史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

南千住 Ⅱ

2014年06月06日 | 東京都
(円通寺)


天野君八郎碑

 天野八郎は彰義隊頭並。上野国の農家に生まれた。慶応四年(1868)彰義隊が結成されると、副長格となる頭並に就任した。渋沢成一郎の脱退後は事実上の隊長として彰義隊を指揮した。上野戦争で敗れると、潜伏しているところを捕えられ、慶応四年(1868)十一月八日、日比谷の牢内で病死した。三十八歳という。天野八郎の碑は、榎本武揚の題字、田邊太一の撰文。


荒井郁之助君追弔碑


正二位勲一等子爵榎本公追弔碑


合同舩

 彰義隊八人の合同慰霊碑である。山田八郎(遊軍隊組頭・のち十六万隊組頭)、松本義房(第三青隊隊長・のち三番隊組頭)、大塚嘉久治(第二白隊隊長・のち頭取並)、小林一知、西村賢八郎(十八番隊組頭)、前野利正(第一赤隊伍長)、羽山寛一、百井求之助(会計掛)の名前が刻まれている。


彰義隊八番隊長木下福治郎
彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道 追悼碑

 木下福治郎と鷹羽玄道は兄弟。二人とも上野から箱館まで転戦した。木下福治郎は、明治十三年(1880)、四十二歳で没。鷹羽玄道は、明治四十四年(1911)、六十九歳で死去。


彰義隊後藤鉄次郎追吊碑

 彰義隊士後藤鉄次郎の追悼碑。彰義隊では予備隊に属し、慶応四年(1868)、五月十五日の上野戦争で戦死した。この追悼碑は、彰義隊に属していた実弟の後藤鉄郎が建てたものである。


佐久間貞一君記念之松

 彰義隊士佐久間貞一は、戦後実業界で活躍し、秀英社(のちの大日本印刷)を設立した。


新門辰五郎碑

 新門辰五郎は、上野戦争では彰義隊に協力して、鉄砲除けの米俵を運搬したという。


土肥庄次郎之碑

 土肥庄次郎も彰義隊士。弟の八十三郎が彰義隊にいたことから、再三加入を勧められ、江戸開城間際に入隊した。彰義隊では第一赤隊の隊外応接掛として諜報活動に従事した。維新後は、幇間・松廼舎露八として名をはせた。明治三十六年(1903)、七十一歳で死去。碑は榎本武揚の書。残念ながら真中から真っ二つに割れてしまっている。


中田正廣之碑

 中田正廣は旧幕臣で、撤兵隊指図役を務め、慶応四年(1868)四月、上総木更津にて戦死した。碑の書は榎本武揚のもの。


永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑

 幕臣永井尚志とその子岩之丞の追悼碑である。永井岩之丞は、大審院判事などを務め、明治四十年(1907)、六十三歳で死去。


町野五八君追弔碑

 町野五八(堀覚之助)は旧幕臣。箱館戦争に参加した。大正五年(1916)没。


三幸翁之碑

 三河屋幸五郎の碑。円通寺の仏磨和尚とともに彰義隊士の戦死者の埋葬に尽力した。碑の裏面には田辺太一の撰文、榎本武揚、大鳥圭介、澤太郎左衛門、安藤太郎、荒井郁之助、大澤常正、町野五八、後藤鉄郎、本多晋、大塚嘉久治、丸毛利恒(靱負)、酒井八右衛門らの名前が刻まれている。


良馬之碑

 陸奥下手渡藩主の立花出雲守種恭から八重垣という名馬が彰義隊に下され、隊士の本多晋が使っていた。結城における戦争で、相馬翁輔がこの馬を借りて古河藩に出向いたところ、馬が撃たれて、相馬も殺害された。この碑は名馬・八重垣を追悼して明治三十二年(1899)に建てられたものである。題字は立花種恭、撰文は本多晋。

(宗屋敷跡)


宗屋敷跡

 都電荒川線の三ノ輪橋駅近くに付近が対馬藩宗家の下屋敷であったことを示す、荒川区教育委員会の建てた説明板が建てられている。ちょうどこの辺りが屋敷の東南角に当り、ここに近辺の取締を行うための辻番所があったという。

(荒川区社会福祉協議会)


大関屋敷跡

 荒川区社会福祉協議会の前にやはり荒川区教育委員会の建てた説明板がある。この一帯には下野黒羽藩の下屋敷があった。特に三十一代大関増裕は、若年寄兼海軍奉行の要職に就き、活躍した。

(瑞光公園)
 瑞光公園(荒川区南千住1‐26)には、この付近に伊勢亀山藩石川家の下屋敷があったことを示す荒川区教育委員会の説明板が置かれている。


石川屋敷跡

(荒川総合スポーツセンター)


井上省三像


井上省三君碑

 荒川総合スポーツセンターの前に長州藩出身の井上省三の胸像と追悼碑がある。
 井上省三は木戸孝允に従って上京し、のちにドイツに留学。そこで毛織物の技術を習得した。帰国して明治十二年(1879)、千住製絨所を開業し、我が国の羊毛工業の発展に寄与したが、明治十九年(1886)に四十二歳の若さで病死した。この碑は、井上省三の遺徳を偲び、製絨所の職員、職工有志が建立したもので、題字はのちの外務大臣青木修蔵、撰文は東京農林学校の松野はざま(=石偏に“間”)。

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日暮里 ⅩⅨ

2014年06月06日 | 東京都
(谷中霊園)


加納家歴代之墓

 先日、真忠組の足跡を追って、上総一宮を訪ねたところである。改めて谷中霊園の加納家の墓を訪ねることにした。
 加納家の墓は神式で、鳥居の奥に円柱形の墓石がある。墓石には加納久儔(ひさとも)、久徴(ひさあきら)、久恒、久宜(ひさよし)ら、歴代の上総一宮藩主やその夫人、家族の名前が刻まれている。中でも二代藩主加納久徴は、幕府の大番頭や奏者番、若年寄など要職を歴任した。文久二年(1862)には和宮の江戸東下の警護役に任じられ、文久三年(1863)の真忠組の乱では鎮圧に功績があった。【乙1号4側】

(養福寺)


養福寺 仁王門

 養福寺は朱色の仁王門が印象的な寺である(荒川区西日暮里3‐3‐8)。墓地には、大橋佐平夫妻の墓がある。


大橋佐平之墓(右)
大橋松子之墓

 大橋佐平は、天保六年(1835)越後長岡生まれ。材木商渡辺又七の次男で、幼名は熊吉といった。酒商を営み、長岡藩の御用達を務めた。北越戦争では、河井継之助を首領とする主戦佐幕派が長岡藩政を掌握したが、佐平は上席家老稲垣平助、藩学崇徳館教官ら反戦恭順派と連絡し、官軍との間を奔走した。戦後、水原県の官吏となり、新潟、水原等に務めた。明治五年(1872)官を辞して長岡に洋学校を設立した。明治十四年(1881)には越佐毎日新聞を刊行、明治十九年(1886)、博文館を創設して、日本の出版界をリードした。明治三十四年(1901)六十七歳で没。


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佐倉 Ⅲ

2014年06月01日 | 千葉県
(佐倉城址公園)


タウンゼント・ハリス像

 日米修好通商条約締結から百五十年目の平成二十年(2008)、佐倉城址の堀田正睦像の隣に、盟友タウンゼント・ハリスの像が建立された。前々からハリス像を訪ねたいと思っていたが、ようやく実現した。
 ハリスは、安政三年(1856)七月に来日し、度重なる交渉の末、安政五年(1858)六月、ようやく日米修好通商条約の締結にこぎつけた。実際に交渉に当たったのは、岩瀬忠震と井上清直が中心となったが、彼らを指揮したのが、時の老中堀田正睦であった。


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銚子 Ⅱ

2014年06月01日 | 千葉県
(良福寺)


因明院受炮發性信士(大森金六郎の墓)

 前回、良福寺を訪ねた時、探し当てられなかった水戸藩諸生党の大森金六郎の墓に、二度目にしてやっと出会うことができた。正面には戒名、左側面にはこの墓を建てた「町内 年寄中」、右側面には「慶應四辰十月五日」という没年月日が刻まれている。

(川口神社)


川口神社

 銚子市川口町の川口神社は海を臨む小高い丘の上に建てられている。階段の途中に吉田松陰がこの地を訪ねたことを記念した石碑がある。表面の「松陰先生曾遊之地」の文字は、徳富蘇峰によるものである。


松陰先生曾遊之地

 裏面には、嘉永五年(1852)五月、松陰が当地を訪れた時に詠んだ漢詩が刻まれている。

銚子港
抵銚子浦戸口殷盛 然港口沙游 不便通船
其守備軍弱 亦恃地利者歟

巨江汨汨流入海 商船幾隻銜尾泊
春風吹送糸竹声 粉壁紅楼自成郭
吾来添繿壬子年 倚檣一望天地廓
遠帆如鳥近帆牛 潮去潮来煙漠漠
欧羅亜墨知何処 決眦東南情懐悪
眉山之老骨己朽 何人復有審敵作
仄聞身毒与満清 宴安或被他人掠
杞人有憂豈得己 閑却袖中綏邊略
強開樽酒発浩歌 滄溟如墨天日落
右吉田松陰先生之詩 嘉永五年正月八日銚子客次有此作

 銚子の地が外敵に対して無防備なことを嘆いたものである。


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九十九里

2014年06月01日 | 千葉県
(真忠組志士鎮魂碑)


真忠組志士鎮魂碑

 真忠組志士鎮魂碑には、三浦帯刀と楠音次郎という二人の真忠組副首領、首領の辞世が刻まれている。

三浦帯刀有国
国のため民のためとて捨てる身は
これぞ日本の人のたましひ

楠音次郎正光
虚々実々不争功 真忠義士頗義勇
一夜忽驚千里軍 誠忠吹起大平国

(作田川河口付近の墓地)


三浦帯刀 楠音次郎 墓

 作田川河口付近の墓地に、三浦帯刀、楠音次郎の墓がある。五十センチくらいの小さな墓であるが、その後ろに楠音次郎の曽孫の方が記した墓碑が置かれている。
 真忠組首領の楠音次郎は、もともと三河国岡崎に生まれたといわれるが、父は熊本藩士だった。音次郎は尾張藩や烏山藩に出仕したが、放浪することが多かった。文久元年(1861)には九十九里の井之内村に住み付き、ここで寺小屋を開き、また変の前には浜民の良き相談相手になっていたという。拠点としていた大村屋を襲撃されて討死。
 三浦帯刀は、佐原村に知行地を持つ旗本津田栄次郎の家来で、佐原村に住んでいた。安政六年(1859)には津田栄次郎地頭所から所村の百姓平右衛門に預け身分となった。安政の大獄に関連した処罰であったともいわれる。文久三年(1863)には「座敷住居」に変わり、彼の行動も自由が与えられることになった。三浦は一宮藩に捕縛されて、打首獄門となった。
 彼らは尊攘浪士というだけでなく、挙兵以前からこの地方民との接触しており、真忠組の挙兵には地方民の困窮からの解放を運動の梃子にしていたのである。(高木俊輔著「明治維新草莽運動史」)

(真忠組浪士屯所跡)


真忠組浪士屯所(大村屋)跡

 真忠組の活動は、直接的には文久三年(1863)十一月十二日、当時九十九里地方の一漁村であった小関村にあった大村屋伊八方に楠音次郎を首領とする数名がやってきたことに始まる。宿主伊八に対し「当分借り受け度」という一札を入れ、門先には弓・槍・鉄砲などを飾りたて、「真忠組義士旅館」という板札をかかげた。この日以降、浪人体の輩が集まってきて、同月二十四日には、二十人余りに膨れ、この場所が実質的に真忠組の本部となった。現在、大村屋跡には木製の碑が建てられているだけである。


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白子

2014年06月01日 | 千葉県
(真光寺)


真光寺


真忠組矢野重吾郎終焉之地碑

 文久四年(1864)一月十七日早朝、小関村の真忠組旅館に討手(福島藩兵)が押し寄せ、楠音次郎他七名が討ち取られた。ここを脱出した里見忠次郎、首東大九郎、斎藤市之助は、関東取締出役に捕縛された。八日市場に頓集していた山内額太郎他十七名は、小関村に救援に向かったが、既に壊滅していたため、彼らも逃げ去った。茂原東光院に拠点を置いた三浦帯刀らも小関村に向ったが、その途中上総一宮藩兵百五十と遭遇。剃金中の台で包囲されて三浦以下五名は捕縛された。しかし矢野重吾郎は、最後まで抵抗したため討ち取られた。ここに真忠組は壊滅した。真光寺墓地の一角に矢野重吾郎終焉の地と書かれた石碑が置かれている。

(法性寺)


法性寺

 白子町中里の法性寺が真忠組壊滅の地となった。


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一宮

2014年06月01日 | 千葉県
(一宮城址)


一宮城 大手門

 一宮城は、標高三十メートルの台地の上に構築された山城で、築城時期は南北朝時代から十六世紀といわれるが、詳細は不明である。北条氏と里見氏の勢力圏の境目にあったため、しばしば城主が変わったが、小田原征伐の際、本多忠勝に攻め落とされて廃城となった。江戸時代に入って、大多喜藩の支配下にあったが、のちに伊勢八田藩加納氏の飛領地となった。文政九年(1826)に加納遠江守久?がこの地に陣屋を築き、初代上総一宮藩主となった。


加納公紀徳碑銘

 現在、一宮城跡は城山公園として整備されている。山頂には加納藩の武道所振武館が再建され、今も剣道や柔道場として利用されている。また大手門や崇文門も建てられているが、いずれもコンクリート製で、やや風情に欠ける。
 振武館の前には、加納久宜(ひさよし)の顕彰碑が建てられており、さらに公園の一番奥には久宜の墓がある。


加納久宣公の墓

 加納久宜は、二代久徴(ひさあきら)、三代久恒(ひさつね)のあとを継いで、筑後柳川藩から養子に入って加納藩主となった人で、維新後は一宮藩知事に就いたほか、大審院検事、鹿児島県知事などの要職を務め、貴族院議員を三期務めた後、初代一宮町長に就任した。本墓は東京谷中にあるが、威徳を慕う町民の要望により、分骨して当地にも墓が設けられることになった。大正八年(1919)、七十二歳で逝去。

(旧加納藩砲台跡)


舊加納藩砲台跡

 加納藩が海岸に砲台を築いたのは、天保十五年(1844)というから、幕府が品川台場を築いたのより八年も早い。一宮藩主加納久徴は、大砲を鋳造し、海岸線に五カ所の砲台を築いた。大砲は火縄式のものであったが、各砲台に一つずつ設置された。付近に武士溜り陣所を配置していた。久徴の治世は、和宮の降下の供奉総奉行に任命されたり、真忠組の鎮圧に出兵したりと多端であった。静かな一宮にも波乱の時代が押し寄せることになった。

(東漸寺)


東漸寺

 東漸寺に和宮が東下した際に使用した駕籠が保管されているというので、立ち寄ってみた。残念ながら駕籠は本堂外箪の天井に保存されており、簡単に見ることはできないようである。
 和宮が江戸に下ったのは文久二年(1862)のことである。当時の一宮藩主加納久徴は、幕府の命により供奉総奉行を務めた。その労をねぎらうために、豊後国長盛の刀一振、鞍鐙一具、打掛などとともに、江戸への旅で使用した駕籠を賜った。その縁で、当地の東漸寺に和宮の駕籠が伝わることになったのである。


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茂原

2014年06月01日 | 千葉県
(東光院)
 東光院は、藻原寺の塔頭の一つである。


東光院

 真忠組関係の史跡を訪ねて九十九里方面を回った。一言で真忠組というが、当初小関村(現・九十九里町)に頓集した真忠組は、この方面全域に渡って金策や武器の調達を行った。活動範囲が拡がるにつれて小関村のほか、茂原市の東光院、八日市場の福善寺にも拠点を置いた。東光院は三浦帯刀が隊長として一団を率いた。これら真忠組の拠点には、訴訟まで持ち込まれるようになったという。

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