(上郡町役場)
大鳥圭介先生像
相生駅でレンタカーを借りて、上郡を目指す。目的地は幕臣にして維新後は新政府の外交官、政治家として活躍した大鳥圭介の生誕地である。上郡町役場の前には、礼服姿の大鳥圭介像が建てられている。
(いきいき交流ふるさと館)
いきいき交流ふるさと館
上郡町役場の前を走る道を川に沿って上流を目指して走ると、やがて「大鳥圭介生誕の地」と書いた幟が目に飛び込んでくる。残念ながら大鳥圭介の生家は、老朽化により数年前に取り壊され、現在は「いきいき交流ふるさと館」と呼ばれる建物が新設されている。中に大鳥圭介に関する展示物もあるようであったが、施錠されており入ることができなかった。
大鳥圭介生誕の地
大鳥圭介は、天保三年(1832)当時細念村と呼ばれていた現在の上郡町岩木丙に生まれた。祖父純平、父真輔は代々の村医者であった。十三歳より備前の閑谷学校に儒学を学び、十七歳で赤穂の中島意庵のもとで医学を修めた。このとき蘭学に目覚めたといい、二十歳で大阪の緒方洪庵の適塾に入門。更に二十二歳のとき、江戸に出て坪井塾にて西洋医学、蘭学、兵学を学んだ。二十五歳で江川坦庵の塾に兵学教授として招かれ教鞭をとった。写真、活字、砲術、兵学、築城など、当時としては先進的な西洋の技術を習得した圭介は、三十三歳で幕臣に取り立てられ、幕府陸軍の近代化、伝習隊の頭取を任された。時に戊辰戦争が勃発し、圭介は伝習隊を率いて土方歳三らとともに北関東から会津、五稜郭を転戦した。箱館戦争の敗戦により、二年間の投獄生活を経験。黒田清隆らの助命嘆願により赦された圭介は以後、明治新政府の高級官僚として活躍する。
男爵大鳥圭介誕生之地碑
明治五年(1872)開拓使御用掛に任命されると、欧州視察後は工部省(工部大学校長を兼務)、学習院大学長、華族女学校長、内務省、内国勧業博覧会審査部長などを歴任し、我が国の産業、人材の発展、育成に尽くした。その後、清国、朝鮮国公使として日清戦争前後の外交を担った。長年の功績に対し枢密院顧問官、勲一等瑞宝章、男爵の栄誉を賜った。明治四十四年(1911)、幕臣としては異例の栄進を遂げた大鳥圭介は、神奈川県国府津の別荘にて死去。七十九歳であった。
(大鳥圭介両親の墓)
大鳥真輔府君 於節孺人 合葬墓
大鳥鉄次郎 於たう 両君墓
明治九年(1876)六月、当時工部省に出仕していた大鳥圭介は里帰りを機に両親の墓を建立した。父は大鳥真輔といい、美作英田郡北村の丸山文蔵の弟。圭介を含む三男二女(二男は夭折)を得て、元治元年(1864)六十二歳にて病没した。母於節は大鳥純平の長女に生まれた。明治二年(1869)六十四歳にて亡くなっている。
両親の墓の左手の墓は、大鳥家を継いだ大鳥鉄次郎(圭介の弟、真輔の三男)のものである。
(大避神社)
大避神社
大鳥家もこの大避神社の氏子であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/8f/d15892850909dc71de3e27e83403e9f7.jpg)
大鳥圭介先生像
相生駅でレンタカーを借りて、上郡を目指す。目的地は幕臣にして維新後は新政府の外交官、政治家として活躍した大鳥圭介の生誕地である。上郡町役場の前には、礼服姿の大鳥圭介像が建てられている。
(いきいき交流ふるさと館)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/49/59591e68e5d4c2e6cc21996b3ed8b2b0.jpg)
いきいき交流ふるさと館
上郡町役場の前を走る道を川に沿って上流を目指して走ると、やがて「大鳥圭介生誕の地」と書いた幟が目に飛び込んでくる。残念ながら大鳥圭介の生家は、老朽化により数年前に取り壊され、現在は「いきいき交流ふるさと館」と呼ばれる建物が新設されている。中に大鳥圭介に関する展示物もあるようであったが、施錠されており入ることができなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/e4/78025eb1f8e586caeba3d7302cd09f7e.jpg)
大鳥圭介生誕の地
大鳥圭介は、天保三年(1832)当時細念村と呼ばれていた現在の上郡町岩木丙に生まれた。祖父純平、父真輔は代々の村医者であった。十三歳より備前の閑谷学校に儒学を学び、十七歳で赤穂の中島意庵のもとで医学を修めた。このとき蘭学に目覚めたといい、二十歳で大阪の緒方洪庵の適塾に入門。更に二十二歳のとき、江戸に出て坪井塾にて西洋医学、蘭学、兵学を学んだ。二十五歳で江川坦庵の塾に兵学教授として招かれ教鞭をとった。写真、活字、砲術、兵学、築城など、当時としては先進的な西洋の技術を習得した圭介は、三十三歳で幕臣に取り立てられ、幕府陸軍の近代化、伝習隊の頭取を任された。時に戊辰戦争が勃発し、圭介は伝習隊を率いて土方歳三らとともに北関東から会津、五稜郭を転戦した。箱館戦争の敗戦により、二年間の投獄生活を経験。黒田清隆らの助命嘆願により赦された圭介は以後、明治新政府の高級官僚として活躍する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/69/4e243923b0ae7042ce4b3cd2418fa155.jpg)
男爵大鳥圭介誕生之地碑
明治五年(1872)開拓使御用掛に任命されると、欧州視察後は工部省(工部大学校長を兼務)、学習院大学長、華族女学校長、内務省、内国勧業博覧会審査部長などを歴任し、我が国の産業、人材の発展、育成に尽くした。その後、清国、朝鮮国公使として日清戦争前後の外交を担った。長年の功績に対し枢密院顧問官、勲一等瑞宝章、男爵の栄誉を賜った。明治四十四年(1911)、幕臣としては異例の栄進を遂げた大鳥圭介は、神奈川県国府津の別荘にて死去。七十九歳であった。
(大鳥圭介両親の墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/ab/f8a689677f505d135d51674b5be3391a.jpg)
大鳥真輔府君 於節孺人 合葬墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/e8/5f3e53b1ee90606a1cdb994aeb6848da.jpg)
大鳥鉄次郎 於たう 両君墓
明治九年(1876)六月、当時工部省に出仕していた大鳥圭介は里帰りを機に両親の墓を建立した。父は大鳥真輔といい、美作英田郡北村の丸山文蔵の弟。圭介を含む三男二女(二男は夭折)を得て、元治元年(1864)六十二歳にて病没した。母於節は大鳥純平の長女に生まれた。明治二年(1869)六十四歳にて亡くなっている。
両親の墓の左手の墓は、大鳥家を継いだ大鳥鉄次郎(圭介の弟、真輔の三男)のものである。
(大避神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/7e/ecf0c78cf64301b6b53741c2133b71e3.jpg)
大避神社
大鳥家もこの大避神社の氏子であった。
調べてみましたが、よく分かりません。
お役に立てなくて済みません。