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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『心的外傷と回復』 ジュディス・H・ハーマン(著) 1

2007年01月21日 | Book

             「山茶花を囲む緑の葉」


アメリカの精神科医ジュディス・H・ハーマンの著作『心的外傷と回復』を読みました。図書館で借りた本ですが、定価は7千円もするんですね。うーん、ちょっと高過ぎる気もするのですが。他の本と比べて特別読まれない本じゃないだろうし、むしろ「心的外傷後ストレス障害」研究の古典といわれているのだから、もっと安くてもいい気もします。

精神医療の素人の私が読んだ感想としては、どうしてこの本がここまで話題になったのだろう?とまず思いました。

この本がよくないと言いたいのではありません。ただ私の印象としては、この本が扱っている心の病は、たしかに障害は深刻ですが、それは私たち誰もが抱える心の悩みが極端に深刻度を増しているものという印象です。つまり、この「心的外傷後ストレス障害」という病自体は、とりわけ目新しいものではないように思えるのです。

またその治療・回復の過程の記述も、心的外傷の原因となった出来事を記憶に呼び起こし、それを自分の歴史のストーリーに正確に位置づけるというもので、実際のその作業は確かに困難でも、それ自体はとてもオーソドックスな心理療法に思えます。

読んでいてわたしが思ったことは、どうしてこの本が「PTSDの古典」と言われるほどにまで有名となったのだろうか?という疑問でした。

ただ、逆に言えば私がそう思ったのは、1992年に出たこの本が、それだけ私のような素人にまで知らず知らずのうちに影響を与え、この本の見方を一般的なものにしたということであって、私たちがありふれていると見る「心的外傷」という病も、この本が出るまでは認知されておらず、またこの本によって一挙にその病の認知が広まったということでしょうか。


著者は心的外傷に陥る原因として、主に児童虐待・性的虐待・政治犯への拷問を取り上げます。「心的外傷」という概念はたんに症状のみにフォーカスする精神治療の概念ではなく、著者にとっては、児童・女性・政治犯など虐げられてきた人たちの権利を回復させる運動の一環であることが繰り返し強調されます。


戦闘神経症と治療

「心的外傷」の事例として著者が取り上げている事例の一つが、「戦争神経症」。つまり、戦争において心的ショックを受けた患者の事例です。これは第一次世界大戦で発見されました。このことは、力動精神医学が公衆に認知されたのが20世紀初頭であることと密接に結びついているのでしょう。

「戦争神経症」は金切り声、すすり泣き、金縛り、無言、無反応、記憶喪失などの症状を示す概念ですが、当初そのその病は、戦争という任務に応えることのできない「道徳的劣格者」が示す症状として非難され、電気ショックなどによって強制的に「治療」しようとする試みが主流でした。

(受験競争・企業社会から落ちこぼれる「ひきこもり」「ニート」「フリーター」を、時の政権担当者たちが非難し、彼らを「待ち組み」などとレッテル張りすることと同じ性格をもっているでしょうか?)

それに対し「人道的」治療を目指す一部の精神科医が、「戦争神経症」症状を示す患者たちに、<口をつぐまず、思い切って戦争の恐怖を自由に話し書く>ようすすめる「お話し治療」を試みてみました(p.28)。

この治療を受けたある患者は、のちに「人道的」治療を行なった医師に対し次のように感謝の言葉を述べています。

「大切なのは、私の思い出の中にある、私に友情と指針とを与えてくれた偉大な、善良な男の姿である」(p.28)。

この言葉から、「お話し治療」が単なる技法ではなく、医師の人間としての本性を発揮した他者へのケアだったことが窺えます。

(先日紹介した神田橋條治さんの『精神療法面接のコツ』の中で神田橋さんは、心理療法においては技法と同時に、患者の存在に配慮する「抱え」が必要であり、それは人間本性に内在する「利他の心」によって可能となることを述べられています)

また別のある精神科医が同じく戦闘神経症の患者を診たところ、あまり改善が見られなかった事例もありました。後にその患者が医師に例を言おうとして、治療に改善が見られなかったことから医師がお礼を拒否しようとすると、次のように述べました。

「せんせいはやってみようとなさった。私は復員軍人病院にずいぶんいましたが、誰もやってみようとしませんでした。本当の介護careもしてくれなかったのです。先生は違う、ケアをしてくださった」(p.30)。

これらの引用から、著者のハーマンが、心的外傷の共通の要素として、患者が社会的に疎外された者たちであり、それらの治療においては単なる技法を越えた感情的配慮を重視していることが窺えます。

第二次世界大戦でも戦争神経症が問題になった際には、医師たちは患者の治療においては感情的なケアが重要であることを再度見出します。医師たちは、「圧倒的な恐怖に対する最良の防衛は、兵士と同じ班員と班長とのつながりrelatednessの度合い」であること、「危険が絶え間なく存在する状況は兵士に同じ班員および班長に対する極度の感情的依存性を起こさせること」こと、「心理学的破綻に対する最強力な防衛は小戦闘単位における士気とリーダーシップ」であることを見出します(p.33)。

また兵士の治療に当たった医師は、感情的な配慮と同時に、「心理学的外傷」においては「意識の変性状態」を催眠術により人為的に起こすことにより、外傷の記憶に接近できることをつかみます。それにより、外傷の記憶とそれにまつわる怖れ、怒り、悲しみという感情を取り戻し、カタルシス的に外傷性記憶を再体験することに治療はフォーカスするようになります。この際に重要となるのは、単に外傷の記憶をカタルシス的に再体験することではなく(それでは治癒に至らない)、その記憶を“意識に統合する”ことが肝要となります(p.34)。


著者は、このように「戦争神経症」として当時の医師たちにとらえられた症状を、「心的外傷」“Trauma”という概念によって包摂します。戦争自体は人類の歴史で恐らく常態だったのですが、力動精神医学の発達とともに、(ひょっとすると)史上初めて医学の・そして公衆が取り組む課題となりました。


性的虐待による神経症

著者は、この「戦争神経症」が含まれる「心的外傷」に、性的虐待の被害者が示す症状を加えます。性的虐待も、力動精神医学の発達と同時に医学の課題として検討され始めた分野です。実際、フロイトたちのヒステリー研究は性的虐待を受けた女性たちの診察の記録であることを著者は示します。同時に、フロイトたちはせっかく診療により性的虐待を受けている女性の実態をつかみかけながら、その事実を追求することをやめ、女性被害者たちの声に耳を閉ざしてしまいました(p.14)。

20世紀のおける「社会運動」の代表例の一つが「平和運動」であり、兵士たちの心的外傷に気づくことが「社会運動」の前進に与ったとすれば、もう一つの運動の代表例が「女性解放運動」です。この「女性解放運動」も、「平和運動」と同じく、市民生活の裏でつねに性的虐待を受けている女性たちの声を医学と公衆が耳を向けることにより活発化しました。

70年代にある医師たちは、レイプを受けた女性たちが示す症状が戦闘参加帰還兵の症状と共通していることを指摘します。その症状とは、睡眠障害、吐き気、驚愕反応、悪夢、解離症候群、無感覚症候群などです(p.43)。

この二つの被害事例の共通性についてハーマンは次のように述べます。

「50年の昔、ヴァージニア・ウルフは「私的世界と公的世界とには切り離せないつながりがある。一方における圧制と隷属は他方における圧制と隷属である」と書いた。今や一方における心の傷は他方における心の傷であることも明らかである。女性のヒステリーと男性の戦闘神経症とは同じ一つのものである。このように病が共通であることを認識すれば、戦争と政治という公的世界すなわち男性の世界と家庭生活という私的世界すなわち女性の世界とを分かつ深淵を越すことも、時にはできるのであるまいか」(p.45)。


ジャネ、フロイトたちのヒステリー研究

ハーマンによれば、ヒステリー研究が公衆の脚光を浴びたのは、シャルコー(1825 - 1893)の研究からでした。それまでヒステリーは詐病とみられ、催眠術師や民間治療者に委ねられていましたが、シャルコーの取り組みによりヒステリーは公式医学により「病」として認められ研究の対象となります。

(力動精神医学が当初は大学外の民間治療者の治療技術に由来することは、『無意識の発見 上 - 力動精神医学発達史』(アンリ・エレンベルガー著)に詳しく述べられています。)

シャルコーはヒステリーの症状として、運動麻痺、感覚麻痺、痙攣、健忘が心理的なものであることを指摘し、これらの症状は催眠によって人工的に誘発でき、消去できると考えました(シャルコーが聴講者の前で女性患者を催眠状態にしたことは有名ですが、実際はそれらの患者の多くが、シャルコーの助手たちにシャルコーに内緒で患者に演技するように指示されていました)。

しかしシャルコーの取り組み方はあくまで患者の感情をカタログに記載して整理することに焦点が置かれていました。シャルコー後の医師たち、とりわけピエール・ジャネとフロイトは、ヒステリー患者の状態を“客観的”に分類・記述するだけでは治癒には至らず、「患者たちと語り合わなければならない」と認識し始めます。ハーマンは、心的外傷がつねに医師たちに軽視されがちである事実を踏まえ、皮肉を交えて当時の医師たちの取り組みを紹介します。

「科学者たちは患者たちの語るところに虚心にそして熱心に耳を傾けた。また、空前絶後のことであるが、患者が語るところに対して畏敬の念を以て聴いたのである。ヒステリー患者に毎日会うこと、そして一回数時間をかけることも少なくなかった」(p.11)。

これらの努力によりジャネとフロイトは、外傷的な出来事に対する耐え難い情動反応が一種の変性意識の誕生を起こし、この変性意識がヒステリー症状を生んでいるという結論を得ます。ジャネはこの意識内に起こる変化を「解離dissociation」と呼び、フロイトとブロイアーは「二重意識Doppelbewusstsein」と呼びます(p.11)。

ジャネとフロイトはともに、ヒステリーが示す身体症状は、「強烈な心理的混乱を起こす事件が記憶から追放され変装して現れたものだ」という結論に到達します。ジャネはヒステリー患者は「意識下の固定観念」に支配されていると考え、ブロイアーとフロイトは「ヒステリー患者とは主として想起を病む者である」と考えます(p.12)。

また二人は、ヒステリー症状は「外傷的記憶とそれに伴う強烈な感情とを取り戻させ、それを言語化させればヒステリー症状が軽快すること」に気づきます。ブロイアーとフロイトはこの治療法を「除反応abreaction, Abreaktion」「カタルシスcatharsis, Katharsis」と名づけます。しかし著者のハーマンは、より適切な名前は、患者であるアンナ・Oが名づけた「お話し治療talking cure」であると言います。なぜならこの治療は、あくまで患者と医師の間の「親密な対話」によって可能となるからです(p.12)。

この「お話し治療」による患者と医師との共同作業は、患者の過去を入念に「さぐり求めるquest」という形を採ります。ジャネは、治療が進み最近の外傷の記憶を取り戻すと、次第に幼年時代の出来事を探ることに向かうことを指摘します。「(ヒステリー性)妄想という表層を除去することは、彼女の心の底の底にまだ棲みついている古い、しつこい固定観念が(表層に)現れる手助けをしたことになる。次に後者が消失すると格段に患者はよくなる」(p.12)。

フロイトはこのような患者の過去の探求により、ヒステリー患者の多くが性的虐待を受けていることを突き止めます(p.13)。

しかしハーマンによれば、このような観察結果は、当時の中欧の中産階級において幼児性的虐待が蔓延しているという結論にながるが、フロイトはその事実を受け入れることができず、女性ヒステリー患者の症状は、患者たちの欲望の表れと見なすようになります。「精神分析」が体系的に確立されたのは、このようにヒステリー研究が脇におかれた時期に符合するということです。そこでは、ヒステリー患者の訴える虐待の事実は、患者たちの妄想として退けられます。


『心的外傷と回復』 ジュディス・H・ハーマン(著) 2へと続く)



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