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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『「超」育児』 ダニエル・グリーンバーグ(著)

2008年07月21日 | Book
以前紹介した『「超」学校』の著者ダニエル・グリーンバーグさんによる別の著書『「超」育児』を読みました。

上記の本に続き、とてもおもしろい本だった。


興味深いのは、著者が乳児を、生まれてから1歳まで、そして1歳から4歳まで、そして4歳以降というように分けていること。

詳しく説明するのは面倒なので端折りますが、著者は1歳という小さい年齢だからこそ、親が干渉することの不利益を訴えます。

著者は1歳までからという期間について次のように述べます。

「この時期に、子どもの外部世界に対する基本的な関係、態度の多くが決定されます。生後最初の一年間にどう取り扱われたかで、どれだけ自分の身が安全だと感じられるか、どれだけ根本のところで安定していられるか、後になって変えようのないかたちで決定してしまうのです(154頁)。

・・・

 一歳から四歳の段階で自分の子を分かろうとしない親に育てられてしまうと、子どもはこんなふうに考えるようになります。
 
 親なのに親身になってケアしてくれないし、時間もつくってくれなければ、ちっともこっちに目を向けてくれない・・・―と。

 子どもの側にも親に対する愛があります。子どもなりに温かみと慈しみを親に届けようとしているのです。ところがそこのところを親はちっとも見てくれない。親はたしかに愛してはくれる。けれど子どもの気持ちを分かってくれないし、いいたいことを理解しようとしてくれない。敬意を払ってくれない、と考えているのです

 ・・・

 無関心のさなかに置かれた(託児所やデイケアセンターなど、多くの施設で見られることですが)子どもは、悲観主義的な世界観を持つようになります。何かをやってみようと、しなくなるのです。周りが聞いてくれないからです」(154‐5頁)。


そのような繊細な感覚をもつ子どもに対して必要なことは、失敗をゆるすことだと著者はいいます。


「発達途上にある子どものコミュニケーションシステムは、親や他の人々との関係にとどまりません。周囲の世界との交渉も含むものです。外界と自由に関係する機会を得た一歳から四歳の子どもたちは、世界に対する建設的な態度を築いていくことでしょう。

 自由に動き回る。道具で遊ぶ。何でも試みる。台所で食べ物、ポット、フライパンを手にしみる。

 子どもたちは失敗することを許されなければなりません。飲み物をこぼすこともあるでしょう。なにかを台無しにしたり、壊すことだってある。

 でも、子どもたちは自分失敗したことを、ちゃんと分かっているのです。幻を見ているわけじゃない。彼(女)らは知覚的に優れており、細かすぎるところまで見ているのです。子どもが細かなことに集中できないなんて見当違いもいいところです。・・・

 その子にしろ、たとえば小麦粉を撒き散らしたら、自分は間違ったことをしたと思うものです。そしてそれが許されれば、失敗を、お仕置きされないノーマルで健康なものと考えるようになるのです。その結果、身の回りの物理的空間が自分なりに対処可能な世界であると思えるようになる」(156‐7頁)。


このように、子どもには、というより本来人間には失敗から学ぶ能力が備わっているのだとしたら、大人がすべきことは、子どもが学んでいく手助けをすることです。

つまりそれは、子どもに失敗することを許し、そうすることで、失敗から学ぶ機会を確保することです。


一歳から四歳までの子どもについてこう述べたあと、グリーンバーグさんは、4歳以降の子どもと大人との間には、分別・判断力という点についてもはや違いはないといいます。

たしかに四歳の子と五〇歳の人とでは、経験や知識は違います。ですから、何かを判断する上で参照する経験・知識は大人のほうが豊富です。

しかし、外界から情報を得て、それを自らの知識・経験に照らし合わして判断するというプロセスは、すでに四歳の子は五十歳の人の間に違いはないのです。

自らを取り囲む世界は四歳の人と五十歳の人とでは異なります。だから四歳の子に会社の仕事を与えてもうまくできないでしょう。しかしそれは、単にそれらに関する情報を彼が持たないからに過ぎません。

同じように五十歳の人を保育園や幼稚園の遊び場に連れて行けば、どう遊べばいいか大人は戸惑うでしょう。砂を使って遊ぶとはどういうことか、大人は忘れているからです。


新しい状況に置かれたら、誰でもどうしたらいいかわからなくなるのです。大人でも子どもでも、そこからまた失敗を繰り返して経験・知識をつんでいき、正しい判断力を得るようになります。そのプロセスに、大人も子どもも違いはありません。


そういう子どもに、大人が取り立てて干渉して知識を与えてやる必要は、本当はありません。問題集を無理やり解かせる必要もないし、跳び箱を飛ばせる必要もないのです(本人が自分でやりたいと思わないかぎりは)。


跳び箱を飛ばして、いったいどうするのですか???


人は誰でも、身の回りから何かを学んでいくし、それにつれて、どうすべきかという判断力を高めていきます。著者はこう述べます。


「子どもたちは一種のフィードバック・メカニズムを使って判断していくのです。彼(女)らは自分たちの手の届かない状況にはタッチしません。成長しながらより複雑な状況へと踏み込んでいく。自分から深みに入り込もうとはしないものなのです。

 それはどんな年齢でも見られることでしょう。つねにあたらいいことに挑戦するのが人生です。でもその場合、自らの限界を知って背伸びはしないものなのです」(169頁)。


グリーンバーグさんのこの本を貫く主な主張の一つが、この、子どもには生まれながらに成長しようとする欲求があり、失敗から学び、つねに自分にとってよいことを選択していく判断力を高めようとしている、というメッセージです。

またそれゆえに、大人は、子どもが学ぶ方向について干渉する必要はないということです。



既存の学校教育の欠陥をあげるとすれば、教員が不正な選考で選ばれていること以上に、何を何歳で学ぶのかということを大人が決めることができると思い込んでいる点にあります。

社会の変化のスピードは速いのに、子どもが学ぶ内容は何十年も前から変わっていないのです。その量が減ったり増えたりしているだけで。

何を学ぶのかを決められてしまえば、子どもは自分から何を学んでいくのか考えないようになるでしょう。

自分の興味のあることをしていなければ、それに失敗したとき、その失敗を克服しようとする意欲もわいてきません。


やりたくない教科で失敗しても、そこから学ぶ意思は育たないのです。

結局、多くの子どもは「勉強のできない子」というレッテルを貼られて、テストで間違った箇所をほったらかしにしたままになります。だって、最初から教科学習には興味がないのですから。


自分が成長したい・向上したいと思うことをやらせないでいると、成長したい・向上したいと思う人間には育たないでしょう。そういう人間は、大人になるともはや学ぶことはしない人になります。

学校教育の大きな問題はそこにあります。













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2 Comments

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それぞれ ()
2008-08-05 14:23:24
人間は世話をされることを前提に生まれてくる動物。他の動物に比べて弱弱しく、やはり親の干渉はある程度必要なんじゃないかと考えました。
また、犬の飼い方と似ていますが、子供は失敗を失敗と認識できないこともあります。やはり何らかの恐怖体験も少しは必要なのでは?と疑問に思いました。
例にあった小麦粉を撒き散らすということ。親が叱りもせず笑顔で掃除をしてあげる。また子供と一緒に掃除をする・・幼児は本当に失敗したと理解するでしょうか?
また、教育に関して。興味があることを伸ばすのは良いことだと思います。しかし、小中の義務教育において、やりたくないことを放置させるのは本当に正しいでしょうか?一種恐怖を感じます。小学生レベルの算数ができない中学三年生の家庭教師をしていたことがありました。高校には行きたいといっていましたが勉強自体にまったく興味が無いようでした。100円のりんごを3つ買うと?と問うと、100+100+100と計算をします。これでいいのでしょうか。親は子供が本当にやりたいことができたときのために、道を広げさまざまな事に対応できるように育てるのが義務だと思います。自立までの多様性を確保するためにも、ある程度の学力を身につけさせ、勉強を通して、根気強さ、我慢強さ、柔軟性、発想力、応用力などを身につけさせるべきではないでしょうか。
長文失礼しました。
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Unknown (涼風)
2008-08-13 23:44:01
犬さん、コメントありがとうございます。


犬さんが教えていらしたお子さんをわたしは直接知らないですが、子どもにとって九九を習うことが役に立つと思う状況があれば、そしてその子が困っていれば、その時点で教えてあげればいいのではないでしょうか。

九九がその子にとって本当に便利なものであるなら、きっとその子は自分からすすんで(すぐに)覚えますよ。(^-^)
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