なのだろう。

しかし、頭が理解しても、感情が納得しない。

私はやはり、偏狭なのだ。



それよりも。

その、ヤブ蚊を殺す様に平然と他国の人間を殺す事に、何ら胸を痛める事も無いアメリカに拝跪して、尻尾を振り振りすりよる日本の政界官階財界の面々に、反吐が出るのだ。


時あたかも、野田佳彦総理大臣は、消費税大増税を強行する為に「税と社会保障との一体改革」などと、根拠の無いタイトルで国民をたばかりながら、野党「自民党」と「公明党」との談合政治を繰り広げている。

何の為の増税か。

5%の増税分のうち、1%を社会保障の財源に回すそうである。

残りの4%?

公共事業費に回すと話し合っていた事は、半年前から洩れ伝わっている。

ゼネコンの為、つまり大企業のため。

その公共事業の差配を振る事で、かなりの部分を中抜きする関係省庁と特別法人のため。

官僚が、知恵をひねる事無く「自由に」「楽に」税金を使える様に。

その官僚は、日本国民に使えている訳では無く…。


情けない。

ウワバミの如く、国民の血税を吸い付くし、自分の役所と自分の老後の為に国民を裏切り、何もかも宗主国アメリカに有利に作用する様に、法案整備や経済制度をねじ曲げて恥じない。


そして、永田町も霞ヶ関も、福島第一原発事故の責任追及もなされず、東電の解体も行われず、瓦礫を食品を全国にばらまく事で汚染を希釈し、東電の責任を希釈し、目立たなくして責任を曖昧にぼかす為にのみ、頭を使っている。



▶東日本大震災:福島第1原発事故 政府事故調報告書説明会 「誰も責任取らない」 首長から不満や不信 /福島(毎日/見出し)

>福島第1原発事故を調べていた政府の事故調査・検証委員会(畑村洋太郎委員長)は7日、福島市で県内の自治体に対し先月出した最終報告書の内容を説明した。出席した県と55市町村の首長ら75人からは「誰も責任を取らない」「最終報告とは残念」などとの不満や、原発再稼働に対する不信の声が相次いだ。

>報告書は津波対策や事故発生時の住民避難の準備の不十分さを指摘、東京電力や政府に「複合的な問題があった」と結論づけている。

>「長時間の全電源喪失や外的要因による過酷事故を想定しておらず、最悪の事態への備えが行われていなかった。想定外に対応できる教育や組織文化がなかった」と述べ、日本社会に危険を認め対応する文化が欠如していると指摘した。

>出席者は報告書の内容を評価する一方、事故調が調査目的を責任追及ではないとしたことについて、疑問視する声も上がった。

>檜野照行・浪江副町長も「事故で町民はこの国では何を起こしても誰も責任を取らないと実感した。素晴らしい報告書ができたと床の間に飾って、見たくないものは見ないで済んでしまう」と皮肉った。政府が提言を生かさず「免罪符」に利用しかねないことに懸念を示したとみられる。

>浅和定次・大玉村長は「報告書を生かさなければいけない。責任を感じていない政府、国会議員に対しても説明会を持ってほしい」と述べた。委員は検察などが調査結果を踏まえて責任追及すべきだとした。

>井戸川克隆・双葉町長は、被害の実態を継続的に調査していく必要性を訴えた。「我々にとって事故は3・11以前の姿になって初めて終わる。最終報告書となったのは残念。住む家を失い、町も放射能のゴミ置き場にされようとしていることも歴史に残さないといけない」

>伊藤勝・西会津町長は「政府は調査にどれだけ重きを置いているのか。福島の事故を(原発政策に)生かしていない」と批判。
【毎日新聞/ 8月8日(水)12時51分配信】



「想定外に対応できる教育や組織文化がなかった」と述べ、日本社会に危険を認め対応する文化が欠如している」

早い話が、東電の責任である筈の事故原因を、「日本の文化」にすり替えて、責任を希釈し、ぼかしてしまいたい事が垣間見える。



▶福島第1原発事故 原因究明に加え、刑事責任の追及も1つの焦点に(FNN/タイトル)

>福島第1原発の事故をめぐっては、原因究明に加えて、刑事責任の追及がもう1つの焦点となっている。検察当局の思惑とその課題を取材した。

>2011年3月13日午後7時前、東電・勝俣恒久会長と武黒フェロー(いずれも当時)は、電話で「水素の問題? 国民を騒がせるのがよいのかどうかの判断だけども、次の社長会見で、それを聞かれたら、それ(水素の問題)は否定するよ。それはやっぱり『あり得ない』と」と話していた。

>3号機の水素爆発の前日、迫り来る危機を会見で否定することを示唆していた。

>原発事故から1年5カ月。

>東電によるテレビ会議映像の公開を受け、あらためて、責任の所在を問う声が上がっている中、福島第1原発事故をめぐる告訴や告発を、8月に入り、東京地検など各地の検察当局が相次いで受理した。

>その対象は、東電の勝俣前会長ら東電元幹部をはじめ、菅前首相や班目原子力安全委員長ら、政府関係者など、延べ50人以上。

>若狭 勝弁護士は「(検察にとって)こうした事故の場合は、かなり特殊であり、初めてのケース。起訴するにあたって、そうした『壁』、『ハードル』を乗り越えるのは結構難しい」と述べた。

>ある検察幹部は「今回の事故が、天災なのか人災なのか、『特定』をしていかないといけないが、現状では難しい。原発内部の態勢について、どうだったのか、現場に入って調べたいが、現実的にかなり難しい」と話している。

>これまで調査にあたった4つの事故調査委員会の報告書でも、見解が分かれる事故原因。

>さらに今もなお、原発内部には立ち入れず、現場検証ができない現状で、事故原因を特定することは困難との声もある。

>事故後の対応策が適切に行われていたかについてや、業務上過失致死傷罪の適用についても、ある検察幹部は「(東電が)何も措置を講じてないわけではないし、そもそも被ばくを傷害ととらえられるか、というのが難しい」と話した。

>「『自然災害』でなくこれは人災だと、ある程度、確定的に言えないと、(立件は難しい)」

>検察当局は、民意に基づく検察審査会によって、強制起訴になる可能性も視野に入れていた。

>ある検察幹部は「最大限の努力を尽くして、捜査を進める。結果的に起訴できなかったとしても、少なくとも誰に責任の所在があるのかという部分は明らかにしたい」としている。
【FNN ニュース/8月8日(水)18時32分配信】



いよいよ、67回目の「長崎原爆忌」である。


広島のそれと並んで、「厳粛な」式典が執り行われるのであろう。

野田佳彦も、何のおく面も無く参加し、広島でのと同じ様な「意味の無い」スピーチをするのだろう。

ルース駐日米大使も参列するのであろう。

トルーマンの孫も、思いを新たにするのであろう。


そして。

田上富久長崎市長は、政府に「再生エネルギーへの転換政策の推進の明確化」を訴えるのであろう。


しかし、「原発廃絶」は口にしないのだ。

最後の一線を越える発言は、絶対しない。


広暇と長崎の市民達こそが、福島県民と共に「原発政策の廃止」を訴える一番の有資格者である筈なのに。

そして、広島市民と長崎市民の「代弁者」が、市長である筈なのに。


その間にも、大飯原発は最高出力で核分裂を続行し、日本周辺の海底ではプレートが歪み続けているのであろう。


ようするに、何も変わらない。


8月6日は、平穏に過ぎ去った。

野田佳彦に「腐った卵」が飛んだ訳でもなく、「帰れコール」が怒った訳でもなかった。


そして、8月9日も厳粛に過ぎ去るのだろう。

もどかしい限りである。


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産業革命と日本の開国とが産んだ東西融合の美「アール・ヌーヴォー」をオルセーに観る【日曜フォトの旅】

2012-07-22 23:54:07 | 歴史と文化
19世紀のヨーロッパは、産業革命の時代と言う。



19世紀全般にイギリスから始まって、後半はフランスやドイツなどに及んで、工業化の中から『現代』を産み出して来る事になる時代である。

それまでの<石>や<レンガ>に変わって、鉄やガラスが「建造物」を立てる材料となり始める。

そして、工場を現代化した蒸気機関は交通手段も現代化させ、「鉄道」が普及し始める。




それまで、ヨーロッパでは「芸術」は学問であった。

古代のギリシア人達画築き上げた「美の体系」は、ローマ人によって一部が受け継がれ、そのローマ人が「西欧」の基盤を造り上げた。

以後、ヨーロッパでは古代人に頭が上がらず、特にルネッサンスによる「古代文明」の再発見以後は、全て「古代」が優れて居り、如何にそこに近づくく事が出来るかが、ヨーロッパの文化の鍵となった。


芸術とは、各国「王室アカデミー」が継承し受け伝えて行った。


その時代ごとに、そのアカデミーの教授達のやっている事のみが「芸術」と理解され、各時代ごとに『理論』が確立し、その理論が優先し、旗印となり、その理論を受け継ぐ事が芸術の使命となる。

当然、芸術とは「宮廷」を中心とした一握りの特権階級にのみ、関わりの有る物だったのだ。



それが、産業革命で社会構造が変わり始めると、芸術も変わらざるを得なくなって行った。


それまでは、王が変わる度に宮殿の内装を変え、家具調度も変わり、それが廷臣達によって追随されて「◯◯王様式」なるその時代の文化芸術様式が決まって行くのが、常であった。

ところが産業が振興し、新たな社会のシステムに乗り損なった旧貴族達の没落に変わって、資本家と言う新たな特権階級が登場して来るに及んで、王侯貴族との勢力図が変わって行き、芸術の擁護者も変わって行く。


それまでの「◯◯王様式」に依る統一性にこだわらない新興の階層は、ふんだんに使えるお金を使って、自由な発想で美術を取り入れていく。

芸術も、日常性を越えた崇高な「形而上的」存在であった物が、日常の生活そのものの次元に下りてこざるを得なくなる。

形而下を表現するものとなり、何ら「崇高な使命」など存在しない「庶民の生活環境」そのものを表現する様になって行った。

『リアリスム(自然主義)』の誕生である。

小作人の日常などと言う、それまでの芸術が「一顧だにしなかった」様な事柄を表現し始めることにより、芸術の現代化が始まって行く事となる。


それと同時に並行して、新たなる芸術の擁護者となった新興資本家達の、自由奔放な表現に依る、美の極め方の変化も見られる様になるのだ。



そして正にその頃、東洋の片隅で新たな国家が、国際社会の仲間入りを果たした。

黒船と言う「ガイアツ」の為に、日本は開国した。


明治新政府が招聘した「御用学者」と「御用技術者」から始まって、外交官、貿易商、軍人、教育者、正体不明の山師、等など様々な欧米人が、開国した日本を訪れた。

一仕事して帰国するにあたって、彼等が持ち帰った「お土産」は、日本人に取って価値を見いだせていなかった物も、多く含まれていた。

18世紀になるまで「磁器」が焼けなかった西欧では、東洋の磁器に対する憧れが強く、多くの伊万里がヨーロッパに運ばれた。

その「磁器」に混じって、漆器、屏風や浮世絵や掛け軸、刀剣や鍔、印籠と根付け、仏像やら掛け軸やら、招き猫やら暖簾に至るまで、ありとあらゆる「西欧人」が興味を引かれた物が、海を渡った。

そこから、日本の工芸品の美が、西欧美術の一部に影響を与える事となる。

一部の芸術家達が、古代ギリシアに端を発した「黄金分割」や「遠近法」「色彩学」などと言った固定概念からはなれた所に、非常にユニークな表現方法があった事に、気が付いたのである。


『ジャポニスム』の誕生である。



     
     エドガー・マネの『ピッコロを吹く少年』(オルセー美術館蔵)


中学校の音楽の教科書の表紙に登場する、この絵は殆どの人はご存知だろう。

よく見ると、少年が立っている筈の床と、背後の壁との境目が見当たらない。

何処までが背景で、何処からが床なのか…。

まるで、宙に浮いているかの如き表現である。

これが、ジャポニスムの典型的手法の一つである。

つまり、『浮世絵』から得られた「切り取って貼付けた」ような、輪廓線の際立ち具合は、まるで版画の表現そのものである。

掛け軸の「縦長」の画面と言う、西欧美術には無かった画面構成から、画布の下の方に地面を、そして端に背の高い木々を配し、横から来る夕日画生む木の影が地面に長く伸びる、と言う様な印象派の画面分割を産んで行った。



海を渡った、多くの日本の工芸品には、花鳥風月が表されていた。

花や蝶。

蝉や蛙。

月や風。


このような、日常に広く存在して、親しんでいる物を「風流」として芸術のテーマにする発想は、西欧には無かった。


その、日本の美の表現方法と、産業革命に依る新興資本家階級の好みとが、一致して発展したのが『アール・ヌーヴォー』と言えるのであります。



     
     窓の前の鉄の柵


パリの建物の窓には、ほぼ必ず鉄の柵が付けられている。

そして、この写真の鉄柵は、実に優美な曲線が多用されている。

つまり、「自然の中の植物」の作り出す線なのだ。



     
     別の鉄柵


この<線>が、アール・ヌーヴォーの基本である。

バイオ・デザインの原型とでも言えようか。




パリのオルセー美術館は、その社会の転換期19世紀の、特に後半の変化である「現代化」「形而下の表現」を集めた美術館である。



     
     セーヌの対岸から望む「オルセー美術館」



その19世紀後半、社会は鉄道の時代となった。

そして、芸術の中でも最も崇高なる「建築とは石で造られるべきもの」で有ったのが、石に取って代わって鉄骨とガラスが登場して来た、そんな時代である。


その、社会と芸術との変化、現代化の端的なシンボルが「鉄道駅」であった。

1900年の、第4回「パリ万国博覧会」の為に、特に全欧から集う王侯貴族が、それまでの馬車に依る大旅行に代わりに、特別列車でやって来る。

そんな彼等を、特に町の真ん中に迎えるべく造ったオルセー駅は、19世紀後半の社会の変化の象徴ででもあった。

その駅舎を、19世紀後半の美術に宛てて、美術館に造りかえたのでありました。


     
     オルセー美術館内部


この美術館は、19世紀半ば以降に生まれて来る、生活環境に密着した表現である「リアリスム(自然主義)」と「印象派」を集めてある。

しかしその他に、同時代に生まれた、一部特権階級の産み出した<あだ花>『アール・ヌーヴォー』にもスペースが割かれている。



       
     典型的アール・ヌーヴォーのベッド


このベッドの、ヘッドボードの「左右に分かれて流れる線」は、植物の茎のたわみの線である。

そして、足には葉っぱが纏わり付いている。


     
     ベッドの足のブロンズ細工の葉っぱ


このような作品は、単独では余り存在価値がない。

何故ならば、他の調度品とは、全く調和しないからだ。

従って、その他の家具や装飾品も、全て同時に合わせて制作された。



     
     書き物机


このデスクの脚の線は、上のベッドと同じ作りとなっている。

更に別のベッド。


     
     同じ様な、植物の曲線の表現されたベッド



このベッドの、サイドテーブルはベッドと「一体」で造られて居り、しかも柱がテーブル面を「突き抜ける」かの如き作りである。



     
     ベッドのサイドテーブル


更に、別のシリーズのキャビネットやデスク、ベッド周りも見て頂こう。



     
     キャビネット


     
     デスク


     
     ベッドとその周辺


     
     壁際に作り付けられていた筈のベンチ



これらの家具調度品は、最早「工芸品」の域は突き抜けて、立派な芸術品である。

新興ブルジョワジーは、宮廷の「様式」には追随せず、このような自由奔放な、それで居て繊細の粋をこらした美術品を制作する作家達を応援し、自宅を造らせた。


オルセーには、有る屋敷の一部屋の木彫部分を、再現した部屋も有る。


     
     一部屋丸ごと「アール・ヌーヴォー」



そして、この「アール・ヌーヴォー」は、ガラス工芸が存在した「ロレーヌ地方」のナンシーの街を中心とした地域で、先駆けを切る。



     
     ドームのアトリエで制作されたランプ



ドームや、ラリック兄弟、マージョレルなどが、ガラス工芸から、周辺家具、そして建物全体までも、制作して行った。


ナンシーの街には、「アール・ヌーヴォー美術館」があり、このような家具や調度品の山に囲まれている。

更に、ナンシー私立美術館には、「ラリック」のガラス工芸の特別室もあり、壮観である。



ウイーンやブリュッセル、ロンドンやバルセローナと、「同時多発的」に、このような変化が出現した。


『アール・ヌーヴォー(新芸術)』『世紀末様式』『カタルニア・ルネッサンス』など、様々な呼び方で、同時期に同じ様な表現が埋めれて来た所が、非常に興味深い。



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野菜づくりの体系化と洗練化は、ヴェルサイユから始まった。【日曜フォトの旅】

2012-04-15 22:41:20 | 歴史と文化
『ヴェルサイユ宮』



     
     ヴェルサイユ宮の内門



それまでのヨーロッパの、支配階級の「豪華」の概念を変えた。

それまでのヨーロッパの、王侯貴族の「宮殿」に対する概念を変えた。

それまでのヨーロッパの、宮廷生活の「質」を変えた。

それまでのヨーロッパの、政治バランスを変えた。

それまでのヨーロッパの、国家の格式と、国力の表現と、帝王の在り方を変えた。


政治史、文化史で「ヴェルサイユ以前」と「ヴェルサイユ以後」という表現すら、存在する。



     
     宮殿建物の一部



ヨーロッパは、夫々の国家の、民族の起源は皆異なってっている。

常にライヴァルで、影響し、影響され、闘い、戦争が起こった。

勝ち負けは、固定はしない。

或る国はずっと「勝ち組」で、別のある国はずっと「負け組」という事は、無い。

いつか、ひっくり返すチャンスが有る。

しかも、或る一つの国が全ヨーロッパに君臨するという事は、不可能である。

有る国が急激に強大になり始めると、それまで敵同士だった「他の国々」が、その時だけは手を結んで、強大になり始めた国を「寄って集って」引きずり降ろす。

それが、ヨーロッパ。

陸続きなのに、決して「他国の文化」を真似しない。



現在、ヨーロッパは<EU>という共同体に統合されて行きつつ有る。

『日本』(今では中国)と『アメリカ』という強大な二極に、多くの中小の国家に分かれて競争し合っている『ヨーロッパ』の姿では、経済的にも技術的にも、対抗出来ない。

ヨーロッパの発祥以来続いて来た「競争」と「敵対」と「同盟」との繰り返しであったヨーロッパが、千五百年年の対立をすて、小異を捨てて大同に就いた。


しかし、不協和音は絶えない。

EUの最初の発想から連携して来た<独><仏>の二国が、経済力も人口も最大で、その二国の影響力がいつまでも続く事を嫌う、他の国々が反発する。

ジョージ・W・ブッシュの「イラク侵略」の際、国際法上不法であると、独仏が反対すると、西伊が賛成に回ったのが、良い例である。

近い所では、ギリシャの支援を渋る独の例も同じである。


その、価値観がまとまらず、他国の文化に染まる事無く、一つの国が全欧に覇権を打ち立てる事が不可能であったヨーロッパに、ルイ14世が、それらを成し遂げた、


そのシンボルが『ヴェルサイユ宮』である。


その宮殿の庭園は、「庭園」の概念を根底から変えてしまった、と言われた。


     
     庭園正面の展望


ヨーロッパの庭園史上、最高の天才造園師と言われる『ル・ノートル』の発想は、宇宙的構成観を持つと言われている。


その、宏大な敷地の一角に「王の菜園」がある。


ルイ14世の食事は、総勢二百名のシェフ達の手で、毎職二千食作られた。

その時間帯に、役職に就いていない非番の貴族達全員に、食事が振る舞われた。

その食事の「食材」を提供したのが、「王の菜園」である。



     
     王の菜園の一角


宮殿自体の造園師、建築家、装飾家とは別に、わざわざ景観師ル・キャンキネットに菜園の造営を依頼した。

単なる「畑」では無く、単純な観賞用「庭園」でもない、実用と美観と権威の象徴とを兼ね備えた、「王の庭園」を築き、王の食卓に供する<野菜>と<果物>とを作れ、と命じられた。



     
     林檎の木


それまでは、王侯貴族は主に各種の鳥獣の肉を食し、野菜は「農民」の喰うもの、という意識が有った。

農民の事を「野菜喰い」と別名で呼んで、蔑んだ時代も有ったという。


その、野菜をヨーロッパの最高の宮廷で供される食事の為の、食材として「完成度」を高め、体系化したのが、このヴェルサイユの『王の菜園』であった。


今は、農林省傘下の『国立園芸・景観高等専門学校』になっている。

各地の、城や宮殿の「庭園と菜園」の管理者、自治体の公園課幹部職員などを目指す若者が、作物の作付けや、維持管理に当たって居り、定期的に取れた野菜と果物とを、市民に販売しても居る。



     
     校長先生自ら、農作物の専門家である



     
     地下のギャラリー



このギャラリーに、作業用器具や、収穫した作物が置かれている。



     
     作物の並ぶギャラリー



ちょうど、カボチャやナタウリ等が、収穫されていた。



     
     カボチャ


     
     カボチャ


     
     カボチャ


     
     瓢簞カボチャ


     
     大根の一種(先祖種)


     
     ミニチュアのナタウリ


     
     不明の根菜


こんな物も作られていた。


     
     「モナ・リザ」の絵姿を果皮に表した「フジ」



     
     フランス国立造園・景観高等専門学校のポスター





フランスでは、近年それまでに無かった品種の野菜が、急速に好まれる様になって来た。


20世紀初頭くらいまで、日常的であった野菜などで、栽培が難しかったり、生産効率が悪かったり、社会の変化に合わずに好まれなくなったりで、ここ半世紀ないし一世紀程姿を消していた「旧種」が、多く復活栽培される様になって来た。


「タピナンブール」という、根菜が有る。

芋の様で、芋でなく、何かの根っこ。

第一次大戦中の食糧難、続いて第二次大戦中、戦後の食糧難のさいこれしか配給される物が無く、散々食べさせられてフランス人皆が「うんざり」してしまい、戦後急速に消えて行った野菜(の代用品)だった。

それが近年、若手の有能な料理人達の<創意工夫>溢れた料理に使われ始めて、見事復活した。


     
     タピナンブール


その他、何だか分らない(勿論フランスでの名前は有るのだが)芋や根菜が、数多く出回っている。


     


     


     


     




ところで、最近特に「見た事も無かった」種類が多いのが<トマト>である。


これ等、まるでサクランボかグミ。


     
     サクランボの様なグミの様なトマト


その他数多い。


     
     「牛の心臓」

特に最近流行っているのが『牛の心臓』と呼ばれる、先祖帰りのトマト。

私は、勝手に「茶巾トマト」と呼ばせて頂いています。



     


     


     


     


     


     


     
     ポモドードーロ


     


     


     
     各種詰め合わせ


     
     栽培中有の「茄子トマト」(これも私の命名)




ニンジンも、非常に多い。

その内の、ほんの一部をご紹介。


     
     

     


     



大根と蕪も面白い。


     
     大根


     
     大根


     
     大根


     
     蕪


     
     蕪


     
     蕪


     
     蕪



最後に、茄子。



     
     雉子茄子


     
     白茄子



野菜は、装飾にも好まれる。

わざわざ、インテリアの装飾用のカボチャが作られている。


     
     装飾用カボチャ




野菜は、人間の闘争心を薄めてくれるそうです。


さあ、日頃の怒りをしばし忘れて、今夜はうまい野菜を食しませんか。。。





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人間の来し方行く末を巡る僧院の『回廊』は、次元の架け橋、時の止まった小宇宙…【日曜フォトの旅】

2012-03-25 14:24:45 | 歴史と文化
「尼寺へ行け!」

と、シェークスピアは叫んだ。



ヒトが、人間になりかかった頃から、人間は「自分達の来し方」と「死後の行く末」の謎の解明に、必死で取り組んで来た。

行く末が、恐怖であったから。。。


大陽に向かって祈り。
月に向かって祈り。
炎に向かって祈った。

呪術師が神を求めた。
巫女が神を代弁した。


結局の所、人の人生は平では無い。

何か、偉大な物、異様な力、に縋らずして、人は生きて行けなかった。



偉大なる民族、ギリシア人達は、頭脳の理性で「人の来し方」と「行く末」つまり『人間の存在の意味』を体系立てようと試みた。

心の闇つまり<恐れ>に、頭脳の光つまり<理性>を優先させて、ヒトの存在理由を解き明かしてみせた。

『哲学』の誕生である。


その後、2500年、二十世紀前半にサルトルが「自己の知覚」によって、人間の存在を知覚的に実証するまでの長い間、人々は「人類永遠の命題」を、神に求め続けた。


創造主。
造物主。

この発想は、全人類に共通の発想である。

夫々の民族は、創造主を想像し、崇め規範として来た。

その「崇める精神」が、普遍的宗教にまで昇華したのは、『キリスト教』と『イスラム教』である。

共に「ユダヤ教」が基礎となり、途中で「ツァラトウストウラ」と「マニ」の思想が肉付けをし、イエスとムハンマドによって導かれた。


上記二つの宗教以外にも、体系化がなされ多くの人々の価値観の基礎となった宗教は、他にも或る。

それこそ「ユダヤ教」も然りであるが、その他「ヒンドウー教」や「仏教」等も上げられる。

ただ、仏教は「宇宙の創造の哲学」の部分が普遍的というよりは観念的過ぎ、人々の「生活の規範」と、更には死後の平安を求める事に重きが遷って行ったと思える。


「キリスト教」と「イスラム教」とは、『神』への接し方が違う。


イスラムも、人間の「日々の生活の規範」としての側面が大きくなり、「創造」つまり「ヒトの来し方」には、重きを置かなくなっている。


いずれの「時」であっても。

「神など存在しない」

「神を恐れる」

「神より自分自身を信じる」


思考に重きを置くか、神を頼るか、知覚を自己存在の中心とするかの違いこそあれ、人間は「自分達の過去と未来」との追求に、悠久の時を費やして来たのだ。




ところで、キリスト教徒の宗教活動の手段の一つとして『修道院』と言う物が有る。



     
     スペイン・カタルーニアの葡萄畑に囲まれた『ポーブレ大修道院』
     (シトー派)



イエスが、神の御子、即ち「全能の主」自身の化身であるにも拘らず、厳しく激しい修行を自らに課して、わざわざ悟りを極めた。

しかも、驕り昂っており、滅亡の淵にあった人間達を救う為に「自ら十字架に架けられて」その未来を救って下さった。

神の御子ですら、そこまで厳しく苦しまれたのだから、つまらない存在である「自分達」も、主の経験された苦しみの<一端>なりとも追体験するべきである…。


そう思う人達が出て来る。

山奥の洞穴に籠って、瞑想して人生を送る。
砂漠で断食をする。

徹底しようとすれば、単独では成り立たない。

そこで、思いを同じくする人達が集まり、互いに助け合いながら共同生活の中で「修行」を行う事となって行った。

僧院、いわゆる修道院の誕生である。


イエスが処刑されて程ない頃から「その発想」が生まれ、キリスト教のヨーロッパ伝来のルートに沿って、創られて行く事となる。


一切のシガラミを絶ち、家族を捨て、自分の体と時間の全てを神に捧げて、社会と隔絶して「隠棲生活」をするために、人里離れた到達すら困難な様な場所に、建てられて行った。


     
     フランス・ピレネー山中『サン・ミッシェル・ド・カニグー修道院』
     (ベネディクト派)



ギリシアには、いまだに「人力エレベーター」に乗らないと、到達出来ない峻険な峯の戴きにへばりつく修道院がある。


五世紀後半、イタリアのとある修道院での目覚ましい修行と勉学とが認められ、修道院なる組織自体を整備し、戒律を定めてシステムを確立した『ベネディクトウス』が、その戒律をローマ教皇に認可されて、「ローマ教皇直轄」の公的組織としたのが『ベネディクトである。



     
     スペイン・アラゴン山中の山肌の窪みに抱かれた『サン・サルバドール・ド・レイーレ王立大修道院』
    (クリューニー会)



その本家ベネディクト会に属した、フランス・ブルゴーニュ地方「クリューニー」に本拠を置いた『クリューニー会』修道会が、一世を風靡しする。

時あたかも<ゴシック>新技術を生んだ「王室大司教シュジェール」のもたらした新時代が、神の館を<荘厳>で<神秘的>且つ<手の込んだ>美しい物にしたい、という意志。

教会建築は、精密を極めた彫刻やレリーフで飾られ、神々しいまでに美しいステンドグラスの光が堂内を煌めかせた。

クリューニー会は、フランス各地に350支部、全欧で1000もの系列修道院を持つにいたった。


そこに反旗を翻した修道僧あり。

「神様は華美な物などお求めになって居られない」

聖職者たるもの、質素を旨とし、倹約に励み、ひたすら魂の平和を求めるべし。


『シトー会』の誕生である。


     
     フランスとイタリア国境、アルプスの峠に立つ『聖ベルナール』



シトー会の系列『クレルヴォー修道院』の院長「ベルナール」は、修道会の戒律を徹底的に見直し、戒律の中でも特に労働と学習を重んじ、自ら農具をとり農民らを指導して、森林に覆われていた北フランスの開墾や新農法の普及を行った。

壮麗・華美なクリュニー会と異なって染料を用いない白い修道服を着たことから、シトー会士は「白い修道士」とも呼ばれる。

この『サン(聖)・べルナール』が、ローマ巡礼に向かう巡礼者の遭難者を救うべく、アルプス山中に「避難小屋」を建て、救済組織を築き、行方不明の遭難者を発見救出するため、「ピレネーの山岳犬」をアルプスに移植して、発達したのが『セント・バーナード(サン・ベルナール)犬』である。


シトー会も、フランス全土に250支部、全欧に500余りに系列修道会を持つに至る。

一切の装飾を拒否し、機能性のみを貫く。


ただ、反動で技術や文化が停滞し、厳しすぎる集団生活が修道僧達を挫けさせ、貴族的風習を否定する事で王侯貴族の支持が薄らいで行き、『フランチェスコ会』や『ジェジュイット会』等の新しい動きの発生と共に、衰退して行く事となる。


いずれにせよ、修道僧達は「魂の平和」を求める為に集い、集団生活の中で<静謐>と<規律>と<服従>とを合い言葉に、己の内面を見つめながら暮らして行った。


その現場が「回廊」であった。


修道院の創られる手順は、決まっている。

先ず、教会堂を建てる。
「修道院聖堂」と呼ぶ。
一日に何度も何度も、修道僧全員での典礼を行う。

次に、宿坊。
野宿しながら建立に励み、取り敢えず「夜露」をしのぐ場所を必要とした。
大部屋での寝起き。

その後、厨房と大食堂。

更には、書庫。
聖遺物等を納める宝物殿。
水車小屋や鍛冶場その他の作業場。

その間に、「修道院長」の為の執務室や寝室。

そして、時間が空いた修道僧達が、体を休め、くつろぎ、日頃解けないで留まっている宗教的命題等を考えながら、瞑想に浸って、ゆっくりと歩む為の『回廊』。

それらが順次完成して、最後は「娑婆」と隔絶する為にも「塀」で取り囲む。


回廊は、修道院の建立と共に、閉鎖されるまでの数世紀間、数えきれない修道僧達が、「神と人間」との関係、「神と宇宙の真理」「生きる為の指標」を、各自の頭の中で求め続けた、時空を超えた「人間の精神活動」の拠点であった。


回廊は、普通正方形で(土地の都合や設計上の必要から、歪んでいる事は或る)中にパティオ状の庭園を有する事が多い。

そこでは、薬草を育て、薬を作っていた。




《ポルトガル/アルコバーサ王立大修道院》


     
     教会堂を中心とした外観


     
     回廊のアーケード


     
     アーチの装飾ディテール

この修道院の中に、『ポルトガル無名兵士の墓』があり、かっては陸軍兵士が警備していた。




《ポルトガル/エヴォラ王立大修道院》


     
     修道院が持つ大聖堂


     
     回廊


このエヴォラでは、『天正遣欧使節団』の少年達がポルトガル国王の歓待を受けた。



《スペイン/グアダルーペ修道院》


     
     聖堂全景


     
     回廊の中庭からアーケードを望む


     
     回廊の別の角度


ここは打ち捨てられていたが、20世紀初頭「フランチェスコ会士」が再興し、今でも修道僧達が生活している。




《スペイン/サラマンカ大聖堂付属大修道院》


     
     サラマンカ大聖堂


     
     アーケードの装飾


     
     中庭よりアーケードをみる


大学都市として名高いが、かっての学問は「神学」であり、大学はカトリックの管轄下に有って、大学を持つ町の「大司教」は、特に高位に列せられ、大聖堂も見事である。




《フランス/サン・ベルトラン・ド・コマンジュ修道院》


     
     回廊


     
     回廊の内側から


南仏ピレネー山脈の麓、丘の上の小さな村に、この修道院の聖堂だけ巨大な偉容を誇り、遠くからで望む事が出来る。

13世紀から15世紀、「サン・チヤゴ・デ・コンポステル」への巡礼が盛んだった頃は、隆盛を極めた札所であった。




《フランス/サン・ジャン修道院病院》


     
     正面進入路


     
     回廊内側から


     
     回廊アーケードより中庭を望む


南仏プロヴァンス地方のサン・ポール・ド・プロヴァンスの村はずれに或るここに、アルルから強制入院を逃れて来た「ファン・ゴッホ」が、一年間入院課料にあたった。




《フランス/サン・マルタン・ド・カニグー修道院》


     
     回廊半景


     
     回廊内側


南仏ピレネー山脈の、巡礼路に或る町の、ロマネスクの名刹である。




《スペイン/セウ・ドウルジェイ大聖堂付属修道院》



     
     セウ・ドウルジェイ大聖堂外観


     
     回廊アーケード

     
     回廊越しに大聖堂の鐘楼を望む


ピレネー山脈のまっただ中、半独立国『アンドーラ大公国』の大公を、フランス側の「フォアの大司教」と一年おきに務めた『セウ・ドウルジェイ(標準スペイン語でセオ・デ・ウルヘル)の大司教も、強大な大諸公であった。




《スペイン/タラゴーナ大聖堂付属修道院》


     
     タラゴーナ大聖堂正面全景


     
     回廊から大聖堂を望む


     
     回廊と大聖堂


北東スペイン、カタルーニアのこの町「タラゴーナ」は、ローマ時代は『ヒスパニア』の首都であり、皇帝都市であったため、この町の大司教も有力聖職者で、大聖堂には立派な修道院が付属している。





《フランス/サン・フィリベール修道院》



     
     町の城壁の縄文の塔と修道院聖堂正面


     
     回廊の一部


フランス・ブルゴーニュ地方は、ロマネスク様式の開花した地方で、数多くの名刹がある。

特に、このトウールニュの町の修道院のサン・フィリベール聖堂は、尖塔アーチのロマネスク教会の名建築の一つと、謳われている。




《ポルトガル/バターリャ王立大修道院》


     
     修道院聖堂を中心とした修道院正面全景


     
     回廊


     
     アーケードのディテール


ポルトガルの首都、リスボンともう一つの有力都市ポルトの間に、先のアルコバーサと、ここバターリャ、さらにはトマールと、見事な王立修道院が集まっている、



《フランス/フォントヴロー王室大修道院》


     
     回廊の一つ


     
     一つの回廊にある「会議室」の壁画の或るアーチ越しに中庭


     
     大厨房側面


     
     大厨房の天井全体が煙突となっている


フランス中央部を東西に流れる、フランス一の大河『ロワール河」流域の、世に名高い「古城地帯」の一角のこの旧王室大修道院は、イングランド王家『プランタジュネット朝』の実家「アンジュー家」の領地であった。

この修道院の聖堂に、開祖『ヘンリー2世』と、フランス王妃で、離婚の上ヘンリーに嫁した王妃『アエレノール・ダキテーヌ』の墓が有る。




《フランス/フォントネー大修道院》


     
     内部の一部遠景


     
     中庭側からの回廊


     
     回廊のアーケードから中庭を望む


     
     回廊内側


フランスでも、もっとも名高い名修道院である。
南仏プロヴァンスにあり、森の中にひっそりと今日に残っている。




《スペイン/ブルゴス大聖堂付属王立大修道院》


     
     大聖堂正面全景


     
     塔の明かり取りの開口アーチの天井


     
     回廊


この町も、「サン・チャゴ」への巡礼路の一大拠点である。
カススティーリャとレオンの統一王朝の首都であったこの町の校外で、『エル・シッド』が誕生して居る。

この大聖堂は、セヴィーリャ、トレドについでスペイン第三の規模を誇る壮麗な物である。





《フランス/ル・トロネ大修道院》



     
     正面の門


     
     上から見た回廊


     
     回廊のアーケードからの中庭の眺め


     
     回廊の一部から入る「会議室」のアーチと、回廊のアーチとからの中庭の眺め


この、「ル・トロネーも」先のフォントネー、さらに「セナンク」と並ぶ、プロヴァンスが誇る三大修道院の一つである。




目下、祖国は人心ミダレに乱れ、国土は荒廃の一途をたどる一歩手前まで来てしまった。

上に立つ物は、平気で庶民を騙し、庶民を搾れるだけ搾って、自分達だけの社会の繁栄に汲々として、ありとあらゆる破廉恥な高位を繰り返して、恥じる所が無い。

下の物は、上に立つ物に騙されている側と、信用せず反攻する側とに分かれて、お互いにいがみ合わされている。

人間の知恵と努力とでは解決出来ない、重大な汚染を押し付けられて、それから逃れる術すらない…。


こんな事で、この国の国民覇「人間として」生存を続ける事が出来るのだろうか。

考えざるを得ない。

しかし。

私たちは、「沈黙の羊」では決して無い。

このような、悪条件の中で、自分と自分の家族の安全を確保し、自分の属する社会を守り、ひいては日本という国自体の存続と平安と、更なる発展をもたらすには、夫々は何を成すべきか。


考えよう。

考えて、考えて、行動しよう。

正しい道を選んで、正しい明日の為に。


未来は、絶対にある。
希望は、絶対にある。

人間は、自分達の存在を自ら否定する事は、許されないのだから。

しっかり考えて、正しく行動し、未来を勝ち取ろう。




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「カレーの市民」にみる、自己犠牲の葛藤と決断の覚悟を、感じ取れれば…明日は来る【日曜フォトの旅】

2012-03-18 23:52:07 | 歴史と文化
百年戦争。


イングランド王家は、1066年の「ノルマンディー公ギヨーム」による、統一王朝の成立で始まった。


日本では『英仏百年戦争』と呼ばれる戦いの起源は、ここに或る。

今の「イギリス」は、「イングランド王国」「スコットランド王国」「ウエールズ大公国」の集合である『グレート・ブリテン』と、『アイルランド王国』との<連合王国>の事である。


現代まで続くイギリス王家の最初の起源は、土豪国七王国時代のイングランド地方の主要国「イングランド」王位をフランスのノルマンディー公ギヨームが相続し、それに反対した先代イングランド王の義理の弟ハロルドによる王位簒奪を討って征服し、「イングランド王」として即位、さらにイングランド地方の残り6各国を征服した事によって興る『ノルマン征服王朝イングランド王家』が起源である。

ノルマンディー公ギヨーム改め、ノルマン征服王朝『イングランド王ウイリアム1世』となる。

その時点で、フランスの封建諸公領であった「ノルマンディー」が、イングランド王家の領土となってしまった。

その頃、相前後して、西隣の『ブルターニュ公爵家』の内紛に乗じて『ブルターニュ』を併合していた。

征服王朝は三代目で男子が居なくなるが、三人目の王の娘『マチルダ』が、フランスの有力大貴族『アンジュー伯ジョフロワ』に嫁ぐ。

アンジュー伯爵家は、歴代フランス王に娘を多数嫁がせた、王家の外戚であり、さしずめ「藤原家」か「曽我一門」か、と言うべき名家であった。

フランス中央部を南北に分けて西へ流れる「ロワール河」下流域の大領主であった。

首都はアンジェ。


     
     アンジェ城の城壁



その間に出来た男子『アンリ』が、同ノルマン征服王朝の親戚であったブロワ伯との20年に及ぶ継承戦争の後、イングランド王となって、「ノルマンディー家」が出したイングランド王家に、「アンジュー家」の血を半分入れた新たなフランス系イングランド王朝が成立する。

『プランタジュネット王朝』の成立である。


つまり、フランス有数の大貴族の領地「アンジュー」が、イングランド王家の領土となった。

その、プランタジュネット初代国王『ヘンリー2世』に嫁ぐのが、時のフランス国王『ルイ7世』の妃であった『アエレノール・ダキテーヌ』である。

彼女は、当時フランス最大の勢力であった「アキテーヌ侯」の一人娘であった。

従って、女性ながら、フランス南西部ピレネーまで続く大諸公の領地『アキテーヌ』を継承していた。

ポワトー、サントンジュ、ケルシー、アルマニャック等等の爵位を包含する。

そこも、イングランド王家の所有物になってしまう。


     
     ポワトーの首都ポワティエの城


     
     ポワティエにあるロマネスクの名刹「ノートル・ダム・ラ・グランド」



そこで、13世紀半ばにイングランド王家は、フランス国内の実に40%程にも及ぶ領地を所有していた。

ちなみに、この「ヘンリー2世」と「アエレノール」との間に出来るのが、『小ヘンリー』『リチャード獅子心王』『ジョン欠地王』など等である。


     
     ロワール河流域フォントヴロー王立大修道院の「アエレノール」の墓


     
     同「リチャード獅子心王」の墓


1066年「ヘイスティングスの戦い」で、ノルマンディー公ギヨームがイングランド王になった時点から、フランス王とイングランド王との領土争いの戦いが始まった。

とぎれとぎれに、四百年強続く事になる。

その、最後の百年強は、単なる両王の領土争いという「私的財産争い」の戦いから、フランスの王位が絡む事で意味合いが「主権争い」となった。

その部分を『百年戦争』と呼ぶ。


開始早々、イングランド王のエドワード3世は、クレシーの戦いで勝利を収める。

その後、1347年、英仏海岸の港町「カレー」を包囲。
フランスのフィリップ6世は、なんとしても持ちこたえるように町に指令した。

しかしフィリップ王は包囲を解くことができず、カレーを解放出来ない。

飢餓のため町は降伏交渉を余儀なくされる。

エドワード王は、町の主要メンバー6人が自分の元へ出頭すれば町の人々は救うと持ちかけたが、それは6人の処刑を意味していた。

エドワード王は6人が、半裸に近い格好で首に縄を巻き、城門の鍵を持って歩いてくるよう要求したのである。


町の裕福な指導者のうちの一人、ウスタシュ・ド・サン・ピエール(Eustache de Saint Pierre)が最初に志願。

すぐに5人の市民が後に続く。

ジャン・デール(Jean d'Aire)
ジャック・ド・ヴィッサン(Jacques de Wissant)
ピエール・ド・ヴィッサン(Pierre de Wissant)
ジャン・ド・フィエンヌ(Jean de Fiennes)
アンドリュー・ダンドル(Andrieu d'Andres)

合計六名の「志願者」は揃った…。



パリに有って、名前が知られ始めていた新進彫刻家『ロダン』は、この時の『六名の勇者』の像を制作する。

1880年、カレー市長により町の広場への設置が提案され、ロダンに発注された。


サン・ピエールを先頭に、町の城門へと歩いたやせ衰えた6人。

まさにこの、敗北、英雄的自己犠牲、死に直面した恐怖の交錯する瞬間をロダンは捉え、強調し、迫力ある群像を作り出したのである。

完成は1888年。



     
     「カレーの市民」


この群像は、カレー市庁舎の前に置かれている。


時あたかも、『普仏戦争』の敗北直後と有って、フランス全土が破壊的被害を受けており、国民全体が意気消沈しているときであった。

フェランス全土で、国民の心に希望の火をともす為に、愛国心を再度かき起たせる為に、各種の記念物が作られた。

パリ、モンマルトルの丘の『サクレ・クール聖堂』
リヨン、フールビエールの丘の『ノートル・ダム・ド・フールビエール聖堂』
マルセイユ、カンヌビエールの丘の『ノートル・ダム・ラ・グラース聖堂』


カレーの町に於いても、祖国の名誉の為に犠牲となった多くの若者達が居た。

それら若者達の犠牲を、顕彰することが切望されていたのだ。


しかるに、ロダンのこの作品は、市民を英雄的表現ではなく、むしろ陰気で疲れきった姿として描き出した。

当然スキャンダルを巻き起こしたのだった。

当時、ロダンとしてはこの作品を「地面の高さに」据える様に希望していた。

鑑賞する「市民達」が、主人公達の心の動きを<同じ目線>で感じ取れる様に。

しかしロダンの死後、市当局は旧来の「芸術作品」としての「記念碑」の扱いで、高い台の上の据えた。

設置は1895年。

ロダンの求めた<鑑賞者と同じ地面の高さに展示することと>という求めに戻されたのは、1925年になってからの事である。


     
     美しい花壇に囲まれた、恐怖と苦悩と英雄心との葛藤の群像


     
     志願した若者の、心の中を見事に映し出したディテール


     
     達観と諦めとの混じり合った初老の志願者


全体像から感じ取れる、丸一年の包囲を通しての「疲労感」や「飢餓感」が醸し出す、言いようの無い辛く重苦しい雰囲気が強い圧力となって、鑑賞する者に届いて来る。

具体的に、細かく表情や姿勢を観察すると、極限状態に置かれた人間の持つ「緊張」と、高貴な決意の発露からなる「気高さ」を感じる。

更に見つめると、その奥から「心の揺らぎ」や「後悔」、さらに「諦め」や「虚無」など、様々な感情が放射されて、私たちの心を射抜く。

言葉が出てこなくなる。




この作品は、オリジナルの粘土像から型を取って、ロダンの死後12組作成された。

勿論、ここカレーの市庁舎前に飾られているのは、第一番のナンバーが与えられている物である。

後の作品は、世界各国に分散し、オリジナル通りの群像で於かれているケースもあるが、多くの場合、一体ずつ離して展示されている事が、少なく無い。



日本は、まさに未曾有の災害に打ちのめされている。

国民の一人一人が、祖国の将来の為に、自分が出来る事を尽くして努力しなければならない局面に、追い込まれていると言って、過言では無いのでは無いか。


政治には期待出来ない。

行政も、市民の見方とは思えない。

財界も、マスコミも、一般市民を食い物にして、自分達だけ生き延びる算段を考えている様に見える。


このような社会を造り上げてしまった後悔。

自分達が、自分達を守らない社会を造り上げて来た事に気がついた、苦く悔しい思いに直接向かい合わされている。


前に出よう。

疲れと、いら立ちと、後悔と、怒りと、家族や同胞への愛情のないまぜになった、命の叫びを上げ続けなければならないのだと思う。

夫々が、夫々の大切な社会の為に、自らを差し出さなければならない。

苦しみや、哀しみや、怖さや、恐ろしさや、そんな負の感情を、隠す必要は無い。

自分達の心の感じるままに、声を上げよう。
進み出よう。

カレーの市民の「自己犠牲」の様に英雄的行為でなくとも、一人一人の覚醒が「日本を変える」事が出来る力となる事を、信じよう。



必ず、夜は明ける。



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『シャンパーニュ』液体の宝石の造られる現場への誘い【日曜フォトの旅】

2012-02-26 23:27:50 | 歴史と文化
人の歴史と共に、酒が存在したと言う。

『命の憂さを払う玉箒』
「酒無くて、何のこの世の命かな」


でもって、世界中に人種の数以上に存在する「お酒」の中の、『宝石』と言われるのが<シャンパーニュー>である。

蒸留酒では無く、「醸造酒」であるにも拘らず、葡萄を絞ってから最低3年、良質の物となると10年以上の年月を経て、人々ののどを潤す。

ダイヤモンドの煌めきに比せられる、繊細できめ細やかな「泡」を立ち上らせながら。


その、シャンパーニュと言うお酒は、ワインの一種である。


ワインとは、言うまでもなく<葡萄>から醸されるお酒。

いろいろな種類のワインが存在する。

色で分けると。
「白ワイン」
「ロゼ・ワイン」
「赤ワイン」

やや上級になれば。
「黄色のワイン」
「灰色のワイン」
「緑のワイン」


糖分の存在で分けると。
「ドライなワイン」
「甘いワイン」
この<甘い>ワインには、甘みを残すプロセスでまた各種ある。
「貴腐ワイン」
「アイス・ワイン」
「遅摘みワイン」
「藁のワイン」


そして、<状態>で分けると。
「スティル・ワイン」
「スパークリング・ワイン」

スパークリング、即ち<発泡>ワインにも、その泡の発生のさせ方で、いろいろなタイプが有る。

醸造の過程で、完全に発効が止まらない状態が続くのを、そのまま瓶に詰めてしまうと、微かに泡が残る。

ポルトガルの「ヴィーニョ・ヴェルデ」や、イタリアの「カヴァ」の様に。
この種類は「微発泡ワイン」と呼ばれる。

次に、人口的に泡を造り出すやり方。


これの一種が、シャンパーニュである。


フランス東部、パリから50キロから150キロあたりに『シャンパーニュ地方』がある。

かっての、「シャンパーニュ伯爵」の領土で、中心都市は『ランス』と『トロワ』と『シャロン』。


     
     ランスのノートル・ダム大聖堂


ゴシック建築教会の<華>と言われる最高傑作のカテドラルが有り、歴代フランス王が戴冠式を行った。


     
     素晴らしいステンド・グラス


     
     シャガールのデザインになるステンド・グラス



先ず、生産地の区域の限定。

この『ランス』と『シャロン』そして『バール』と言う街に挟まれる三角形の土地の中で生産される事。
土地の「土壌」の特殊性が、他の土地にでは得られない結果をもたらします。


次に。

伝統的な「独自の製法」に忠実に造られる事。


その条件を満たして、始めて『シャンパーニュ』と名乗って商品として売り出す事が出来る。

その、伝統的製法とは。


先ず、葡萄の品種の限定。

黒葡萄の『ピノ・ノワール』と『ピノ・ムニエ』
白葡萄の『シャルドネー』
のみが、認められる。

一ヘクタール当たりの「株」の数も法的に規制されている。

葡萄を収穫した村で搾る。

一度の圧搾に「4トンの葡萄」を小刻みな三回絞りを三度。

何故、小刻みに九回もプレスするかと言うと、力をかけすぎると種や果皮を傷つけて、不純物が混じって来るから。
静かにゆっくりと、圧搾する。

それで合計2550リットルの果汁を搾る。
以上でも以下でもない。

最初の一絞り目は、ホコリやその他が混入している可能性が有るので、捨てる。
最後の三回目の三回目も、種や果皮が潰れて「タンニン」が出て来るので、捨てる。

後は、普通の白ワインの醸造プロセスと同じ。
ただ、品種ごと、畑ごと、夫々別々に発酵させる。

通常は、ステンレスの発酵タンクの中で。


     
     発酵タンク


発酵という化学変化は、葡萄の果汁の「糖分」を、果皮に生息する酵母が分解して、「熱」と「二酸化炭素」と「アルコール」とをもたらす過程を言う。

非常にデリケートな温度管理が求められ、酵母の敵である他の細菌などの混入を防ぎやすいため、最近はこのようなステンレスのタンクが使われ、温度管理はコンピューターで監視されている。


しかし、中には昔ながらの困難を伴う「樽発酵」を止めない蔵本も有る

樽仕込みは、温度管理や衛生管理の面だけでなく、葡萄自身の品質が飛び抜けて良く無いと、「白ワイン」は木のタンニンに負けてしまうので、例えばブルゴーニュの『モンラッシェ』など、グラン・クリュ(超一流銘醸酒)のクラスでないと、行われない。

シャンパーニュでは『クリュッグ』のみが、樽仕込みを行っている。


     
     『クリュッグ』の発酵用の樫の樽


葡萄の糖分が、酵母によって分解されてアルコールが発生する。
この過程を、「アルコール発酵」と言う。

9月末に摘み取り、10月初旬には発酵が終わる。

その後、静かに安定させて置き、ある環境(気温その他)が整うと、やがて又微妙な発酵が起こる。

葡萄の果汁に元来含まれている<リンゴ酸>が<乳酸>に変わるのだ。
このプロセスを「乳酸発酵」と呼ぶ。

それで、始めて「白ワイン」の誕生。
ここまでを「一次発酵」という。


赤ワインも同じであるが、乳酸発酵を経ないと「舌をさす」刺激のある酸味のままで、美味しいワインにはならない。

この「乳酸発酵」が自然発生する為に大変デリケートな温度管理が求められる。

このような「発酵のメカニスム」が解明されたのは、僅か数十年前の事で、それ以前は自然の気温変化で、乳酸発酵が起こらなかったり、或はボトルに詰めた後で起こって破裂したり、ワイン造りは「神様のご意志」次第だと、信じられていた。


『シャンパーニュ』が造られるのはここから先である。

出来た白ワインは、畑ごと品種ごとに、蔵本にも依るが数十種から百種を越える程の種類に分けられている。

それを、『オーナー』と『セラー・マスター』とで、利き酒をしながら、<どの>ロットと<どれ>とをブレンドして行くか、を決める。

つまり、シャンパーニュは「有るメーカーの製品」は、世界中のどこで何時買って飲んでも、常に「その味」という物を守って行く為に、毎年ブレンド作業が非常に重用となるのだ。

「モエ・テ・シャンドン」のブリュットは、<この味この香り>なのであう。


ブレンドが決まったら瓶に積める。

その際、同じ白ワインで砂糖をとかした「リキュール」と呼ぶ糖分を加え、少量の酵母も加えて、王冠を打って密閉する。

砂糖は必ず「サトウキビ」製。
というのも、ヨーロッパで砂糖は普通「ビート(甜菜=砂糖大根)で造られるが、コクが無い。


その状態で地下深い「カーヴ」におろし、水平に積み重ねて「長時間」寝かせておく。


「カーヴ」とは一般的にワインの熟成用の地下室の事を指す言葉である。


     
     『ポメリー』社のカーヴに下りる階段(下から見上げた光景です)


ここシャンパーニュ地方は、古代にローマ人が建築石材を切り出した立坑が数多く残っていた。


     
     トンネルの要所要所に残る、ローマ時代の立坑が空気抜きとなっている


その立坑を繋いで掘り抜いたトンネルで、各蔵本が独自に敷地の地下に持っている。

おおて蔵本になると、総延長距離30キロメートルにも及ぶ。


     
     地下のカーヴにおろされて、積まれているボトル


光のほとんど届かない、温度変化も無く年間を通じて10度ないし13度ほどで、湿度75%から90%もある地下の「熟成倉庫(カーヴ)」に、寝かせる。


そうすると、添加した酵母が添加した糖分を、瓶の中で分解し新たな発酵が始まる。

二次発酵「瓶内発酵」と呼ぶ。


もし瓶が破裂した時、総崩れにならない様に、水平積みの一段ごとは「桟木」が通されている。


     
     首と底とを互い違いに水平に積まれた瓶(青い部分は王冠)一本破裂している


その「瓶内発酵」で発生する<熱>はカーヴの冷気で吸収されてしまうが、<炭酸ガス>は王冠で密封されている為に、逃げ場が無い。

その「ガス」が、ワインにとけ込んで『泡』となる。


この「発酵の秘密」を発見したのは、ある修道僧であった。


     
     黒葡萄「ピノ・ノワール」が作付けられている『モンターニュ・ド・ランス』


「ランス」と、その南30キロに位置する「エペルネー」の町の間に、標高200メートル程の山が有る。

その『モンターニュ・ド・ランス(ランス山)』の一角に『オーヴィレール』という修道院が有った。


     
     この森の奥に『オーヴィレール修道院』の教会堂が残っている



その修道院で造るワインを管理していた修道僧が『ドン・ペリニョン』師といった。


     
     『モエ・テ・シャンドン』本社にある「ドン・ペリニョン」師の銅像


ある年の春、その前の秋に仕込んだワインが、倉の中で全部破裂していた。

悲しくて、悔しくて、彼は割れた瓶の底に残っていたワインを舐めてみたら、今まで飲んだ事も無い美味しいワインになっていた。

彼は、必死で研究して「瓶の中で起こる発酵」に気がつき、それを人技的に起こす技術を確立した。



     
     オーヴィレール修道院聖堂


この教会に、「ドン・ペリニョン」師は眠っている。


     
     「ドン・ペトリュス・ペリニョンここに眠る」とかかれた墓碑銘


かくして人間は、「泡を吹くワイン」を造り出す。


瓶の中で発酵を起こした酵母は、糖分が無くなると死滅して滓となる。

発生した炭酸ガスが、瓶の中の気圧を6気圧程に高める。
酵母のカスは、「オリ」となって瓶内に残っている。

その「オリ」が瓶内に留まる時間が長ければ長い程、ワインはきめ細かく繊細になって、泡も細かく芳醇になる。

従って、瓶は寝かされたままの姿で最低3年、葡萄の作柄の特に良い年の物は5年から7年、眠ったままに置かれる事となる。

大手の蔵本では、数百万本が眠っている。

小口の「造り酒屋」程度の農家は、何年も眠らせると「固定資産税」を負担しきれないので、2年熟成させれば「シャンパーニュ」と名乗って商品化して良いと、法的に決まってはいるものの、よりきめ細かな泡が長時間途切れずに立ち上る様な仕上がりには、2年では短すぎるのだ。

作柄の良い年の、「ヴィンテージ」をつける物は、最低5年は寝かせる。

各メーカーの「最上位」の商品、例えば『ドン・ペリニョン』や『ルイーズ・ポメリー』クラスだと10年以上寝かせておく。

クリュッグは、一番安価なタイプでも5年では出さない。


各蔵本では、本当に素晴らしかった年、従って性格が強いため長持ちするものは、特別オーダー用になくなるまで保存してある。

オリが入ったままの状態で置いておくと、劣化しない。


     
     宝物の様な古い瓶のストック


     
     特別の許可を戴いてフラッシュを焚いて写した


クリュッグでは、なんと1874年の物が一瓶保存されていた!



セラー・マスターが定期的に利き酒をして、これ以上時間をかけてやっても「これ以上にはならない」と判断した時、いよいよ「最後行程」にかけられる。


瓶の内側にべったりくっ付いている「オリ」を取り除かなければならないのだ。

その段階になると、瓶を『ピュピートル(動瓶棚)』に、首を引っかける様にして差し込む。

最初はほぼ水平に。

そして、「動瓶師」と言う専門家が、毎日各瓶を少し左右に回す動きをして
は八分の一程、回転した状態に変えて、瓶の角度も少しずつ変えて行く。

瓶の底に一カ所印を付けておいて、時計の時刻の位置で何分の一回転させたかが分る。

棚の板の厚みを利用して、入り口と出口で大きさが違って居り、瓶の首を奥に差し込めば、瓶が水平から垂直に近い角度へと変わって行く。


     
     ピュピートルに差し込まれた状態の瓶


揺すって、回転させて「オリ」を瓶の壁面から「そっと」剥がし、瓶の角度を変えて行く事で、徐々に「首の方へ」おろして行く。


二~三週間かけて、オリを「中身が濁らない様に」慎重な手順で首の位置に集めてしまって、瓶の首の部分だけを「冷凍液」に数分浸けると、オリの部分だけが凍ってしまう。

王冠を抜くと、内圧で氷った<オリを含んだ氷>が飛び出して来る。

それで、瓶内にオリが無くなり、完全な清酒の状態になるのだ。

その際、内部の圧力が二気圧程減って、四気圧程(4バール)になる。


氷ったオリを取り去って減った分だけ、同じお酒を注ぎ足す。
その時点で、ほんの少量の砂糖液(サトウキビの砂糖+発泡する前の白ワインン)を加える事で、味を調整する。

その後、例の「シャンパーニュ」のシンボルとも言える<コルク栓>を打って、圧で抜けない様に針金をかけ、ラベルを貼る。


以上のプロセスを「全て正確に」経る事で、『シャンパーニュ』と名のる事が「法的に」認められるのです。



世界中で造られる「発泡ワイン」は、せいぜい数ヶ月から、長くても一年で出荷する為、気泡が大きく荒く、30分もすると抜けてしまう。

シャンパーニュは、コストを度外視して「長い年月」を与える事によって、あれだけきめ細かい繊細な泡が立ち、グラスに注いで一時間経っても、泡は立ち続けるのだ。


     
     クリュッグの「テイスティング・ルーム」



バブルの頃お水の世界で、売り上げを上げる為に「お腹がふくれない様」に泡を飛ばして飲む事が見られた。

あの繊細な「泡」を造り出す事に、大げさに言えば「命をかけてる」作り手に取っては、酷なはなしである。



     
     ポメリー社の最高級シャンパーニュ『キュヴェ・ルイーズ』


     
     ポメリー社の一部外観


     
     19世紀末、パリ万博にポメリーが出品した「大樽」


この巨大な樽は、樽造りの技術を示す為に、万博に出品された。
デザインは、あのアール・ヌーヴォーの旗手『エミール・ガレ』でる。


     
     ガレのサイン




さあ、至高の飲み物が完成した。

あとは、美味しい食事が欠かせません。


ランス一のホテル『レ・クレイエール』の食事は素晴らしいです。


     
     レ・クレイエール

このシャトーは、ポメリー社の中興の祖『ルイーズ・ポメリー』が建てた。

今は、ランス「シャンパーニュ事業者協会」の共同出資でホテルに改造されている。


     
     緑豊かな敷地に悠然と立つ「レ・クレイエール」

ここのレストランは、かって名シェフ「ボワイエ」氏が3つ星を持っていた。

息子が継いで、更に今は別のシェフに委ねられて二つ星を誇っている。



しかし、私がお勧めしたいのは「モンターニュ・ド・ランス」の畑のど真ん中のホテル。

シャンピオン村に有る、かっての馬車の馬を取り替える「宿駅」で有った『ロワイヤル・シャンパーニュ』である。

以前、拙ブログで既にご紹介した事が有るのだが。


     
     ナポレオンも泊まった「ロワイヤル・シャンパーニュ」



何しろお部屋から、そのまま「葡萄畑」を見晴らせる。



     
     窓から葡萄畑が! 外のテラスには寝椅子も完備


     
     この景色が貴方の物


     
     レストランの一隅


ある日のディナーをご紹介しよう。


     
     「アミューズ・ギュル(突き出し)」


ハーブのクリームに、ハーブのギャレットに、スモーク・サーモンに…。


     
     前菜(1)


ポロネギと、フォワ・グラのエミュルジオン(泡仕立て)。


     
     前菜(2)


鹿のテリーヌ。


     
     メイン(1)


ラングスティーヌ(手長海老)と、グリーン・アスパラ


     
     メイン(2)


ホタテとハーブのエミュルジオン・ソース


     
     メイン(3)


小鳩のロースト(胸肉と手羽)。


     
     デザート


最後は、エキゾチック・フルツーツ(マンゴーやパション、グァヴァ)風味のスフレで。


ちなみに、このレストランは一つ星です。


口福はお届け出来ませんので、せめて眼福だけでも。。。。。


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「ヒゲと天才とカタルーニア」と言えば、答えは一つ/ダリは狂気を演出した貴族であった【日曜フォトの旅】

2012-02-19 21:34:16 | 歴史と文化
カタルーニア。

スペイン北東部。

首都はバルセローナ。

その他の中心都市は、ジローナ(ヘローナ)。

ピレネー山脈を北に越えて、フランスのラングドック地方は、同じ文化圏である。


その『カタルーニア』は、20世紀前半に多くの天才を世に送り出す。

建築家「アントニー・ガウディ」
画家「パブロ・ピカソ」
画家「ジュアン・ミロ」
音楽家(チェロ奏者)「パウ・カザルス」

そして、画家『サルバドー・ダリ・イ・ドメネーク』


その他、日本では知られていなくとも、高名な建築家等が輩出し、百花繚乱である。


十代の前半であった私は、有る一枚の絵の写真に衝撃を受けた。

『燃えるキリン』

しびれる様な衝撃から、少ない資料を探して『引き出しの有るミロのヴィーナス』と『柔らかい時計』をも見つけ出した。

「こんな表現が有ったのだ」と、正しく目から鱗であった。



カタルーニアの北東部、フランスにもほど近いあたりに『フィゲーラス』と言う町が有る(標準スペイン語カスティーリャ語ではフィゲーレス)。

天才と自ら名乗った「サルバドー・ダリ」の誕生した町である。

彼は1904年5月11日、この地で生を受けた。

地元の画家の家族と交流のあった彼は、14歳にして近くの町の学校でデッサンを学び始め、既に翌年にはフィゲーラス市の劇場で数点の作品を展示して、高名な批評家の目に留まった。

1921年、18歳でマドリードの美大に通うが、「アナーキスト」達との交流で一度逮捕されるなど、数多くの問題を起こし、最後は有る教授の質問に答える事を拒み、「彼から学ぶ物は何も無い」と放言して放校処分となった。

その頃、妹が頻繁にモデルとなっており、「背中を向けて窓の前に居る女」は有名である。

27年に巴里に登り、同じカタルーニア人のもう一人の天才画家「パブロ・ピカソ」と出会った。

同じ年に、フィゲーラスから遠く無い海岸の小さな漁村「カダケス」にある父親の家に滞在中、更にもう一人の天才画家「ジュアン・ミロ」が会いに来て、交流を結ぶ様になる。


     
     海に臨むカダケスの家

     
1929年、再びパリを訪れた彼は、当時一世を風靡していた『アンドレ・ブルトン』との出会いから、<シュール・レリスム>運動の一派「トリスタン・ツァラ」「ルイ・アラゴン」「ポール・エリュアール」達と深く関わりを持つに至った。

その同じ年、ポール・エリュアール夫妻がカダケスを訪れ、ポールの妻エレーヌとの「運命の出会い」がなされる。

エレーヌは夫と帰る事を拒み、サルバドーの妻となって『ガラ』と呼ばれ、生涯の彼の良き伴侶にしてエスプリの源泉、更に人生の船長として大きな存在となった。

ガラは、多くの絵のモデルとなっている。


このサルバドー・ダリは、とにかく奇行で知られている。


トレードマークの<カイザー髭>は、蜂蜜で固めている、とウワサされた物だった。

有る時記者会見に旧式の「密閉型潜水服」で現れ、送気のトラブルから窒息死しかかった事すら有る。


その彼は、フィゲーラスの『オテル・ドウラン』のレストランで週に四回は食事をしていた。

特に、店の「ワインセラー」用の奥まった部屋がお気に入りで、友人達とそこで楽しく食事を取るのが習慣であった。


     
     オテル・ドウラン


ここのレストランは、(言うまでもない事だが)食事が大変美味しい。

店内の奥のワイン・セラー用の小部屋『セレール/カ・ラ・テータ』は、5人くらい以上の人数だと、今でも予約出来て、サルバドー・ダリが愛用したテーブルで食事を楽しむ事が出来る。


     
     セレール(セラー)『カ・ラ・テータ』の看板


     
     一番奥のテーブルが、小人数の時のダリのテーブル


     
     ダリの「専用」テーブル

     
     樽の前の大人数用のテーブル

     
     大テーブル
 

背後の同じ壁面には、ダリのスケッチが多数飾られているのも、その当時からのまま。

今では、この店には観光の団体がガイドと共に訪れ、この部屋を見て行くようにすらなってしまった。

しかし、御心配なく。
食事は、今でもこの辺りでは一番の美味しさを護っている。


     
     フィデウア

パスタで作ったパエリアの様な『フィデウア』は、ことのほか美味。

勿論「パエリア鍋」で調理されて出て来るが、面前で一人前ずつ取り分けてくれます。

突き出しで必ず出て来る、脂肪のソーセージ『ブーダン・ブランコ』も絶品です。

一般に食事するのレストランの部屋は、広くて明るく、地方色豊かな雰囲気です。

     
     壁に飾られたガラス細工


オテル・ドウランのレストランの支配人によるエピソードを一つ、紹介しよう。

「ガラが町に居らっしゃら無かった或る日、お一人で夕食をとる事になって居られました。ところが町の洋服店からマネキンが四体届き、彼はマネキンに美しいドレスを着せて席に座らせました。彼はその日、散歩中或る洋服屋でウインドーの模様替えをしているのを見つけて、マネキンをお買い上げになり、当店まで配達を命じられたのだそうです。その夜は四人のご夫人とお食事をされましたのですよ。」


彼は、根っからの「奇人」では無く、この店で友人と過ごすときは、とても細かに気遣いをする、繊細で行き届いた人物だった様だ。

ちなみに、パリ滞在中は週に四日は『トウール・ダルジャン』で夕食をとっていたとか…。



もともと裕福な家庭の出身だった彼は、画家と美術家として大成功を納めた後、1969年ジローナ県の『プーボル城』を購入し<城主>となる。


1982年に、国王により『プーボル侯爵』に叙任された。


画家のしての彼は、かなり多様な表現を駆使し、初期に影響を受けた「印象派」の<モネ>や、その他<セザンヌ>やキュービスム<ピカソ><マティス><ミロ>はては抽象画家の<モンドリアン>風の作品など、年代によって作風が変わるのは当然ながら、かならずしも時間軸に沿ってでは無く、生涯を通じてこれらの各種表現の作品が混在している。

戦後はカトリックに大きく傾倒して、イエスや聖人達、教義のテーマも多く描いている。


1974年9月、自宅で有る館に繋いで、『絵画劇場美術館』を開設した。

彼の生き様自体が彼の芸術であり、彼の生き方自体が「劇場的」で有る事の、全表現の場であった。


     
     サルバドー・ダリ絵画劇場美術館

鮮やかな「レッド・オーカー」に塗られた建物は、お城の外観を取り壁面には無数の「パン」がくっついて、塔の上には「金色」の巨大な卵が鎮座している。

口の悪い連中は、壁面を飾るのは「パン」では無くて「ウン◯」だ、と囁いているらしい。


内部は、本来の中庭のガラスの天井から、不思議な船がぶら下がっていたり、巨大な女戦士アマゾネスの如き巨像が屹立していたり、キャデラックが鎮座していたり。

正しく劇場そのものである。


     
     吊るされた、雫の滴る船


     
     力強い女戦士


     
     溶けかかったアイスクリーム状の椅子


それらの、渾然一体となったオブジェ。


     



カラフルなオブジェも数多い。
椅子にかぶさる溶けたアイスクリーム状の物の中から、飲み込まれたらしい誰かの「手」が覗いていたり。


     
     引き出しの有るヴィーナス


この『ヴィーナス』にも、思春期にショックを受けたのでありました。


何だか不明のオブジェも。


     
     不明の彫刻


名高い「ピンクの唇」という彫刻オブジェを発展させた、インテリアのコーディネート。


     
     クチビル型ソファーと鼻のフォルムの暖炉


この唇と鼻とを、高い位置に明けられた丸窓から除くと。


     
     女性の顔


     
     ピカソ的女性の胸像


     
     弾ける女性の顔


     
     「マーク・ウエストエンドの妹」

この絵画は、キリスト教に深く傾倒してから何点か手がけた『イエスの昇天』の、72年頃のヴァリエーションの一つである。


     
     『ベーコンの有る柔らかい自画像』1922年


得意の「柔らかい」シリーズは、時計から始まった。


この「劇場美術館」の地下中央部に、彼がニューヨークの宝石商とのコラボで制作した「宝飾品」の展示室があり、更にその奥に彼の墓所が有る。

宝飾品は総て本物の金と宝石とで制作された。


     
     宝飾オブジェ


     
     ダリの墓標


「サルヴァドー・ダリ・イ・ドメネーク / プーボル・デ・ダリ侯爵」ここに眠る。



自ら『天才』と名乗った、サルバドー・ダリ・イ・ドメネーク。

敢えて「独裁フランコ主義」を擁護してみせて、シュール・レアリスム運動から破門されたサルバドー。

しかし、世界各地で開催された「シュール・リアリスム展」には、必ず招待されたサルバドー。

大げさを好み、貴族趣味の拘り続け、奇行を繰り返し、世界中の芸術家に尊敬され、生涯一人の女性に愛を捧げた、サルバドー。


1982年に、彼の製作と人生との総ての源泉であった、最愛のガラを亡くすと、完全に制作意欲を喪失して、筆を折り、プーボルの城に引きこもってしまう。

二年後、大やけどをして生地フィゲーラスの戻り、『ダリ絵画劇場美術館」に隣接した『トーレス・ガラテア』の館で没した。


     
     『トーレ・ガラテア館』


水星の五つの衛星の一つ『ガラテ』から名付けた彼の館が、絵画劇場美術館に隣接している。


この世で最も髭の似合った男。
生けるキュール・ポワロ。
歩く反骨芸術の髭。


彼の「彫刻」の美術館は、パリのモンマルトルにも有ります。






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時を翔る希代の天才の終焉の地を訪れる。ダ・ヴィンチ終焉の館『クロ・リュッセ』【日曜フォトの旅】

2012-02-12 21:59:41 | 歴史と文化
希代の天才と言う物は、そうそうザラに出現する訳では無い。


特に、有る分野に於ける天才は歴史上に登場するが、多くの分野で最高の結果を残す『マルチ・プレイヤー』の大天才となると、更に希となる。


本人自身<都市工学>の専門家だと認識した、万能の大天才が居た。

その天才の興味の範囲は、実に広範囲に渡った。

建築。
土木。
 築城術。
 橋梁建設。

工学。
 船舶設計。
 軍事戦略立案。
 兵器開発。

力学。
 流体力学。
 運動力学。

医学。
 解剖学。
 病理学。
 薬学。

植物学。
天文学。
数学。

音楽。
論理学。

文学。
 詩。

修辞学。

絵画彫刻。

更には、料理。


     
     ダ・ヴィンチによる自画像


UOMO UNIVERSALIS <万能人間>と呼ばれた『レオナルド・ダ・ヴィンチ』は、607年前の1519年5月2日に、フランス中央部ロワール川流域のアンボワーズで、62歳で没した。



     
     ロワール河対岸から望む「アンボワーズ城」


彼をフランスに招いたのは、時の国王「フランソワ1世」であった。

高齢を理由に、「我が身の歳で、既に大した仕事もできないと思いますゆえ、御期待に背く事になるのが嫌な故に…」と、招待を固辞する彼に対し、フランソワ1世は、以下の様にかき口説いた。

『何をおっしゃいますか、ダ・ヴィンチ殿。御身が我がフランスに居て頂くだけで、王国の誉れであります。一切、何かをやらなくてはならない義務など、御座いません。ただ、お心安らかに、楽しく余生を送って頂ければと、かれこれの館も準備致して居ります。もし「御身が大好きで、何人にも売り渡したく無く、肌身離さず持って居られる絵が御座りますれば、それを御持ち頂き、お亡くなりになった後に、それを私にお譲り頂ければ、法外の喜びに御座いますれば…』


彼が余生の三年を過ごしたのが、アンボワーズの町の『クロ・リュッセ』という館であった。 



     
     クロ・リュッセの館


彼は、ずっと離さず持ち歩いていた「お気に入り」の四点の絵画を持参した。

更に、アンボワーズに落ち着いてから、『聖ヨハネ』を描きあげ、『モナ・リザ』にも、最後の筆を入れた。

完璧主義者で、完成まで至った絵が非常に少ない(30点とも20点とも言われる)ダ・ヴィンチの完成画を、最高の一点である『モナ・リザ』いか6点、ルーブルにあることは、そのような理由による。

イタリアは、悔しがったが後の祭り。



フランソワ1世は、アンボワーズ城からクロ・リュッセの館まで「地下道」を通じて、連絡を絶やさなかったと言われている。


     
     クロ・リュッセの館のテラス見たアンボワーズ城


クロ・ユッセの館は、各部屋には16世紀当時の雰囲気は残っていない。
唯一、寝室だった部屋だけは、往時を偲ばせる内装に整えてある。


     
     ダ・ヴィンチが没した寝室


彼の臨終の枕頭に駆けつけたフランソワ1世が、ダ・ヴィンチとの「永久の友情を誓うの図」という絵画が飾られている。


     
     「親友」ダ・ヴィンチの枕頭で永久の友情を誓うフランソワ1世


ただ、この時1519年5月2日、王はスペインとの闘いでイタリア遠征中で、ダ・ヴィンチの臨終の場に駆けつける事は、不可能であったのが事実であるが。


フランソワ1世は、『スペイン王にして、フランドル伯(ネーデルラント大公)、オーストリア大公にしていたイタリア王、ドイツ皇帝、かつモロッコ王でポルトガル王』カール5世と、生涯戦争しなければければならなかった。

その間隙を縫って、大航海時代に踏み出し、新大陸に到達して『ケベック』という植民地を開き、ミシシッピ川を遡り『セント・ルイソ』や『ニュー・オリンズ』という都市を築く。

その傍らで、フランスの「ルネッサンス化」を牽引した。

その彼の、最大の功績が「ダ・ヴィンチ」のフランス招聘であろう。


     
     ダイニング・ルーム



しかし、この館の見所は、地下室にある。


ダ・ヴィンチが考案した「各種の発明品」が、彼の残した図面を基に再現した物を展示した「展示室」があるのだ。

そこには、<理系万能人間>としての全貌が、理解出来る様になっている。



     
     グライダー又は「人力飛行機」



     
     高層梯子


     
     二重隔壁の船体を持つ外輪船


近年、大型タンカーの座礁事故が頻発し、大量の原油流出による環境破壊が多く見られる様になって、やっとタンカーに二重隔壁の船体を義務づけた。

500年以上前に、ダ・ヴィンチは「簡単には沈まない船」を、考案していた。

     
     二重隔壁の躯体構造


     
     横にスライドする「かちどき橋」


     
     臨時架橋法の例


     
     ボール・ベアリング

     
     ボールベアリング(ディテール)


彼は、新型兵器の考案者として、高名を博していた。

例えば、潜水艦も考案した。
そして、最も名高い発明が「戦車」であろう。


     
     戦車


そして、ダ・ヴィンチの発明の<白眉>が、『永久運動機械』である。

個の発想は、最初に動かす時に力を加えれば、後は一度動き出せば「自分が動く力」が動力を産み出して、燃料も動力も不要で永久に動き続ける機械である。

古代ギリシア人の天才達が、発想を考えついて、実現に向けて模索していた。


     
     永久運自動走行機と自転車


彼が残した設計図から判断するに、理論に破綻は無いそうだ。

ただ、現実問題としては『摩擦』による抵抗が存在する事に依って、無動力永久運動は不可能なのだそうだ。


その他、彼の名だたる発明品・考案品の中には、「パラシュート」「ヘリコプター」「揚水ポンプ」「気圧計」「コンタクトレンズ」など、数え上げたらきりがない。


この館の庭園には、いまだに菜園が設けられて居り、ダ・ヴィンチの研究の対象で有った「ハーヴ」や「花々」が育てられており、売店でハーヴ・ティーや、薔薇のキャンディーなどを販売している。


テラスの菜園とバラ園の下に、宏大な庭園が広がって居り、考案された「人力ヘリコプター」その他が、自由に触って回して遊べる様に、設置してある。


しかし彼は、単に「理系」の天才では無い。


詩作の才に秀で、修辞学の理論体系を成し、弁論術に長けて、音楽を作曲した。

あまりにも多くの事を同時に考えていた為、左右両手で二冊のノートにそれぞれに、メモを残した。

左手で書いた方は、「当然」右から左方向へ「裏字」で書いた。
従って、鏡に映して見る事を誰かが考えつくまで、それが文章である事に気がつかれなかった。


彼の言う事は、同時代の人間には理解不能で、19世紀末に「メモ」の解読が成され始めて、現代文明の基礎に大きく貢献した。


絵画の作成に於いても、2次透視、3次透視図法や、描かれる対象と「画家」ダ・ヴィンチとの間のどこかに「想像上の幕」を張り、そのどこかに針の穴を開けた所に消滅点が来る、特殊な遠近法を考え出した。

線を一本も引かず、絵の具の量をぼかして行く事と、光と闇との対比を組み込む事で、立体的空気感を産み出す『スフマトー』と言う技法は、現在絵画技法の常識となっている。

色の濃淡の変化でも、遠近感を表した。


教会の墓地から集めて来た遺体を解剖し、<筋肉>の作用、<骨格>の役割等々、総て解剖学的に分析して「表現」に活用した。


     
     古代ギリシア人の確立した「黄金比」の秘密を解き明かしたメモ



彼は、アンボワーズ城の城壁の上に建つ礼拝堂に、眠っている。


     
     城壁の下から、ダ・ヴィンチの眠る礼拝堂を仰ぎ見る   


     
     礼拝堂正面全景


     
     ダ・ヴィンチの墓


     
     アンボワーズ城の庭園有るダ・ヴィンチの胸像



     
     『ラ・ジョコンド(モナ・リザ)』


一枚の絵の独りの女性に、人間のあらゆる意志と表情とを見て取る事が出来、その表情が刻々と移ろう。

鑑賞する側の、その時の心の有様を映し出す鏡。


モナ・リザは、未来永劫に微笑み続ける事だろう。


推定知能指数400。
このような天才を、人類は二度と産み出す事は無いかもしれない…。



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15世紀『ブルゴーニュ公国』の社会保障に見る<老人介護>/オスピス・ド・ボーヌ【日曜フォトの旅】

2012-02-05 22:19:35 | 歴史と文化
パリから南へ300キロ。


秋になると、<黄金の斜面>との名に相応しく、『コート・ドール』の丘陵地帯には、名だたるブルゴーニュの酩醸酒の葡萄畑の、黄色く紅葉した葡萄の葉っぱが正しく『黄金』の煌めきに彩られる。

豊かなるブルゴーニュは、中央ヨーロッパの歴史に重用な役割を果たして来た。


もともとは、旧西ローマ帝国を滅ぼしてしまった<ゲルマン諸族>の『ブルグンド族』が住み着いた土地であり、当初は「ブルグンド公国」となる。

フランク族の旧帝国再統一の後、『フランク王国』の分割を経て、「中フランク」の一諸公として、9世紀に『ブルゴーニュ公爵家』が成立する。

フランス王家『カペー朝』成立後は、フランス王領となり、その後「カペー家」の分家として『ブルゴーニュ家』が公爵位を続け、14世紀前半のカペー家の断絶後成立した『ヴァロワ家』が相続し、百年戦争の時期を通じて四代の『ブルゴーニュ大公』が発展させた。

時のブルゴーニュは、ドイツ国境まで広がる大侯爵領であった。

フィリップ2世 (1363 - 1404年)  Philippe le Hardi  (豪胆公)
ジャン1世   (1404年 - 1419年) Jean sans peur   (無畏公)
フィリップ3世 (1419年 - 1467年) Philippe le Bon   (善良公)
シャルル1世  (1467年 - 1477年) Charles le Téméraire(勇胆公)

初代フィリップは、時のフランス国王ヴァロワ朝シャルル5世の弟で、1363年にブルゴーニュ公に封ぜられた。

つまり、フランス王家の筆頭親族である。

独立して<宮廷>を営む権利を認められた。

通常の「公爵=デューク」の上位に来る「大公=プリンス」の位で君臨するので、ブルゴーニュ大公国と呼ばれる。


ちなみに英語で<prince>と言えば、通常王の親王達を差し、「王子」と訳されるが、本来は独立主権領主の『王=King』以外の最高位を意味する。

他に「大公」と言えば、『ハプスブルク家』オーストリア、ザクセン大公家、ロレーヌ大公家、メディチ家後半の『フィレンツェ大公家』などが名高い。

現在も続く「イングランド皇太子」の相続する<Prince of Wales>もウェールズ大公であり、あと『モナコ』や『アンドーラ』『リュクセンブルク』『リヒテンシュタイン』等が、大公である。


このフィリップは、1384年にフランドル女伯マルグリットと結婚し、フランドル伯領をも支配した。

つまり、パリの南方300キロから、東はドイツ・スイス国境、北はライン川に沿ってベルギー・オランダまでを包括する「大帝国」であった。

もともと『ネーデルラント(低地ドイツ)』はフランドル伯の領地で、ハンザ同盟都市を擁する良港に恵まれ、フランク時代以降「ラシャ」の生産を一手に握って、西欧随一の豊かな土地であり、お金がうなっていると文化が振興する事で、ルネッサンスを産む北イタリアと並ぶ先進文化の土地であった。

そこが、ブルゴーニュと合体した訳である。

このフィリップ2世が、ブルゴーニュのワイン生産のシステム化に務め、作付けする葡萄の品種を勅令により限定して、生産改良に務めさせた結果、今日の「ワイン王国」の起訴が築かれた。


その『ブルゴーニュ大公』は、百年戦争当時イングランド王の側に付き、実家である「ヴァロア王朝」を滅亡させかねない程の勢力を誇った。

その三代目の大公『フィリップ三世』の時代に築かれた「ホスピス=施療院」が、ブルゴーニュを代表する文化財として、ボーヌの町に今日まで残されている。



     
     オスピス・ド・ボーヌ


元来キリスト教(カトリック)のシステムで西ヨーロッパは成立している。

社会構造、支配体制、経済基盤などに限らず、人間の知識や価値観も総て『聖書』に基づいていた。

人は、生を受けて後、人間生活の節目節目は、総てにキリスト教の儀式に依って営なまれて行った。

『洗礼』を受ける事で「人間」としての存在が認められる。
洗礼を受けなければ、ただ生きているだけで、イヌ畜生と何ら変わらない。

その後も、あらゆる人生の節目にカトリックの儀式があり、最後臨終の席に聖職者に枕元に来てもらい、生まれで以来「その日」までに「犯したであろう罪」を洗いざらい告白し「贖罪」を受け、香油を唇に塗布してもらって、あの世に旅立つ。

この『臨終の秘跡』を受けずに死んで行くと、所謂「地縛霊」と同じ状態になり、『最後の審判』の時が来ても、その審判に望めない。

永遠に「宙の一角」に浮かんだままで、天国に行ける可能性が閉ざされてしまう。


中世において、貧富の差は激しく、社会福祉や高齢者医療、年金や保険等という発想は無かった時代に有って、貧しい一人暮らしのお年寄りは、一度病気になれば人生は終わりであった。

路端に「のたれ死に」の遺体が転がっている事すら、別に珍しい時代では無かった。

そのような時代に有って、「臨終の秘跡」を受けられずに死んで行く事は、人間の尊厳を犯される、あまりに恐ろしく哀しいい事であると言う訳で、王侯貴族や財を成した裕福な市民が、私費で「病気の老人達」を収容する施設を積極的に作った時代が有った。

このような施設を『hospice』と呼ぶ。
日本語では、歴史用語では<施療院>と訳される事が多い。


今の様な、「医療介護付き有料老人ホーム」ではない。
あくまで、キリスト教精神から出て来た発想で、身寄りの無い年寄りの病人やけが人を収用し、雨露をしのげる屋根、温かい寝台、三度の食事を提供し、必要な治療看護を行い、最後には「臨終の秘跡」を施して送り出す、そのような施設の事であった。

北ドイツやベルギー・オランダには、結構残っている。
「棟割り長屋」の如き、平屋建てのドアが幾つか並んだ質素な建物である事が多い。

ただ、アウグスブルグのそれは、銀行業で財を成した『フッガー家』がたてた大規模な物が残っている。
これは、高層の建物では無い物の、一区画全体に集まって、ちょっとした団地の様な規模の施設である。


ブルゴーニュ公国の首都は、ディジョン。
その後、現在のベルギーの「ブルッへ(ブリュッセル)」や「ヘント(ガン)」にも移された事も有る。

フランドルから名高い芸術家をディジョンに招き、宮廷の造作や芸術家活動に当たらせた事により、当時のディジョンはフィレツェと並ぶ、文化的先進都市であった。

画家の『ロヒール・ファン・デル・ヴァイデン』と、彫刻家の『クラウス・シュルター』は特に名高い。


その大公三代目フィリップ三世の時代、大公の宰相「ニコラ・ローラン」が、その妃「ギゴーニュ・ド・サラン」の献策に依て私財を投げ打って建造し、寄進したのが名高い『オスピス・ド・ボーヌ』である。

当時は<HOTEL DIEU(神の館)>と呼ばれ、今なおその名でも通って居る。


外の通りからの眺めは、かなり質実剛健一点張りの様な外観であるが、一旦中庭に入るや、光景は一変する。


     
     中庭からの光景


屋根の瓦が「ブルゴーニュ様式」のカラータイルで、伝統的な文様が描かれており、本来はブルゴーニュの城館や教会等にしか遣われない、贅沢な物である。

病人達の沈んだ気分を晴らせる様な気配りが見て取れる。


     
     屋根のアップ


この屋根瓦は、オーストリアにも伝わって居り、ウイーンの『サン・シュテファン大聖堂』の屋根に見る事が出来る。


     
     当時のオリジナルの瓦



病人達の「大部屋」で有った建物に入ると、感動的な光景が広がって居る。


     
     大部屋の内部


教会や城館では無いので、天井は石のアーチでは無く「木造」の天井では有るが、要所要所には彩色が施され、両側の壁にベッドがずらりと並んでいる。


     
     左右の壁際に並ぶベッド


一応各ベッドは「カーテン」で被える様になっている。
何しろ「暖房」完備の時代では無いので、このカーテンは病気のお年寄りには有り難かっただろう事は、想像に難く無い。


     
     ベッドの近景


     
     ベッドのディテール


各ベッドの枕元には、小さなサイドテーブルが有り、錫性のカップと皿等のセットがある。

ベッドの上に枕の下においてあるのは、一種の「こたつ」で、木枠がソリの様な形をして居り、炭火を入れた火元が中心部にある。

ソリの先端のような両側の腕を前後から捧げて、看護に当たった修道尼が運んで来たのだろう。


     
     ポータブルこたつ



ここに「入院」で来る条件は只一つ「貧しい」事。

宰相が私費で造った事の意気に感じた大公フィリップは、運営資金の源として、所有の葡萄畑の一部を寄進し、それに倣って多くのブルゴーニュ公の家臣の貴族達が葡萄畑を寄進した。

運営は修道院に託され、オスピス所有の畑から作られるワインの売り上げで、運営された。

修道女達が看護婦として、献身的に業人達の世話をした。


当時の医療器具その他も、展示してある。


     
     薬局

美しい陶器の壷や、ガラスのフラスコに、多くの薬草やハーブ、薬品の類いが入れられている。


     
     薬を調合する「薬研」


各種薬草やハーブを薬研で潰し、練り合わせて薬を造っていた訳である。


     
     蒸留かまど


薬研ですり潰した薬草類を、アルコールと共に煮沸し、蒸気を回収して冷やすと、液体の薬が得られる。

それを、ガラスのフラスコで保存した。



     
     当時の施療器具


中央部は「浣腸器」であり、当時の主立った治療は「悪い血」を抜く『瀉血』と、浣腸であった。


     
     外科手術器具


頭蓋骨を開くドリルまで、残っていた。


     
     浣腸器各種


     
     大公の宰相ニコラ・ローラン


創建者夫妻の肖像も各種残されている。


     
     妃ギゴーニュ・ド・サラン


よりデザイン化された、愛らしい彫像も有った。


     
     ニコラ・ローラン


     
     ギゴーニュ・ド・サラン



この「オスピス・ド・ボーヌ」の所有の畑の葡萄から造られるワインは、毎年11月第三週末の三日間の「ブルゴーニュ・ワイン祭り」の、中日土曜日の日に競売にかけられ、まだ熟成途中であるのも拘らず、「ご祝儀価格」で落札され、その値段がその年のブルゴーニュ・ワインの価格の動向を決める指標となる。


     
     テースティング用の『タートヴァン』


ブルゴーニュ独特の試飲用カップが『タートヴァン』と呼ばれ、銀か錫で出来た凹凸の有る平たい皿状のカップである。

このカップにワインを注ぐと、でこぼこに反射する光で、ワインの光沢や透明度が判別しやすい。

ブルゴーニュ地方のレストランのソムリエさんは、この形の「タートヴァン」を、銀の鎖で誇らしげに首からぶら下げている人が多い。


このオスピスの特別展示室に、時の大公が招いてディジョンの宮廷で働かせた大画家『ロヒール・ファン・デル・ヴァイデン』の名作『最後の審判』の祭壇画画展示されている。


     
     R.V.D.WAIDEN作『最後の審判』


幾重にも折り畳める形式の、天地2メートル半、左右5メートル程の祭壇画は、細部に至っては犬の尻尾の毛一本の筆で描かれた細密な物で、係が大型のレンズを絵の前で上げ下げして細部を見せてくれるが、神であるイエスの足下に「審判用の天秤秤」を持っている大天使「ミカエル」の胸に下がるペンダントの縁取りの、真珠に反射する光点まで描き込まれている事が見て取れる。

恐れ入って見守るヨハネの髪の毛一本一本の縮れ具合までが、真迫の表現で足掻かれている。

かっては、ブリュッセルの市庁舎の壁画で名高かったが、それらはナポレオン戦争の際に火災で焼失し、ファン・デル・ヴァイデンの真筆は余り多くは残って居らず、ここの「最後の審判」が最も出来の良い、かつ最も保存状態が良い作品として、広く世界に諸られて居る。

国宝の絵画であるが、世界各地から「この絵」を観る為に集う人々も居る程の名作である。


ちなみに、このブルゴーニュ家は、四代目が百年戦争終結時に戦死し、大公領のうちフランス部分は、王家に接収されたものの、忘れ形見の姫『マリー・ド・ブルゴーニュ』がフランドルだけは独立国として維持。

その後、ハプスブルクで最初に皇帝に選出されたフリップの息子「マキシミリアン」と結婚して、その二人の間に出来た息子、祖父と同名のフィリップが誕生する。
そのフィリップは、イスラムを最終的にイベリア半島全体から駆逐し、スペインをキリスト教徒に取り返した『フェルナンド』と『イザベラ』の間に出来た娘「フアーナ」と結婚して息子「カルロス」を設ける。

カルロスは、母親からスペイン王位を受け継いで「カルロス1世」となり、父親の母方から「フランドル伯」を受け継ぎ、父親の父方からハプスブルクを相続して大公となる。
かつその血筋から曾祖父に次いで皇帝に選出されて、ドイツ皇帝『カール5世』となった。
その皇帝の権利で「イタリア王」のタイトルも有すると言う、とんでもない事になってしまうのであります。

恐らく、だから「ブルゴーニュ様式」の色タイルの瓦が、オーストリアにももたらされたのでは無いだろうか。


皆さん、ブルゴーニュは「ワインだけ」では有りませんぞ。

それから、名だたる名シェフの素晴らしいレストランが数件有り、旅の喜びを満喫出来る事を、請け合います。


コメント (2)
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