イジメはよくないと言うのなら、まず大人がイジメをやめなければなりません。
朝青龍に対するマスコミの姿勢はイジメそのものです。
僕は相撲には幼い頃からまったく興味がないので、朝青龍のことすらよく知りません。でも、彼がどういうことをしようが、「悪いヤツは吊るし上げろ」みたいな今のマスコミ報道はリンチと同じです。
よく映画などで、ナチから解放された場所で、ナチ将校と関係のあった女性たちがリンチを受けて市中を引き回されている映像をみます。記録映像でも見たことがあります。
今の朝青龍にやっていることもそれと同じです。「悪いヤツ」には何をやってもいいんだ、という考えです。
子供たちがいじめるのは、どこかのろまで、愚図な子たちです。
小学校・中学校でそういう子たちが苛められるのは、小学生・中学生の子供たちの社会では、「学力」とかよりも、まだ「腕力」「暴力」の価値が高いからです。大人社会にはまだ距離(年数)があるので、大人社会で流通している価値観とは違う、直接的な腕力が価値を持っているのです。
それだけに身体的な能力にすぐれている子は集団の中で上位を占め、動作や反応が遅い子はいじめの標的にされます。
それに対して、高校では「受験」というものが子供たちの間に浸透します。つまり、頭脳による競争が子供社会の中に入ってきます。
私の体験からくる推測だと、多くの高校では、中学で見られるような直接的暴力による苛めは減少するのではないでしょうか。それは、高校になり大人社会に近づくにつれ、暴力・腕力は社会ではそれほど価値をもたないことを子供たちが知るからです。
世の中を支配する論理は、暴力・腕力ではなく、むしろ学力・学歴であると意識し始めます。
ここで子供たちの価値観は揺さぶられ、混乱します。それまでの暴力・腕力という価値観が無効であると知ったので、今度は急いで学力・学歴という価値観に合うように自分の態度を変更させなければなりません。
そのように新しい価値観に自分を合わせて勉強するのに忙しいので、いじめなどに時間を費やす暇が子供たちにはないのではないでしょうか。
受験競争がいじめの原因だといわれます。それは確かにそうですが、中学生の間は、暴力・腕力が価値を持つ子供社会の論理と、学力・学歴が大事なる大人社会の論理とがせめぎ合う時期です。その時期に、学力・学歴という大人社会の論理に初めてさらされる子供たちは、その圧力に抵抗するために、子供社会の論理である暴力を使ってストレスを発散します。
それに対し高校生になると、もう大人社会に時間的に近づいていることを知っているので、そのような暴力行使をしても、無駄だと悟ります。ここに来て彼らは、大人社会の論理を受け入れて、受験勉強に入ります。あるいは就職活動をし、専門学校を目指します。
しかし、学力・学歴という大人社会の価値観を受け入れることは、同時に善悪の価値観への目覚めを引き起こします。
子供の頃は暴力で周りをいじめていた子供たちが、高校を卒業すると、今度は、学力・学歴の価値を受け入れると同時に、善悪という大人社会の倫理にも目覚めます。
ここから、人は、子供時代は暴力で人を裁いていたのに対し、今度は善悪という価値観で人を裁くようになります。
人は子供時代に、暴力によって他人を攻撃することができました。しかし、暴力という道具は子供時代にしか通用しないことを知って、高校時代あたりには何を使って人を攻撃すればいいのかわからない状態になりました。
それが大人になって、暴力以外にも他人を攻撃する手段があることを発見します。それが、一つは善悪という価値観であり、あるいは学力、あるいは経済力という価値観です。この三つはそれぞれは異なる価値観ですが、平均的な大人は、それら三つが混ぜこぜになった価値観を有しています。それによって、自分の基準に照らして劣ったものを攻撃し、いじめるようになります。
マスコミの朝青龍への態度は、善悪という価値観を用いたいじめです、
朝青龍に対するマスコミの姿勢はイジメそのものです。
僕は相撲には幼い頃からまったく興味がないので、朝青龍のことすらよく知りません。でも、彼がどういうことをしようが、「悪いヤツは吊るし上げろ」みたいな今のマスコミ報道はリンチと同じです。
よく映画などで、ナチから解放された場所で、ナチ将校と関係のあった女性たちがリンチを受けて市中を引き回されている映像をみます。記録映像でも見たことがあります。
今の朝青龍にやっていることもそれと同じです。「悪いヤツ」には何をやってもいいんだ、という考えです。
子供たちがいじめるのは、どこかのろまで、愚図な子たちです。
小学校・中学校でそういう子たちが苛められるのは、小学生・中学生の子供たちの社会では、「学力」とかよりも、まだ「腕力」「暴力」の価値が高いからです。大人社会にはまだ距離(年数)があるので、大人社会で流通している価値観とは違う、直接的な腕力が価値を持っているのです。
それだけに身体的な能力にすぐれている子は集団の中で上位を占め、動作や反応が遅い子はいじめの標的にされます。
それに対して、高校では「受験」というものが子供たちの間に浸透します。つまり、頭脳による競争が子供社会の中に入ってきます。
私の体験からくる推測だと、多くの高校では、中学で見られるような直接的暴力による苛めは減少するのではないでしょうか。それは、高校になり大人社会に近づくにつれ、暴力・腕力は社会ではそれほど価値をもたないことを子供たちが知るからです。
世の中を支配する論理は、暴力・腕力ではなく、むしろ学力・学歴であると意識し始めます。
ここで子供たちの価値観は揺さぶられ、混乱します。それまでの暴力・腕力という価値観が無効であると知ったので、今度は急いで学力・学歴という価値観に合うように自分の態度を変更させなければなりません。
そのように新しい価値観に自分を合わせて勉強するのに忙しいので、いじめなどに時間を費やす暇が子供たちにはないのではないでしょうか。
受験競争がいじめの原因だといわれます。それは確かにそうですが、中学生の間は、暴力・腕力が価値を持つ子供社会の論理と、学力・学歴が大事なる大人社会の論理とがせめぎ合う時期です。その時期に、学力・学歴という大人社会の論理に初めてさらされる子供たちは、その圧力に抵抗するために、子供社会の論理である暴力を使ってストレスを発散します。
それに対し高校生になると、もう大人社会に時間的に近づいていることを知っているので、そのような暴力行使をしても、無駄だと悟ります。ここに来て彼らは、大人社会の論理を受け入れて、受験勉強に入ります。あるいは就職活動をし、専門学校を目指します。
しかし、学力・学歴という大人社会の価値観を受け入れることは、同時に善悪の価値観への目覚めを引き起こします。
子供の頃は暴力で周りをいじめていた子供たちが、高校を卒業すると、今度は、学力・学歴の価値を受け入れると同時に、善悪という大人社会の倫理にも目覚めます。
ここから、人は、子供時代は暴力で人を裁いていたのに対し、今度は善悪という価値観で人を裁くようになります。
人は子供時代に、暴力によって他人を攻撃することができました。しかし、暴力という道具は子供時代にしか通用しないことを知って、高校時代あたりには何を使って人を攻撃すればいいのかわからない状態になりました。
それが大人になって、暴力以外にも他人を攻撃する手段があることを発見します。それが、一つは善悪という価値観であり、あるいは学力、あるいは経済力という価値観です。この三つはそれぞれは異なる価値観ですが、平均的な大人は、それら三つが混ぜこぜになった価値観を有しています。それによって、自分の基準に照らして劣ったものを攻撃し、いじめるようになります。
マスコミの朝青龍への態度は、善悪という価値観を用いたいじめです、
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