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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

書籍 『頭はよくならない』 小浜逸郎(著)

2007年09月17日 | Book
家族論・学校論で多くの著書を出されている小浜逸郎さんが2003年に出された『頭はよくならない』という新書を読みました。

私がこの本を読んだのは、学校で教えられている教科が子供たちにとって将来“役に立つ”のか?という疑問をもっていることと、学校の成績がよいことと「頭がいい」ということとの関連性を考えたかったからです。

立論の具体的な裏づけは新書ということもあって乏しいですが、上の私の問題関心に関わる意見がこの本には多く、教育問題を長年考えてこられた人の意見を知ることが
できて興味深かったです。

まず小浜さんがハッキリ言うことは、学校の成績がよい子供はそれだけ社会的に有用な仕事を成し遂げる素質をもっており、それらの子供たちが社会的に権力を有する地位に就く構造をもっている日本社会は合理的な社会だ、ということです。

小浜さんは、例として、学校の数学において子供たちの習熟度を推し量る評価項目である「知識・理解」「論理的思考」「技能」「応用・創意」「関心・意欲」を取り上げ、数学という科目がそれら評価項目を測る基準として妥当である以上は、数学は生徒たちの社会的能力を測る尺度として妥当なものであることを指摘します。ちょっと長くなりますが、引用してみます。


 「知識・理解にすぐれていることは、情報を素早く自家薬籠中のものにする能力を意味しますから、「要領がいい」こととつながっています。

 論理的思考ができるとは、問題解決能力があることです。混沌とした現実の中から適切な取捨選択ができ、…問題の本質はこれこれであると指摘できることを意味します。だからそれは、「物事の裏が読める」こととつながっていきます。

 技能にたけていること、応用力があることは、計算が素早かったり一度修得したことをそれに相応しい問題対象に的確に、かつ正確に活用させられることを意味します。したがって、それは「世渡りが上手い」ことにつながっています。

 創意にあふれていることは、要領や世渡りや世事に一見関係がないように思えますが、創意とは、単なる突飛な思いつきではなく、じゅうぶんにまわりの状況を見渡した上で、こういう表現をすれば多くの人が「おお、コロンブスの卵だ」と納得し賞賛してくれるだろうという計算の上に成り立っているものです。…

 あることへの関心・意欲がしっかりしていれば、問題の核心が見えてくるはずですから、当然「余計なことを言う」必要がなくなります」(p.44)

これらの考察から著者は次のように結論付けます。

「一般に知的能力の評価尺度は、社会的な能力尺度に完全に、とはいわないまでも、ほぼ対応しています。前者にすぐれた能力を発揮する者は後者における可能性をより強く示すことが多いし、概して後者は前者の能力そのものを支えるという関係になっているのです」(p.44)。

(最後に著者こう付け加えます。「何でこんな当たり前のことを私は言わなくちゃならないのかね」と)

これらのことは、わたしは想像でしか言えませんが、まぁ当たっているようにも思えます。

私はかなり底辺レベルの学力しかない集団の中で学校生活を送ったこともあるし、偏差値で言えば日本のトップに入る人たちともたくさん接触してきましたし、その中間にあたる人たちのこともよく知っています。

それらの人たちと接してきた経験から言うと、学力が上の部類に入る人たちは、知識を頭に仕入れることに全然抵抗がないのですね。本人たちは自分たちより上を見ているので「自分はダメだ」とよく言いますが、私から見れば「よくそんなものを知っているな」と言いたくなるぐらいいろいろ知っています。

また、それらの知識をちゃんと頭の中で整理して、自分でものを考えるということもを実践していました。本人たちは優秀な人間ばかりに囲まれてきたので、それを当たり前のことと思っているようでしたが、世の中の出来事に対して自分の力で論理的に考えることができるというのはじつは稀有なことのように思います。そう考えると、学校での成績とその子の社会的能力とは、たしかに対応しているのかもしれません。著者は次のように述べます。

「計算が速いこと、正確であること、原理をよく消化していること、文章題に特定の公式を応用できること、出題の意図をきちんと読み取ること、長いプロセスが必要な問題に集中して考えを持続でき、目標に到達できること、余計な枝道に入り込まないこと、これらはみな、広い意味で、「言語能力」であり、そして、「言語能力」こそは、社会で問われる能力の基本的な部分を形づくっています。

 そして、こうした広い意味での「言語能力」を問う評価尺度のなかに、「要領よい状況判断ができる」とか「物事の裏が読める」とかいった、いわゆる「世間知」的な力を問う要素があらかじめ織り込まれているのです。

 因数分解や二次方程式や円の問題をすばやく理解する子は、それだけ視野が広い。また漢字をたくさん読み書きできる子は、その能力を、社会での生き方に応用できます」(p.46)。

そういう成績の良い子たちが社会的地位の高い職種に就くことは、著者から見れば、以下のように社会的に合理的なことなのです。

「「読み書きそろばん」は、人間社会が言葉によって作られているという本質的な条件を個人の中にセットするための最も基礎的な訓練です。識字能力が高いこと、計算力があることは、その能力の個別的な優秀さだけを示しているのではなくて、社会に出たときにどういう適応力を示すかということを、かなりの部分まで象徴しているのです。

 これをきちんと習得させるのには時代を超えた大きな意味があること、そして、すぐれた習得力を示す者には、それにふさわしい社会的職業、地位、権力への道が開かれていること、こうした連関の構造の深い意義を舐めてはなりません」(p.72)。

また、著者は次のようにも言います。「誰も、法律知識のない弁護士に相談しようとか、適切な処方を下せない医者にかかろうとか、頭の悪い上司の言うことに服従したいなどと思わない」と(p.53)。

(以下は偏差値・受験学力と医師としての能力との相関関係を指摘した医師の方の意見です。

「医師と偏差値がよく取りざたされますけど、結構重要な要因ではないか、と最近では思います。

 特に情報処理能力、論理的思考過程に関しては非常に重要ですよね。目の前の患者さんの訴え、表面に出てきている身体所見といったわずかな兆候から診断していくにはこれが欠かせません。

 「この兆候の場合、鑑別診断にあげられるのがAとBとCという疾病。Aに関してはこれらの検査をしてみよう。でも、それを肯定しうる異常値が無いな。とするとこの疾病である可能性は低いね。じゃあ、Bの可能性に関しては.....」なんて考えていく。この考え方を鍛えるのが数学や理科。よく、マスコミや物事を知らない人たちが「XとかYとか社会に出たら使わないから別に一生懸命勉強しなくてもいいや」なんて言っているけど完全に間違っている。理数系科目の本当の目的はこの「論理的思考を養成すること」に他ならない。

 反対に、論理的な思考が出来ない人は絶対に医師には向かない。(某掲示板にも論理的な思考が全く出来ない人が医師批判をしていますけどね)

 ということで理数系科目は非常に大事なんです。と同時に、偏差値が高いというのは非常に大事なんですよ」

「「 緊急医師確保対策」『新小児科医のつぶやき』」)


 ちなみに、これはよく言われる話ですが、アメリカなどに比べれば、それでも日本は学歴ではなく現場のたたき上げで出世する割合がかなり高い国だということです(『会社でチャンスをつかむ人が実行している本当のルール』)。たしかに中途採用では日本の企業は学歴ではなく業績しか重視しないという話を聞いたことがあります。それに対してアメリカなどは、日本以上に学歴至上主義のところがあるとはよく言われる話です(『ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない) 』 『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』)。契約社会なので文書の持つ威力が大きく、卒業証書という紙切れがより有効をもつのでしょう。


話を元に戻すと、要するに小浜さんが言いたいことは、学校の教科というものは、一見抽象的に見えても子供たちが本来もっている社会で生きていく能力を測る物差しとして有効だということです。


こういう話だけを聞くと、(ゆとり教育ではない)学校教育・受験教育にはほとんど問題はないといっているように見えます。肯定しているように見えます。実際、小浜さん自身はそう言いたいのだと思います。

小浜さんの中には、この本の執筆のモチーフとして、「ゆとり教育」という看板を支えてきた「戦後民主主義」「人権教育」というイデオロギーを批判するということがあります。つまり、「個性を伸ばす」という「ゆとり教育」派の考えを、現実を見ない妄想として批判するというモチーフです。

ただ、小浜さんが学校教育は子供の社会的能力を推し量る尺度として有効であると言う場合、それはどうも「義務教育」レベルや「読み書きそろばん」といったレベルの話なんですね。

たしかに義務教育レベルの知識を習得することは、人が大人になる上で必須のことかもしれません。文字を読んで理解できなければ社会生活は送れませんし、そのためのトレーニングをすることは重要でしょう。

ただ少なくない人が学校教育というものに違和感をもっているのは、それでも日本の(あるいは近代社会の)学校教育はどこか現実とのズレがあり、それゆえに子供たちの殆どは勉強に対して意欲をもてないのではないかという疑念をもっているということです。


小浜さんはこの本で、学力というものはその人の社会的能力を推し量る尺度として有効であり、また人がもつ学力は中学生ぐらいで大体決まっており、それ以上は頭はよくならない、と主張します(もちろん例外は認めるでしょうが)。またそのことから、「個性を伸ばす」「誰にも素晴らしい能力がある」という考えを批判し、学校の成績によって子供たちにその子の能力の限界を教えてあげて、その子に合った進路を大人が示すことが大事であると唱えます。

小浜さんが学校での勉強の役割を次のように述べます。

「自分はどういうことに向いており、どういうことに向いていないのか――これは、具体的かつ明確に提供されたメニューに実際に当たってみなくてはわかりません。「汝自身を知る」ためにこそ勉強すべきなのです。
 
 では、「汝自身を知る」ためにはどうすればよいのか。それには一つの方法しかありません。とりあえず、知識を貪婪(ドンラン)に吸収できる学習適齢期(幼稚園児年長期から、中学校一、二年くらいまで)に、この社会が用意している「基礎学習科目」に地道に取り組むことをとおして、自分がどれくらい頭がよいか悪いかの、およその見当をつけるのです

 この学齢期での評価が、現代社会が要求する価値観、すぐれた専門家を選び出して重用するための価値尺度とのあいだに、そうとう確度の高い相関関係をもっていることは、すでに述べました」

この文章を読んで、「自分がどれくらい頭がよいか悪いか」を知ることがなぜ「汝自身を知る」唯一の方法なのだろうか?という疑問が私には出てきます。

「頭がよい」子は、たしかに学校の成績表を通して「汝自身を知る」場合が(すべてではないにしても)多いでしょう。「頭がよい」がゆえに、社会的権力をもつ地位に就く素質があることが分かるからです。それはそれで、悪いことじゃないし、いいことである場合も多いでしょう。

しかし、「頭が悪い子」は、成績が悪いと知ることで、自分は社会的権力をもつ地位につけないことはたしかに分かりますが、では自分はどういうことに向いているのかは、これではさっぱり分からないのではないのでしょうか。

「頭のいい」子は、「個性」など伸ばさなくても、既存の社会秩序の中で(比較的)生きやすいようになっています。小浜さんが言うように、そういう子たちには社会的権力をもつ専門家的職種や大組織の構成員として地位がある程度は保証されているからです。

しかし、では「頭が悪い子」はどうすればよいのかということについて、成績表は何も教えてくれません。成績表は、「頭が悪い子」たちに対して、ただ「あなたには権力のある地位は向いていません」と告げるだけです(そのこと自体は悪いことじゃないでしょう)。

愛知県の企業経営者・竹田和平さんは神田昌典さんとの対談で、学校の本来の役割は、子供それぞれの「ワクワク」を見つけることだと言っています。それは、小浜さんが批判する「個性を伸ばす」ということだと言ってよいでしょう。40人という集団授業の中でそんなことが可能かどうかは別として、現在の学校がそれとはほど遠いことは明らかです。

興味深いのは、小浜さん自身が「個性を伸ばす」「どの子供にも素晴らしい能力がある」という言説を批判する一方で、次のように上記の竹田さんに似たことを言っていることです。

「それぞれの人の場合、それが何であるか、それを磨くにはどうすればよいかを、各人がなるべく早く悟る必要があります。そのためには、各人の得意領域、不得意領域を悟らせる教育システム、いや、もっと広く考えて、社会システムが必要です」(p.249)。

この小浜さんが言うところの、「各人の得意領域」を探らせるような教育システムをこれまでの学校教育はもっていないと、学校教育に疑問をもっている人たちは言おうとしてきたのではないでしょうか。小浜さんと「ゆとり教育」派との接点を探ろうとすれば、ここになると思います。

「ゆとり教育」派は、既存の学校教育が知識偏重で、一人ひとりの個性にあった教育を提供していないと考えています。その場合の「一人ひとり」とは、「頭の悪い」子を想定しているのではないかと思います。そして、もし全国の国立大学と首都圏の有名私大を「頭がいい」とすると、子供たちの8割は「頭が悪い」ことになるのではないかと私は想像しています。

それに対して小浜さんは、現在の学校教育は専門家システムとしての現代社会の中で成績のよい子にふさわしい地位を保証している一方で、「頭の悪い」子に対してその子の能力をちゃんと伝えていると見ます。つまり、大まかには子供たちの能力に合った選別をしているということです。

しかし小浜さんは、おそらく、だから成績の悪い子は社会的の落ちぶれてもかまわないと言いたいのではないでしょうし、むしろ成績の悪い子は学校での教科とは別の得意領域で社会的に活躍してもらいたいと願っているでしょう。そして、そのような願いは、「ゆとり教育」派の人たちも共有しているのではないでしょうか。

また、「ゆとり教育」派(と言っても幅広いでしょうが)の人たちの中には、既存の学校教育では、知識の習得に得意でない子が自分の得意なことを見つけるきっかけをもてないと言いたい人がいるのではと思います。世の中の子供の大部分は「有名大学」に入れないし、専門家になれるわけでもありません。

新書についての感想文なので、軽くさらっと書いて終らせようと思いましたが、思いもよらず長くなってしまいました。

ただ、とりあえず言いたくなったのは以下のことです。小浜さんが言うように、学校教育の教科内容は現在の専門家システムとは上手く適合しており、「成績のよい」子にとっては実りある教育体制かもしれません。しかし、世の中の大部分の子供にとっては、自分が何に向いていないかを知らせるだけで、自分が得意なことを教えてくれない制度なのではないかということです。


この問題についてはまだ考えてみたいと思います。

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