史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

赤穂

2012年10月28日 | 兵庫県
(赤穂城)
 赤穂といえば、何と言っても赤穂浪士、忠臣蔵、討ち入りである。駅を出ると、軍配を振るう大石内蔵助像が出迎えてくれる。市内の至るところに四十七士の住居跡や歌碑などが残されており、赤穂浪士の足跡を訪ねる旅人も少なくない。
 まず、駅の観光情報センターでレンタサイクルを借りる。赤穂は坂が少なく、自転車で回るに適した街である。ここで観光地図も入手できる。


赤穂駅前 大石内蔵助像

 駅から真っ直ぐ南へ伸びる道を道なりに進めば、突き当たりが赤穂城である。
 赤穂城は、十五世紀中頃、赤松一族の岡豊前守が築城したと伝えられる。その後、宇喜多氏、池田氏がこの地を引き継ぎ、次第に城郭と城下町が整えられた。正保二年(1645)、常陸笠間から浅野氏が転封され、城郭が現在の規模まで拡大整備された。今も本丸跡地に天守台が残されているが、天守閣は建造されなかったという。
 元禄十四年(1701)、藩主浅野長矩が有名な刃傷事件を起こして浅野家は断絶。代わって、備中西江原から森氏が転じて、明治維新まで続いた。今回の赤穂訪問のメイン・テーマである文久事件は、森氏の時代に起きた事件である。


赤穂城 隅櫓と大手門


赤穂城二の丸門跡

 文久二年(1862)十二月九日、赤穂藩国家老森主税が勤王派に暗殺されたのが、二の丸門付近であった。二の丸門は残されていないが、現在、二の丸庭園の復元工事が進行中である。


大石内蔵助邸長屋門

 大石家が三代五十七年にわたって住んでいた大石邸の跡地には、長屋門が再建され、大石神社が建立されている。

(大石神社)


大石神社


東郷平八郎書 忠魂

 大石内蔵助を祭神とする大石神社の鳥居の奥には、東郷平八郎の書で「忠魂」「義膽」と刻まれた石柱が建てられている。

(花岳寺)


花岳寺

 花岳寺も、赤穂浪士一色である。赤穂浪士の遺髪墓や家族の墓、大石家先祖の墓、浅野家の墓所などがある。宝物館には赤穂浪士の木像や遺品、書簡、遺墨など多数展示されている。残念なことに文久事件関係の展示などは全くない。


森家墓所

 文久二年(1862)十二月、国家老森主税と用人村上真輔を暗殺した勤王派の一団は、脱藩して長州に逃れた。しかし、ほどなく長州藩の情勢が変化し俗論派が政権を握ると、再び赤穂の地に舞い戻った。このうち松本善次と浜田豊吉は、花岳寺森家墓所の前で自刃した。


本堂の天井絵「竹に虎」

 法橋義信による天井絵。安政元年(1854)、法橋義信六十七歳のときの作品である。写真ではなかなか迫力が伝えられないが、雄渾にして壮大な作品である。義信は、勤王派の河野鉄兜、藤本鉄石らとも交流があったと伝えられる。

(福泉寺)


福泉寺

 文久事件で暗殺された村上真輔の二男、河原翠城は事件の後、福泉寺門前で割腹して果てた。境内には河原翠城の墓がある。


翠城河原士栗墓

 河原翠城は、文久事件で暗殺された村上真輔の実子で、六歳のときに河原家の養子となった。翠城は号。幼名は駱之助、字は士栗と称した。十九歳のときに広島に出て、藩儒坂井虎山に師事。以後、大阪、京都、伊勢、江戸で遊学し、各地の名儒の門を叩いた。安政四年(1857)帰藩して藩学教授となると同時に、私塾を開いて多くの子弟を教えた。文久二年(1862)、藩の勘定奉行も兼ねた。文久事件で実父村上真輔が暗殺されると、汚名を晴らそうと画策するが、上意により追放処分を受けた。進退極まった翠城は、福泉寺にて自刃して果てた。三十六歳であった。

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