史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

市ヶ谷

2014年01月18日 | 東京都
(防衛省)
 JR防衛省の北側に防衛省の広大な敷地が広がる。尾張藩の上屋敷の跡地である。ほとんど遺構らしきものは見当たらないが、辛うじて裏門(左内門)の前に藩邸で使われていたらしい石垣が残されている。


尾張藩邸跡


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神楽坂

2014年01月18日 | 東京都
(矢来公園)
 神楽坂駅から南に広がる矢来町一帯には、かつて小浜藩邸があった。町内に藩邸跡の遺構が点在している。


小浜藩邸跡


矢来公園

 若狭国小浜藩の酒井忠勝が時の将軍徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、周囲に竹矢来を巡らせたため、矢来町の名がつけられた。蘭学者杉田玄白もこの屋敷内で生まれた。矢来公園には大きな木があって、その根本の周りを囲む巨岩も藩邸で使われていたもののようである。

(秋葉神社)


秋葉神社

 秋葉神社も、酒井家小浜藩下屋敷の内社である。

(矢来町ハイツ)


酒井藩邸記念碑

 矢来ハイツというマンションの入り口脇、通りに面したところに酒井藩牛込屋敷のあったことを示す記念碑が建てられている。戦前までこの地には、酒井家の邸宅があり、藩祖酒井忠勝以下、酒井家の墓地もあった(現在、小浜に改葬)。マンションの南側には、藩邸の名残と思われる石垣も見ることができる。


矢来ハイツ南側の石垣


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表参道 Ⅱ

2014年01月13日 | 東京都
(大山史前学研究所跡)


大山史前学研究所跡

 表参道駅から徒歩五分。緑地公園に大きな説明板が建てられている。戦前、この地に大山柏が主催する大山史前学研究所があった。大山柏は、大山巌の次男。母は山川捨松である。柏が誕生したとき、巌が柏崎に駐在していたため、「柏」と名付けられた。長男大山高が早世したことにより、大山公爵家を継いだ。大山柏は軍人の道を歩み、大正十二年(1923)には、近代戦史研究のためヨーロッパに留学し、合わせて考古学を修めた。帰国した大山柏は、自宅内に史前研究室を開設した。遺蹟の調査研究、雑誌の刊行、出土品の展示、約一万冊に及ぶ蔵書の閲覧等、現在の国公立研究所にも劣らない機能を有した。昭和二十年(1945)五月の空襲により焼失したため、大山柏は西那須の別荘に移り住んだ。
 大山柏は考古学が専門であったが、一方で戊辰戦争の研究に没頭し、その集大成として「戊辰戦役史」を書き上げた。本書は戊辰戦争研究のバイブル的存在である。私も手に入れたいと古書店を漁っているが、古書でも高価なものでなかなか購入できないでいる。


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目黒 Ⅳ

2014年01月13日 | 東京都
(大鳥神社)


大鳥神社

 大鳥神社は、大同元年(806)に創建されたという歴史ある神社である。隣接する大聖院の境内にある石灯籠は、切支丹燈籠もしくは織部燈籠と呼ばれ、三田千代ケ崎の島原藩松平主殿頭の下屋敷にあったものである。中央の最も背の高い一基の棹石には、中央に変形T字クルスとキリスト像と思しき形状が刻まれている。


切支丹燈籠



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赤坂 Ⅱ

2014年01月13日 | 東京都
(氷川神社)


氷川神社のオオイチョウ


浅野土佐守邸跡

 氷川神社(港区赤坂6-10-19)境内は、元禄時代、備後三次藩浅野土佐守の下屋敷であった。三次藩は、寛永九年(1632)、安芸広島藩から五万石を分知して立藩された支藩である。三次藩は相次いで藩主が早逝したため、享保三年(1718)に断絶した。享保十五年(1730)、赤坂四丁目にあった氷川神社が遷宮され現在に至っている。

(豊川稲荷神社)


豊川稲荷神社

 赤坂の豊川稲荷神社(港区元赤坂1-4)は、西大平藩の赤坂下屋敷内社である。境内には、大岡越前守の墓もある。


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日野 Ⅲ

2014年01月13日 | 東京都
(欣浄寺)


欣浄寺

 井上源三郎資料館の向いにある欣浄寺境内に八王子千人同心日野義貴の顕彰碑がある。


日埜義貴之碑

 日野義貴は、八王子千人同心。地元で私塾を開き門人は三百人に及んだという。文久三年(1863)、六十三歳で病没。この碑は長男日野義順によって、没後一年を迎えた元治元年(1864)八月に建立されたものである。碑文は八王子同心の千人頭河野仲次郎通聿によるもの。上野戦争が起こると、河野は千人隊を率いて彰義隊に合流した。このとき日野義順も河野に従っている。

 なお、河野仲次郎の墓は、色んな書籍に青山霊園と記載されているのだが、青山霊園のどの墓域にあるのかが分からない。八王子市の郷土史料館に問い合わせたり、青山霊園事務所で尋ねたが、現時点では分からないままである。


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あきる野

2014年01月13日 | 東京都
(五日市カトリック霊園)


田中家之(田中不二麿)墓

 尾張藩士田中不二麿の墓である。田中不二麿の墓は当初谷中にあったが、のちに五日市カトリック霊園に改装された。真新しい墓であるが、傍らの墓誌に田中不二麿の名前が記されている。
 田中不二麿は、弘化二年(1845)生まれ。田宮如雲、丹羽賢らとともに尾張藩の金鉄組に加わって勤王を唱え、藩内の佐幕派を抑えて反論を討幕の方向に進めた。慶応三年(1867)には新政府参与、明治元年(1868)徴士、明治四年(1871)文部大丞となった。岩倉使節団にも加わって、欧米の教育事情を調査し「理事功程」十五巻にまとめた。明治七年(1874)には文部大輔に任じられた。明治十年(1877)、アメリカに出張して教育制度を調査し、「米国学校法」を文部省から刊行した。明治十二年(1879)、発布された教育令が自由主義を基調としたものであったため非難を受け、明治十三年(1880)には司法省に転じた。その後、イタリア公使、フランス公使、枢密院顧問官を歴任した後、明治二十四年(1891)には司法大臣として第一次松方内閣に参画した。明治四十二年(1909)、六十五歳で没。
 尾張出身で新政府の高官となったのは、田中不二麿がほとんど唯一といって良い。

(丸山家)


丸山家

 八王子先人同心は、八王子だけでなく、現在の神奈川県、埼玉県域まで広く居住していた。あきる野市の丸山家も、八王子千人同心の家系である。
 丸山家の前にある畑の一角に丸山家墓地があり、そこに幕末の当主丸山惣兵衛定静の墓がある。


丸山惣兵衛定静の墓

 丸山惣兵衛は八王子千人同心組頭。文久二年(1862)と元治元年(1864)の将軍家茂の上洛に供奉し、甲州表の賊徒討伐にも出張した。第二次長州征伐にも八番小隊半隊司令として従軍した。帰郷後、横浜に赴任したが、戊辰戦争で千人隊が新政府に恭順したため、新政府に出仕して護境隊頭取に就いた。明治三十年(1897)八十九歳で死去。

(地蔵院)
 地蔵院には八王子同心田辺利八、小三郎の墓がある。


地蔵院


田邊家先祖累代之墓

 田邊家は天正十九年から千人同心として続く旧家で、代々日光勤番と甲州口警備を担当していた。利八は甲州勤番を三度務め、神奈川警備にも出張した。養子の小三郎も日光勤番を務め、元治元年(1864)の甲州賊徒討伐や慶応二年(1866)神奈川警備にも出張した。利八は慶応四年(1868)七月没。二人は田邊家累代之墓に合葬されている。墓石の側面には八王子千人同心田邊家の事績が刻まれている。

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名古屋 Ⅱ

2014年01月12日 | 愛知県
(名城病院)


名城病院

 名古屋城の南、名城病院は尾張藩家老成瀬隼人正の屋敷があった場所である。その東側、現在愛知県警のある辺りが、もう一人の尾張藩家老竹腰兵部の屋敷があった場所と推定されている。

(明和高校)


明倫堂

 尾張藩の藩校明倫堂が開かれたのは、天明三年(1783)、九代藩主徳川宗睦のときである。明治三十二年(1899)、この地に明倫中学が開かれ、昭和二十三年(1948)、明倫中学校と県立第一高女が統合されて、愛知県立明和高校となった。この石碑は、明倫堂開学二百年を記念して、昭和五十八年(1983)に建立されたもの。「明倫堂」の文字は、尾張藩八代藩主徳川宗勝の書である。

(堀川東岸)


愛知病院外科手術の図

 名古屋駅から徒歩で二十分ほど。市内を南北に縦断する堀川東岸の駐車場に面して「愛知病院外科手術の図」が掲示されている。この場所は、明治四年(1871)に開設された名古屋藩仮病院を起源とする愛知医学校・愛知病院(のちの名古屋大学医学部の前身)跡地である。現地に新築移転されたのは明治十年(1877)のことであった。
 愛知病院ではお雇い医師ローレツの指導のもと、西洋医学が広められることになった。大正三年(1914)、現在名古屋大学医学部のある鶴舞に移転するまでの三十七年間、この地域の医学教育と医療活動の拠点として輝かしい足跡を残した。
 この図は、ローレツの依頼を受けた愛知県出身の画家、柴田芳州の手によるもので、左手の眼鏡をかけた老人がオーストリア出身のアルブレヒト・フォン・ローレツである。ローレツはウィーン大学医学部を卒業後、明治九年(1876)から四年間を愛知医学校教頭として、先進的講義と医療を行った。その後、金沢や山形にも招かれた。
 右手手前で患者の腕を抑えているのが、司馬凌海(島倉伊之助)。その左で執刀しているのが後藤新平である。後藤新平(のちの台湾総督府民政長官、満鉄総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣)はローレツの離任後、二十四歳の若さで校長兼病院長に就任した。

(平和公園)
 今般、城山三郎の「冬の派閥」(新潮文庫)を読破したことに加え、夏休みに北海道八雲町を旅した体験から、改めて幕末の尾張藩で起きた青松葉事件に興味を持った。青松葉事件で斬首されたのは十四名。まずは彼らの墓から探訪することとしたい。これまで七卿落ちの公卿七名や桜田烈士十八名の墓を掃苔した私にとって、名古屋市とその周辺に点在していると思われる青松葉事件の犠牲者十四人の墓を巡ることは、さほど難しいことのように思えなかった。しかし、実際調べてみるとなかなか大変な事業のようである。
 まず東山動物園のそばにある千草図書館に行って「郷土資料コーナー」で書籍を漁ってみる。意外なことに青松葉事件を取り扱った書籍はほとんど見当たらず、地元であっても半ば忘れ去られた事件となっているようである。しつこく書棚を探しているうちに「名古屋名家墓地録(全)」(日比野猛著)という書籍を発見した。名古屋に所縁の人物の墓や法名を網羅的に紹介したもので、恐らく自費出版に近い形で世に出たものであろう。ここに青松葉事件で処刑された人たちは全員名前が掲載されていたので、まずはこの記述を頼りに墓を訪ねることとしたい。
 図書館を出た正面が、平和公園入口という交差点である。「入口」といいながら、この場所から平和公園まで徒歩で二十分くらいかかる。
 平和公園は、名古屋市が昭和二十二年(1947)に開設した公営墓地で、市内の二百七十余りの寺院の墓地をこの場所に集約したものである。公園の広さは百四十七㌶といい、東京の青山霊園の五倍以上の広さである。私の知る限り、霊園としては国内随一の広さである。見渡す限り墓が続く光景にしばし呆然とした。公園は寺院ごとに割り振られているので、まずこの中から該当する寺の墓地を探さなくてはならない。これが一苦労である。


岳丈(渡辺新左衛門在綱)之墓

 守鋼寺墓地にある渡辺新左衛門在綱の墓である。渡辺新左衛門在綱は、佐幕派の筆頭と目されていた。渡辺家は二千五百石の家老格の家である。尾張藩には同姓の家が多いため、「青松葉家」と呼ばれていた。この由来は、鉄砲の鋳造をする火を起こすのに青松葉を用いたとか、知行地から受け取る年貢に青松葉を指して数えたためとも言われる。


光勝寺墓地 伊藤圭介碑

 伊藤圭介は、享和三年(1803)尾張名古屋の生まれ。始めは町医として開業したが、文政四年(1821)、十八歳のとき京都に出て蘭学を学んだ。その後、長崎に留学してシーボルトに学んだ。文久元年(1861)には、幕府の蕃所調所物産所出役に登用され、維新後も東京に居住した。明治十四年(1881)には東京大学教授に任じられ、のちに我が国初の理学博士の学位を受けた。明治三十四年(1901)、九十八歳にて永眠。


興徳院殿高節英嶽大居士(成瀬正肥)墓

 白林寺墓地に成瀬家の墓域がある。成瀬家は代々尾張藩の附家老を務める家柄であったが、維新後ようやく独立した藩主として認められることとなり、その藩主に就いたのが成瀬正肥(まさみつ)である。尾張藩では勤王(金鉄党)対佐幕(ふいご党)の根深い対立が存在していたが、附家老である成瀬正肥も金鉄党に担がれ、一方の竹腰兵部少輔はふいご党側に立ち、両者は反目していた。


淳教院殿一貫以道大居士

 正肥の墓の傍らには、成瀬家八代当主の成瀬正住の墓がある。正住は天保九年(1838)に家督を継いで以降、歴代の尾張藩主に仕えたが、安政四年(1857)四十六歳で死去した。成瀬家は丹波篠山藩の青山家から養子として入った正肥が継ぐことになった。


元亨院利資銘興居士(武野新左衛門墓)

 武野新左衛門は、やはり青松葉事件で斬首に処された一人。成瀬家墓地のある白林寺墓地にある。「名古屋名家墓地録(全)」によれば、同じ墓地には、同じく青松葉事件で処刑された成瀬加兵衛や馬場市右衛門の墓もあるはずだが、発見できず。


塚田愿士愨墓(塚田殻四郎墓)

 大光院墓地にある塚田殻四郎の墓である。塚田も青松葉事件で処刑された人物である。


天龍院法船乗得居士(沢井小左衛門墓)

 万松寺墓地の沢井小左衛門の墓である。沢井も青松葉事件で斬首されている。


万国戦没者墓地

 平和公園バス停のすぐ横に万国戦没者墓地がある。名称のとおり、日本人だけでなく外国籍の戦没者の墓もある。その一角に無数の長方形の墓が並ぶが、どうやら西南戦争戦死者は含まず、明治十一年(1878)以降、名古屋鎮台などで戦病死した兵士の墓が集められている。傍らには大きなドングリの木があって、墓の周りはドングリだらけである。

 年末に大阪に帰省する途中、名古屋で途中下車する。「名古屋名家墓地録(全)」を著者日比野猛氏より入手したので、満を持して名古屋市内の墓を回る。地下鉄の券売機で一日乗車券を購入し、市内を精力的に巡った。しかし、圓頓寺、大光院、白林寺、宝琳寺などは、ことごとく墓地が無くなっており(基本的には平和公園に集約されている)、ほとんど「空振り」であった。これほど時間をかけて、目当ての墓に出会わなかったのは初めてであった。
 以下、平和霊園の墓を二つ。いずれも青松葉事件で斬首された安井秀親と横井時保である。


秀孝院徹叟義忠居士(安井秀親の墓)

 陽泉寺墓地は広大な平和公園の中でも、一番端っこに位置している。この中に安井秀親の墓がある。


捐館霊雲院吟松龍岡居士(横井時保の墓)

 横井時保の墓は、泰林寺墓地にある。この墓を訪ねたとき、激しい降雪となった。

(大光院)


大光院

 大光院の墓地も平和公園に集約されている。前回、平和公園の大光院墓地で塚田殻四郎は発見したものの、石川内蔵允照英の墓は見つけられなかったので、「もしかしたら」という思いで、市内の大須観音近くの大光院を訪ねてみた。しかし、やはり墓は残っておらず、残念ながら石川内蔵允の墓は現存していないと断定せざるを得ない。


橘井四時香(司馬凌海碑)

 今回の名古屋探訪は空振り続きであったが、思わぬ収穫もあった。偶然、大光院の境内に司馬凌海の碑を発見した。書は松本良順。司馬凌海こと島倉伊之助は、名古屋に居住していた間、この付近に住んでいたらしい。

(養林寺)


養林寺

 養林寺も名古屋市内にある寺であるが、墓地はそのまま境内に残されている。墓地はさして広くない。「名古屋名家墓地録(全)」によれば、青松葉事件で処刑された榊原勘解由正帰、寺尾竹四郎基之、林紋三郎信政という三名の墓があるという。隈なく探した結果、榊原勘解由の供養塔に遭遇。しかし、寺尾竹四郎と林紋三郎の墓は発見できなかった。寺尾家や林家の墓は、複数存在しているのだが…。墓地の奥には無数の無縁墓が積み上げられている。彼らの墓もこの中に埋もれているのかもしれない。


名古屋城青松葉事件
榊原勘解由(正帰)一類供養塔

 この供養塔は、平成四年(1992)に榊原勘解由のご子孫の手によって建立されたものである。

(徳林寺)


徳林寺


桂園田宮先生之墓

 徳林寺に田宮如雲の墓がある。田宮如雲は、文化五年(1808)生まれ。天保十年(1839)田安斉荘が尾張藩主を継ぐことに反対して金鉄党が結成されると、以後金鉄党の首領として活躍した。幕末には城代家老、明倫堂総裁など重用された。維新後は名古屋藩大参事。明治四年(1871)、六十四歳で死去。


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徳島 Ⅲ

2014年01月12日 | 徳島県
(徳島県庁)


徳島慶應義塾跡

 八幡浜と卯之町を回った後、四国を横断して徳島に向かう。休憩を取らずに突っ走っても二時間半はかかる。途中、結構激しい雨が降ったが、徳島市内に入ったとき、幸いにして雨は止んでいた。
 福沢諭吉の開いた慶應義塾は、徳島の人たちからの要望に応える形で、明治八年(1875)から翌明治九年まで約一年にわたり徳島に分校が開かれた。現在、徳島県庁敷地内にそのことを示す記念碑が建立されている。
 徳島県庁を訪ねると、巨大なクレーン車が庁舎前で作業していた。警備員の方から、「この工事は今日までですから、明日出直して来てください」と言われたが、このまま引き下がるわけにはいかない。たまたま用事があったため徳島に立ち寄っていることや、明日には東京に戻らなくてはいけないこと、記念碑の写真を一枚撮りたいだけだということを訴えて、警備員の方の立ち会いのもと、この写真を撮影することができた。ご協力に感謝。

(万福寺)


万福寺


庚午事変慰霊碑

 今回、徳島に立ち寄ったのは、稲田騒動(庚午事変)の関係史跡を回ることにあった。その一つが万福寺である。万福寺では稲田騒動の首謀者十名のうち、四名が切腹している。

(蓮花寺)


蓮花寺

 蓮花寺でも稲田騒動の関係者四名が切腹している。墓地にはその中の一人、藤岡次郎大夫の墓がある。新しく建て替えられたもののようである。


庚午事変慰霊碑


藤岡次郎大夫墓

 日が暮れてしまったので、今回の四国の旅はここまで。徳島からは高速バスで大阪に向かい、この日は高槻の実家に泊まった。大阪は激しい雨であった。

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卯之町 Ⅱ

2014年01月12日 | 愛媛県
(先哲記念館)


先哲記念館の展示

 前回の訪問時、先哲記念館は休館日だったため展示を見逃した。今回はじっくりと見学することができた。たまたま「イネと弟ハインリッヒ展」が開催されており、こちらも楽しく拝見させていただいた。
 卯之町は、地図の上では豆粒のような小さな町であるが、二宮敬作やイネだけでなく、高野長英、左氏珠山、白井雨山ら多彩な人物がここを往来している。

(光教寺)


光教寺


青雲院徳光如山居士 清閑院節心守貞大姉
杏林軒拙亭義高居士
(二宮敬作とその妻・逸二の墓)

 前回、卯之町を歩いたのは、まだ四国に勤務していた時分なので、八年以上も前、恐らく十年振りの訪問ということになる。卯之町では依然として昔の街並みがよく保存されている。開明学校の横に光教寺の門があり、背後に広大な墓地が広がる。ちょうど開明学校の校舎の裏手の最前列に二宮敬作とその妻、長男逸二の墓がある。二宮敬作の本墓は長崎の皓臺寺にあるが、こちらには遺髪が納められている。
 墓石表面の左に刻まれている法名は、二宮敬作の長男逸二のものである。二宮逸二は、高野長英が宇和島に潜伏した折、内弟子として長英から学んだこともある。不運にも敬作が亡くなった同じ年、文久二年(1862)長崎にて急死した。

(雨山公園)


二宮敬作翁碑

 雨山公園の二宮敬作翁碑は、東宇和郡医師会が建立したものである。


薬草園跡

 先哲記念館の前の道をそのまま北上すると、右手に愛媛県歴史文化博物館に通じる階段がある。そこを少し上ると、中央に神武天皇像がある小さな公園がある。この神武天皇像を作成した白井雨山の名をとって雨山公園と呼ばれているらしい。この公園内に二宮敬作翁碑が建立されていて、合わせて敬作が大念寺の境内に作ったと言われる薬草園が再現されている。

(松屋旅館)


松屋旅館

 松屋旅館は、江戸時代から継承される漬物を提供することで知られる由緒ある旅館である。かつてこの旅館には、前島密、新渡戸稲造、後藤新平、犬養毅といった著名人が来館・宿泊している。


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