史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

九度山

2012年10月21日 | 和歌山県
(中屋旅館)
 一年振りに高槻の実家に帰省することになった。せっかくなので、この機に高野山を攻めることにした。
 父に「明日は、高野山に行く」と告げたところ、「昔、九度山までは連れて行ったことがある」という。聞けば、まだ私が小学生の頃、九度山に柿狩りに行ったらしい。微かに記憶が蘇った。
 今も富有柿は九度山の名産である。南海九度山駅の周辺には、柿畑が広がっている。

 今日のテーマは、「日本最後の仇討ち」である。明治四年(1871)二月、この地で赤穂藩士による仇討ちが実行された。元禄時代の赤穂浪士の討ち入りは有名であるが、赤穂藩は余程仇討ちと縁があるらしく、明治に入って“二回目”を経験することになった。ただし、討ち入りのときの藩主は浅野氏だったのに対し、明治初年の赤穂藩主は森氏に代わっている。


南海高野山線高野下駅

 朝七時に実家を出て、新今宮で南海高野山線に乗り換える。橋本駅から先は単線で、急な上り坂となる。まず、高野下駅で下車する。ここから河根(かね)集落まで歩いて三十五分ほど。事前に調べたところでは二十分ほどと推定していたが、とてもとても私の脚では二十分では無理であった。往復で軽く一時間以上は見ておいた方が良い。


元本陣 中屋旅館

 河根は古い宿場町である。旧街道に面して元本陣中屋旅館の表門が建っている。
 邸内には上段の間が往時のまま、保存されている。明治四年(1871)二月二十九日、赤穂藩士村上兄弟らは、仇討ちを翌日に控え、夜遅くまで中屋旅館の上段の間の書院で密談を交わしたと伝えられる。

 今も河根には旧街道(東高野街道)が通じており、その気になれば高野山まで自力で登ることも可能である。もちろん、その気のない私は迷うことになく、高野下駅まで引き返した。


千石橋からの眺め

 千石橋は、寛永十一年(1634)に幕府によってかけられた橋で、修理費として千石が支給されたことに因んで、この名が付いた。現在の橋はかけかえられたものである。

 河根まで往復して高野下駅まで帰り着いた時には、汗が吹き出して止まらない。電車の冷房が心地よかった。次の下車駅は、仇討ちが実行された紀伊神谷である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 徳島 Ⅱ | トップ | 高野山 »

コメントを投稿

和歌山県」カテゴリの最新記事