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文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

熟字訓と当て字

2007-05-13 23:48:31 | 言葉と文字

 草木(くさき)とか生花(いけばな)、牝鶏(めんどり)などといったコトバは一つ一つの文字を訓読みすればそのまま意味が通じます。
 ところが浴衣(ゆかた)、杜鵑(ほととぎす)などは日本語に対応すると見られる中国語を当てているので、一つ一つの漢字の訓読みとは対応していません。
 いわば意訳になっているので、漢字を見ても読み方は分かりません。
 日本語の単語にひとつの漢字を対応させた場合は訓読み(たとえば、銀を「しろがね」)といいますが、二つ以上の漢字を当てた場合はなぜか日本語のほうを漢字の読みとして、熟字訓と呼んでいます。
 
 銀杏と時雨は「ギンナン」「ジウ」といった漢語があるので、日本語に意訳した「いちょう」「しぐれ」は熟字訓と呼んでも了解できますが、万年青とか落葉松などはもともとそうした漢語はなく、日本語を漢字で意訳したもので、熟字訓とは妙な呼び方です。
 なんでも漢字で表現しようとしたためにこうした漢字語が作られたのですが、一度こうした漢字語が作られてしまうと、逆にどのように読むかということになり、百足は「むかで」と読むとされるようになるのです。

 日本語に漢字を当てる場合でも、意訳をしないで音だけを対応させた場合は当て字と呼ばれます。
 当て字の場合はいわば音訳なので、字を見ると何と読むのかはある程度見当がつきますが、文字を見て意味は分かりません。
 音を表現しようとするといっても、必ずしも漢字の音読みだけに頼るとは限らず、「滅茶苦茶」は音読みですが、「出鱈目」、「矢鱈」は訓読みといった具合です。

 熟字訓のように日本語に対して漢字の意訳をつける習慣ができると、歌謡曲のように「未来」と書いて「さき」と読ませたり、「得意(おはこ)」、「肥満(でっぷり)」などと読ませたりすることもできます。
 このような場合は日本語のほうに、漢字を当てたので本来ならヒラガナの上に漢字を小さく振って、いわば振り漢字するべきなのですが、漢字にカナを振るというのが習慣になっているので、逆の表示になっています。

 これらは漢字に読み仮名を振るというより、実際は日本語と、それに対応する漢字を並列的に表示して意味を膨らませようとしています。
 漢字部分とカナ部分を同時に見て、それぞれの言葉の意味からの連想で新しいイメージを受け取らせようとしているのです。
 このような場合は声を出して音読をするとき、カナのほうで音読はしても、意味は漢字のほうにウェートがかかっていたりします。
 音読をしているとき、眼で漢字の部分を見て、そこから余分の意味を感じ取ることを要求しているので、眼で見るだけで意味を感じ取れることを前提にしています。
 漢字の読みは捨てて、意味だけを使っているので、日本語の場合は音声化しないで漢字から意味を読み取れることが分かります。
 


音声にしなくても意味がわかる場合

2007-05-12 23:15:15 | 言葉と文字

 心理学や言語学ではコトバは音声が基本で、文字は音声に変換されて意味が理解されるというのが一般的です。
 文字の習い始めは、まず文字の読み方からですから、文字を見て音読をすることで意味が理解されます。
 文字を見ただけでは意味が分からないで、音読してはじめて意味が分かるといわれるとなんとなくそんな気がします。
 普通の人は、文章を見ただけでは頭に入らず、音読したり、内読(心の中で音読する)して意味が飲み込めるので、やはり音声に変換することで意味が分かるのかなと思ったりします。

 ところが日本語では、同じ文字について読み方が幾とおりもあるという問題があります。
 たとえば、金は「きん」とも「かね」とも読みますが、これは音読してから意味が分かるというよりも、意味が分かってから読み方が分かります。
 「金と銀」という場合なら、「かね」でなく「きん」だと思ってから「きん」とよんでいます。
 「資金繰り」「金繰り」は読み方が違っても意味は同じで、読み方より意味が先に頭に入っているように感じます。
 
 図のように二字熟語でも音読みしても訓読みしても意味が同じものがあります。
 どちらの読み方をしても意味は同じですから、どちらで読もうかという判断をしなければなりません。
 この場合、意味は分からず単に読み方だけを思い出そうという人もいますが、母子などは意味が分かるが「ボシ」と読むべきか「ははこ」と読むべきか、あるいは「おやこ」と読むべきかと迷うのではないでしょうか。
 読み方を指定することで意味を分からせるという場合ももちろんあります。
 たとえば「右腕」は「ウワン」と読めば右の腕ですが、「みぎうで」とと読ませて腹心の部下と解釈させる場合もあります。

 ひとつの漢字語について読み方がいくつもあるというばかりでなく、ひとつの意味についての文字表現が幾とおりもあるということもあります。
 「いわや」は「イワヤ」と書いても「岩屋、石屋、岩窟」と書いても意味は同じです。
 嫂という字に「あによめ」とルビが振ってあるより「兄嫁」と書かれたほうが意味が分かりやすく。「稲光」も「いなびかり」とルビを振ってあるより「電光」と漢字でルビを振ったほうが意味が分かります。
 「きつねび」にしても現代人には「狐火」では分かりにくく「燐光」のほうが分かりやすくなっています。
 つまり、音声に変換すれば意味が分かるとは限らず、漢字で示したほうが意味がわかるという場合もあるのです。


カタカナ語への対応とルビ

2007-05-08 23:28:00 | 言葉と文字

 戦後からの技術、生活の変化に対応して大量のカタカナ語が使用されるようになり、
その勢いがやまないため、たいていの人がわけがわからに言葉に接しています。
 メタボ、ゲーセン、カリスマ美容師、アカウンタビリティー、ライフライン、コンプライアンスなど普通の人には言葉だけ聞いては分からないものがいくらでもあります。
 明治時代には西欧の技術、文化を取り入れるために、外国語を漢語に翻訳、置換していましたから、同じように漢語化すればよいのではないかとまずは思いつきます。
 
 明治の訳語でも経済などはもともとはeconomyの訳語ですが、何でこれが訳語なのかわかりません。
 会社はcompanyの訳語といっても、societyの訳語にも名を連ねたことがあるくらいで、漢字の意味だけからcompanyの意味を推測するのはかなり困難です。
 elementの訳語は当初、元素、本質、材、基本、要素などがあったそうですから、elementすなわち要素とすぐ結びつくというものではなかったのです。
 それでも漢語での意訳は電気,電流、電灯、電圧、発電、停電などわかりやすいので意訳がそのまま単語化して受け入れられています。
 
 比較的新しいカタカナ語もマンパワー(人材)、アカウンタビリティー(説明責任)、インキュベーション(起業支援)など漢語での置き換えがなされているものもあります。
 しかしもともと多義語であるクライアントとかオペレーションといった単語は、ひとつの漢語で対応するわけにはいきません。
 商売の顧客のいみでクライアントが使われているならクライアント=顧客として確定できますが、単なる依頼人とか患者などにも使うわけには行きません。
 オペレーション日本銀行の買いオペ、病院のオペ(手術)、軍隊のオペレーション、コンピューターのオペレーションなどいずれも定着しているので、ひとつの漢語に置き換えるわけには行きません。

 石川九楊「二重言語国家日本」ではこうした問題への対応にはルビを使ったらどうかという例を示しています。
 るびは元来は漢字の読みを示すためにあるのですが、たとえば「生」という漢字の読みは意味によって「うまレル」だったり「いキル」、「なル」だったりしますから、多義語にも対応できるのです。
 リストラは文字通りには再構築の意味ですが、首切りの意味で使われているのなら「首切り」とルビを振ればよいのです。
 民主主義というコトバが誤解されているのならデモクラシーとルビを振れば世のです。
 ネグレクトというコトバを育児放棄に使ったり、介護放棄に使ったりするのなら、ネグレクトのルビとして育児放棄や、介護放棄をそれぞれに使えばよいのです。
 漢語でぴたりと翻訳できなくても、漢語でルビを振ればとりあえずその場での意味を伝えることができます。
 ルビの使用によって、新しいカタカナ語も組み込めるので、情報化社会での激しい変化に日本語はかえって対応しやすいと考えられるのです。


中国が漢字語を輸入

2007-05-07 23:22:07 | 言葉と文字

 日本語は同音異義語が多く、漢字に書いてみないと聞いただけでは意味が分からないとかいわれます。
 たしかに、「こうせい」というようなコトバは「構成」「公正」「校正」「攻勢」「厚生」「後世」「更生」、、、などたくさんの同音異義語があって、アクセントが違うものがあるにせよ、聞いただけでは分かりにくいものがあります。
 ところで同音異義語は漢字語に限ったことではなく、本来の日本語つまり和語にも多く見られます。
 「あげる」とか「さげる」「みる」などといった基本語は、同音異義語がそれぞれたくさんあります。
 たとえば「とる」というコトバは図にいくつかの例を挙げてありますが、多くの意味があります。
 これらは日常会話に出てきても、別に漢字を思い出さなくても、ストレートに意味が分かります(日本人なら)。
 これに漢字を当てたり、あるいは漢字熟語と交換したりすることもできます。
 わざわざ「栄養を摂る」「摂取する」、「写真を撮る」「撮影する」、「人のものを盗る」などとすることができますが、わざわざ漢字を当てるほうが厄介です。
 「あげる」というコトバでも「手をあげる」「天ぷらをあげる」「例をあげる」「小遣いをあげる」「花火をあげる」「畳をあげる」「芸者をあげる」「酔ってあげる」などいろんな意味がありますが、別に漢字に直さなくても意味が分かります。

 明治以後は西欧の技術、知識導入のために西欧の(主として英語)コトバを、漢字熟語の形で翻訳して、いわば新造語をたくさん作っています。
 同時に何でも漢語化するために、コトバが抽象化してしまうケースもあります。
 たとえば、「苦渋」のように中国語では普通に「苦くて渋い(果物など)」という意味なのに、「苦渋の決断」という風に抽象化した意味にしてしまった例があります。
 「圧倒」にしてもおしたおすという意味のものを、圧倒的優位などといった言葉の使い方にしています。

 一番下の例は日本で作られた翻訳語で中国に逆輸出されたものです。
 翻訳語にしても本来は中国のほうが本家で、取り掛かりも早かったのに、日本製の訳語がおおく中国に導入されたのです。
 日本人のほうが漢字を記号的に扱うため、抽象的あるいは比喩的表現が得意なためかもしれません。


明治以後に作られた漢字熟語

2007-05-06 22:47:01 | 言葉と文字

 高島俊男「漢字と日本人」によると、現在私たちが新聞や雑誌、テレビなどで見たり、日常使っている漢字語は、その大半は明治以後に作られたものだそうです。
 そう言われてみれば、「教育」「再生」「会議」「有識者」「経済」「財政」
「国会」「議員」「少子化」「年金」「格差」などといったコトバは鎌倉時代や江戸時代に使われていなかったようです。
 戦前の教育であれ、戦後の教育であれ、使われてきた言葉は明治以後に作られた漢字語が大部分なので、私たちはそのことに気がつかないようです。

 明治時代は欧米の技術や知識を急速に取り入れようとしたのですが、そのとき技術や知識を身につけるためのコトバを漢字を使って作ったのです。
 欧米の技術や知識を表す言葉は当然欧米語なのですが、これを現在のように音声でなぞってカタカナで表すのではなく、漢字で意訳して単語化したところがユニークな点です。
 当時の中国ではどちらかというと音訳志向で幾何学(geometry)とか,徳律風(telephone)、徳謨克拉西(democracy)、斐西加(physics)など文字を見て考えたところで意味が分からない訳語が作られています。
 日本では幾何学は中国から輸入していますが、telephoneは電話、democracyは民主主義、physicsは物理学と意訳をしています。
 このような例では中国語訳は英単語を音でなぞっているだけなので、意味を知ろうとすれば漢語辞典でも、英語辞典でもダメで、現代日本の例で言えばカタカナ語辞典のようなものが作られていないとさっぱりわからないのです。

 日本の漢語訳は意訳なのですがそれがひとつの単語の形をしているので、覚えやすく理解しやすいのが特徴です。
 ただし意訳なので元の英語の感覚とはずれているところがあり、telephoneの例で言えば、telescope,telegram,televisionのようにteleは遠距離の意味で、電気という意味は含まれていません。
 telescopeは望遠鏡と訳しているので直訳でよければ直訳ばあいによっていやくしているので、あたかもそのような漢語が以前からあったように錯覚させます。
 つまり翻訳語だという事を気がつかせないほど自然なので、西欧の技術知識を吸収するのに威力があったのです。
 なかには中国の古典の中から似たような意味が感じられるものを引いて当てた「権利」「義務」「経済」のような言葉もありますが、それよりも新しく作られた単語のほうか圧倒的に多いようです。

 高島俊男「漢字と日本人」によれば、明治から作られた新漢字語は漢字の意味の組み合わせだけを考えて作られた語なので、おびただしい同音異義語を作り出してしまったのだそうです。
 日本語は音声で聞くとき、頭の中に漢字を思い浮かべながら意味を理解する、などという説が出るほど同音異義語が多いのです。
 まさか会話の中で、いちいち漢字の同音異義語をいくつも思い浮かべ選択するなどということをしていては超スローモーな会話しか成立しません。
 そうなると、会話体はあまり漢語を使わないのが無難ということになります。
 書かれた文章と会話体が一致しないという野が、大量の漢字語を採用したための副作用なのでしょう。


漢字を見ても意味が分からない言葉

2007-05-05 23:46:31 | 言葉と文字

 「社会」という言葉は英語のsocietyの訳語なのだと言われても、誰も不思議には思いません。
 ところが「しゃかい」は何で社会という漢字が使われるのかといわれたら、たいていの人はハテなんでだろうと、と考えてみて実は何でだか分からないことに気がつきます。
 「社会」をひっくり返した「会社」とはどういう関係なのか、さっぱり分かりません。

 加賀野井秀一「日本語は変化する」には、明治初期にsocietyというコトバが翻訳されたときには、図のように30近くの訳語があったそうです。
 現在の「社会」のイメージからすれば、なんでそんな訳し方をしたのか不思議に感ずるようなものもあります(会社という訳まであります)。
 このようにたくさんの訳語が提出されたことについて、「当時の日本にはsocietyというものがなかったからだ」という風な説が見うけることがあります。
 「西欧でのsocietyは、対等な個人同士によって成り立っていて、個々人の力で変えられると考えられているが、そのようなsocietyは当時の日本にはなかった(今もないかもしれない)」などと、一方的に西欧を美化してしまうのです。
 
 ためしに英和辞典を引いてみる(英英辞典でも良い)とcompanion(仲間)が原義でcomunity(共同体)とかassociation(協会)、company(交際)などの意味もあり、人間の集まりを全般的に指すとしています。
 対等な個人云々というのは市民社会の理想型のようなものを念頭において、それが西欧では現実であるかのように空想しているのです。
 30近くもあった訳語は、ひとつでsocietyのすべての意味を代表できないのは当然で、明治初期の翻訳家はsocietyというコトバが使われる文脈に応じて意訳したのでしょう。

 それが「社会」という訳語が定着するともうそれほど悩まずに、自動的に「社会」という言葉を使うようになったそうです。
 「社会」というコトバはそれまで使われていなかった言葉で、しいて意味を当てるとすれば、「仲間の集まり」といったところです。
 「哲学」とか「真理」といったコトバと同じようにそれまで使われていなかった新造語ですが、これらは文字を見ただけでいみが。分かるような言葉ではありません。
 柳父章「翻訳とは何か」によればこうした新造語は内容は分からないのに、見た目は魅力的なのでカセットに似ているといいます。
 「哲学とは何か」「真理とは何か」「社会とは何か」などと大上段に問掛けられるといかにも奥深い、すごい高尚な意味があるように感じられるというのです。
 
 確かにそういうこともあるのですが、難しい言葉でも何度も耳にしているうちに慣れてしまって分かったような気になってしまうということもあります。
 「相対性原理」のようなコトバでも、本当はは分からないのに、何度も聞いているうちに何か分かったような気になっているのが普通です。
 漢字熟語は文字の組み合わせから意味が分かる場合が多いのは事実ですが、英語などの西欧語を翻訳したものの場合は厄介で、意味がわからないものが結構あるのです。


漢字表記の利点と穴

2007-05-01 23:23:18 | 文字を読む

 漢字は一つ一つの文字が意味を持っているので、漢字を組み合わせて新しい言葉を作れば、文字を見るだけで意味が分かるように見えます。 
 見学なら「見て学ぶ」、視力なら「視る力」、矯正なら「まげて正しくする」といった具合です。
 さらに工場見学、新鋭工場見学、新鋭工場見学旅行など文字を次々に加えて湯新しい言葉を作ることができ、新しい言葉は説明されなくても意味は文字を見れば理解できます。

 こういう例を多く見れば、漢字を組み合わせた単語は、文字を見れば単語の意味の構造が透けて見え、自動的に意味が分かるような気がします。
 ところが「会社」とか「銀行」とか「帽子」などのように、二つの文字を組み合わせるとなんだか分からない(漢字にすごく詳しい人には分かっても)ものがあります。
 見慣れてしまっていて、意味が分かっていれば文字の意味が分からなくても平気で使っているのです。
 慶応大学と書くところを図のcのように麻ダレの中身をKOとしても使い慣れれば平気なのです。
 新しい単語とか、見慣れていない単語なら、文字の助けを借りて意味を理解しようとしますが、見慣れて意味が分かったような気になれば、文字の意味に注意を向けないのです。
 
 これとは逆に、文字を見て意味が分かると単語の読み方が分からないまま、誤読し続けたりすることがあります。
 「場末」を「バマツ」と読んだり、「相殺」を「そうさつ」と読んで誤読に気がつかないのは意味が分かるからです。

 漢字を組み合わせできた単語の意味が推測できるという原理を文字にまで広げたのが字源解釈です。
 漢字を構成している部品に意味があるので、部品の組み立てを見ればその漢字の意味が分かると考えるのです。
 たとえば、東という字は日が昇って木に重なると様子を示しているので、「ひがし」をあらわしているというのです。
 文字を作成した人がそういっているならともかく、このように表せば誰でも東と解釈するとは限りません。
 木と日が重なるなら「にし」でもいいし、「朝」の意味でも良いので、これはこじつけではないかと思われます。

 傑作は親という字の字源解釈で,親は木の上に立って子供を見まもるという事をあらわしているというのがあります。
 冗談かと思うと結構まじめにそうした説をとく本が多いので驚きます。
 木の上に立ってみているといえばフクロウのほうが連想しやすい気がしますが、まさかフクロウはオフクロと似ているとか言う駄洒落ではないでしょう。

 漢字の形から類推できるといっても、現代の知識には会わなくなっているものもあります。
 蝙蝠や蛙、蛇、蛤、など現代の常識では虫でないものが虫偏になっているので、意味が分からなければ虫の一種と誤解するでしょう。
 鯨や鰐、鮑などが魚偏というのも、鯨は仕方がないにしても現代の感覚と外れているので、むやみに難しい漢字を使うのは考えものです。