史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

白金台 Ⅳ

2017年08月04日 | 東京都
(興禅寺)


興禅寺


黒河内家墓

 傍らの顕彰碑によれば、会津藩長沼流軍学者黒河内家中興の祖と称される黒河内松斎が安政五年(1858)五月に没した後、嫡男十太夫高興(式部)が跡を継ぎ、四百石軍事奉行を務めた。式部は慶應四年(1868)八月二十三日、藩主松平容保が滝沢本陣から引き上げ鶴ヶ城に入城しようとした際、周囲を敵兵が十万しており、甲賀町郭門を開くことができず、六日町郭門からの入城を試みた。式部も藩主の楯となり、進路を開いた。その結果、容保は入城を果たしたが、式部は多くの将兵とともに戦死した。五十三歳。軍事の家系らしく、墓は珍しい槍の穂の形をしている。


山本家之墓

 黒河内家の背後の山本家の墓に山本季太郎が合葬されている。墓碑によれば、法名は「修覚院義山觀忠居士」。慶応四年(1868)八月二十三日戦死。


青柳家之墓

 青柳篤四郎(「幕末維新全殉難者名鑑」では徳四郎)は米沢藩士。法名「威神院本極體明居士」。慶応四年(1868)七月二十五日、越後蒲原郡押切村にて戦死。四十二歳。

(正源寺)


正源寺

 周囲をマンションに囲まれた正源寺に会津藩士瀬野久吾の墓がある(港区白金2‐7‐19)。


久光院忠山義芳清居士(瀬野久吾の墓)

 墓石背面に記載されているところによれば、瀬野久吾は会津藩士。慶応四年(1868)八月二十三日、大野ヶ原にて戦死。遺体は戦地に埋められたそうである。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載無し。

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麻布十番 Ⅵ

2017年08月04日 | 東京都
(賢崇寺)

 賢崇寺の墓地の一角に戊辰戦争の犠牲者の墓が集められている。


上野戦死 肥前藩中地藤太盛邦之墓

 中地藤太は、慶応四年(1868)五月従五日、江戸上野山にて戦死。三十二歳。墓石の側面には「武山性勇居士」という戒名が刻まれている。


會津戦死 村嶋藤左エ門之墓

 村島藤左衛門は平士。慶応四年(1868)九月一日、岩代火玉峠にて戦死。三十九歳。


野口孫太夫墓

 野口孫太夫は明治元年(1868)、東北征戦後、東京で戦死。


上野戦死 肥前藩宮崎代助安禮之墓

 宮崎代助は慶応四年(1868)五月十五日、江戸上野山にて戦死。二十九歳。


三名の合葬墓(左)

 右の墓には「秋林…」という法名が読み取れるが、墓の主は不明。墓石側面には施主として下村辰右衛門、千□忠兵衛という名前が確認できる。没年月日は、慶応四年(1868)六月二十六日となっている。
 左の墓は、朝倉新七、中島義一郎、野中又七という三名の墓。いずれも慶応元年(1868)九月一日、岩代火玉峠に戦死。

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新宿 Ⅳ

2017年08月04日 | 東京都
(常圓寺)


贈従五位 水野徳三郎寛友墓

 常圓寺の墓地は道路によって二か所に分断されている。その北側の墓地に富山藩士水野徳三郎の墓がある。
 水野徳三郎は隊長。慶応四年(1868)六月二十四日、越後藤村にて戦死。三十八歳。
 右手の法名を刻んだ墓に「義寛院精進日勇居士」という徳三郎の法名があり、こちらが本墓であろう。左手の墓は、大正九年(1920)に末裔の陸軍歩兵中佐水野勝太郎氏が建立したものである。

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