60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字のまちがい

2007-05-29 23:30:43 | 文字を読む

 漢字は見れば意味が分かると思っている人がいますが、そう思えるのは学習の結果、漢字の形と意味が記憶の中で結びついているからです。
 四角い形を見れば四角いと思うのは学習と関係ないので、日本人が見てもインド人が見ても同じですが漢字はそうはいきません。
 たとえば鮎という字は本来は「なまず」のことですが、日本ではなぜか「あゆ」の意味となっています。
 鮎の文字の旁は占で粘土のようにねばねばしている意味で、「なまず」なら分かりますが、「あゆ」は分かりません。
 犬と狼は実際は形が似ているのに文字の形は似ていません。
 絵で虎を書いたつもりが猫に見えるということがありますが、文字ではそのようなことはありませんから、虎という漢字は「とら」と覚えない限り「虎」とは読めないのです。

 「檄を飛ばす」というコトバは意味のまちがいの例でよくあげられますが、今でも新聞などでよく見かけます。
 「激励する」と同じような意味で使っているのですが、「檄」は「触れ文」という意味なので意味が違います。
 「檄」という文字を見ても意味が分からず、「げき」という音読みからの連想で「激励」の意味と信じ込んで記憶されているのでしょう。
 「慙愧に堪えない」ということばも「ざんき」という音読みからの連想で「残念」と同じような意味と思い込んで記憶しているのでしょう。
 「痛恨の極み」という場合も、「痛」はひどくという意味で、主体は「恨み」で、怨恨あるいは後悔の意味なのですが、痛を主体にして「いたむ」という意味で使ったりします。
 (痛恨のエラーは悔いが残るエラーで、痛ましいエラーではない)

 図の「切」、「達」という字は書きまちがいの字で、正岡子規とか、島崎藤村はこんな下記違いをしていたそうです。 
 昔の人は楷書できちんと書く習慣がなかったので、書字はかなりいい加減で現在の小学校教育の基準からすればまちがいがかなりあったようです。
 江戸時代の寺子屋で覚える字も草書でしたから、楷書の文字の形とは違った文字を覚えたわけで、見れば意味が分かるというわけはありません。
 
 相図とか興味深々といった例は合図、興味津々の誤用例ですが、これは最近の中学生のまちがいではなく、文豪の島崎藤村のものです。
 藤村といえば「夜明け前」などを読めば難しい漢字をたくさん使っていて、現代人には到底及ぶことができない知識の持ち主です。
 それにもかかわらず、いい加減な文字を書いたり、間違った漢字の使い方をしているのはどういうことかというと、当時は細かいまちがいというのは無視されて、通用すればよいという感覚だったのでしょう。
 漢字の使い方はあまり厳密でなく、全体として意味が通じればよかったのでしょう。