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うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

成熟脳

2019年04月29日 | 本と雑誌

成熟脳-脳の本番は56歳から始まる‐ 黒川伊保子 新潮文庫平成30年

何度かに分けてこの本について書いたが、この、脳の生涯に関するテーマが本書の主題である。

その前に、前回男性脳と女性脳に関することを書いた時の補足。実はあの記事を書いた時は相当頭にきたことがあって(私事ですが・)、筆が進まないまま(死語)あげてしまった。もうひとつ言いたいことがあった。男性の空間認識力の話。

男性は女性よりも「拡張感覚」が発達している。道具やメカをまるで神経がつながっているかのように自分のものとして操作する。バイクが手足の延長のようになってくる。そして長年連れ添った妻も。。自分の右手をわざわざ褒めたりはしないように、いつまでも女房をほめそやすようなことはしない。黒川氏は逆に、奥さんを人前で褒めていた年配の夫婦に違和感を感じたそうだ。本当に一体化した二人なら、あんなことは言わないと。

まあ人にもよりますけどね。。僕など車の車両感覚に慣れるまで1年ぐらいかかって、今でも駐車場でまっすぐ止められなくて自己嫌悪に陥ってます。。カメラなども慣れるまで相当時間がかかる。だから、しょっちゅう機材を変える人のことをすごいなあと思ったりする。

女性でも運転の上手な人は多いし、あれはどうなんだろう、ピアニストやヴァイオリニストはかなり女性の割合が多いのでは。。


「成熟脳」というのは、脳の生涯についての話。冒頭黒川氏が書いているように、さいきん物忘れをするようになったな、と気にしている方には耳寄りな?話題だ。

黒川氏の説によると、人生最初の28年間は入力に最も適した時期、その次は色々な経験をしたり、ときに失敗をして判断力を養う時期、そして56歳からはそれらが結実して、状況に応じた適切な判断ができる成熟脳となる。判断をするために不要と思われる情報は頭の中で「整理」されてしまっているから、すぐに思い出せないが、それでいいのだ。

60代とか70代になるともう言葉ではなく直感で物事がつかめるようになるので、旅や抽象度の高い能などの芸術鑑賞に適しているのだそうだ。もはや言葉は不要であり、それを人に説明する必要性すらなくなる。さらに80を超えて90代になると、脳が若返る傾向があるらしい。

ただし、人により寿命は異なる。脳は(肉体的な)寿命を知っているようで、死が近づくと自然に外界に対する反応が弱まっていく。

「脚が弱った身で、地球の果てまで行きたい冒険心があったら、きっとつらくてしょうがない。」

自分の親もそうだが、年配者に触れ合う機会が増えると、彼らは自分たち(の世代)とは違う原理で行動しているな、とふと思うことがある。ただ、彼らは彼らだけで生活することができず、自分たちの助けを要する。そこに摩擦が生じる。

よく「老害」などというが、それは間違いで、単に世代間がうまく結合していないからそうなっているに過ぎない。今は自動車が操作できない老人もいるし、詐欺に会う老人もいたりするが、各世代間でうまくつながることができれば、社会はより成熟したものに変わっていく可能性がある。

とはいえ、あれですけどね。実際会ってみるとってのはあるな。。

 

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機関銃下の首相官邸

2019年04月24日 | 本と雑誌

迫水久常 ちくま学芸文庫 (文庫は2011年2月、最初の発行は1964年)

二・二六事件から終戦までという副題がついているが、内容はほぼ、迫水氏が現場に居合わせた二・二六事件と、終戦時の内閣である鈴木首相のもとで内閣書記官長を務めた際の記憶が中心である。このうち終戦時の話については、昨年同じ著者になる「大日本帝国 最後の4か月」を読んでいる。

これを読みながらふと、「日本の一番長い日」をまた見たくなって、昨年録画したものを見返してみた。本の感想より先に映画の話をするのも恐縮だが、この映画、海軍に随分辛口ですね。。(前にもそう思ったはずだけど)。大西瀧治郎中佐など、手の早いやくざのような性格に描かれている。米内光政海軍大臣も、ちょっと軽率なひとのような描写になっている。東条英機元首相は、けっこう誰が扮してもそれらしい雰囲気がでるという点で、日本の政治家、軍人の中では特異な存在ですね。

本の話に戻る。難を逃れた岡田啓介首相を救出させるための興亡や、書記官長として御前会議等の手配をした際のエピソードは、その場に居合わせた迫水氏でなければ書けない、貴重な情報だ。それにしても、官吏としての優秀な才能のある方だったとはいえ、なんというめぐりあわせの方だろうか。

今日の日本と照らして、社会のなりたちや感覚のちがいを大きく感じる点。一つは軍隊だ。このことを短い文章でまとめることには無理があるが、やはり第一次大戦、あのあたりで欧州や米国などが体感した危機感を、日本の指導層が十分に共有しえなかったことが、その後の色々なことを招いたのかな。。少なくとも二・二六事件のころまでは、迫水氏も書いていたように国民は軍を基本的には信用したようだ。本書で迫水氏も描いているように、「憲兵」に対する見方も違っていたらしい(これは東条内閣がダメにしてしまった)。

若手将校のあれほどまでの跋扈は、やはり僕には感覚的にわからない。

もう一つは国体という概念だ。迫水氏も笑い話として書いているが、執筆時(昭和38年ごろか)手伝ってくれた若手の人が、なぜ昔は国体がそんなに大切だったのだろう、今はオリンピックで勝つことこそが大事なのに、とつぶやいていたと。

もちろんその国体ではなく、かつて為政者の口にのぼっていたのは国のありかたのことだ。迫水氏は本来「国体」というものは、日本民族が天皇を中心として国家を形成し、天皇を心のよりどころとしながら国を運営していくことで、そこに支配者被支配者の敵対関係は存在しない、もっとおおらかなもののはずだ、という。憲法の制定にあたり、欧州の憲法を参照しながら統治権主体の規定などはなされたが、それでも国民の心情としては従来からのおおらかな心持のもと、うまく運営されてきた。昭和に入り、ファシズムや社会主義が台頭するとこれを日本に取り入れたいという動きがあり、次第に変質させられてきたのだと。

迫水氏は新しい憲法のもと、国民主権と変わった今日においても、日本国のなりたちとしての本質は、大きく変わりはないのではないか、と述べている。

これも、一言ではかたりきれないものがあるが、ただ言えることは、戦後になってからも共産主義やアメリカ的な価値観など、いろいろな考え方が輸入されては、人々の間で議論が起きたり、知らないうちに自分たちの中に取り入れたりしていた。なにかの影響を受けることはそもそも排除できない。さらにいえば、今日のグローバリゼーションとその蹉跌みたいな問題も出ていている。いずれにしても、人々が当然共有していると思っていることも、時代によっては違っていたりするのがまた興味深い。

鈴木内閣の終戦時における慎重な運営、ここでは若烹小鮮ということばで紹介されているが、これは読みながら、自分の今直面している状況に照らして身につまされたりした。やはり歴史から学ぶことは多い。

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男性脳と女性脳

2019年04月23日 | 本と雑誌

成熟脳 黒川伊保子 新潮社 平成30年

「三十年ほど前、人工知能エンジニアとして、ヒトとロボットの会話の設計をしていたとき、私は、男性と女性の対話形式が異なるのに気がついた。

 女性は共感のために対話を紡ぐ。ことの経過について時系列をなぞるように話し、気持ちに共感してもらうことで、真実を見つけ出す脳だからだ。

 男性は、問題解決のために対話を紡ぐ。このため、相手の話の中から、何が問題かをいち早く切り出して、解決を図ろうとする。

 この二つの対話モデルは、まったく相いれないもので、混ぜることができない。(『くのいちの術』)。」

本書では繰り返し触れられている男女のものの考え方、話の仕方の違い。なにかが違うということは薄々とわかっているから、身につまされるというか納得ががいくところもあるが、ちょっとだけ、こんなにはっきりと断言されるとちょっと抵抗を感じなくもない。

ただ、なにかを説明するために延々と語り続ける女性は身近に何人もいることは事実だ。

そして僕は、時にはそれを中断させてしまう。

なんとも厄介なものだ。

 

 

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人工知能やら、アンドロイドやら

2019年04月19日 | 本と雑誌

成熟脳 黒川伊保子 新潮文庫 平成30年

 面白い本なので何度かにわけて書いてみたい。

黒川氏はAIの研究や脳についての研究に長年携わってこられた方らしい。著書も何冊かあるということなので、一部ではかなり有名な方のようだ(すみません、初めて読みました)。

男女の脳の違いとか、ものの捉え方の違いとかも大きなテーマの一つだが、とりあえずいちばん書きやすい課題を。

 AIという言葉は、過去何十年化の間に何度も言葉としてのブームを迎えているらしい。ブーム再来ということで、今年のお正月番組で、AIを取り上げたドキュメンタリー番組は多かった。なかにはAIが人の仕事を奪うという切り口の番組も散見されたが、黒川氏はその点楽観的にとらえているようだ。

 「家事ロボットが家庭に入ってきても、主婦の仕事はなくならない。なぜなら、主婦の仕事の一番大事なことは『家族を案じ、するべきことを決める』ことだからだ。洗濯をするのは洗濯機でも、何をどのタイミングでどう洗うかは愛情が決める。子供の体育着が体育の授業に間に合うように、母たちは抜かりなくスケジュールを決める。(「人工知能に、人は負けるのか」)。

内燃エンジンが発明されて、穴を掘ったり荷物を運ぶ作業は軽減されたけど、それで人が失業することはなかった。人間の価値がしだいに変化してきたのだという。


スーパーのレジ打ちなんかは、やがてセルフレジにとってかわられるのではないか。無人コンビニもやがて普及していくのでは(昨日もニュースで取り上げていたが、24時間コンビニの問題。オーナー家族の方が亡くなったり、かなり悲惨な論調だった。現場のしわ寄せを無茶な努力で乗り切ろうとする日本人。。だがそれを技術でカバーできれば?)。

 黒川氏は、機械化が進めば人の温もりが恋しくなってくるのでは、と言う。

「ほどなく、トレイにかごを載せるだけで合計金額が出て支払いも自動でできる全自動レジも登場してくるはずである。買い物のうら寂しさは進むばかりだ。そうなってくると、人レジは価値化される。・・人レジは、その店のホスピタリティ・スポットになるに違いない。・・「レジ打ち」という職種は地位が上がることになる。レジ打ちさんはその店の顔になるからだ。」(「人工知能は、天使か悪魔か その2」)


わかる。

僕は結構買い物が好きだ。よく行くスーパーでは、別に声をかけたりはしないがお気に入りの店員さんがいる。

”お買い上げXX円ちょうだいいたしまあす”、と歌うように話すお嬢さんとか(よく通る声で目立つ。この子がなかなかツンデレで、財布からお金を出すのに時間がかかったりすると、じっと見つめられるときの緊張感もまたいいというか・・)。

”ばななが一点、ぴ~まんが一点・”と、イントネーションは伝えられないけど、聞いたら忘れられない語り口で読み上げる年配のおばさんとか、それぞれに味がある。

おっさんぽいなどといわないで欲しいが、それぞれのお店の制服もそれなりに可愛いと思ってみてたりする。将来スーパーがふつうに無人化されたら、やはり昔はよかった、と思うんだろうな。。

 黒川氏は機械が心を持つことに対しては否定的だ。年配の研究者はしばしば「鉄腕アトムを作りたい」というが、十万馬力の原子力でうごく機械がリビングに来て、かわいいことばでしゃべったら気持ちが悪いだろうと。

 以前テレビで見た話だが、日本人は抵抗なく人間そっくりの機械(アンドロイド)を作るが、これがドイツ人の感性にはなかなか受け入れられないらしい。宗教的、あるいは歴史的な感性の違いなのかもしれないが、とにかく気持ち悪いらしいのだ。黒川氏によれば、ネコにも思いやりの心はある。しかし機械は機械だと。。

 そうするとあれだな、ここでは繰り返し触れている「ヨコハマ買い出し紀行」なんか、ロボットでいることは一つの個性だ、なんて言っているものな。アルファさんもココネさんも完全に人の心を持っていて、それゆえ悩みも持ったりしている。あの辺は黒川氏の見解とは対極にある世界観ですね。

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よみがえる力は、どこに

2019年03月25日 | 本と雑誌

城山三郎 新潮文庫 平成29年3月(ハードカバー初版は平成24年)

前半は講演会の記録、次に没後発見された容子夫人に関する文章、最後が同年の作家吉村昭氏との対談と、全く異なる文章を1冊にまとめたもの。

没後にまとめられたせいか、より城山氏が等身大に近く感じられる文章となっている。特に容子氏とのエピソード(『君のいない一日が、また始まる』)は城山氏の学生時代の思い出や、若い頃子を持つことをためらった城山氏が、容子夫人に中絶を決断するように示唆した(ほとんど溺愛しているかのように夫人を描いている氏にしては恐ろしく冷酷な態度だ)など、相当に赤裸々な事実もつづられている。とかくきれいごとに終始する城山氏だが、それこそ「彼も人の子」という感じだ。

財界人を取り上げることの多かった城山氏だが、いわゆるエコノミストという訳ではなく(経済学の教師ではあったが)、株式投資なども自らは手を出さなかったらしい。ニュースもあまり見たがらなかったようだ。人や動物には興味を持ったようだが、利殖という行為にどこか後ろめたい気持ちを持っていたのかもしれない。もっとも、城山氏の時代の人はそれがふつうの感覚だったのかも。

城山氏にとって軍隊-腐敗した組織に対する嫌悪感は相当なものであり、それが彼の作家としての原動力となっているようだ。「組織はこりごり」という観念は本書の中でも形を変えて何度も出てくる。考えてみると、城山氏の小説の中で組織の中の人物に焦点をあてたものはたくさんあるが、組織そのものに言及した文章はほとんど見られない(ホンダのことは少し書いているが)。

この、組織嫌いという感覚に僕は深く共鳴するところがあるのだけど、同時にその感覚が身の回りの、友人知人の間で普遍的なものではない、ということも、今はよく自覚している。というか、自分のいる外資のある業界の人たちは、みんな組織の束縛みたいなことを嫌う感覚の持ち主だ、と思っていた。のだが、ここ10年、必ずしもみんなそうという訳ではないらしいことがわかってきた。その人たちに、城山三郎氏の小説は伝わらないのかもしれないな。。それでも今でも城山氏の本を書店でよく見かけるのは、「組織嫌い」感のある人が一定数いることの証拠化も、と想像を巡らしたりする。。

対談では吉村氏の発言が面白い。(太平洋戦争は)軍部が国民をだましたなんて言うのは嘘で、文化人とマスコミの責任転嫁だ。庶民が一生懸命やったんだ。とか、下町育ちの吉村氏が「通ぶった板前」を批判して、落語だか何だかの影響で江戸っ子が変な風に間違えられている。本当の下町っこは慇懃丁寧なものだ、など。

吉村氏は自然体で気の向かないことはしないタイプ、城山氏はもうすこし理屈っぽいけど、結局嫌いなことはしないタイプで、どちらもある種ひとと違う流儀があるところが似ている。それが通せる環境に生きていたということが、羨ましい。


写真は実家。ここは昨秋自分で植えたもの。窓脇に咲く花の写真も撮ったが、住所等が見えるのでボツ。実家はいま人がいないので、花が咲いても観てくれる人がいなくて、切なく思える。

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嬉しうて、そして・・・

2019年03月15日 | 本と雑誌

城山三郎 文春文庫2010 単行本は2007年8月発売

買ったときも読んでいるときもずっと気づかなかったが、8年前に一度読んでいたらしい。転居のとき、城山作品の多くは手元に残さなかったようで(いつでも買えると思ったのか)、ざっと書棚を見たが見当たらない。・・買ってから気がつくってのはあったけど、読んでもわからないってのは・・困ったもんだ。

帯に「今こそ、私たちは城山さんの言葉を必要としている」とある。城山氏晩年の、かなり辛口の社会批評を含む随筆集である。

城山三郎氏の小説は学生時代、そろそろ社会に出る準備を始めたころに盛んに読んだ。随筆では「打たれ強く生きる」などは、何度も繰り返し読んでいる。昭和50年代~平成にはいるぐらいの頃に最も活躍された方で、ビジネス誌などを読むとしばしば城山氏の文章を目にしていた気がする。そのころの政財界の人たち、平岩外四氏や本田宗一郎氏、大平正芳氏などは、城山氏の文章を通じてその生きざまを知ったようなところがある。うぶな学生で、社会というものがどんな恐ろしいところなのか戦々恐々としていた身には、とても心安らかにさせてくれる存在だった。

城山氏の視点は、まるで少年のように純粋で清らかだ。というか、今日的な目で見れば、青臭いといってもいいほどの純粋さだ。今のビジネス誌がどんなことを書いているのかわからないが、たぶん今時のライターはこんな率直な書き方をできるひとはいないと思う。青年時代に戦争という過酷な経験を経た人だからこそ書けるのだろう。

ときどき城山氏の文章が懐かしくなって読む。きれいごとで残らない文章なのかもしれないけど、皆がそれを求めていた時代が懐かしい。高潔なリーダーたちに憧れ、自らもそうありたいと思っていた時代が懐かしい。

・・あれですね、ツイッターの論調が少しずつ変わってきていますね。話飛びますけど。

 

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人生がときめく片づけの魔法

2019年03月10日 | 本と雑誌

サンマーク出版2011年 現在は改訂版が河出書房新社から出ている由

こんまり流はうちの部下の子の一押しで、話には聞いていたが本を読むのは今回が初めてだ。折しもNetflixでやっている番組が大ヒットし、こんまり流の普及を目指して40億円の資金調達をはかっているというニュースが流れている。先日はアカデミー賞のパーティ?にも出ていた。なんだかすごい。

捨てるものを選ぶのではなく、残したいもの(ときめくもの)を選ぶというのが、その真髄のように思うが、確かにぜんたいとして目新しくはあるものの、彼女の活動には単なる片づけのノウハウを教えているだけにとどまらない、何らかのパワーというか、勢いがあるような気がする。

番組を見たわけではないが、小柄でタイディな感じのこんまりさんが、あの笑顔で体格の大きなアメリカ人たちをバッサリと切り捨てているような光景が目に浮かぶ。う~ん、もう誰かさんに萌え~なんて年でもないが、僕もいちど切り捨てられてみたい気が。。

たぶんこれは、人々が心の底で罪の意識を感じている無駄遣い、優柔不断、怠惰な部分を、気持ちよく洗い流してもらえる感じがするところが魅力なのでしょうね。

うちは2年前の転居で、かなりの部分を整理しているが、2年もたつと色々整理がつかなくなる部分も出てきつつある。まあ、片づけたいところではあるが。。


この週末は色々なところからおめでたいお話がどんどん飛び込んできて大騒ぎ。金曜日には先輩の転職祝い、日曜日は幼馴染が恩師と共演するリサイタルを見に行き、そのあと旧交を温めているなか、別の先輩の結婚の報告があり、スマホがお祭りになっていることに気づく。相変わらず仕事はちょっとぱっとしないが、友人知人たちの活躍に元気をもらい、なんとか明るく暮らせております。。ただ、忙しすぎて家がちっとも片付かんな。。

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さがしもの

2019年02月20日 | 本と雑誌

角田光代 新潮文庫平成20年

角田光代をここで取り上げるのは2度目。人生ベストテンは3年ほど前に読んだが、かなり重苦しい作風ながら傑作だという印象を持った。

この「さがしもの」も先の「人生ベストテン」とほぼ同じころに書かれたようだが、正直なところ完成度はやや落ちるように思える。9作品すべてが本をテーマにしたものだが、自分が売った古本と旅先で再会したり、自分が気に入った本を、今の恋人も読んでいた(しかし、だれの何という本かについては語られていない)など、なんとなく不自然、あるいは説明不足な感じがして、どうも感情移入できないのだ。

ただ、タイで病に臥せっていたとき、宿に置かれていた片岡義男の本をみつけて、どんな男がこの本を置いて行ったのかという妄想にふける(「だれか」)、というお話には吹いた。。

マラリアにかかった主人公は、退屈しのぎにと旅行者が置いて行った本を読みふけり、その本を置いて行った旅行者のことを思う。

・・片岡義男がどうこうではなくて、なんで彼は片岡義男を選んだのだろう。読みやすそうだと思ったのか。開いているところをだれかほかの日本人旅行者に見られても恥ずかしくないと思ったのか。あるいは、昔別れた恋人が、片岡義男を好んで読んでいたことを思い出したのか。

彼女は、本の内容そっちのけで、この本を持ち込んだ男のことを妄想する。男が高校時代に愛読していた片岡義男だが、大人になって現実とのギャップに気づくようになると、本を読むこと自体をやめてしまう。やがて恋をして結婚を考えるがあえなく失恋、南の島へ旅に出ようとする。旅行代理店の帰り、本屋で再会した片岡義男の本を手にして、旅の道連れとする。。

片岡義男氏は今でも文筆家、写真家として活躍中かと思うが、この作品を見たらどう思われるだろうか。。なんとなく、青筋たてて怒り出すような方には思えない。。かすかに苦笑いする程度かな、という気もするが。

そのうち、イタリアかどこかを旅したら、この文庫本を泊まった宿屋に置いていこうかしら。後に手にした日本人はきっとこう思うだろう。「しかし・・なんで角田光代なんだろう。。なんか鬱屈した心を抱えて、傷心旅行の途中でこの本を置いて行ったのかな・・」

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阿川佐和子『強父論』

2019年02月02日 | 本と雑誌

文春文庫 2018年12月

阿川さんのお顔はテレビでよく見かけるのでもちろん知ってはいるし、エッセイも読んだことはある。長くテレビ等で活躍されているので多少の親しみは感じる(年齢的には少しずれるが、なんとなく自分の亡くなった叔母のことを連想する)。が、特に関心があるわけでもなかった。

多少心に引っかかるようになったのは、ご両親の介護とかについてよく触れるようになってからだ。ネット等で読める対談やエッセイを何度か読んで、参考というか、そうかあの人も、と思ったりしていた。どこで読んだのか忘れたが、介護は長期戦だからほどほどに、みたいなことを言われていて、わが意を得たりと思ったり。

『強父論』は介護の本ではなくて、お父様、阿川弘之氏との思い出をつづった本だ。冒頭と最後の章で、臨終間際の様子が描かれていて、本屋で立ち読みしたとき、そこが心に引っかかって、レジに持って行った。最後に交わした言葉とか、ちょっと意識が混乱した様子を見せたときに受けたショックとか。。

どの親子でも同じような経験はするもので、それも、なんてことはないささいなことが、心には強く刻まれているものだ。そういうことを語りたくなるはよくわかる。。また聞く方もなんとなく身につまされる。

先日僕も、幼馴染のミニ同窓会に出て、ふと気がついたら隣り合わせた友人に、父との別れのことをとうとうと語っていた。。聞かされる方はちょっとびっくりだったでしょうね。。

実はお父様、作家の阿川弘之さんのこともそれほど詳しいわけではないけど(鉄道好きだったらしいので、その方面で多少読んだことがあるかもしれない)、親子像としてはちょっと、個人的には身近にいないタイプですね。。うちは祖父(母方)もそんなに威張っていなかったな。年齢的に近い作家の城山三郎氏も(そういえば城山さんも海軍ですね)、戦後風のマイホームパパだったようですし。。向田邦子さんも、よくお父様や家庭の様子を書いていたけど、あれに近いかな。

二つ思ったことがあります。

これを書いている今、テレビでは小学生の女の子を虐待死させた父親と、その子が助けを求めて書いたアンケートを父に渡してしまった教育委員(この男が何故逮捕立件されないのか、もし法的にそうなっていないならなぜなのか、非常に不思議)のことで持ち切りです。

阿川親子は、本書で知る限りかなり強烈な親子関係だったようですが、少なくとも娘は父との思い出を(なつかしく?)回想しながらつづるぐらいのことはしている。昔の雷親父と、さきのニュースのような鬼畜親とはなにが違うのだろうか。

もしその背景のひとつとして時代が違うなら、いまと昔はなにが違うのだろうか。。

(もっとも、娘が親の横暴を語る、という点では、「ど根性ガエル」の吉沢やすみ氏の娘さんが書いた漫画が思い浮かびますが、このお父さんはもう、ニュースの鬼畜親に近いほうの描かれ方でした。ただ僕は、作中いわゆる良妻賢母風に描かれているお母様が、家庭を守ろうとして実は娘を傷つけていることに強い罪を感じましたけど。。話がそれました)。

阿川佐和子さんはごく平凡な結婚を望みながら長年果たせず、ごく最近になって伴侶を得ています。本書を読みながら、むかし阿川さんがお見合いを重ねながら踏み切れずにいたのは、阿川さんのご家庭(特にお父さん)が遠因だったのではないか、となんとなく思っていました。お父さんが娘の相手に反対するとか、阿川さんがお父さんに拘束されているとか、そういう直接的なものだとは全く思わないのですが、もっと深いところで自らブレーキを踏んでいたのではと。結婚されたのはお父様が亡くなられてから2年後です。。いや、そこは全く分かりません。。

長くなった割には、本の内容にあまり触れていませんがご容赦を。。

 

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二つの祖国

2018年11月29日 | 本と雑誌

二つの祖国(一)~(四) 山崎豊子 新潮文庫(Kindle版)

Amazonのログを見ていると、第1巻の注文は7月23日に、第2巻を8月半ばにしている。読み始めたのも夏の暑いときだった。父の入院のとき、夜中にすることがないのでこれを読んでいた。まもなく読書どころではなくなり中断、その後も長く再開できずにいた。

長い小説だが、そんな事情のせいで余計に長く感じる。冒頭の日系アメリカ人社会の描写から、第二次世界大戦と天羽兄弟の関わりのくだりと、戦後日本を舞台に繰り広げられる、極東軍事裁判の描写は、二つの独立した小説として分けてもよいように思える。

読みやすい文体だが、これが初めての山崎作品ということもあり、最初の頃は、文章のリズム感をつかむのに時間がかかった。読後時間がたっているせいで、どうしても後半の東京裁判の部分の印象が強い。東郷茂徳外相と東条英機首相の描写は印象に残る。ただ、東郷外相はちょっと筆が足りないというか、刺激的に盛り上がった展開のあとを受ける部分が軽すぎて、突き放されたような印象を受けた。このあたり、裁判の描写と、主人公たちの描写が交互に展開するので、単なるドキュメンタリーよりもずっと面白く読めた。

昔の大河ドラマ「山河燃ゆ」の原作に相当する。非常に熱心に見ていたわけではないが、松本幸四郎さんの演ずる天羽賢治は強く印象に残っている。

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村上春樹 河合隼雄に会いに行く

2018年11月03日 | 本と雑誌

新潮文庫1999年 

読むのは今回が初めてではなく再読だが、読了するまでにかなり時間がかかった。引っかかるところが多いのだ。

河合隼雄氏は臨床心理学者で、村上氏の作品にも造詣が深かった方だ。

対談が行われたのは1995年の秋だという。この年、1月に阪神淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件が起こり、日本中が騒然となった。夏にはフランスが核実験を行い世界の非難を浴びた。八王子のスーパーでアルバイト店員が殺された事件はたしか、今でも解決していないはずだ。11月にはウィンドウズ95が国内発売になる。バブル経済は崩壊していたが、まだ日本経済は相対的に突出していたし、イスラム過激派も台頭はしていなかった。

村上氏は「ねじまき鳥クロニクル」を完結した直後であったという。

そういえば、今目の前でプロコフィエフのチェロ協奏曲を奏でているオンキョーの3ウェイスピーカーは、この年に買ったものだ。

本を読んでいると、村上氏と河合氏の会話にはそういう時代性がかなり入り込んでいる。あの頃のことを知らない、若い人にはもしかしたら伝わらない部分があるかもしれない。村上氏は、ここでも述べているし後にもどこかで触れていたが、この年の災害や事件がきっかけとなって、日本が大きく変わるかもしれないと考えていた。それ、今考えるとどうだろう。今我々が抱えている傷は、先の東北の大震災と原発事故だ。この国は外から何かの力が働かない限り変わらないというが、自分たちが社会とかかわってきた平成という時代、社会は進歩したのだろうか。。

というのは完全な脱線であって、本書の内容とは関係がないのだけど(それに近い話は出てくるが)、そんな風に考え込んでしまうので、なかなか読み進めることができないのだ。

最初に日本と西欧の「個人」としての存在についての違いが取り上げられている。村上氏は日本にいるころは社会や組織から逃れて一人になりたい、と強く思い、そのための努力を重ねてきた。ところがアメリカに住むようになると、初めから個人で生きることが前提の社会なので、そのような努力そのものが意味をなさなくなったという。

僕が村上氏の作品に興味を持つようになったのは、自分もどこかでそうした「個人へ希求」を意識していたからではないかと思う。面白いのは、アジアの読者はおしなべて村上作品のこうした面に関心を示しているという記述だ。これは我々アジアの社会が、多かれ少なかれ西欧文化の「個」の概念とは異なる、共通した社会観を持っていることを示しているように思える。

自分の話を続ければ、そうした「個」でありたいという希望を強く持ち、いわゆるウェスタナイズされた社会で活躍することを志向してきたにも関わらず、そうした組織での生活は必ずしも安定はしていなかった。今では仲間内のしがらみが余計きついアジア系の組織に属し、窒息する思いをしながらも生き永らえ、それまでの自分の生き方が浅薄だったのではないかと自信を失っている。のみならず最近では地元に回帰し、地域に根差す生き方を模索しようとすらしている、というか、自然とそういう方向に行っている。

自分の場合、強く願ったり、強い関心を示したものとは必ず縁がなくなる。当たり障りのないところでは、自動車が好きだったのに20年以上自分の車を持つ環境になかった。「強く願えば何でもかなう」といったのはピーター・パンだ、というセリフが映画「マイケル・コリンズ」に出てきたが、まさにその逆だ。

脱線しすぎた。ただまあ、この本自体がそういった、心の奥をのぞいて癒すという、河合隼雄先生的な世界の話なので、必ずしもずれた話というわけではないのかもしれない。

もう一度本の内容に話を戻すと、最後のほうで触れている、人間の持つ暴力的なものに対する取り扱いの話、これにも興味を惹かれる。暴力性というのも人間の持つ一つの属性であり、西欧ではそれを論理化して肯定した(フェアな戦争なら位というように。あるいはスポーツのように)。日本では先の大戦の経験もあり、また論理万能ではない社会ということもあり、こうした位置づけがきちんとできない。戦後はものすごく急進的な暴力否定をして、チャンバラまで禁止するということをした。その結果、抑えらえたものがどこかで噴出するとめちゃくちゃになってしまう。

「ねじまき鳥」に出てくる、酷い暴力の描写は、村上氏によると必然的に出てきたものだという。それは人間の持っている、根源的な何かなのだ。

この問題は、本書でも語りつくされているとは思えないし、今でも解決していない。本書前半部分で、アメリカではなんでも論理化しようとしておかしなことになるが、日本ではそこを「洗練されたずるさ」ですり抜けることができるという。矛盾があってもバランスを取りながらうまくやっていけると。アメリカは白黒つけるのが好き、日本はその場を上手に、とうことだろうが、それなのになぜ極端な軍事国家、極端な戦争否定になったりするのか。

ううむ。きょうはどうも話がまとまらない。。

 

 

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父でもなく城山三郎でもなく

2018年09月30日 | 本と雑誌

経済小説の分野で活躍し、2007年に亡くなった城山三郎氏の長女である筆者が、家庭における城山氏や、城山氏より7年早く先立たれた母についてづづった随筆集。

城山氏の作品は学生時代を中心に読んだが、一途で不器用な感じの主人公と、それを支える男気溢れる友人といった構成の作品が多く、よく感情移入しながら読んだものだ。松下幸之助、本田宗一郎、あるいは平岩外四氏など、当時一流の財界人との交流を通じたエッセイもとても面白かった。社会の動きを見るとき、どこかで城山氏の視点を基準として観ようとするのが自分の癖となっていた。自分が社会人となり、世の中の様子が少しわかるころになると、氏のエッセイは社会をリタイアしたものとしての視点に変わっていくが、それでも心のどこかでは氏の意見を求めていた。亡くなられたときは、もう城山氏の意見を聞くことができなくなったのかと、とても寂しい気がしたものだ。

経済界や戦場を舞台とした小説が多かったため、氏の作品の読者は男性が中心だった。その最期のころに、愛妻への思いをつづった作品(「そうか、もうきみはいないのか」。この刊行にも井上紀子氏がかかわったらしい)が出たことにより、女性読者も獲得するようになったという。

経済学の講師から小説家に転身した城山氏の家庭生活は、普段静かでマイペースな城山氏と、陽気で活動的な夫人、それを受け継いだ長男、そして自称少し変わり者として育った井上紀子氏という構成。学生の頃盛んに一家で海外旅行に出たというところから、当時としては開明的な一家であったようだ。とはいえ、自分たちを含む同時代の家庭に共通する空気が感じられ、とても懐かしく思える。。

本書の文章自体は、そういってはなんだがあの時お父さんとこんなことがあって、とか、駅前でお母さんと別れたときの姿が・・という記述がひたすら続いていて、もしこれが城山氏の家庭でないのなら、こうして世間に出ることはなかったかもしれない。たとえば自分でもここで書こうと思えば書けるかもしれないけど・・。家族との兼ね合い、読む人と自分との兼ね合いとか、色々考えるとちょっとね。。逆に言うと、本書の刊行というのは、一見簡単そうに見えてとても貴重なものといえるのかもしれない。

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幸福が遠すぎたら

2018年09月20日 | 本と雑誌

寺山修二詩集 ハルキ文庫より

さよならだけが

人生ならば

 また来る春は何だろう

 はるかなはるかな地の果てに

 咲いてる野の百合何だろう

 

さよならだけが

人生ならば

 めぐりあう日は何だろう

 やさしいやさしい夕焼けと

 ふたりの愛は何だろう

 

さよならだけが

人生ならば

 建てたわが家は何だろう

 さみしいさみしい平原に

 ともす灯りは何だろう

 

さよならだけが

人生ならば

人生なんか いりません

 


市役所等で書類手続きをするため、再びお休みをいただいています。

昨夜も別の親戚のお通夜に出たりして、色々慌ただしい。。今朝は少々風邪気味のようで、なんとなくこんなことしてさぼっちょります。。

ちなみに表題の「幸福が遠すぎたら」は寺山氏の詩のタイトルですが、僕が幸福が遠いとおもっているわけではありません。。まあ、詩の内容をみればわかりますね。。

さて、しごとしないとな・

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夕凪の街 桜の国

2018年08月18日 | 本と雑誌

こうの史代 双葉社 2004年(電子書籍で購入)

こうのさんの漫画は「この世界の片隅に」で初めて触れて、紹介いただいて読み始めた「ぴっぴら帳」もとても面白かったのですが(先日家族に読ませたら声をたてて笑っていたので、プレゼントしました)、「夕凪の街-」はその存在を知りながらも手を出しかねていました。「この世界に-」も、読み進むうちに涙腺崩壊してしまい、読了するのが大変だったので。。

こうのさんの作品は刃物に例えるなら薄いカミソリで、小さくて人を威圧するようなものではないけど、ものすごく切れ味が良くて、下手をすれば致命傷を負わせることもできそうな感じです。。この例えは陳腐かもしれないけれど、とにかく受け止めていくのが容易ではないです。

これを例えば井伏鱒二「黒い雨」と比べてみると、姪の矢須子さんも皆実に近い運命をたどっていますが、この作品では語り手の重松の、姪や家族、職場や近所の人たちを想う気持ちが作品全体を包んでいて、読者には刃が直接切り込んでこない。否、「夕凪の街-」も直接読者に切り込んではいないですね。やはりこの方なりの作風が、緻密でシャープということなのでしょう。

個人的なことでいうと七波たちの住んでいた中野のまちや転居先などは、すこしずつかすってはいるのですが馴染み深い所です。

東子と、そのお母さんが通っていたという学校も、あああそこね、という感じ(電車から見えることぐらいしか知りませんが)。

1987年春(桜の国Ⅰ)のことはわかりませんが、2004年(桜の国Ⅱ)のころは、もしかしたら七波たちと電車で乗り合わせていたかもしれない。

あの年の秋には広島にも行ったな。

子供のころいた街が小さく見えて、そういえば桜が大きくなったせいもあるのか、と気づくあたりの描写もいいですね。。

そういえば、旧宅を建てなおした家にはもう新しい住人の方がおられるようです。去年家を壊してからかなり長いこと空き地で、なんだか成仏できない?感じでしたが、まあこれで・。

 

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アルジャーノンに花束を

2018年07月01日 | 本と雑誌

早川文庫NV 2015年新装版

既に古典として定着している感があるが、ウェブで確認すると、日本でベストセラーになったのは割とさいきん(といってもここ数十年)のことらしい。。

まあ何にしても定評ある小説なのでストレートに感想も書きにくくて、初めから脱線するけど、最初にこの本を読んだのは25年前のことだ。今回のような文庫版ではなく、ローズピンクのベースに、おおやちきさんのセンシブルな花束のイラストが描かれた、ハードカバー版だった。おおやさんは、画集「絵独楽」を昔持っていましたけど、とにかく絵がきれいで・。今のイラスト界というか、まんが描く人たちのことは良く知らないのであれですが、語法は今と全然違っても、レベルの高さは今の人が見てもすぐわかるんじゃないかと思います。。その後の文庫版等でこのイラストが使われていないことを知った時は、ちょっとショックでした。

本は自分で買ったのではなく、同僚の子から借りたものです。貸してもらったというより、読んでみて、という感じで貸してくれたように覚えています。ちょうど少しずつ、読んでいる本やらCDやらの話をしては持ち寄ったりしていたころで・。借りたのは初夏から梅雨の初めごろで、なのでこの本について考えると、同僚の子のことや、駅からそのころ住んでいた小さなアパートに向かう道の、生暖かい夜の街の風景とか、当時ちょっと聞きかじっていたジャズのこととかを、思い出したりします。

夜道は、ちょうど小説の中でチャーリー・ゴードンが、不安を抱えながら何時間もさまよい歩いた姿にもつながっていきますが・。あの後半部分の、チャーリー自身も読者も皆わかっている結末に至るまでの、救いのない描写は、まさにその生温かい夜の風景のようです。森羅万象がすべて見てしまうような澄明な世界から(それこそおおやさんの絵の世界のようですが)、闇の中に足を踏み入れていく、行かざるを得ないというのは、どんな気持ちがするものなのか。

作者の視点は、本書序文で本人が触れているように「教養は人と人との間に楔を打ち込む」というところにあるので、チャーリーはどうしても残酷なまでの絶望に浸らざるを得ない。その過程では自分の経験や研究業績が、人類の進歩に貢献できるのではないかとか、下りのエレベーターに乗っていても、駆け上がっていればその場にとどまれるのではないか、と救いを求める発言もしているが、とにかくチャーリーは最期まで救われない。彼は退行期に読んだ小説「ドン・キホーテ」に、なにか暗示が隠されていることに気がつくのだが、自分自身のことについては思いいたらない。チャーリーは結局、彼自身の運命に楔を打ち込むことはできなかった。

本書が読者を魅了するのは、そうしたチャーリーのひたむきさへの共感だけではなく、読む人によって多様な受け止め方ができるところにもあるのだろう。チャーリーのような障碍ではなくとも、色々な形で社会に対し難しい対応を強いられている人たち、あるいは序文で作者が取り上げた読者のように、自分も今チャーリー・ゴードンのように、これまで獲得し成就してきたものを失いつつあるのだ、と感じている人たち。

後者はチャーリー(の人生)をより普遍的というか、多くの人が経験する人生が圧縮されたようなものとする捉え方なのかもしれない。運命に翻弄され、何かを獲得しそれを失うことは、なにもチャーリーだけが経験することではない。それに多くの場合、我々自身もゆっくりと、かつては獲得していたものを次第に失っていくものである(あまり触れる気はないが、それは今切実に感じている課題でもある)。

まだ書き足りないこともあるが、前半に余計なことも書いてしまい、まとまりがなくなりそうなのでこの辺で。

 

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