史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

笠間 Ⅷ

2022年01月01日 | 茨城県

謹賀新年

 

(盛岸院)

 盛岸院は、笠間藩主牧野家の菩提寺である(笠間市笠間2664)。牧野家の墓所は、広い墓地ではなく、本堂の脇から石段を昇った先にある。

 牧野家墓所には、正面に「牧野家歴代之墓」、その背後に藩祖牧野儀成の墓石があるほか、右手には「牧野家兒孫連枝之墓」があるのみである。幕末の藩主牧野貞明もここに眠っている。

 

盛岸院

 

牧野家歴代之墓(牧野貞明の墓)

 

 牧野貞明は天保元年(1830)の生まれ。笠間藩主牧野貞喜の二男布施重正の子に生まれ、嘉永四年(1851)、藩主貞久の養嗣子となって宗家の家督を継いだ。雁の間詰めとなり、叙爵して備後守に任じられた。嘉永六年(1853)四月、日光へ名代参拝、安政四年(1857)六月、越中守と改めた。万延元年(1860)、奏者蕃、継いで寺社奉行を兼ねたが、文久三年(1863)、両役を解かれた。この間、文昭院法事御用、日光霊屋修復の惣奉行を勤めた。一方、領内では安政元年(1854)二月、大淵村で甲冑訓練、安政六年(1859)には藩校時習館を造建、これに講武所を合併し、火技操練を行うなど、時勢の危機に対応している。元治元年(1864)、再び奏者番と寺社奉行を兼ねたが、同年十一月、大阪城代に任じられ、従四位下に叙された。慶應元年(1865)正月十五日、大阪へ着任した。慶應四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いに幕軍は敗走し、将軍慶喜も大阪城を退いた際、これに随い江戸に帰った。その後、恭順の意を表し、四月には国許の佐幕派を断罪、結城戦争に出兵して、新政府に投じた。遠く奥羽征定にも派兵転戦した。同年十二月、致仕し、家督を金丸(貞寧)に譲って隠居し、竹丈と号した。明治二十年(1887)正月、東京高輪邸にて没した。年五十八。

 

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土浦 Ⅳ

2021年10月09日 | 茨城県

(琴平神社)

 

琴平神社

 

 琴平神社参道入口付近に土浦市教育委員会の建てた「沼尻墨僊の塾(寺子屋)跡」説明板がある(土浦市中央1‐12‐5)。

 

沼尻墨僊の塾(寺子屋)跡

 

 沼尻墨僊は安永四年(1775)の生まれ。幼時より学問を好み、神童の誉れ高く、同郷の長久保赤水や山村才助の地理学に啓蒙され、やがて地理学者として一家をなした。地理学に精しく、学問出精のかどをもって土浦藩主から褒賞されることもしばしばであった。墨僊が地理学史上有名となったのは、伸縮自在の傘式地球儀「大與地球儀」を制作して、これを水戸の斉昭の閲覧に供し、なお希望者には大名、庶民を問わず、これを譲ったことにある。

 墨僊は享和三年(1803)に琴平神社境内に時習塾を開いた。のちに天章堂と改名したこの塾では、読み書きだけでなく、広範な知識をもとに素読など高度な教育が行われた。安政三年(1856)に墨僊が亡くなるまで入門する子弟はあとを絶たず、塾生は延べ六百人を超えた。墨僊没後、塾は子の墨潭(就道)が継ぎ、明治四年(1871)まで続いた。

 

退筆塚

 

 同じく参道にある退筆塚は、文久二年(1862)、墨僊の七回忌に門弟たちによって学徳を偲んで建てられたものである。

 

 

(神龍寺)

 

神龍寺

 

 天気予報では土浦方面は曇りだったので、土浦行きを決行したが、駅を降りた時には空は厚い雲で覆われ、雨が降り出すのは時間の問題であった。改めてネットで予報を確認すると、いつの間にか雨に切り替わっていた。降らないというからここまで来たというのに、後出しジャンケンにあったような気分であった。神龍寺に行き着いたときに雨が降り出した。傘をさして墓地を歩くことになった。

 神龍寺(土浦市文京町1‐27)は、天文元年(1532)に当時の土浦城主菅谷(すげのや)勝貞の開基とされる。天保四年(1833)に大寅(だいいん)和尚によって旧本堂が再建された。現本堂は平成十年(1998)に新築されたものである。旧本堂には沼尻墨僊の描いた雲龍図の天井画が残されていた。大寅和尚と墨僊との交流が伺える。

 墓地には、色川三中(みなか)や五十嵐愛山の墓がある。

 

色川家之墓(色川三中の墓)

 

 神龍寺の墓地には色川家の墓が四つも五つもあるので紛らわしい。色川三中の墓は、本堂の横(北側)にある。

 

色川三中翁記念碑

 

 色川三中は、享和元年(1801)の生まれ。生家は土浦で薬種商、醤油醸造を兼業していた豪商で、江戸にも出店を持ち、幕府の醤油御用も勤めた。幼少から学問を好んだが、青年時代には家運の再興に尽くさねばならなかったので、本格的な学問研究は天保七年(1836)、三十六歳の時、橘守部の門に入り国学を志してからであった。平田篤胤や大国隆正とも交流があった。門人も多かったが、その中には幕末勤王の歌人として知られる佐久良東雄がいた。編著者も数多く、土地制度史、量制史に関する考証にも優れた才能を発揮した。中でも中山信名の地誌として有名な「新編常陸国誌」を修訂した功績は大きいといわれる。安政二年(1855)、五十五歳で没。神龍寺本堂脇には、大正八年(1919)建碑の色川三中翁記念碑も残されている。

 

五十嵐(愛山)先生碑

 

 五十嵐儀一は文政二年(1819)の生まれ。愛山と号した。藤森弘庵に師事し、江戸にでて昌平黌で学んだ。のち土浦藩校郁文館の教授となり、藩政にも携わった。元治元年(1864)天狗党の一部が藩領に侵入した際には、単身折衝にあたった。明治七年(1874)、五十六歳にて死去。傍らに墓誌がある。

 

(花蔵院)

 

花蔵院

 

 花蔵院には沼尻墨僊やその実父中村治助、儒者手塚一斎の墓がある(土浦市大手町8‐17)。

 墨僊は多芸多才の人で、エレキテル(発電機)を作り、掘り抜き井戸を掘り、天文学では自作の渾天儀を使用して天体観測を行った。また、漢詩、書道、絵画にも優れた。安政三年(1856)、八十二歳で没。

 

静寿庵黙翁墨僊居士(沼尻墨僊の墓)

 

探源祐玉居士(中村治助の墓)

 

 墨僊の実父中村治助は、享保二十年(1735)、中根村(現・つくば市)の平島太郎右衛門の次男として生まれた。のちに土浦の旧田宿町(現・大手町)の中村次兵衛遥堅の養子となった。中村家は、代々五番屋と通称された。漢方の五番湯を販売し、宿場町の重要な施設であり、人馬や公用の書状や荷物を引き継ぐ問屋業も営んでいた。町年寄を務めたほか、明治初年には名主も勤めた。中村治助は、安永二年(1773)、江戸幕府より土浦川口河岸の運上金上納命令を受けた際、町を代表して船持船問屋等とともに幕府勘定方との折衝に当たっている。文化十年(1813)、七十九歳で没し、東崎の法性院に葬られたが、中村家が明治後年に絶家となり、無縁仏となっていたものを、平成二十四年(2012)、この地に移設した。

 

手塚一斎翁墓

 

 手塚一斎は、土浦藩の側用人、年寄を務め三百石を禄した。藩士録によれば、寛政十一年(1799)、七代土浦藩主土屋英直の「側子供」として仕えたのが最初で、その後、天保七年(1836)に隠居するまで、三代の藩主に仕えた。山崎闇斎の学説を奉じる崎門学派であった父手塚坦斎に学び、藩学の振興にも関与し、藩校郁文館に招かれた儒者藤森弘庵に対抗して、崎門学派を庇護した。

 

(東光寺)

 東光寺は慶長十二年(1607)、心庵春伝 によって開かれたと伝えられる(土浦市大手町3‐14)。本堂のすぐ裏に辻元順の墓がある。

 

東光寺

 

得仙院悦翁元順居士(辻元順の墓)

 

 辻元順は享和三年(1803)、茨城県安居村(現・岩間町)の医師岡本元隆の子に生まれ、土浦藩医辻益順の養子となり、天保三年(1832)、藩に仕えた。のち和歌山藩医華岡青洲に外科を学び、土浦に戻って藩主の侍医を務め、また産科を兼ねて医療にあたった。明治十三年(1880)に没した。

 

史跡 乃木将軍外祖父 長谷川金太夫翁之墓

 

 東光寺には、乃木希典の祖父長谷川金太夫の墓や母寿子を祀る霊堂もある。長谷川家は土浦藩の江戸詰めだったといわれ、乃木希典の母、寿子も江戸の生まれであった。藩主土屋彦直の長女・欽子姫が長府藩主の毛利元運に輿入れしたのが縁で毛利家の家来乃木希次の後妻に入ったとされる。

 

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古河 Ⅲ

2021年08月21日 | 茨城県

(デイサービスつばさ)

 

明治天皇御膳水元同志社井

 

 デイサービスつばさの前に明治天皇御膳水碑が建てられている(古河市宮前5‐2)。

 明治十四年(1881)六月四日、および十月十日の二度にわたり、明治天皇東北巡幸の際、古河町に当地に駐輦した。その際、同志社の井の水が提供された。古河の同志社は、維新後士族授産を目的として、政府の保護奨励により古河在住の士族二百四十二名により設立された製絲場である。同志社は明治三十二年(1899)に解散となり建札も逸失してしまったが、昭和十年(1935)に石碑が再建された。

 

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結城 Ⅲ

2021年08月21日 | 茨城県

(結城小学校)

 

結城小学校

 

駐輦之遺蹟

 

 結城市立結城小学校の南門の前に巨大な駐輦遺蹟碑が建てられている(結城市結城1927)。

 明治四十年(1907)、陸軍特別大演習実施にあたり、結城町に大本営が設けられた。明治天皇をはじめ時の内閣総理大臣以下の政府高官が結城に滞在した際にこの地で執務をとった。明治四十四年(1911)十一月の建碑。

 

明治天皇大本營玉岡内閣将官榮

學園宸極秋芳馥行在所尊千古名

 

 駐輦遺蹟碑の横には大本営碑も建てられている。

 

明治天皇結城大本営

 

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東海 Ⅲ

2021年06月05日 | 茨城県

(泉福寺墓地)

 再度、東海村の黒澤家墓地を訪問した。

 

黒澤亀太郎君墓

 

 墓誌には名前が見えないが、向かって左奥の古い墓石「黒澤亀太郎君墓」は、覚蔵の長男亀太郎のもの。天狗党の争乱において、元治元年(1864)九月九日、久慈郡島村にて戦死。

 

故 利兵衛黒澤君墓

 

 黒澤利兵衛は、郷士黒澤七之助利貞の祖父。慶應元年(1865)七月五日、下総銚子にて獄死。六十歳。「幕末維新全殉難者名鑑」では理兵衛と表記されている。

 

先祖累代之墓(黒澤彦七の墓)

 

 傍らの墓誌裏面に黒澤彦七の事歴が記されている。彦七は準合資善兵衛邦好の二男。慶應元年(1865)十一月一日、下総町銚子にて獄死。二十四歳。

 

黒澤家累代之墓(黒澤伊予蔵の墓)

 

 黒澤伊予蔵は、慶応二年(1866)六月二十日、江戸佃島にて獄死。二十四歳。墓誌では二十五歳となっている。

 

林介黒澤君墓

 

 黒澤林介は元治元年(1864)八月二十三日、石神外宿村にて民兵と戦い死亡。四十八歳。

 

故 助七黒澤利貞君墓

 

 黒澤助七は郷士利兵衛利義の長男。明治元年(1868)十月一日、水戸弘道館門外にて戦死。三十五歳。

 

 黒澤家だけでこれだけの殉難者の墓に出会うことができた。さすがに石神勤王村と呼ばれるだけのことはある。茨城県下でももっと子細に調査すれば、もっと殉難者の墓に出会うことができるのかもしれない、と予感させてくれるものがあった。

 

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笠間 Ⅶ

2021年06月05日 | 茨城県

(明治天皇岩間野立所)

 

明治天皇岩間御野立所

 

 明治二十三年(1890)の明治天皇行幸の際、野立所となった場所である。住所は笠間市下郷922‐122。

 

(宍戸駅)

 

「明徳」 駐蹕記碑

 

 JR水戸線宍戸駅前のロータリーに駐蹕記碑が建てられている(笠間市大田町)。建立は明治四十年(1907)。

 この時、明治天皇は、汽車で宍戸駅まで移動し、そこから金華山という名の愛馬に乗り、随従する有栖川宮・北白川宮や政府高官そして近衛将校らは馬で随った。

 

(桜の宮ゴルフ倶楽部)

 桜の宮ゴルフ倶楽部(笠間市小原2822)は、かつて和尚塚カントリークラブと呼ばれていた。今もクラブハウスの近くに和尚塚と呼ばれる祠があり、そこに明治天皇駐蹕之地碑、明治天皇和尚塚御野立所碑が建てられている。

 

明治天皇駐蹕之地碑

 

 明治天皇駐蹕之地碑は、明治三十三年(1900)十一月十日から十七日までの八日間、近衛師団の機動演習が茨城県を中心に行われ、明治天皇は統監・視察のため同月十五日笠間町に行幸した。翌十六日の朝、特別列車で内原駅へ向かい、同駅から二頭だての馬車で大原村和尚塚へ移動し演習を統監した。この巨大な石碑は、大正二年(1913)の建碑。石碑裏面の碑文は、栗田勤(いそし 栗田寛の養嗣子)の撰文および書による。

 

明治天皇和尚塚御野立所

 

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石岡 Ⅴ

2021年06月05日 | 茨城県

(真家)

 

明治天皇御遺蹟

 

 常磐線を東京から水戸方面に北上していると、石岡駅を過ぎてしばらくすると、右手の林の中に明治天皇遺蹟碑が見える。

 明治二十三年(1890)十月、岩間村の室野原(むろのがはら)(現・笠間市)・園部村の成井原(なるいがはら)(現・石岡市)で実施された近衛師団の演習を統監するため茨城県に行幸した。その際に行在所となった場所であるが、現在は石碑が二基建てられているのみである(石岡市真家2826付近)。

 

明治天皇 昭憲皇太后 行在所趾

 

 古い石碑は昭和八年(1933)に建立されたもので、書は元帥東郷平八郎。

 

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水戸 水戸城周辺 Ⅳ

2020年10月17日 | 茨城県

(大町二丁目)

 大町二丁目の駐車場の片隅に「「新論」を書いた仲町寓居跡」と書かれた駒札が建てられている(水戸市大町2‐1‐2)。

 

「新論」を書いた仲町寓居跡

 

 会沢正志斎が、文政四年(1821)から天保元年(1830)までの九年間、仲町の鯉渕幸蔵宅を借りて住んだ場所である。正志斎は、文政七年(1824)、大津浜に上陸してきたイギリス船員との応接に筆談役を務めたが、その危機意識から翌文政八年(1825)にこの地で「新論」を書きあげた。この書において正志斎は決して倒幕を意図していたわけではないが、「新論」は幕末志士たちの尊王攘夷論のバイブルとして大きな役割を果たした。

 安政五年(1858)、戊午の密勅が水戸に下されると、正志斎は密勅の回送に反対し、勅諚を朝廷に返却することを主張した。正志斎自身は秩序を重んじる穏健な思想を保持し続けた。

 

(三の丸市民センター)

 

本間玄調像

 

 三の丸市民センターの前に本間玄調像がある(水戸市三の丸1‐6‐60)。この背後には玄調が教授を務めた弘道館医学館があった。

 本間玄調(1804~1872)は、水戸藩の藩医。漢方ばかりではなく西洋医学も学び、それぞれの良いところを取り入れた医療を取り入れた。また、藩校弘道館の医学館教授として後進を指導し、多くの著作を残している。九代藩主徳川斉昭とともに天然痘予防に尽力し、牛痘を使った種痘を広め、多くの人命を救った。これにより斉昭から「救(たすく)」という名を下賜された。

 

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東海 Ⅱ

2020年10月17日 | 茨城県

(泉福寺墓地)

 泉福寺の墓地をようやく探し当てた。舟石川の泉福寺からは約二・五キロメートルも離れていて、泉福寺の周囲を探していたのでは見つけようがない。場所は国道6号線の石神小入口交差点近くである(東海村石神外宿1590付近)。路線バスも走っておらず、JR東海駅から行きはタクシーを利用するしかない。帰りは徒歩で五十分を要した。墓地改修記念碑によれば黒澤家の墓所は、明治初年まで願船寺(東海村石神外宿1047)にあったが、泉福寺墓地に移され、昭和五十九年(1984)に至り、現状のとおり改修整備されたものである。

 

黒澤家代々之墓

(黒澤覚蔵の墓)

 

 泉福寺墓地に入ると左手に黒澤家の広大な墓地がある。覚蔵の父覚衛門は石神外宿で山横目を務める家で、実兄覚助も水戸天狗党員として活躍した。一族には尊攘派の志士が多く、元治元年(1864)の天狗党の乱では、多くの殉難者を出した。村は「石神勤王村」と呼ばれた。

 覚蔵は高橋多一郎の信任が厚く、桜田事変の際には常に多一郎に従って行動した。水戸から結城街道、中山道に沿って西上し、四天王寺で高橋父子が幕吏に追われた時、たまたま覚蔵はその場にいなかったため難を逃れた。以後の行動は不詳。明治になってこの時の記録を「黒沢覚蔵覚書」として著わした。

 黒澤家墓地の奥から三番目の墓地の墓誌の先頭に「黒澤覺蔵 明治二十二年六月十七日歿 行年七十一才」とある。

 墓誌には名前が見えないが、向かって左奥の古い墓石「黒澤亀太郎君墓」は、覚蔵の長男亀太郎のもの。天狗党の争乱において、元治元年(1864)九月九日、久慈郡島村にて戦死。

 

黒澤家之墓(覚衛門・覚助の墓)

 

 黒澤家墓地の一番右奥(覚蔵家の一つ置いて右隣)が、覚蔵の父覚衛門と兄覚助の墓である。

 黒澤覚助は、文政二年(1819)の生まれ。長じて会沢正志斎に学び、天保中土地境界の改正を行うや、横目格郷士列となり、与って功績があった。弘化元年(1844)、藩主斉昭が幕譴を蒙ると、父覚衛門、弟覚蔵とともに雪冤に奔走し、罪を得て父子三人投獄され、三年を経て赦された。安政の初め、職務・家格ともに回復し、小十人組列に進んだ。安政五年(1858)からの藩難には衆を指導して江戸に向かい、藩邸に意見を呈した。元治元年(1864)の内戦には松平頼徳に従って那珂湊に拠って城兵と闘い、のち佐貫に禁錮され、翌慶應元年(1865)、処刑された。年四十七。

 傍らの墓誌によれば、「黒澤覚衛門 嘉永二年一月四日歿 行年五十六才」「従五位 黒澤覚助 慶應元年四月三日歿 行年四十九才」とある。

 

覚衛門黒澤君墓

 

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水戸 水戸城周辺 Ⅲ

2020年05月02日 | 茨城県

(水戸城大手門)

 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、在宅勤務そして外出自粛に突入することになった。本来であれば、ようやく暖かくなってきたこの季節は、私にとって史跡探訪のシーズン開幕であるはずだが、今年(令和二年(2020))はすっかり様子が違った。三月中旬には自動車で宮城県から福島県を訪ねたが、その後水戸といわき市を訪ねて以降、史跡訪問ができない状況で、ストレスのたまる日々を過ごすことになった。

三月一日には神奈川県立歴史博物館で開かれる特別記念講演会「井伊直弼の近代」に申し込んで当選したので楽しみにしていたのだが、直前になって講演会は中止となった。せめて、開催されている特別展示「掃部山銅像建立110年 井伊直弼と横浜」だけでも見ておきたいと横浜に向かおうとしたところ、念のため電車の車内で博物館のホームページを確認すると、こちらも急遽休館となっており、結局再開されることはなかったのである。オリンピックが延期となり、甲子園での選抜野球大会が中止になり、大相撲が無観客で開かれるといった影響からすれば、私の受けた被害など微々たるものではあるが、それでも確実に日々の生活に変化は起きている。これから先日本はどうなっていくのだろう。

四月上旬には在宅勤務が始まり、その出口も見えていない。以下、今となっては外出自粛直前の貴重な旅の記録である。

 

水戸城大手門

 

 水戸城大手門は、ちょうど弘道館と向かい合うような位置にある。平成二十一年(2009)に坂東市の古刹で発見された水戸城の城門と伝わる扉が水戸市に寄贈されたことから始まった。水戸市は五年をかけて学術的な調査および検討を進め、工事は伝統工法を採用し、令和二年(2020)二月に復元大手門が竣工した。

 

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