史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長岡 Ⅲ

2011年05月25日 | 新潟県
(長興寺)


長興寺

城下稽古町の長興寺には、山本家、稲垣家など、長岡藩名家の墓が多い。

山本家墓所には、初代から十三代山本五十六までの墓が見事に並ぶ。


山本帯刀の墓

山本帯刀は、養子となって山本家を継ぎ、家老となった。戊辰戦争では大隊長として奮戦。会津飯寺の戦闘で捕えられ、降伏を拒んで斬首された。


山本五十六の墓

海軍大将、連合艦隊司令長官山本五十六は、大正四年(1915)、子爵牧野忠篤の口添えで、帯刀の死をもって断絶していた名家山本家を再興することとなった。


酒井晦堂墓

酒井晦堂は長岡藩士の家に生まれた。通称は貞蔵。晦堂は号である。藩校崇徳館造士寮長を務めた。奥羽越列藩同盟の議が持ち上がると、晦堂は反戦、勤王を説いたが、説得は実らず、結局、戦争となった。晦堂は戦地に赴き戦死した。四十歳であった。父は晦堂の死を悲しみ、戦死の地に碑を建立したが、のちに長興寺に移された。


稲垣平助墓

稲垣家は、代々長岡藩筆頭家老を務めた。藩主牧野家が三河に在住していたころから、藩主を補佐してきた。代々平助を通称とし、家禄は幕末時点で二千石であった。幕末の当主、平助重光は、勤王恭順を唱えその先鋒となったため、藩中に孤立することになった。


堀口大學墓

詩人堀口大學は幕末維新と関係はない。堀口家はもともと長岡藩士の家系であった。代表作に「月光とピエロ」「月下の一群」「人間の歌」など。合唱経験者には馴染みの深い詩人である。私も学生時代、多田武彦や清水脩の作曲、堀口大學作詩の組曲を何曲か歌った記憶がある。ここで堀口大學の墓と出会うとは感無量であった。

(正覚寺)
正覚寺は、村松藩(堀家三万石)二、三小隊が陣を置いていたが、新政府軍が渡河して市街になだれ込んできた際、後退する長岡藩に向けて銃弾を浴びせた。長岡藩兵は「村松藩が裏切った」と動揺し、争うように敗走した。村松藩に裏切りの意図はなく、濃霧のために誤認したものであるが、このことが、長岡藩の防御線が呆気ないほどもろく崩れ、長岡城落城の主因となった。


正覚寺

長岡市内の寺院は、いずれもコンクリート造りの無粋な建物が多い。長岡は、戊辰戦争、更に太平洋戦争の空襲などにより、都度焼野原となり、そのため古い建物はほとんど残っていない。しかも地震多発地帯でもあり、コンクリート製の建物にする必要があったのだろう。

(北越戊辰戦争西軍本陣跡)


北越戊辰戦争西軍本陣跡
西園寺公望寄宿の地

神田町の旧街道沿いに、西軍の本陣跡、西園寺公望が寄宿したことを示す石碑がある。西園寺公望は、奥羽征討越後口大参謀に任じられ、柏崎まで進出していた。豪胆な西園寺公望は後方にいることに耐えられず、七月二十五日、長岡に移った。折しも、長岡藩が八丁沖を渡河して奇襲をかけた日であり、西軍は混乱して潰走した。西園寺公望も馬に乗って西方の関原方面に逃げることになった。


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