史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

玉造 Ⅱ

2018年09月21日 | 大阪府
(心眼寺)


心眼寺

 心眼寺は、かつて真田丸があったといわれる台地の一角に位置している。境内には真田丸の主である真田信繁(幸村)の墓がある。
 本堂の前には京都見廻組桂早之助、渡辺吉太郎の墓が置かれている。


真田左衛門佐豊臣信繁之墓


桂早之助墓(右)
渡邉吉三郎之墓

 桂早之助利義は、天保十二年(1841)四月、代々京都所司代組の同心を務める家に生まれた、京都在住の幕臣である。剣術は西岡是心流を修め、京都文武場の剣術世話心得を務めた。慶應三年(1867)二月、所司代組同心から京都見廻組に推挙され、七月には肝煎(小隊長クラス)に昇進した。
 渡辺吉太郎は、天保十四年(1843)に江戸で生まれた幕臣。直心影流を学び、神奈川奉行支配組同心となった。その後、元治元年(1864)には見廻組に推挙され、京都に移った。
 もう一人、高橋安次郎(享年二十七)もこの寺に葬られ、「宝樹院恩誉巍山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石があったというが、現在墓は残されていない。
 慶應三年(1867)十一月十五日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された。箱館戦争終結後、新政府に捕えられた元見廻組肝煎今井信郎の供述によると、見廻組与頭佐々木只三郎を指揮者とする数名が、近江屋を襲撃。その人員の中に桂早之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎の名前があった。彼らはいずれも鳥羽伏見の戦いに参戦した。桂早太郎は下鳥羽で左股に銃創を受け、正月四日に死亡している。遺体は戸板に乗せられて同僚らの手で大阪まで運ばれ、心眼寺に葬られた。享年二十八。渡辺吉太郎は、鳥羽から橋本に至る戦いの中で負傷し、同月五日に戦死して、この寺に葬られた。享年二十六。墓碑には「吉三郎」とあるが、「吉太郎」が正しい。高橋安次郎も五日に鳥羽淀橋において戦死した。

(清水谷高校)


清水谷高校

 清水谷高校は明治三十四年(1901)の創立。明治四十年(1907)、創立五周年を記念して同窓会館済美館が建てられた。当時の大村校長が、日本女子大学の成瀬仁蔵を通じて、西園寺公望に揮毫を依頼した。今も済美館に西園寺五十九歳の書が掲げられているらしいが、私が清水谷高校を訪れた時、夏休み中で正門はかたく閉じられていた。

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