うさぎくん

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村上春樹 河合隼雄に会いに行く

2018年11月03日 | 本と雑誌

新潮文庫1999年 

読むのは今回が初めてではなく再読だが、読了するまでにかなり時間がかかった。引っかかるところが多いのだ。

河合隼雄氏は臨床心理学者で、村上氏の作品にも造詣が深かった方だ。

対談が行われたのは1995年の秋だという。この年、1月に阪神淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件が起こり、日本中が騒然となった。夏にはフランスが核実験を行い世界の非難を浴びた。八王子のスーパーでアルバイト店員が殺された事件はたしか、今でも解決していないはずだ。11月にはウィンドウズ95が国内発売になる。バブル経済は崩壊していたが、まだ日本経済は相対的に突出していたし、イスラム過激派も台頭はしていなかった。

村上氏は「ねじまき鳥クロニクル」を完結した直後であったという。

そういえば、今目の前でプロコフィエフのチェロ協奏曲を奏でているオンキョーの3ウェイスピーカーは、この年に買ったものだ。

本を読んでいると、村上氏と河合氏の会話にはそういう時代性がかなり入り込んでいる。あの頃のことを知らない、若い人にはもしかしたら伝わらない部分があるかもしれない。村上氏は、ここでも述べているし後にもどこかで触れていたが、この年の災害や事件がきっかけとなって、日本が大きく変わるかもしれないと考えていた。それ、今考えるとどうだろう。今我々が抱えている傷は、先の東北の大震災と原発事故だ。この国は外から何かの力が働かない限り変わらないというが、自分たちが社会とかかわってきた平成という時代、社会は進歩したのだろうか。。

というのは完全な脱線であって、本書の内容とは関係がないのだけど(それに近い話は出てくるが)、そんな風に考え込んでしまうので、なかなか読み進めることができないのだ。

最初に日本と西欧の「個人」としての存在についての違いが取り上げられている。村上氏は日本にいるころは社会や組織から逃れて一人になりたい、と強く思い、そのための努力を重ねてきた。ところがアメリカに住むようになると、初めから個人で生きることが前提の社会なので、そのような努力そのものが意味をなさなくなったという。

僕が村上氏の作品に興味を持つようになったのは、自分もどこかでそうした「個人へ希求」を意識していたからではないかと思う。面白いのは、アジアの読者はおしなべて村上作品のこうした面に関心を示しているという記述だ。これは我々アジアの社会が、多かれ少なかれ西欧文化の「個」の概念とは異なる、共通した社会観を持っていることを示しているように思える。

自分の話を続ければ、そうした「個」でありたいという希望を強く持ち、いわゆるウェスタナイズされた社会で活躍することを志向してきたにも関わらず、そうした組織での生活は必ずしも安定はしていなかった。今では仲間内のしがらみが余計きついアジア系の組織に属し、窒息する思いをしながらも生き永らえ、それまでの自分の生き方が浅薄だったのではないかと自信を失っている。のみならず最近では地元に回帰し、地域に根差す生き方を模索しようとすらしている、というか、自然とそういう方向に行っている。

自分の場合、強く願ったり、強い関心を示したものとは必ず縁がなくなる。当たり障りのないところでは、自動車が好きだったのに20年以上自分の車を持つ環境になかった。「強く願えば何でもかなう」といったのはピーター・パンだ、というセリフが映画「マイケル・コリンズ」に出てきたが、まさにその逆だ。

脱線しすぎた。ただまあ、この本自体がそういった、心の奥をのぞいて癒すという、河合隼雄先生的な世界の話なので、必ずしもずれた話というわけではないのかもしれない。

もう一度本の内容に話を戻すと、最後のほうで触れている、人間の持つ暴力的なものに対する取り扱いの話、これにも興味を惹かれる。暴力性というのも人間の持つ一つの属性であり、西欧ではそれを論理化して肯定した(フェアな戦争なら位というように。あるいはスポーツのように)。日本では先の大戦の経験もあり、また論理万能ではない社会ということもあり、こうした位置づけがきちんとできない。戦後はものすごく急進的な暴力否定をして、チャンバラまで禁止するということをした。その結果、抑えらえたものがどこかで噴出するとめちゃくちゃになってしまう。

「ねじまき鳥」に出てくる、酷い暴力の描写は、村上氏によると必然的に出てきたものだという。それは人間の持っている、根源的な何かなのだ。

この問題は、本書でも語りつくされているとは思えないし、今でも解決していない。本書前半部分で、アメリカではなんでも論理化しようとしておかしなことになるが、日本ではそこを「洗練されたずるさ」ですり抜けることができるという。矛盾があってもバランスを取りながらうまくやっていけると。アメリカは白黒つけるのが好き、日本はその場を上手に、とうことだろうが、それなのになぜ極端な軍事国家、極端な戦争否定になったりするのか。

ううむ。きょうはどうも話がまとまらない。。

 

 

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