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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 1

2007年04月13日 | Book



社会学者アンソニー・ギデンズとウルリッヒ・ベック、スコット・ラッシュによる共著『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』を読みました。原著が出版されたのは1994年なので、もう13年も前の本です。

ただ、1990年の東西の壁崩壊以後は、基本的に社会状況は同じ方向に動いていると私は思うので、13年という時間もそれほど長くは感じません。1995年と1985年はそれぞれまったく違う時代かもしれませんが、1995年と2007年は同じ時代のように思えるのです。もちろん変化の速度はとてつもなく速いのですが、90年以前と以後は何かが決定的に変わってしまったような印象があります。

三人の執筆者のうち、スコット・ラッシュの論文は途中で読むのをやめました。重要なことが書かれているかもしれませんが、とりあえずはここではギデンズとベックの議論に関する感想を述べたいと思います。

強いられた自己決定と選ばれた自己決定

読んで思ったのは、ギデンズとベックの間に「再帰的近代化」に関する意見の違いはほとんどないということ。力点は異なりますが、基本的に状況認識は同じです。

「再帰的近代化」とは、「近代化」を特徴づけると思われてきた制度と個人のあり方が、現代では崩壊・再構築の過程にあることを意味する概念です。

分かりやすい例では「福祉国家」という概念があります。「福祉国家」とは、国家が国民の生活を「ゆりかごから墓場まで」見るという理念です。このような理念が実現可能と思われたのは、19世紀終わりから20世紀初頭にかけては資本主義的大量生産が欧州各国で本格化し、また国家が領域内の国民生活を監視するシステムが完成した時期だからです。国家は国民の国家への従属を促して国内統一を図るために、福祉制度の整備が急務となりました。その財政基盤となったのが経済成長でした。

資本主義的大量生産は労働者の完全雇用を可能にし、労働者である男性の肉体・精神を維持し再生産するための「家庭」が女性によって担われました。また階級というコミュニティは労働者の精神的・物質的な支えとなりました。このような労働者の組織への従属、家庭による女性の束縛、労働者コミュニティの形成などによって、「近代」は形成・維持されてきました。男女分業やコミュニティという、一見近代的でないものによって初めて「近代」は完成されたのです。ベックはこのような「近代」を「単純な近代」と呼びます。

「単純な近代」に対して、現代は「第二の近代」あるいは「再帰的近代」という状況が出現している時代です。それは、「単純な近代」が達成した経済成長を基盤にして、例えば女性が家庭に縛られることを拒み社会に進出し始めた状況です。また労働者の子弟はもはや労働者コミュニティに縛られない職業選択を行っています。さらに経済成長によって消費者の嗜好が多様化したために、資本主義的大量生産は絶対無二の経済戦略ではなくなりました。

単線的な経済成長が終ると同時に、男性はかつての「労働者」という役割を脱ぎ、女性も「家庭」から脱し始め、企業の側は多様な生産形態と雇用形態を採用しはじめました。このように組織のあり方も個人の生き方も唯一の指針を失っているのが「再帰的近代」の特徴です。かつての制度・個人のあり方がもはや有効ではないため、組織も個人も自らのあり方を自己決定せざるをえないようになっています。

ギデンズとベックに違いがあるとすれば、ギデンズがこのような現代の社会状況において個人は能動的に自己の生活を自己決定によって構築しているとみなすのに対し、ベックは組織・制度の変化によって個人はむしろ自己決定を強いられていると見なしていることです。

たとえば、派遣労働の増加というトピックをとると、ギデンズ的にみれば、その現象は個々人が労働と人生の関係を画一的に見るのをやめ、自己の私生活面での充実と仕事とのバランスを自分で決定しようとする現象と見ることができます。元々マルクス主義的な社会構造分析をしていたギデンズですから、派遣・パート労働の増加には企業の都合が大きく影響していることは必ず考慮しているはずですが、同時にそのような組織・制度の変化には働く側の意識変化が大きく影響していることを指摘するはずです。

それに対しベック的な視点では、企業が多様な雇用形態を採るのは雇用側の都合でそのような制度改革を推し進めた結果であり、個々人はそれによって派遣労働を採るかor正社員として働くかという決定を迫られ、また派遣労働として働く場合でもその決定は自己責任によると認識することを強いられているのだと見なします。つまり、個々人による自己の人生の構築という現象は、個人がそれを望んだ結果ではなく、多くの人にとっては制度変化によってそうするように強いられている結果だということです。

ベックにとって、“reflexive Modernization”(「再帰的近代化」)とは個々人が自分を省察する“reflexive”な態度を意味していません。ギデンズとは違って、そのような反省能力を個人が身につけていることを言いたいのではないのです。

ベックは、「近代社会」すなわち技術発展・経済成長・福祉国家・完全雇用・男女分業といった理念が崩壊していった原因は何かということを考察しません。おそらく、そのような「単純な近代」の制度を崩壊せしめた単一の原因を求めることは、彼にとってはできないのです。

「単純な近代」の制度は環境破壊をもたらし、完全雇用を終らせ、女性を社会進出させています。ギデンズであればそのような変化に一つの筋道を見つけます。企業が完全雇用を採らなくなったのは消費者の嗜好が多様化したため、需要動向を正確に把握することが不可能になったからです。またそのような嗜好・価値観の多様化によって個々人が様々な生き方を模索することにつながり、働く人自らがフルタイム労働という道を必ずしも選ばなくなりました。また女性の社会進出により少子化になり、ピラミッド型の人口構成を前提にする福祉国家は不可能になったのです。

それに対しベックは、そのような制度変化の原因は考察せず、単に「単純な近代」が「再帰的近代」へと移行している現象を取り上げ、すべてが不確実でとなっている現象の表面を描写します。また、ギデンズが個々人による人生の再構築ととらえた現象も、制度の変化によって個人は自己決定を強いられているとみなします。

ベックにとっては現象の原因の追究ではなく、あくまで現象の表面に接して直感的に感じることをそのまま描写することが重要になります。それゆえ彼には、個々人が自己決定を強いられている状況は、必ずしも個人にとって自分の人生を決める機会が増えているとはみなされず、制度の変化によって安定した人生を個人がもはや歩めなくなり、ただ状況に流されるように見えていきます。ベックが「再帰的近代化」の典型的特徴として「大量失業」「先進国における第三世界」といった事柄を挙げるのはそのためです。もはや失業は階級問題ではなく、個々人の選択の結果として捉えられ、個々人は失業すら自己責任によるものと認識することを強いられていきます。

ベックにとって制度の不確実さは、個々人が作り出したものではなく、単一の原因が何かはつかめない状況であり、その状況によって個々人は「自分で決める」というルール以外のルールを与えられなくなっているのです。彼は次のように述べています。

「労働に参加するには教育を受けることが必要であり、労働への参加も教育への参加も、社会移動と、容易に社会移動ができる態勢を前提条件にしている。これらの条件はすべて、人が進んで自分自身を一個人として組み立てていくことを、つまり、個人として計画し、理解し、構想し、行為する―あるいは失敗した場合には、みずからが招いた帰結に耐える―こと以外何も求めない、そうした必要条件である。
 ここにもまた同じ構図を見出すことができる。意思決定ではあるが、おそらく意思決定不可能な意思決定、つまり、決して自由な意思決定ではなく、ジレンマを引き起こすモデルのもとで、他の人によって強制され、自分自身を無理やり奪い取られた意思決定である、という構図である」(p.35)。

こうやって説明してしまうと、あまりにも身も蓋もないことに私自身もあきれてしまいますが、「再帰的近代化」をめぐるギデンズとベックの違いは上記にあると思います。ただ、それも力点が異なるだけであり、両者はともに互いの意見を否定しているわけではありません。むしろ、「自己決定」という現代社会の特徴に対して、一方はそれを状況変化によって強いられることを強調し、もう一方はそこで個人は始めて自己省察して自己の人生を切り開くことを強調します。現代社会において見捨てられた人と成功している人の両者がいるなかで、ベックは前者を、ギデンズは後者に焦点を当てているとも言えます。

参考:『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著) 1 2『モダニティと自己アイデンティティ』 アンソニー・ギデンズ(著)


専門性の崩壊

私にとっては議論の面白さはやはりギデンズの方にありました。彼の議論で印象に残ったことなど。

この本でも他の本でも、ギデンズが社会を分析するのに着目しているのは、社会の“規則”の源泉です。端的に言えば、この“規則”は過去には権威者・首長者による託宣によって与えられ、現代では「専門家」によって与えられています。

封建世界やそれ以前の世界では首長と従者の関係は現代ほど明文化されておらず、ヴェーバーが言うところの「個人的」「人格的」な絆によって結ばれていました(と、ここではとりあえず言っておきます)。

それに対して現代では、行政が認定する「専門家」や法曹家によって社会の規則が決められています。企業の技術者・医者は大学で学位を認定されていますが、過去にはそれらの専門家は国家の認定を受けずに活動することが許されていました。

「単純な近代」の時代は、上記の「専門家」たちの絶対性が信奉されていた時代でした。社会も科学も単線的に発展していくだろうと考えられていた時代では、近代国家によって創設された「専門家」制度は、無条件に信頼できる専門家を輩出すると思われていました。それに対して「第二の近代」「再帰的近代」の現代は、そのような「専門家」の資格が疑われている時代です。

表面だけを見れば、現代は「専門家」が増えている時代です。司法試験合格者は増え、博士号やMBAをもつ人は日本でも世界でも激増しています。行政は資格制度を創出して様々な分野の専門家を作り出しています。

しかし同時に現代はそのような専門家たちの専門性が激しく疑われている時代です。それには、環境破壊によって科学技術の絶対性への信奉が激しく揺らいでいることを初め、様々な分野で絶対的に信頼できる知というものが存在するとは考えられなくなったことが影響しています。例えばタバコやコーヒーや牛乳は健康によいのか悪いのかは専門家によって意見はまちまちです。経済を発展させる処方箋について確信をもって意見を述べることのできる経済学者はいないでしょう。医療者と患者との信頼関係の構築は現代になってその端緒についたばかりです。

大学や行政によって「専門家」が大量に輩出されると同時に、「一般」の人はその専門性を疑うようになっています。ただ、これは悪貨が良貨を駆逐するという単純な話ではなく、(科学)知識の増大が社会・対象への認識を深めることにはつながらないという事実に人々がやっと気づき始めたからです。その気づきに至るまでに、「単純な近代」の理念の崩壊という現象を社会は体験しなければなりませんでした。

大学や行政による「専門家」の大量の輩出は、知が社会・対象への認識を深めることには必ずしもつながらないという時代の趨勢を前にして、時の権限保有者たちがなんとか知の信頼を取り戻そうと色々な手を打っている現れです。新しい名称の学科や様々な資格を作ることで、「専門家」という制度を時代の変化に合わせようとしているのです。

また多くの人はこの不確実な時代では自分のキャリアに保証を求めるので、それらの制度に参加して自らを専門家にしようとします。しかし、そもそも時代が不確実なのは、技術も経済も社会も安定していないことに原因があります。そのことに目を向けずにとりあえず「専門家」になってもキャリアが安定することはありえません。MBAや博士号を取っても、実際に変化するビジネス社会で行き抜く知恵を持たなければ、誰も彼を雇おうとはしません。現代は法曹家でも職が安定しなくなりつつあります(これは決して日本だけの現象ではありません)。

ギデンズもベックも、このような時代認識を踏まえつつ、専門家がその専門性を自分で疑い、その知識を公開的な討議によって再検証することの必要性を訴えます。



『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』2 へ続く



写真:公園で遊ぶ親子

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