2005年6月開設の徒然日記。その時みたマーガレット(木春菊)が名前の由来です。
1985年に着工し
1995年に竣工
120mと世界一の高さを誇る大仏は
平成生まれなのに貫禄があります
牛久大仏
新しい故に世界遺産への
登録は難しいでしょうが
それにしてほしいくらいの神々しさ
自分は曹洞宗ですが
この仏像は浄土真宗の仏様
でも一度は見たい仏像
念願叶いました
ほぼ真下から見ると
さらに圧倒されます
胎内に入り胸のあたりから
外を見ることができます
墓地を貫くようにつくられた直線に道は
光の道の象徴
そして天気がよい時には
その先に筑波嶺と富嶽が見えます
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/42/12ada8465c251f4d37826e779582e4b3.jpg)
何気なく通っていた場所が
神域だったとは恐れ入りました
大きい物に感動した後は
小さい物に感動
大仏様の裏側には小動物園があり
大人も癒されます
えさの皿をもった瞬間に
うさぎが寄ってきておねだり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/f5/cb1c6720d5cc5e89b40c5830c3116765.jpg)
そしてシマリスがシャッターチャンスを演出
大小のコラボレーション
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/85/aaa867ab3e588a8c5692862005ed136b.jpg)
色々な感動を与えてくれた
すばらしい時間に感謝です
三大瀑布ではありませんが
それに匹敵するといってもいい
奥久慈の名瀑
袋田の滝
四段の滝として有名で
高い場所から見下ろす景色と
低い場所から見上げる景色は
同じ滝にして違う趣
別の高台から見ると
また違った趣
あと1ヵ月もすると
この木々が色づき訪問者は
もっと多くなるでしょう
平日ということもあり
この日は自分も含めて30人程度でした
滝見のあとは奥久慈の
しゃもに舌鼓
今回は海あり県を訪問したのに
食べたのは山の幸ばかりでした
10月ごろからあんこうが
旬を迎えるそうです
混雑は必至ですが
訪れる価値はありそうですね
現在の常陸太田市郊外に建つ
ひっそりとしたお屋敷
ここは水戸光圀公ご隠居所
西山荘
一見するとトップ画像が表門で
こちらが裏門↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/a9/341b1e8709f320e7a70d08a57769a33f.jpg)
しかし領民とのかかわりを大切にした
光圀公は領民が通る裏門の方を
立派につくったそうです
弱きを助ける水戸黄門漫遊記は
虚構ですが
民を大事にする姿勢は
史実であったようですね
そしてこちらがお屋敷
撮影禁止のため紹介できませんが
中には6組の歴代黄門様と
助さん・格さん役のパネルがありました
番組は終わりましたが
ドラマの聖地でもあります
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/b8/1fa6145ebe390bf638e6bcf4244105dc.jpg)
往時を思わせる立派な造りですが
6年前の震災で崩壊したのを
ここまで復元させたそうです
園内では復元工事が続いており
傷の深さを感じました
長野市から高速道路を経由して
3時間程度で行くことができるから
今年も会いに来ました
明野のひまわり畑
まばゆいほどの黄色のじゅうたん
傍らに立つと未開の花もありますが
展望台からは満開と思えるほどの
絶景です
富士山はこちらの方向にあり
しかし本日は雲隠れ
毎年、明野小児童による
絵文字も楽しみ
今年は流れ星でした
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/38/f517ac709a07aeab94455c5890c79f58.jpg)
そして締めはひまわりソフト
あまりの暑さに融けるのが
早かったです
自分の近くにいた家族連れ曰く
「
一生分のひまわりを見た気分」
そう言わずに来年もどうぞ
でも、そう言いたくなる気持ちもわかります
他と比較はしていないけれど
日本一のひまわり畑といっていいでしょう
コスモス園の近所ですが
こちらは群馬県
日本の酪農発祥の地
神津牧場です
午前中に放牧して
午後牛舎に戻し搾乳するのが
この牧場の日課
毎日13:00に放牧地から
牛舎に戻る牛たちの行進が名物です
先頭の牛は車道に出る前に一旦停止
車がこないことを確認します
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/83/0d18cee397024bcf4125561f69cfefd4.jpg)
そして後続の牛たちは
道路の端を一列で歩行
人間たちよ、見習うべし!
牛だけでなくうさぎもいました
触れ合うこともできるようですが
訪れた時はほとんどお昼寝中
そうでないうさぎも警戒していました
遠巻きにみることしかできず 残念
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/51/745859c0869b23135beda373ca3e2df8.jpg)
ここでとれた牛乳を用いた
ソフトクリームは濃厚
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/e7/39cb2ebfbc1d3e4ae4b8491ecca9612e.jpg)
牧場で食べるソフトクリームは
格別です
映画「今会いにいきます」のロケ地
山梨県北杜市明野のひまわり畑
今年も会いに来ました。
見ごろならばトップ画像並みの
素晴らしさが楽しめますが
こちらの画像は看板
それが撮影されたメイン会場は
現在、この通り↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/bf/580bfbd6f7893cc7360d1872e6c1e85d.jpg)
サンフラワーフェスタは21日に終了
承知の上で訪問しました
かろうじて農園会場の一部の花が
枯れずに待ってくれていました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/dd/43b2d9b514efb59e4a08cddcecbb5843.jpg)
お祭りが終わり人間の訪問が少なくなって
クマンバチの天国でした
奥に入って撮影しようとすると
蜂に怒られてしまいました
食事の邪魔してごめんね
畑の傍らにはコスモス
早咲きではありますが
秋の訪れを伝えてくれました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/4d/1aa64b8128c43a251c87a17b2d8ef5ae.jpg)
来年はもっといい時期に
会いに行きたいです
豊臣秀吉の天下統一事業の
総仕上げは小田原合戦
それは多くの教科書に載っています
しかしそのきっかけとなった出来事は
多く語られていません
その場所こそ
名胡桃城
この城を北条方が攻略したことが
小田原征伐の口実となりました
いわば、歴史の転換点となった場所
詳しい内容は大河ドラマでも
解説されるはずなので
これを期に知名度が上がってほしいです
三の郭には丸馬出しの跡
真田の城らしい姿であり
大坂城の真田丸につながる施設
復元ながらも価値を感じます
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/01/09934fa4ba1bc31c0dd0147bd1a0033f.jpg)
本丸跡には大正時代に
立てられた石碑がありました
自分が名胡桃城の名を知ったのは
成人してからですが
地元の人にとっては古くから
歴史的遺産なのでしょう
ささ郭の向こうは沼田の方角
山に隠れて城跡は見えませんが
これに近い景色を当時の兵士も
見ていたと思うと感慨も一入です
ここでは教科書に載るほどの
大きな出来事は起きていません
でも、北条・武田・上杉が
領土にしようと争った地
沼田
最終的には真田の城となるも
五代で改易され城郭はなくなり
桜の名所である公園として
市民の憩いの場所となっています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/0a/9b59b3db013d59c47fded46f9fa11e40.jpg)
城郭はありませんが
復元された鐘楼が
戦国末期から江戸初期の歴史を語っていました
崖の上に立つ城
道路や運動場ができるほどの
長く広い堀
同じ真田の城、上田に似ています
市内には正覚寺
ここは犬伏の別れの後での
重要な場面となる場所
そんな場所では信之正室
小松姫が眠ります
3月31日までは
真田丸展が開催
教科書に載らない歴史の聖地
半日では回りきれません
当初は沼田市内に一泊の予定でしたが
特徴的なホテルを見つけ
隣の川場村で一泊
そのホテルの名は
ホテルSL
敷地内にある駅
ほたか高原駅を拠点として
SLが走るホテル
北海道での活動を引退したのち
第二の人生を送っているSLだそうです
走行日は4~11月の土日祝日
そのため勇姿をみることはできませんでした
休養中の客車を見るのが精一杯
日帰り入浴を受け付けているので
別の機会に再訪したいです
浴衣やタオルがSL柄
それだけでも興奮したので
よしとしましょう
もう一つの「真田丸」の舞台
上州
まずは岩櫃城址に向いました
吾妻線郷原駅と原町駅の間に立つ
800mほどの小山
これまで数回この場所を通りましたが
その存在に気付いていませんでした
登山口の駐車場はほぼ満車
大河ドラマ効果と思われます
本丸跡までは約200m
道のりは短いながら
砦であったことを思わせる
急な坂道の向こうにありました
上からは下の動きが一望
昌幸公もこの景色を見たのでしょう
と思っていたら、この城にいたのは
真田家の城代
昌幸公が城にいたのは武田滅亡前後の
短い期間だけということです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/1e/9088469e50b6fdb4e724f2317f6be441.jpg)
麓には御殿の跡が残っていました
勝頼公をお迎えするため
3日で造られた建物でしたが
勝頼公が入ることはありませんでした
もしお入りになっていたら
織田と武田の激戦として
岩櫃の戦いが歴史の名に記されたことでしょう