joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『経済の考え方がわかる本』新井明・新井 紀子・柳川 範之・e‐教室 (著)

2007年03月15日 | Book

             夕方の遊具


『経済の考え方がわかる本』(岩波ジュニア新書)という本を読みました。

私は大学は経済学部だったにもかかわらず、経済学はちんぷんかんぷんです。数式は分からないし、数式を省いた経済学の本を読むのも苦手です。そういう私にとっても、経済と経済学の考え方の初歩的な部分を分かりやすく説明してくれるこの本は、とても読みやすかったです。経済学の専門的な入門書(?)を読んでも、その内容を現実の経済を考える際に頭の中で応用することは難しいですが、この本の内容であれば、例えば新聞の経済欄のトピックを見て、「あっ、これはあの本のああいう考え方で考えればいい問題だな」と思えるかもしれません。

この本に経済問題の答えは書かれていないと思います。むしろ、この本は経済について具体的な分析するというよりも、経済について考える際の《考え方》の基礎を中学・高校生に分かりやすく書いた本です。


僕がこの本を読んで「あっ、そうかぁ」と思ったのは、需要曲線と供給曲線についての著者の説明でした。

需要曲線とは、ある商品がある値段の場合にその商品はどれだけの数が市場で需要されるかをグラフで示したもの。供給曲線は、どれだけの数が市場で供給されるかを示したものです。

頭ではこの説明では分かった気になるし、実際にグラフを見せられてなるほどと一応思ったりしますが、数式や図形の考え方に馴染めない私は、人間の行動をグラフで説明されても本当は納得していません。

しかし著者たちは、需要曲線と供給曲線を次のように言います。

「「需要曲線」とは、ある値段だったら買ってもいいと思う人の気持ちをグラフにしたものです。「供給曲線」とは、ある値段だったら売ってもいいと思う人の気持ちをグラフにしたものです」(p.38)。

その場合の「気持ち」とは、需要側からすればできるだけ安い品物が欲しいという気持ちであり、供給側からすればできるだけ高く品物を売りたいという気持ちです。だから、値段が高い場合では需要は少なく供給は多くなり、値段が低い場合ではその反対になります。そしてその間の値段では、お互いの曲線は交差するように線を描きます。そして現実の価格は、需要と供給が一致する点になると考えられます。

このような曲線は、やはり具体的なモノを売る経済が主流だった時代の考え方なのでしょうね。知識を売る時代になればなるほど、買う側は値段の高い安いに左右されずに商品を選ぶようになります。

具合的なモノ(食糧)は、デフレの影響を受けて、消費者は安いものを確かに求めています。しかし知識・情報・サーヴィスといった商品に関しては、消費者は必ずしも安いものを求めません。むしろ高いからこそ、その情報を買うということも考えられます。経営コンサルタントが経営者向けのセミナーで二日間50万円という値段を設定し、それに申し込みが殺到するという事態は、従来の需要供給曲線では考えられないように思います。

その際には、「これまでのお金とは別の使い方をする」=「これまでとは別の行動を取る」という体験も、そのセミナーのサーヴィス内容に含まれていると考えることができます。そのような購買体験自体がサーヴィスの内容になっているのです。その場合、そこで何が得られたかということは不明確であるため、そこで得たものの値段の適正な額というものは主観に左右されることになります。客観的に見て適正な額というものが存在しない以上、供給者は可能性としては無限に値段を引き上げることが可能になります。

いわゆる「富裕層ビジネス」というものも、値段が高いこと自体が一種のサーヴィスとなっているとも言えるかもしれません。

このことは、この本で説明されている「機会費用」という概念を考える際にも当て嵌まると思います。

「機会費用」“opportunity cost”とは、ある選択をする際に、その選択をすることでどういう別の選択肢を犠牲にしたかを示す概念です。つまり、150円のドリンクを買うことは、そのお金で別のものを買ったときに得られる効用を犠牲にしていることを意味します。

この効用も、知識・情報・サーヴィスが経済の主流になっている今の時代では、容易には測り難いものとなっています。モノが主流だった時代であれば、機会費用の算出は容易だったかもしれません。テープレコーダーから得られる効用と、テレビから得られる効用の比較は容易だったかもしれません。

しかし購買から得られる快感が主観的になればなるほど、効用の比較は困難になります。この本でも述べられているように、青春18切符で長い時間列車に乗ったり、長時間の列に並んで映画を見ることは、それが好きな人とそうでない人との間で効用はまったく別のものになります

そんなことは著者たちも、また経済学者たちも、とっくの前から分かっていることで、そのような消費者の新しい購買感覚にあわせた経済学が現在は構想されているのだと思います。

想いは実現する

2007年03月15日 | reflexion

             団地の前に停められた単車


ここ数日頭で悩んでいる状況について振り返ると、じつはその状況は、以前からそういうことが起きると怖いなぁと懸念していたことでした。やっぱり想いは実現してしまうものなんですね。

懸念していたことが何もかも全く思ったとおりに実現してしまったわけではありません。具体的な状況は、怖れていた事態と同じではありません。でも悩んでいる内容自体は、「こういうことで悩みたくないなぁ」というまさにそのことが起きているのです。

想念の現実化するパワーはやっかいですね。それをよい方向に使いたいです。

『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著) 2

2007年03月15日 | Book

             草に立てられた白いフェンス


『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著)1 からの続き

家庭内暴力かロマンティック・ラブか

上で述べたように、「ロマンティック・ラブ」とはパートナーに対する感情的な依存の表現であり、ギデンズにとって克服されるべき感情の状態です。またおそらくギデンズは、近代が生み出した「ロマンティック・ラブ」という概念と、「家庭内暴力」の発生とは、同じ根をもつとみなしています。

「ロマンティック・ラブに対する抑圧されたこだわり」においては、人はパートナーを「特別な人」とみなし、「この人が私を完璧にしてくれる」“You complete me.”と想うようになります。ギデンズは「ロマンティック・ラブ」に陥った人の感情を、有名な「共依存」という概念で説明します。彼は次のように述べます。

「共依存症の《人》とは、生きる上での安心感を維持するために、自分が求めているものを明確にしてくれる相手を、一人ないし複数必要としている人間である。つまり、共依存症者は、相手の欲求に一身を捧げていかなければ、みずからに自信をもつことができないのである」(p.135)。

ギデンズは、「ロマンティック・ラブ」に衝動強迫的に依存していく女性たちは、家庭生活上の役割(「例えば、家事や子供たちの要求に対する儀式化した没頭」)に執着していくと指摘します。そのような役割への執着の中で、女性たちは自分のアイデンティティを自分以外のもの、それはパートナーであったり、「固着化した日々の型にはまった行い」(上記の家庭上の役割など)であったりしますが、に見出し、自分で自分を律することが不可能になっていきます。

ただし、女性にとってはこの「ロマンティック・ラブ」の状態は、自分たちの感情をどう表現すべきかについて模索している中での過渡的形態でもあります。彼女たちは愛情のあり方を模索している過程で、「ロマンティック・ラブ」は自らを自由にしないことを認識し、より自由で対等な関係をパートナーと築く「ひとつに融け合う愛情」を求め始めています。「ロマンティック・ラブ」はそこにたどり着くまでに女性たちが払った決して少なくない犠牲でしたが、それにより女性たちはますます自分の感情と向き合うことが可能になっています。

それに対し男性は、近代を通じて感情の開発をもっぱら女性に委ねてきたため、女性が「ロマンティック・ラブ」に没頭しているにもかかわらず、というよりだからこそ、自分たちの感情に向き合うことを拒否してきました。

最初に指摘したように、男性にとって愛情・感情とは母親の下から離脱した時点で棄て去っているのであり、それ以降彼らは父親のペニスと自己を同一化し、経済と政治という競争の世界で活動することに専念してきました。その過程で男性たちは自己の感情を切り捨ててきたため、あるいは自己の感情をヨリ意識の奥に埋め込んでしまったため、意識できない過去の記憶・感情に振り回される結果に陥っています。自分たちが母親の愛情を切り捨て、また切り捨てたことの罪悪感をも意識の奥に深く埋め込み、その記憶に向き合うのを男性たちは拒否しているため、自分たちが持っている罪悪感に気づかず、それゆえにその罪悪感から逃避するための行動に埋没していきます。その行動の一つが「仕事」であり、性愛の場面ではポルノなどへの没頭です。

(ポルノは男性たちにとって、性愛に含まれる感情から目を背けることを可能にし、ペニスの局所的な快感にのみ耽ることを許してくれます。近代におけるポルノ産業への男性たちの没頭は、性欲をもちながらそれをパートナーへの愛情と結びつけることに恐怖をもつ男性たちが、自己の感情に向き合うことから逃避していることの表れです)。

ギデンズは次のように説明します。

「男の子に関する限り、母親との断絶は、男の子の女性に対する依存心が隠蔽され、そして、無意識のレベルで、また多くの場合意識のレベルにおいても否定されていくという帰結をもたらしている。そのため、男の子はその後の人生で、セクシュアリティを、自己の再帰的自己自覚的叙述のなかに組み入れていくことが困難になる。繰り返していえば、男性が抑制するのは人を愛する能力ではなく、親密な関係性を維持するために重要な感情的自立なのである」(p.187)。

このような自己の感情と向き合うことへの怖れのゆえに、男性はパートナーに自分の感情をさらすことを怖れます。またこのような怖れのゆえに、男性は性愛に含まれる愛情という感情に触れることを拒否し、性を愛情ではなく、むしろその反対物である暴力と結び付けようとします。ギデンズは次のように述べます。

「勃起した男根が本当にペニスになるまで、男性のセクシュアリティは、一方で、暴力の行使を含めた有無を言わせない性的支配と、他方で、性的能力に対する絶え間ない不安とのおそらく板ばさみになっていく」(p.177)。

男性が女性に対して性的暴行をふるうのは、歴史を通じて全般に見られるものという印象があります。しかし著者によればそれは正確ではなく、むしろ前近代においては、平和時においては、統治が行き届いている範囲において、女性たちは近代よりも暴力にさらされることは少なかったと指摘します。たとえ女性たちが前近代においても暴行を加えられていたとしても、それはあくまで「社会の周縁部で、つまり、辺境の地や植民地、交戦状態、未開な状態で、さらには掠奪軍や侵略軍の間で」頻繁に行われていたのであって、そのような場面で危険にさらされていたのは女性だけではありませんでした。

たしかに前近代において女性は男性よりも低い地位にあり、すなわち女性は男性の「所有権」の支配下にありました。しかしこのことは同時に、男性にとって女性と付き合う上で自己の感情を考慮することなく、「所有権」という外的な制度に頼っていさえすればよいことを意味していました。

近代は、この男女の不平等を作り出す障壁を取り壊してきましたが、それゆえ男性たちは女性と向き合う際に伝統的な制度・慣習にもはや頼ることはできなくなりました。そのとき男性たちは、制度に頼ることもできず、かと言って生身の自分の感情をさらけ出して相手と向き合うような勇気をもつこともできませんでした。そのとき男性たちは女性と付き合う際に、自己の不安を押し隠すために、暴力に頼ることになります。ギデンズは次のように説明します。

「(近代では)女性は未だかつてないほど頻繁に匿名性の高い公けの舞台で生活し、働いており、男女を遮断してきた「分離し、かつ不平等な」隔壁は実質的に崩壊してしまった。男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつのである。言い換えれば、今日、男性の性暴力の多くは、家父長的支配の連綿とした存続よりも、むしろ男性のいだく不安や無力感に起因しているのである」(p.183)。

このような男性による性暴力あるいはポルノへの没頭は、ギデンズによれば衝動脅迫的なものとなっていますが、それは上で述べたようにこれまでよりかかっていた慣習が崩壊しているがゆえに、元々自律的な決定を行ってこなかった男性たちは自分たちの性愛欲をどう処理してよいかわからず、また愛情・感情を表現することは恐れているため、「取り付かれたように、しかも不安定な形で無意識に行動に表していく」という形を採っていくことになります(p.168)。


対等な関係の構築

ロマンティック・ラブと家庭内暴力に共通しているのは、どちらも固定的なジェンダーの役割に男女が固執していることです。女性は「特別な人」としての男性に期待し、男性は自己のどれである女性を支配する際にもはや伝統的慣習に頼ることができないために暴力に訴えます。男性は暴力で女性を傷めつけながら、同時につねに女性を自分の身近に置いておこうとします。ロマンティック・ラブにおいても家庭内暴力においても、当事者はパートナーが自分のそばにいることを病的に求めます。

それに対しギデンズが言う「純粋な関係性としてのひとつに融け合う愛情」とは、そのような外的なものへの依存ではなく、自身で自己を律しながら相手と付き合っていくという状態です。ギデンズに従えば、そのために必要なことは、自己と他者との境界をはっきり自覚していることです。著者は次のように述べます。

「親密な関係性とは、相手に夢中になるのではなく、相手の特質を知り、それを自分自身の特質に活かしていくことである。相手に心を開くためには、逆説的ではあるが、個人的境界が必要である。なぜなら、相手に心を開くことは、気持ちの通じ合いをどのように測るかという問題になるからである。相手に心を開くことは、個人的な考えを全く持たずに生きることではないため、心を開くためには、神経の細やかさや臨機応変の才も必要となる。関係性の中で人々が育む率直な心と傷つきやすい感情、信頼感とのバランスは、個人的境界がこうした気持ちの通じ合いよりを促すよりも、むしろ妨げるような障壁になるか否かを左右していくのである」(p.142)。

現代の私たちは、おそらく歴史上かつてないほどに、自分たちの感情を引き受けることを強いられています。それまで私たちは、かつては行動を伝統的慣習に合わせていればよく、一方では近代の開始とともに今度は経済・政治の世界の規律に、他方では「ロマンティック・ラブ」に代表される異性愛のルールにそって行動すれば事足りると信じていました。

しかし「ロマンティック・ラブ」が必ずしも自分たちを解放するわけではないことを知った女性たちは、より外的な規範から解放された人間関係=純粋な関係性を志向するようになっています。純粋な関係性においては、自分たちの行動をすべて自分たちで引き受けなければならないため、感情への対処においても、自分たちの中に生じる様々な感情を自分自身の中にあるものとしっかり認めることを人々は強いられています。

例えば、今日では男女関係において相手が処女か童貞であることを期待することは愚かとされています。また現在自分が付き合っている相手が以前のパートナーに対する感情を引きずっていることを否定するのも難しくなっています。そのような状況で生じる相手への疑いといった否定的な感情も、相手と付き合っていく上では引き受けなければなりません(p.203)。

私たちは誰かと関係を持つ際に、そのような疑いをもちながらも、「にもかかわらずその関係を維持するのだ」という決意をもつことを要請されます。そこで必要とされる心的態度が「コミットメント」です。ギデンズの次の記述は同性愛女性に求められるコミットメントについての説明ですが、それは同性愛女性にかぎらず現代における人間関係全般に当て嵌まる内容です。

「コミットメントを生み出し、共有の歴史を作り出すためには、一人ひとりが相手のために尽くしていく必要がある。つまり、その女性は(女性に限らないが 引用者)、二人の関係性が無制限に維持できる、いわば保証のようなものを、言葉や行いで相手に与えなければならないのである。しかしながら、今日の関係性は、かつて婚姻関係がそうであったように、ある極端な状況を除けば、関係の持続が当然視できる「おのずと生じていく状態」ではない。純粋な関係性の示す特徴のひとつは、いつの時点においてもいずれか一方の思うままに関係を終らせることができる点にある。関係性を十分長続きさせるためには、コミットメントが必要である。しかしながら、無条件で相手にコミットメントしていく人は誰でもみな、仮に万一関係が解消した場合には、将来きわめて大きな精神的打撃というリスクを冒すことになるのである」(p.205)。

現代の私たちはこのような精神的打撃を負うリスクを背負いながら、人間関係を構築する必要があります。すべての人が自分を裏切りうるという可能性を認めた上で、それでもなお相手を信頼するという勇気をもつことが、純粋な関係性においては求められます。著者は次のように述べます。

「純粋な関係性では、信頼感は外部からの支えをまったく欠いているため、人々は、親密な交わりをもとに信頼を育んでいく必要がある。信頼とは、相手の人間を信用するだけでなく、相互の絆が、将来生じうる精神的打撃に耐えうる力を持つ点を信用していくことでもある。…相手を信頼することはまた、相手の真に誠実に振舞うことができる能力に、一か八か賭けることでもある」(p.206)。

このような関係を構築する上では、一方では「ロマンティック・ラブに対する抑圧されたこだわり」に見られたように相手に「特別な人」となってもらうことを期待したり、他方では「家庭内暴力」で見られるように相手を奴隷として手元に置くように、パートナーをコントロールすることとは反対の態度が求められます。その際の難しさを著者は次のように述べます。

「自己のアイデンティティの流動性は、純粋な関係性が要求することがらを必ずしも受け入れることができるわけではない。信頼感は、相手が求めるいろいろな展開の軌道にともかくも順応していかなければならない。信頼には、つねにある程度の放縦さ(おそらく、相手が予測不可能な行動を取る可能性を認め受け入れることを指している 引用者)が必要なのである。誰かを信頼することは、その人たちを監視したり、その人たちの活動を特定の型枠のなかに押し込むのを、たとえその機会があっても差し控えることを意味している。しかし、人は、他者に対して認められる自立性を、相手が関係性の中でいだく要求を充たすようなかたちで活用するわけでは必ずしもない」(p.209)。


民主制に必要な感情的自律

ギデンズがこのような性的関係の変化を重視するのは、そのような性的関係に見られる感情の成熟度が、社会全体の秩序を見るバロメーターになるからです。

性的関係は、それが性欲を含むために、一方では双方に生の喜びを与える実り豊かな関係になる可能性もあれば、他方では支配・被支配の関係になる可能性を秘めています。外的規範が崩壊した現代においては、「純粋な関係性」を一から個々人は作り直さなければならないため、そのような支配・被支配の関係に陥る誘惑を避けながら、関係を構築する努力を迫られます。その際に人は、単に過去のパターンを繰り返し自分の感情を押し隠す行動を取るか、自分の意識・感情をつねに反省しながら自律的な決定・選択を行うかの二者択一を迫られます。

何をもって「自律的な選択」と呼べばいいのか、最終的な答えはありません。私たちは幼い頃は親から、大人になってからも周りから情報を得ることで、自分の選択を決めていきます。その際に、どこまで他人に言われたことに従っているだけで、どこから自分で決めて行動しているのかは、容易に境界を引くのが難しい問題です。

しかし、むしろ「自律的な選択」とは、そのような“答えの無いこと”を引き受け、絶えず自分の意識・感情への反省を怠らない態度を示します。自分が間違った選択を行う可能性を絶えず考慮に入れながら、そのとき正しいと思った選択を行うこと、それが「自律的な決定」に一つの特徴です。

それに対し過去のパターンを繰返す行動とは、自分は最終的な答えを見出したと思い込むことだとも言えます。それは、たえず自分は正義を行っているという思い込みのことを指す場合もあれば、アルコール中毒に陥ることも指します。アルコール中毒においては、中毒者は自分の人生の改変をあきらめ、人生のあらゆる可能性が閉ざされたという思い込みを持ちます。中毒者は、事実がどうであるかを吟味することは無く、人生の可能性はすでに閉ざされているという“最終解答”を握り締め、それ以上は自分の行動に反省を加える余地はないという決定を下します。すべてが終わりであるという“最終解答”をもった彼らは、自分たちから状況を変えるアクションを起こす責任を拒否し、例えばアルコールに耽るなどの逃避行動を行ないます(これはかなり単純化した中毒者の戯画化です)。

アルコールやドラッグ中毒にせよ、配偶者への暴力にせよ、それらに走る人たちに共通するのは、自分たちは答えを得ているという思い込みです。そのような中毒者たちは自分たちの行動を改変するための反省的モニタリングを放棄し、過去に形成された感情・行動のパターンに支配され続けることになります。

このように過去に支配された行動パターンは、男性においては、ポルノ産業への没頭・女性への誑し込み・家庭内暴力として表れ、あるいは「仕事」への中毒として表れます。母親の愛情を断ち、社会的なものを代表する父親のペニスと同一化しようとした男性たち(と一部の女性たち)は、母親の愛情を見捨てたという罪悪感に直面することを拒むために、ビジネスにおけるハードワークに陥り、そこで他者との競争を志向するようになります。ビジネスや政治の世界のおける男性たちの競争への没頭は、自己の感情に向き合うことを拒否することに由来します。

こう説明すると、なぜギデンズが性愛における感情の成熟度を、社会秩序を論じるうえで重要とみなすのかは一目瞭然であると思います。社会の秩序を不安定にする競争に男性(と一部の女性)が埋没していることと、男性たちが「純粋な関係性」を前に女性と成熟した感情の関係を結ぶことを怖れていることとは、明らかな対応関係にあるからです。

例えばギデンズは、政敵との競争のみを考えるのではなく、健全に政治的対話を行なうには、成熟した感情を備えることが必要なことを指摘します。

「民主制とは、討議、つまり意思決定を(そのなかで最も重要なのが政治的意思決定であるが)おこなう他のさまざまな手段に比べ、「より好ましい議論による説得力」を生み出すための機会を意味している。民主的秩序は、調停や折衝のための、さらに必要な場合には妥協を得るための、制度的取り決めとなっている。公開討論の遂行は、それ自体が民主教育の手段なのである。他の人々との討議への参加は、啓発された、もっと懸命な市民の出現を結果的にもたらすことができる。こうした帰結は、ある意味で一人ひとりの認識範囲の拡大に由来している。しかしまた、正統性の多様さは―つまり多元主義―の承認と、感情教育にも由来している。政治的素養を身につけた討議参加者は自分の感情を建設的な形で伝えていくことができる。つまり、論争術や感情的非難によって浅ましい考えに加担するのではなく、事実にもとづいた確信をとおして、論理的に判断を下すことができる」(p.275)。

人が競争を志向するのは、親から伝えられようとした愛情を自ら拒否したという罪悪感と、また同時に自分が親に求めた愛情が得られなかったという失望感に直面することを拒否することに由来します。そのような過去の子供時代の感情に直面することを拒否するとき、人は逃避のために競争的・攻撃的な態度を取ることで過去の記憶・感情を意識の奥に押し込めようとします。

しかしギデンズが言うように、論争術などに陥らずに他者と健全な対話を営むには、そのような競争心を超えて、自分の感情をあますところなく感じ把握することが求められます。それは、自分の中にある感情を認めることが、自分の意識のパターンに支配されずに、自律的に考え行動するための条件だからです。

ギデンズの言う民主制とは、投票などの制度を指すのではありません。投票・選挙とは実態は競争の一種であり、建設的な討論ではなく形式的な手続による支配を意味します。むしろ“真の”民主性を志向するとき、人は、自分の意識の過去のパターンに支配されずに、そのときの論点をニュートラルに検討するだけの感情的成熟が求められます。

そ感情的成熟を備えた者同士の関係を著者は次のように描写しています。

「自己の自立は、民主的秩序に固有な他者の有す能力や才能に例の敬意を払うことを可能にする。自立した個人は、他者をやはり自分と同じ自立した個人と見なし、その人たちのそれぞれ別個な潜在的能力の発達を脅威とは受け止めないようになることができる。自立はまた、関係性の首尾よい管理運用にとって欠かせない個人的境界を定めることを促していく」(p.278)。

多くの心理療法が「感情に触れること」をセラピーの重要な手段として挙げていることをギデンズが重視するのは、これまで述べてきたように、それが―性愛の関係のみならず―他者との競争を克服してニュートラルに論点を検討しあうための感情的成熟を促すからです。そのような感情的成熟によって初めて、人は家庭でも、職場でも、また国会やサミットの場でも、相手と健全な対話を営むことができます。

そのような「感情を感じること」を、心理専門家に言われるよりも先に実践してきたのが、「ひとつに融け合う愛情」を志向してきた人たちでした。こうした人たちが実践している成熟した人間関係に、ギデンズは、現代と未来のあるべき人間関係の姿、また家庭・経済・政治において人が振舞う際の指針を見出そうとしています。

最初に述べたように、この本が出たのは15年前ですから、多くの社会学者にとってこの本の議論は古臭いかもしれません。またこの論点が古臭いのであれば、それは歓迎すべきことでもあります。そのとき社会学者や専門家たちは、ギデンズが指摘した「感情に触れること」の重要さを踏まえたうえで、あるべき人間関係の姿、また家庭・経済・政治において人が振舞う際の指針について、この本以上に詳細に論じているに違いないからです。

『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著) 1

2007年03月15日 | Book

             花壇の中の二人


社会学者のアンソニー・ギデンズが1992年に発表した『親密性の変容』を読みました。もう15年も前の本ですが、僕自身が考えたい問題の論点はここですでに論じられているという感じです。現在の社会学者たちにとって、この本の論点はすでに古臭いのだろうか?あるいは今でも読まれているのか?

この本で触れられていることは、「アンソニー・ギデンズ」という名前がなければ学者たちは気にも留めないことかもしれない。この本であからさまにギデンズは、巷に氾濫するセルフヘルプ・ポップ心理学・恋愛エッセイの価値観を積極的に肯定しているのだから。

この本に限らないのですが、ギデンズという人の文章・主張は一見平板でありながら、重要なことをポロッポロッと言います。また饒舌でありながら、その重要な論点を徹底的に論理的に突き詰めることもしません。読みやすいようで読みにくいのですが、この本の中でわたしにとって印象的だった部分を紹介したいと思います。

この本の副題には「セクシュアリティ、愛情、エロティシズム」という文字が並べられています。その通り、この本では現代社会におけるこれらの感情・心理のあり方が分析されています。ただギデンズはそれらの問題を、単なる個人の私生活上の問題として論じるのではなく、この「セクシュアリティ、愛情、エロティシズム」に対する個人の心理・感情のあり方が現代の人間のあり方を分析する際に決定的な指標となるのであり、また個々人がいかに「セクシュアリティ、愛情、エロティシズム」に向かい合うかが、その人が私的・公的生活において他人とどのような関係を結ぶのかに決定的な影響を与えているとみなします。

男性の不安

「セクシュアリティ、愛情、エロティシズム」というと女性が得意とする分野だと思いますが、ギデンズはこの本でむしろ男性がなぜこれらの分野に及び腰になるのかを積極的に問おうとします。

例えば精神科医のジュディス・ハーマンは著書心的外傷と不安の中で戦争・家庭内暴力・幼児虐待等における被害者が深刻な心的外傷を負う要因と回復の条件を詳細に描き出しましたが、なぜ加害者たちがそのような加害を行うに至ったかには触れませんでした。ギデンズがこの本で対象とするのは、主に加害者となる男性たちが暴力行為へと駆られていく要因の分析だと言えます。

男性が特有の感情的不安を抱える原因についてギデンズは、おそらく多くの論者と同じように、エディプス・コンプレックスをもつことを挙げています。

男の子にせよ女の子にせよ、異性の親に愛情を持ち、それゆえ同性の親をライヴァル視することは共通しています。

ただ違うのは、女の子が母親をライヴァル視しつつも、女の子であるゆえに同じ女性として母親から女性特有の濃やかな愛情を受け継ぐ傾向があるのに対し、男の子はまさに母親とは異なる性であるゆえに、母親に愛情を抱きつつも母親から〈外の世界〉へと投げ出される傾向があるということ。著者は次のように述べます。

「男の子は、自分が頼りにする最も重要な、最愛の大人である他ならないその人によって、男たちの世界へと遺棄されていくため、生きる上での安心感のまさしく源泉となる基本的信頼は、本来的に危険にさらされているのである」(p.173)。

このことから男性は、「根深い不安感、つまりその人のそれ以後の無意識の記憶に絶えず付きまとう喪失感」を抱えながら生きることになります。

(たしかに母親と息子が一種独特の強い感情的結びつきを持つことはありますが、それはあくまで例外であるがゆえに注目を浴びているというだけです。むしろ大部分の男性は、〈男らしさ〉を身につけるべく、母親の女性的愛情とは距離を取りながら成長していきます)

著者によれば、この母親からの分離により濃やかな感情から疎遠にされた男性たちは、感情という自律的感覚の基盤を失ったがために、代替的な支柱を求めます。その代替物が〈勃起したペニス〉です。この勃起したペニスは子供(男女とも)たちにとって、「母親の愛情や気遣いから距離を取ることができる能力だけでなく、母親に対する抗し難い依存状態から自由になること」の象徴として映ります。この「母親への依存からの自由」とは、言い換えれば「外的世界の具現者たる父親との同一化」を意味します。

このペニスへの同一化の願いは、男の子にとって、母親の濃やかな愛情を手放し、「外の世界」に踏み出し、「自由」と「強固な意志」を手に入れることを意味します。それゆえに男性(性)はより活力に満ち、闘争的になります。ただし同時に、これがギデンズのこの本の中心的な論点ですが、男子はその積極的な行動の裏に、母親の濃やかな愛情を失ったという「原初の喪失感」をつねに隠し持ったまま生きていくことになります。

ここで男性は、母親によって教えられる感情ではなく、ペニスという物体に依存した生き方を指向していくことになります。ギデンズによれば、このことが現代の男性を感情面での不全に陥らせ、ひいてはそれが経済・政治生活においてマイナスの影響をもたらしているということです。

ロマンティック・ラブの出現

ペニスというのは、まさに性的能力を有す身体の一部であり、異性・同性との身体的接触を促す性器です。性的側面で男性がペニスに頼ること自体は、おそらくあらゆる歴史上の時期において共通すると思います。ただ現代がそれまでの時代と異なるのは、男性が〈性〉の面でペニスに頼り続けるのに対し、近代になって女性が、おそらくヴァギナなどの性感帯以外の部分で〈性〉について考える習慣をもつようになったことでした。

たしかに女性あるいは母親が男性に比して濃やかな愛情を感じ表現する傾向は歴史的に一貫して見られるものだったでしょう。ただ近代の特徴は、女性がその感情表現能力を、自分の人生の発展に積極的に応用し始めたことでした。女性はその感情表現能力を発展させ、異性・あるいは同性との関わりを〈性愛術〉〈性的快感〉といった局所的な体験に止めず、〈恋愛〉という人生の重要な局面としてみなして行くようになりました。

分かりにくい表現を使ってしまいましたが、要するに、近代以降の女性たちは、〈恋愛〉というものを考える際、男の子以上にそれを自分の人生を展開させる推進力とみなしていきました、いわば〈恋愛〉は、それまでの伝統の楔から解き放たれた自由な人生を表現するものとして、女性たちの憧れとなりました。

〈恋愛〉を考える際にギデンズは、〈情熱恋愛〉〈ロマンティック・ラブ〉〈ひとつに融け合う愛情〉という三つの類型を挙げています。

〈情熱恋愛〉とは中世の貴族同士に見られた恋愛を指します。それらの恋愛は、あくまで生活の糧の心配の無い者たちが行うゲームであり、そこでどれだけ感情的なもつれが起き、当該者たちに真剣さがあろうとも、それは当該者たちの人生を大きく変革するものではありませんでした。どれほどその恋愛が真剣なものであろうと、それは貴族の特権的な生活の領域内部でのみ成立するゲームでした。

それに対し、〈恋愛〉が個々人の人生を大きく変革する様相を帯び始めたのが、〈ロマンティック・ラブ〉の出現でした。

〈情熱恋愛〉が性愛と感情の高まりを同時に実現し、それゆえに生活習慣を一時忘れさせるものだったとすれば、〈ロマンティック・ラブ〉とはそのような現実逃避ではなく、より人生を積極的に展開させるための重要な体験としてとりわけ女性に受け止められてきました。

ギデンズは〈ロマンティック・ラブ〉の特徴を次のように述べています。例えば女の子にとって初体験とは、男の子とは異なり、単なる性的快感や性技の経験を積むことではなく、むしろ自分の人生の構築に関わるひとつの重要なイヴェントとして受け止められています。それゆえ彼女たちにとっては初体験において重要なのは、「最適な時と条件をどのように選択するか」であり、また彼女たちは自らに「相手は自分のことをどう思っているだろうか?二人の思いは、長期に及ぶ親密な関係を十分支えるほど「心底深い」ものだろうか?」「私は、性的欲望によって、自分の将来の生き方を決めていってよいのだろうか?私の性的欲望は、私に性的な力をもたらしてくれるのだろうか?」といった反省的な問いを絶えず投げかけます。それにより女の子たちは、自分の人生をより自分の気に入るようにコントロールして構築しようとします。そのことをギデンズは、「多くの点で精神的に苦しい、不安だらけの過程であるが、それにもかかわらず未来に参加していくための積極的な過程」と呼びます(p.72,80-81)。

こうして恋愛は、世俗の雑事から解放されるためのゲーム(情熱恋愛)から、むしろ人生を積極的に構築していくための契機(ロマンティック・ラブ)へと変貌していきました。ロマンティック・ラブにおいても性的快感は重要な要素ですが、同時に別の要素が恋愛に入り込みます。〈ロマンティック・ラブ〉の関係においては、男女双方にとって「高潔さ」(“integrity”か?)が相手に求められ、それは場合によってはセクシュアリティよりも重要になります。相手に対して「高潔さ」を見出すことにより、自分にとって相手は道徳的潔白さを備えた「特別な存在」として映るようになります(p.65)。

また〈情熱恋愛〉にとっては〈一目惚れ〉は、相手の持つ性的魅力への反応を意味しています。しかし〈ロマンティック・ラブ〉における〈一目惚れ〉は、相手の人柄の直観的把握であり、すなわち「自分の人生を、いわば「申し分のない」(“impeccable”か?)ものにしてくれる人に魅了されていく過程」として体験されます。

こうしてまず、女性は恋愛を、自分の感情を表現し、それによって自分の人格と人生を構築する契機とみなしていくようになります。多くの男性たちが今でも恋愛を現実逃避or余暇の楽しみとしてとらえて、人生上の休日に行うものとしてとらえるのに対し、女性たちは近代になって、それまでの伝統の楔と役割から自分を解き放つ契機として恋愛をとらえるようになりました。多くの女性にとって恋愛は、自分の人生を表現する手段であり象徴となります。それゆえに女性は、恋愛においては性的快感のみならず、その恋愛を豊かにするために、濃やかな感情を積極的に表現するようになりました。彼女たちにとって感情表現は、人生をより彩り豊かなものにするために不可欠なものでした。それに対し男性は、依然として恋愛以外の領域を人生の主要舞台とみなしているため、その舞台である経済・政治の領域では感情を切り捨てたまま生活を行います。

おそらく多くの社会学者が認めるように、このような感情の開発が女性に主に委ねられていった原因の一つとして、〈母親の理想化〉〈母性概念の創出〉が挙げられます。工場・事務所などの近代的組織の出現に伴い職場と家庭が切り離されることで、家庭の運営は母親に全面的に委ねられるようになります。それにより子育てと感情面の開発はより女性に委ねられるようになりました。

ロマンティック・ラブは、一方では近代になって女性が家庭に押し込められたがゆえに、女性たちが自らの感情面の開発に没頭することによって生まれました。家庭という役割にたしかに女性たちは束縛されていたのですが、それは前近代の家族・コミュニティとの結びつきはもたないため、より自由に自分の感情を見つめることを女性たちに可能にしました。それが結果的には、後の世代の女性たちにとって、ロマンティック・ラブをより自由な人生を送るための手段へと変えていったのです。ロマンティック・ラブは、女性たちが家庭を自由に支配する感情の開発に取り組むことを可能にすると同時に、家庭を飛び出てより自由な人生を送ることが可能であるという信念をも女性たちに植え付けることになったのです。

ロマンティック・ラブからひとつに融け合う愛情へ

面白いことは、また分かりにくいことに、ギデンズはおそらく「ロマンティック・ラブ」とはべつの恋愛観が、より現代の恋愛の理念型として重要であると考えていることです。それは「ひとつに融け合う愛情」という恋愛のあり方です。

「ロマンティック・ラブ」は、現代の私たち、というより多くの女性たちが「恋愛」とみなすものに近いか同じだと思います。

ギデンズは「ロマンティック・ラブ」という言葉を正確に使う際、「抑圧されたロマンティック・ラブへのこだわり」と言います。私の印象では、これは簡単に言えば、「恋愛」という幻想への執着という意味だと思います。著者によれば「ロマンティック・ラブ」とは、「将来パートナーとなる人どうしが互いに心をひかれ、強く結ばれるようになるための手段である《情熱恋愛》という自己投影的同一化が図れるかいなかにかかってい」ます(p.95)。

「自己投影的同一化」とは、先に引用した「相手の人柄の直観的把握」であり、「この人こそが私の人生を幸せにしてくれる(はず)」という歪んだ思い込みです。

たしかにこのようなロマンティック・ラブの幻想は、女性たちに自分の人生を自分の思い通りに構築できる可能性があるという希望をもたらしてきました。ギデンズは、知識人が嘲笑を浴びせてきた19世紀の空想恋愛文学(おそらく現在で言う「ハーレクインロマンス」のようなもの)ですら、「一人ひとりの生の諸条件の大々的な再編成」に関与したと指摘しています(p.73)。

しかし同時に、ロマンティック・ラブは相手への依存の一つの形であり、自分ではなく他者によって人生を変えてもらおうとする大きな期待の表現です。ロマンティック・ラブは前近代的な共同体の束縛から女性を解放させる役割を果たしはしても、女性たちは今度は「家庭」という檻にはまりこむようになりました。

女性たちはロマンティック・ラブにおいて感情表現を人生の構築と結び付けてきました。しかしその感情は、相手となる男性への過剰な期待であり、依存です。結局ロマンティック・ラブにおいてなされる感情表現とは、女性が感情に振り回されていることを指します。それは自分の感情を相手に適切に伝えるのではなく、自分の感情が分からないために、なりふりかまわずヒステリックに感情を相手にぶつける形に終ります。女性たちは、自分の中に感情というものがあることをたしかに発見しました。しかし、彼女たちはその感情を感じ昇華することなく、多くはその感情の前になす術もなく振り回されているだけでした。

おそらくギデンズは、現代になって多くの女性たちは、この感情に振り回される状態を脱しつつあるとみなしています。

女性たちが男性に対して「~して欲しい」という感情をぶつければぶつけるほど、男性たちは自分たちの感情を閉ざすようになります。それは、家庭に閉じ込められることで自己の感情を見つめるよう促されていった女性と、上で述べたように母親の愛情を手放し、経済と政治の競争の世界へと踏み出した男性という、役割分化がもたらした帰結です。

現代になって多くの女性たちは、もはや感情を相手にぶつけることは男を変えることにはならないし、そうすることは自分たちの惨めさを増すだけだということに気づいています。おそらくギデンズの言う「ひとつに融け合う愛情」とは、女性たちがもはや男性たちに依存せず、対等な立場で男性と付き合うことを模索している際の感情の状態を指しています。

ギデンズはこの「ひとつに融け合う愛情」を別の言い方で「純粋な関係性」と呼びます。これはおそらく正確に定義することは難しい概念ですが、言わば最も健全なあり方の感情をもった人同士が結ぶ関係を指しています。伝統という慣習にも依存せず、また他人にも依存せず、つねに自律的な決定を行いながら、同時に他者と関係を結ぶことを指しています。

慣習・外的制度によらずに対人関係を結ぶというだけでは「純粋な関係性」とは呼べません。「ロマンティック・ラブ」は外的な制度によっては制御されていませんが、それでもそれは一種の感情的な依存状態を表しており、自律的な個人による対等なパートナーシップとは言えません。

著者は「ひとつに融け合う愛情」の特徴を次のように述べています。すなわち、それは「対等な条件の下での感情のやり取りを当然想定して」いるのであり、その場合「愛情は、親密な関係性が育っていく度合いに応じて、つまり、互いに相手に対してどれだけ関心や要求をさらけ出し、無防備なれる覚悟ができているかによって、もっぱら進展してい」きます。

ギデンズによれば「自分を幸せにしてくれる特別な人」を探し求める「ロマンティック・ラブ」においては、男性は感情表現をもっぱら女性に委ね、自分は競争世界の経済・政治に没頭するため、「ひとつに融け合う愛情」のように自分の感情を無防備にさらす能力を抑制してきたということです。「ロマンティック・ラブ」においては、女性が家庭でひたすら愛情を求め、男性が逆に感情を遮断し競争の世界で活動しています。「ロマンティック・ラブ」においては、女性は魅力的な男性を「よそよそしい、近寄りがたい存在として多くの場合描写してきた」のは、そのような男性の「よそよそしさ」が、感情に振り回されヒステリックになる女性の状態と対応しているためです。+と-が惹かれあってしまうように(p.96)。

それに対し「ひとつに融け合う愛情」は、次のような特徴をもっています。

「ロマンティック・ラブと異なり、ひとつに融け合う愛情は、性的排他性という意味での一夫一妻婚的な関係では必ずしもない。純粋な関係性を一つにまとめ上げているのは、関係の継続を価値あるものとするに十分な利益が二人の関係から互いに得られる点を、双方の側が「折って沙汰のあるまで」認め合うことである。この場合、性的排他性は、二人が互いにそうした性的排他性を、どの程度望ましい、あるいは不可欠なものと見なすかによって、関係性の中で重要様な役割を果たしていくのである」(p.97)。

著者によれば、離婚者や未婚者が増大している背景は、多くの女性たちが「ロマンティック・ラブ」の段階を乗り越え、この「ひとつに融け合う愛情」の段階をより重要な恋愛の形とみなしていることによります。「ロマンティック・ラブ」のように、運命によって定められ永遠に結ばれる「特別な人」と一緒にいることではなく、自分たちの感情・関係を絶えず吟味・反省しながら(その際にはセルフ・ヘルプやカウンセリングの知識が使用される)、二人の関係を絶えず利益をもたらすもの・実りあるものとして構築することを志向します。それゆえ、もはやどのように努力しようとも関係が利益をもたらさないと判断すれば、関係を終わりにする覚悟を多くの女性はすでに持っています。

著者は、このように純粋に「関係」そのものに関心を向ける「ひとつに融け合う愛情」によって初めて、同性愛が異性愛と同等の重みを持つことになると指摘し、またそれは「ロマンティック・ラブ」とは異なる点であることを強調します。「ロマンティック・ラブ」が異性に対する感情的依存の表現であるとすれば、「ひとつに融け合う愛情」は対等な関係を目指すものであり、そこで重要となるのは「愛情」という感情の状態であって、異性愛という幻想ではありません。そこではもはや、異性愛と同性愛の区別は重要なものではなくなります。


『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著) 2に続く