「過労死・推移」でググってみると、
過労死労災認定件数推移というデータが見つかります。それによれば、過労死の認定数は1988年が29件だったのに対し、2005年は330件です。これは「過労死が増えた」のではなく、「過労死と行政が認める傾向が高まった」とみるのが正しいのでしょう。ただ、ではなぜ、「過労死と行政が認める傾向が高まった」のかと言えば、やはり不条理な職場環境に家族が置かれたと感じる人が増えたからだと想像するのは自然だと思います。
しかし、日本人がよく働くという傾向は、高度成長期から顕著だった筈です。だから「過労死」は本来は1950・60年代から問題化しても本当はおかしくありませんでした。しかし実際は、「過労死」が問題化したのはバブル期とそれ以降の、日本の経済が成熟・衰退の局面に入ってからであり、言わば働きすぎを日本人が反省し始めてからです。
高度成長期には問題化せずに、なぜ80年代の後半に入ってから「過労死」が問題化するようになったのか、という問いがここにはあります。
経営学者の大野正和さんが書かれた
過労死・過労自殺の心理と職場(2003年)を読みました。この分野に私が無知なこともあって、とても面白かったです。
この本で私にとって一番目から鱗が落ちたのは、過労死とは日本人全体が集団に奉仕する精神を持っているために生まれた悲劇で*は*な*く*、むしろ集団・和を尊ぶ精神が日本人から失われていく80年代以降の過程で、旧来のメンタリティをそなえた人に皺寄せが行き、そこから過労死が生まれているという立論です。
私などは単純に、過労死とは「個」をもたない日本人が言われたことをすべてこなし上から認められることに必死になるために生まれる悲劇だと考えてしまいます。しかし著者の議論に従えば、むしろそのような滅私奉公の精神が多くの日本人から失われているために、一部の人々に過重な労働負担がかかった結果が80年代以降の過労死の増加なのです。
「貸借型負債」
この本でも再三述べられていますが、日本人には元々相互配慮の精神が強く刷り込まれています。「人に迷惑をかけない」ことを一番に行動の基準とする心性が私たちにはあるし、「人に迷惑をかける」ことは、「腹を切ってわびたい」と思わせるほどの罪悪感を私たちの中に生じさせます。
このような心性をもつ日本人の傾向を分析する際、著者は「貸借型負債」と呼びます。
この「貸借型負債」に対置される概念として、「売買型負債」というものがあります。「売買型負債」とは、「他人に対するお返し」をつねに怠らないようにする、ギブ・アンド・テイクをつねに尊重する態度です。受けた行為に対してはつねにお返しをすること。年末年始のお歳暮などはそれに当たるだろうし、何十年も会っていない「友達」と年賀状を出し合うのも同じでしょう。
著者は、この「売買型負債」は日本人の根深い心性であることを認めつつ、それが過労死の原因となったとは見なしません。ギブ・アンド・テイクを尊重する態度は、言い換えれば相手から受けた以上のものを返す必要はありません。そこには生命の限界を超えてまで企業のために働くという行為を生む推進力はありません。
これに対し、もう一つの日本人の根深い心性が、「貸借型負債」です。この「貸借型負債」とは、例えば「済みません」という言葉に表れています。「済みません」とは、謝っても「済まない」わけですから、永遠に謝り続けることを意味する、強烈な罪悪感の表現です。では、日本人がそれほどにまで「済まない」と感じるのはどういう時かというと、それは相手の信頼を裏切り、「ほかの人の存在に欠陥を生ぜしめたとき」です。
事実はともかく、日本人は相手に「迷惑をかけ」たとき、それを「取り返しがつかない」「済まない」と思います。何をしようと永遠に相手にかけた損害を回復することはできないとみなします。
ギブ・アンド・テイクであれば、お金であれ行為であれ、何かを「返せ」ば、損害を取り戻せると思います。しかし日本人はここで多くの場合、何をしようと相手に負わせた損害を取り戻すことはできません。そのとき日本人は、自分は永遠に相手に償い続けなければならないという罪責感を自分から進んで背負おうとします。著者は次の和辻哲郎の言葉を引用しています。
「すまなさの本当の意義は、等量・等質物の返済では取り返しがつかないような大きな「未済分」が生じてしまうことにある。それでは、信頼を裏切ることなくそれに誠実に応えるために「為すべきこと」とは、なんだろうか。それは、自らの存在を賭けて「他の人の存在」のために尽くすことである」(p.107)。
おそらく、こういう罪責感を背負ってしまったら、どれほど「自らの存在を賭け」ようとも、自分の罪悪感が解消することはないでしょうし、本人も自分が許されること・解放されることを望んでいません。むしろ自分を罪人とし、「迷惑をかけ」た相手に尽くすことで、自分は正しいことを永遠に証明し続けようとします。
著者は、過労死に至るほど被害者が働き続けた背景には、このような日本人の心性があると分析します。
曖昧な職務区分・自由裁量の余地
このような「貸借型負債」が内面から人を過労死へと追い込む要因だとすれば、状況要因として働くものとして著者が指摘するのが、日本の職場における個々の従業員の職務境界がきわめて不明確であることです。
私はビジネスの現場について知りませんが、ビジネス書などを読まなくても、言われたことだけをこなすのではなく、自分で仕事を見つけ出して動こうとする人が優秀なビジネスマンであるとは想像できます。
著者はこのことに関して、日本とは異なり欧米では職務区分が明確で、自分のやるべきこと以外のことを社員がすべきとは主には考えられていないという先行研究の指摘を引用しています(p.117)。
ただ私には、成長を遂げている企業でも本当に欧米では社員は言われたことだけをしているのだろうか?という疑問は残ります。変化の激しい消費者の動向に追いつくためには、つねに新しい仕事を作り出していかなければならないというのは、万国共通の原則だと思えるからです。
例えば世界的ベストセラー
“The Goal” Eliyahu M. Goldrattでは、既存の工場生産のあり方では利益を生むことができない工場長が、新しい生産ラインの構築だけでなく、本社が指定した会計方法までも刷新しようとし、他の社員と摩擦する様が描かれています。また、言われたことだけをこなすというメンタリティは、日本の大企業にもあるという話はよく聞きます。
要するにポイントは、“つねに新しい仕事を見つける”という作業が、クリエイティビティと充実感を働く者にもたらす場合と、過重に仕事を背負い込むように追い込む場合の両方があり、日本では後者が多く見られるということかもしれません。
“自分で仕事を見つける”ということに関連して、これもビジネス書などでよく言われることでしょうが、裁量・権限を部下に委譲することが、個々の社員の生産性を高めるという議論があります。おそらく代表的なものはダグラス・マクレガーの
『企業の人間的側面―統合と自己統制による経営』でしょう。つまりディレクションで社員を縛るのではなく、社員個々に自分で考えさせることにより、よりやりがいを感じさせることができるという議論です。
しかしこれも、日本では一人があらゆる仕事をこなそうと多くの負担を背負い込むという、過労死へとつながる負の現象として表れます。どうしてそうなるのだろう?
この大野さんの本を読んでいて思ったのは、本当に日本の職場で過労死に追い込まれる人は、マクレガーが説くような自由裁量の余地を与えられていたのだろうか?という疑問でした。
たしかに大野さんのこの本を読むと、職務区分が不明確で裁量の余地が大きいがゆえに、特別責任感が強く「貸借型負債」の感情を持っている人が過重に仕事を背負い込む姿が浮かび上がってきます。
しかし私は、例えば新規事業の立ち上げ・新しいビジネスモデルの構築といったクリエイティビティが要求される仕事で必要となる“自分で仕事を見つける”姿勢と、過労死に追い込まれる人がもっていた“自分で仕事を見つける”姿勢は、似て非なるものだったのではないかと想像してしまうのです。
これは全くの推測ですが、過労死に追い込まれる人がもっていた“自分で仕事を見つける”姿勢というのは、“新しい”ことを産み出すためになされるのではなく、まさに大野さんが指摘したように「貸借型の負債を返す」、つまり他人がしないことを自分が肩代わりするという姿勢なのだと思います。
抽象的な話しですが、“新しい”ことを生み出すために働くのと、他人がしないことを肩代わりしようとするのは、同じ“自分で仕事を見つける”でも、似て非なるもののように思えるのです。それは実際にやることも違ってくれば、当事者の心理面でも違うように思います。同じハードワークでも、一方は充実感をもたらすのに対し、他方はただただ疲労だけを残すというように。
おそらく“自由裁量の権限”があること自体は問題ではないように思います。問題は、その“自由裁量の権限”が、新しいことを生み出すために設定されるのか、単に自分のすることと他人のすることを曖昧にするだけなのかのように思います。後者では、誰が何をどれだけしようと、結果的になされる仕事は同じなのでしょう。
だから、本当に必要とされるのは、社員間の職務区分の明確化といったことではなく、経営者は社員にどれだけやりがいのある仕事を与えることができるか?という問いなのではないでしょうか。
それに対し、仕事は旧来のやり方を踏襲させながら、職務区分だけ曖昧な場合は、責任感の強い人がただ疲労感を生む仕事を大量に背負い込むという悲劇が生まれるのではないでしょうか。
相互配慮の喪失
私がこの著書で最も衝撃的だったのは、過労死が生まれる背景が、滅私奉公で周りと配慮しあうという心性を日本人全体がもっているからで*は*な*く*、むしろそのような共同性が日本人から失われているがために、旧来のメンタリティをもっている一部の人に過重に仕事が持ち込まれているという指摘でした。
例えば我武者羅になって企業のために働くという心性は、高度成長期時代の日本人にこそあったもののはずです。またそこから、とりわけ製造業において多くの傑作が生まれたのでしょう。
私がよく引用する、元ソニー取締役の天外伺朗さんは、彼はコンパクト・ディスクを生み出した人ですが、そのような傑作を生み出す企業の雰囲気はすでに天外さんがソニーに入社した時点では失われていたと言っています。彼によれば、創業者の井深大さんがソニーを立ち上げたときには、会社全体が使命感を持って仕事に当たる雰囲気があり、それゆえソニーは世界的に有名な企業になりえたのですが、天外さんが入社した時点でそのような熱気のある雰囲気はすでにソニーから消えていたということです(
『「フロー経営」の極意』)。
ひょっとすると、高度成長期には日本の企業全体に、そのような企業の共同性と生産性が幸福な関係が生まれていたのかもしれません。つまり、仕事が未来の方向に向き、企業のために働くことと、その働きが社会に貢献するという使命感とが、上手く結びついていたのかもしれません。戦後の何もない状況で一から何かを作り上げるとき、仕事は単に金儲けの手段ではなく、社会への貢献という要素が自然に入っていたのかもしれません。
それが経済が成熟期に入った段階で、何事かを日本の企業が達成してしまったとき、日本の企業は自分たちがすべきことを自分で見つけることができなくなり、社員もお金以外の目的で働くことができなくなったのかもしれません。(かもしれませんばかりですね)
仕事が未来の方向に向かず、既存のものを守ることに終始するようになると、社員は使命感を失い、会社は給料を貰うだけの場所になります。会社にいる目的が自分の生活を守るだけになるようになると、もはや共同性のために貢献するという契機は失われます。
そのときに生まれる悲劇が、一部の責任感の強い人のみに仕事の皺寄せが来るということであり、それが過労死につながります。大野さんがここで行っている議論はそのようなものだと思います。
「過労死・過労自殺の職場にあるのは、日本的共同性の歪められたかたちである。他者への配慮と他者からの配慮が呼応しあってお互いの助け合いが上手くいっているとき、日本の職場集団は活性化していた。その相互配慮性が失われコンテクストの破れた状態になったときに、問題が出てきたのである」(p.193)。
戦後の何もない状況では、富を生み出すこともモノを作ることも、自分の生活のためだけではなく、「日本社会」を作り上げるという共同性を意識した目的になりえました。しかし、いったん社会全体が豊かになってしまうと、もはや自分が何かを生み出すという使命感を人は持ちにくくなります。そのとき多くの日本人から、共同性への意識は薄れていきます。
「過労死」が問題になるとき、私(たち)は、滅私奉公の精神という日本人の旧来の心性を問題視してしまいます。しかしより重要なのは、一部の人に苦労を押しつけたまま、自分の生活の安定だけに満足する現在の私たちの心性にあることを、この本は教えてくれているように思いました。