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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

ただよう暗さの起源(1) 『共同幻想論』吉本隆明(著)

2004年12月15日 | Book
わたしは天皇家の人々をみると複雑な感情を抱きます。天皇家の人たちの、100%善良そうな雰囲気をみると、このひとたちは本当にノーブルで、まじりっけのないいい人たちなのだ、と思わされます。

皇太子が宮内庁による雅子さんへの不当な扱いに公に抗議したときなど、ああ、この人は本当に正義のために闘う人なんだ、と感動しました。

しかし、にもかかわらず、天皇家の人たちを見ると、なにかとても複雑なものも感じてしまいます。彼らの人格にかかわらず、なにか暗い気分になってしまうのです。君が代や日の丸にもやはり同様のものを感じます。

国会議員の人たちの下品さまる出しの言動をみると、わたしは微笑ましい気もちになったり、ただ呆れたりします。学歴を詐称したりとか、年金の払い忘れとか、1億円をもらって「記憶にない」とか、バカバカしいほど人間らしいじゃないですか。

でも、そうした彼らの個人的言動とはべつに、自衛隊の海外派兵を強行したり、自衛隊の訓練に出向いて彼らの前で演説をしたり、戦車に乗って東京都の中を行進したりするのを見ると、とても気もちの悪い、生理的嫌悪感を感じます。それは、おそらくそういうときの政治家の行動が、かれら個人の人格を越えて、「国家」という論理に取り込まれているからでしょう。

天皇家の人たちの存在に暗いものをわたしが感じてしまうのも、彼らの個人的な清廉潔白さとはべつに、かれらの環境自体が、ふつうの家族とはちがう論理に従っているからなのでしょう。


そうしたことをあらためて考えさせてくれたのが、最近読んだ、文芸批評家の吉本隆明さんの著書『共同幻想論』でした。

わたしは以前にもこの本にチャレンジしたことがあるのですが、全然読めませんでした。どれだけ文字を追っても頭に残らず、何か書いてあるのかさっぱりわからなかったんですね。それで放っていたら、気づいたらなくなっていました。

だけど、このブログで天皇について書いているうちにまた読んでみようと思ったのですが、意外に(以前より)本の内容が頭に入ったように感じています。もちろん難解な本なので、その理解度には不安はあるのですが。

今日は、簡単にこの本の解釈をまとめてみたいと思います。ただ、結果的に今日の記事は1万字になってしまいました。少し長い上に、この本の内容を簡単にまとめて感想を少し付け加えたものなので、すでに『共同幻想論』を呼んだことのある方や、そういう本には興味のない人には、とても長くかんじられるかもしれません。


『共同幻想論』が試みているのは、「国家」というものの明確な定義づけです。

わたしたちは「国家」という言葉をよく使いますが、そのメルクマールは人によってかなり曖昧でしょう。政府と自治体という具体的な制度を思い浮かべる人もいるし、その国の「領土」という地理学的な線引きを考える人もいます。あるいは、その国に住む人々の集団というように考える人もいるでしょう。「国家」という言葉には、明らかなようでいて、いろいろな内容が入り込んできます。吉本さんは、この言葉の内容をはっきりとさせようとしました。


吉本さんは、「国家」を一つの「幻想」と位置づけます。「幻想」と言うと非現実的な空想を思い浮かべるかもしれませんが、この「幻想」は、むしろ「観念」と言い換えてもいいでしょう。つまり、わたしたちの頭の中に張り付いている「観念」「想念」です。そういう意味での「幻想」です。


「国家」が「存在」するためには、「国家」というものが存在するという「観念」をわたしたちがもつ必要があります。逆に言えば、この「観念」がなければ、「国家」はこの世に存在しません。


そこで疑問として出てくるのは、この「観念」がいつ成立したか、ということです。いつから、どのようにして人々は、この「国家」という「観念」を現実のものと認めるようになったのか、この問いを吉本さんは追及しました。


「国家」という「観念」はなぜ成立したのかと問うことは、共同体という「観念」はなぜ成立したのかと問うことであると言ってよいでしょう。そこで吉本さんは、「共同体」という「観念」の成立の起源を追います。


共同体とはなぜできたのか。それは人と人がたんに集まってできるものではありません。そうではなく、一つの結束性のある集団として個人に想念されている必要があります。

その結束性をもっとも生みやすいのが、血縁です。家族と言い換えてもいいでしょう。男性と女性が出会うとき、そこにひとつの「夫婦」という観念がうまれる可能性が生じます。そこで生じる「男性と女性は対である」という観念が、「夫婦」という一つの「対幻想」を生むのです。

そこで、この「夫婦」つまり男性と女性の出会いから、「共同体」を構成する可能性が出てきます。事実、「夫婦」が「家族」となるとき、それも「共同体」のひとつです。しかし、一対の男女とその子どもだけでは、のちの「国家」となるような共同体にはなりえません。その血縁意識が、ある程度の量的規模を伴う「共同体」という観念へとつながる必要性があります。


吉本さんは、この血縁という意識がなぜ「家族」(だけ)ではなく「共同体」という観念を生んだのかを考察します。

一人の男が沢山の女性に子どもを産ませることに「共同体」の起源をみようとすると、つまり、その男性と女性と子どもたちの間の血縁意識の量的拡大に「共同体」の起源をみようとすると、その血縁意識が拡大していく可能性は、それら「夫婦」の死とともに終わります。その子どもたちが後にまた沢山子どもを作ったとしても、また夫婦と子どもとの間の血縁だけに注目する限り、それが共同体の拡大につながることはありません。親と子のつながりがたくさんできるだけです。

吉本さんは、対幻想である「夫婦」が共同体へと拡大していく契機は何かという問題の難解さを次のよう述べています。

「いまでもなく、家族の〈対なる幻想〉がの〈共同幻想〉に同致するためには〈対なる幻想〉の意識が〈空間〉的に拡大しなければならない。このばあい〈空間〉的な拡大にたえるのは、けっして〈夫婦〉ではないだろう。夫婦としての一対の男・女はかならず〈空間〉的には縮小する志向性をもっている。それではできるならばまったく外界の共同性から窺い知れないところに分離しようとするにちがいない

 エンゲルスはこれを誤解したとおもえる。かれは一対の男女が〈夫婦〉としての内部にあまねく拡大する場面をおもいえがいた。この場面を想定するかぎり、内のすべての男性が内のすべての女性と〈性〉的にかかわり、ある期間同居できる集団婚を想定するほかなかったのである」(161‐2頁)。

しかし、どれほど沢山の男が沢山の女を通して子どもを産もうと、そこでは多くの男女の出会いという「対幻想」が生じるだけで、その「対幻想」がそのまま「共同体」という観念を生む契機にはなりえません。「対幻想」が「共同体」の観念(共同幻想)となるには、男と女の単なる出会いによって生じる人間と人間の間の幻想とは違う幻想が生じる必要があるからです。集団婚は多くの「対幻想」を生じさせますが、それはそのままでは「共同幻想」とはなりえません。


そこで、もし「夫婦」という「観念」が「共同体」へと広がるとすれば、それは男と女が産む子供たちが兄弟姉妹という「性」をもった人間であることによる、と吉本さんは考えました。

なぜ男と女が兄弟姉妹であることによって、「共同体」という「観念」が生まれるのでしょうか。


「夫婦」という「観念」が生まれるのは、人間が男性あるいは女性であることに由来します。わたしたちはひとりの「個人」として振舞うこともできますが、異性と交わり、性行為を行い、家計を営むときは、じぶんを「男性」あるいは「女性」であると意識しています。

「夫婦」とは、この自分の中にある「性」という「観念」を意識する場であると言えます。ここから吉本さんは、「対幻想」という言葉を生みます。男性と女性がお互いの「性」を意識しながら「対」になって一つの「家族」を営むこと、それが「対幻想」です。この「対幻想」により、その男と女は、じぶんは「家族」の一員であるという「観念(幻想)」をもつことができます。

この「対幻想」を、吉本さんは、もっとも基礎的な人間間の集合体の観念であると考えているようにわたしは思います。

そこで問題となるのは、いかにしてこの「対幻想」が「共同体」へと規模を拡大していくかです。

このような問題の立て方は、吉本さん以前の学者もしてきましたが、かつての学者は、古い歴史に見られる多夫多妻や乱交などの現象に答えを求めたようです。

しかし吉本さんは、よほど人間が未分化で非文明的な意識をもっているかを想定しない限り、そのような答えは正しくない、と考えました。人間が自分を「性」として意識することは、そこに「自分とは何か」という意識があることを意味します。そのような自己意識を想定するかぎり、乱交によって人間は集団意識を高めたという答えは、吉本さんの腑に落ちなかったのではないかと思います。

吉本さんは、「対幻想」が「共同体」へと拡大したのは、同じ家族の兄弟姉妹がみずからを「性」として意識し、また兄弟は姉妹を「女性」として、姉妹は兄弟を「男性」として意識したことに由来する、と考えました。

そのとき兄弟姉妹の間に実際に性交渉があったかどうかは問題ではありません。お互いが互いを「異性」として意識しあう(現代の言葉で言えば「恋愛感情」をもつ)ことにより、兄弟姉妹のあいだに「対幻想」が生まれるのです。

兄弟姉妹は、やがて他の家族から生まれた外部の人間と家族をもちます。しかし、兄弟と姉妹が互いを「異性」として意識しあう「対幻想」は消えることはありません。このとき、「対幻想」は、ひとつの「家族」という枠を破り、より大きな共同体へと飛躍するきっかけが生じます。兄弟姉妹がばらばらの家族に散っても、「対幻想」が残る限り、その「幻想」は拡大していくのです。そこに、より大きな「共同体」という幻想が生まれる契機があります。

吉本さんはこういう論理の導きにより、「対幻想」があることをきっかけにして広がりをみせたとき、「共同体」という観念が生まれたと考えました。それは、歴史的にははるか何万年も前のことですが、そのとき人類は、「共同体」という観念を手に入れました。吉本さんはこのような、「対幻想」から「共同幻想」が生じる点について、歴史的に見られる母系制を例にとりながら、次のように述べています。

 「いまエンゲルスのいうとおりに同母の〈姉妹〉と〈兄弟〉を、原始的な〈母系〉制の社会で純粋に取り出してみたと仮定する。この両者の間には普遍的な意味では自然な〈性〉行為、いいかえれば性交はないだろう。たとえあっても、性交があったとしても、なかったとしても〈母系〉制社会の本質には、どちらでもいいといった意味においてである。だがたとえ性交はなくとも〈姉妹〉と〈兄弟〉のあいだには〈性〉的な関係の意識は、いいかえれば〈対なる幻想〉は、自然的な〈性〉行為に基づかないからゆるくはあるが、また逆にいえばかえって永続する〈対幻想〉だともいえる。そしてこの永*続*す*る*という意味を空間的に疎外すれば〈共同幻想〉との同致を想定できる。…

 こうして同母の〈姉妹〉と〈兄弟〉は〈母〉を同一の崇拝の対象としながらも、空間的には四散し、またそれぞれ独立した集団をつくることになる。〈姉妹〉の系列は世代をつなぐ媒体としては尊重されながら、現実的には四散した〈兄弟〉たちによって守護され、また兄弟たちは〈母系〉の系列からは傍系でありながら、現実的には〈母系〉制の外に立つ自由な存在になる。ただ同母にたいする崇拝の意識としては、いいかえれば制度としては、この〈母系〉の周辺に存在するだろう。ここに氏族制へ転化する契機がはらまれている」(172-3頁)。
 

(次の記事「ただよう暗さの起源(2)」に続く)


涼風




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