史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

熊本 横手

2015年04月11日 | 熊本県
(北岡自然公園 妙解寺跡)


第四代細川光尚公御廟(左)
第三代細川忠利公御廟(中)


 北岡自然公園は、細川家菩提寺妙解寺跡として、園内の一画には今も歴代藩主やその妻子、歴代住職などの墓が並ぶ。
 妙解寺は、寛永十九年(1642)、細川家三代忠利公の菩提を弔うため建立された。寺名は忠利の法名「妙解院殿台雲宗伍大居士」からとったものである。維新後、神仏分離令により寺が廃止され、細川邸となり「御内家」と呼ばれていたが、昭和三十年(1955)、熊本市が譲り受けて自然公園として整備し、一般に開放している。
 細川家の墓地には、正面に忠利夫婦と四代光尚の霊廟がある。霊廟を囲むようにして殉死者の墓が整然と並ぶ。「殉死」という習慣は寛文三年(1665)の武家諸法度の公布とともに禁止されたが、細川光尚が亡くなったのは慶安二年(1650)のことであった。

 細川家墓地の一番奥に十二代藩主細川斉護とその夫人の墓がある。
 細川斉護は、文化元年(1804)、宇土藩主細川立之の長男に生まれ、文政九年(1826)、細川斉樹の養子となり、同年家督を継いで十二代藩主となった。幕末変転の期に当たり、藩財政も極度に困窮した。借財八十万両以上、年々三万石の不足だった上に弘化四年には天草警備を命ぜられ、嘉永六年(1853)には本牧・相模警備の重任を負った。しかも藩内は横井小楠、長岡監物らの実学党と松井佐渡らの学校党との対立があり、混乱と苦悩のうちに万延元年(1860)五十七歳にて死去。


第十二代細川斉護公御廟
泰巌院殿大中大夫前羽林中即将越州太守仁岳宗寛大居士

(禅定寺)
 花岡山周辺は寺町になっている。その中の一つ禅定寺は加藤家や細川家に仕えた重臣の墓が立ち並ぶ古刹である。本堂の前に上田休の顕彰碑がある。


禅定寺

 上田休は、天保元年(1830)、熊本藩士上田源十郎の子に生まれた。九歳のとき藩校時習館に入り、軍学は小畠景暢につき軍学師範役を務めた。藩の主流派学校党に属し、上洛中は公武一和の線で尽力して名を挙げた。長崎でフルベッキらに接してから攘夷論も多少修正されたが、一貫して洋風嫌いであった。明治七年(1874)の佐賀の乱、同十年(1877)の西南戦争においては軽挙を戒めて、特に旧知行地の川尻町を兵乱から救うために自ら鎮撫隊を組織した。戦後、彼の行動が政府軍に誤解され、捕えられて斬首刑の処された。年四十八。「肥後の西郷」と呼ばれた。


上田休顕彰碑


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