ある医療系大学長のつぼやき

鈴鹿医療科学大学学長、元国立大学財務・経営センター理事長、元三重大学学長の「つぶやき」と「ぼやき」のblog

果たして大学病院は無用の長物か?(その10)

2012年02月24日 | 医療

ようやく大前研一氏の週刊ポスト誌2月10日号の記事も最後の部分にきました。

「・・・患者の位置づけが不明確な日本の大学病院は、もはや無用の長物になったと言わざるをえないだろう。

 とにかく医師不足の問題は文科省や大学に任せていたら、是正できない。根本的な解決策は、厚労省が実務面から市場原理で医師を最適配分する仕組みを作り上げることに尽きるのだ。」

 「患者の位置づけが不明確な日本の大学病院」という大前氏のご意見については、前回のブログでお話しましたように、今の大学病院では患者よりも研究を優先するということはありえず、患者の診療を第一としていますので、患者の位置づけは明確です。

 国立大学附属病院長会議のHPを見てみましょう。http://www.univ-hosp.net/features.shtml

その「病院機能指標」にあげられている資料を見て頂きますと、国立大学病院がいかに診療に力をいれているかが、数値としてわかります。

また、「国立大学附属病院の主体的取り組みに関する評価指標のまとめ~より質の高い大学病院を目指して~」には、「国立大学病院は,診療(医療),教育・研修,研究及び地域・社会貢献の4つの役割・機能を有する施設である。」と書かれており、「診療」が最初に来ていることからも、患者の診療を第一に位置付けていることがうかがえます。

 大学病院の「地域・社会貢献」という点については、2月8日の本大学病院シリーズ(その1)および(その2)で一部ご紹介しましたが、私の「IDE現代の高等教育」誌掲載文「大学と地域医療」の続きの部分を、少し長くなりますが、紹介させていただきます。

 

IDE現代の高等教育2011年12月号「地域と結ぶ大学」の「大学と地域医療」より

2.     法人化をきっかけとした国立大学病院の診療機能の変化

(1)経営意識の向上と地域との連携

 法人化により自律的経営が求められ、加えて交付金が削減されたことから、国立大学病院の経営意識は向上した。患者満足度の向上、医療安全、感染症対策等の診療機能の向上に力が注がれ、患者数や手術件数が増えた。また、地域医療機関からの紹介率・逆紹介率も向上し、地域医療機関とのネットワーク構築など、地域との連携が進んだ。

(2)地域医療の拠点病院としての整備

大学病院は従来から地域医療の拠点(地域医療の最後の砦)としての役割を果たしてきたが、国立大学病院では、国立であるが故の制約により、整備が遅れた面がある。例えば、国立大学病院は救命救急センターの設置が遅れたが、その障害の一つは、地方公共団体を経由する補助金が入らないことであった。地方財政再建促進特別措置法により、地方から国への寄付が原則として認められなかったからである。また、新しい診療科を創る場合は、国家公務員総定員法等により定員を増やすことが困難で、他の診療科を縮小せざるをえなかった。一方私立大学ではそのような制約を受けず、救命救急センターの整備は進んでいた。

これらの制約は法人化後緩和され、病院収益で賄える範囲で大学の裁量で人を増やせるようになった。また、地方財政再建促進特別措置法(07年からは地方公共団体の財政の健全化に関する法律)の特例として、国立大学病院への自治体からの寄付が認められるようになった。現在、国立大学病院に順次救命救急センターが設置され、ドクターヘリの体制も整備されつつある。

また、従来は国立大学病院に措置されなかった厚生労働省の補助金も、がん診療連携拠点病院整備事業において措置されるようになった。

この他、周産期母子医療センター、災害拠点病院、難病医療拠点病院、HIV拠点病院、感染症指定医療機関、肝疾患診療連携拠点病院等々、大学病院を地域医療の拠点と位置付ける整備が急速に進んでいる。 

4.     地域医療貢献に関係した各種の取り組み

(1)遠隔医療

遠隔医療とは、大学病院と地域病院を通信で結び、画像診断、病理診断、手術などを大学の専門医が支援するシステムである。北海道を初めとして、へき地病院を多くかかえる地域では、成果が期待される地域医療貢献である。

(2)地域病院の教育病院化

 欧米では、大学病院は、必ずしも大学が所有する病院とは限らない。わが国でも地域病院の医師に臨床教授等の称号を与え、学生や研修医に地域医療を教育する試みが法人化以前からなされていた。法人化後は、いくつかの大学病院でその実質化が進みつつある。

(3)総合医

欧米ではすでに確立している総合医(家庭医)の日本への導入はかなり遅れた。最近NHKテレビでも“総合医”を冠した番組が放映され、わが国でも認知が進むと思われる。

日本では、多くの医学生は卒後大学病院の専門診療科で養成され、地域の病院で働き、最終的に“何でも屋”として開業することが多かった。一言で言えば総合医は“何でも屋”を最初から養成するものである。小児から高齢者まで診療し、簡単な外科手術等を行い、医療チームとして36524時間一次救急にも対応する。地域医療崩壊の今、住民が希求する専門職であると感じる。

わが国では大学病院に総合診療部が設置されたが、高度な医療を中心とする大学病院は、必ずしも総合医養成の場として適さない面があった。しかし、大学病院本院だけが教育の場ではなく、地域病院や診療所を教育病院として位置づけることにより、総合医の適切な養成が行われつつある。

この他にも各種の地域医療貢献の取り組みがあるが、紙幅の関係上割愛する。

5.東日本大震災への大学病院の貢献

 今回の東日本大震災において、被災地にある東北大学、岩手医科大学、福島県立医科大学の大きな貢献はもちろん、全国の大学病院は国公私の隔たりなく、被災地の病院に物資を送付するとともに、ただちにDMAT(災害派遣医療チーム)を派遣し、引き続く医療支援に順次医療チームを派遣した。

 また、福島原発事故に対して被ばく医療支援を長崎大学、広島大学、弘前大学等の大学病院が行ったことは特筆に値する。

 今回の災害対応は、大学の地域医療貢献が、立地する地域だけに限らず、全国レベルであることを如実に示した。 

 ちょっと蛇足になりますが、上記文中の

「地方財政再建促進特別措置法(07年からは地方公共団体の財政の健全化に関する法律)の特例として、国立大学病院への自治体からの寄付が認められるようになった。現在、国立大学病院に順次救命救急センターが設置され、ドクターヘリの体制も整備されつつある。」

という個所については、私が三重大学長の時に、国立大学協会の病院経営小委員会の委員長として、この特例措置を関係省庁に毎年要請していたところ、当時の川崎二郎元厚生労働大臣が動いていただき、実現したものです。当初、この特例措置による実績がどれほどあがるのか心配するむきもあったのですが、杞憂に終わりました。

「また、従来は国立大学病院に措置されなかった厚生労働省の補助金も、がん診療連携拠点病院整備事業において措置されるようになった。」

ということも、川崎元厚労大臣のご尽力によります。それまでは、いわゆる縦割り行政によって、省庁をまたがる予算執行には障害があったんですね。厚労省と文科省医学教育課の課長交換人事もこの頃に実現しましたが、はやり、大学病院に対しては文科省と厚労省が一体となって事にあたるべきだと思います。

長々とご説明しましたが、とにかく今では、大学病院は地域医療の拠点病院として、地域にとって欠かすことのできない存在となっています。「大学病院はもはや無用の長物」という、大学病院の改善に日々努力している現場の職員にとってはたいへんショッキングなお言葉は、たぶん、最近の大学病院の目覚ましい変化の情報が大前氏にはうまく伝わっていなかったために発せられたのではないかと想像しています。

 あと少しを残して、なかなか最後までいきませんが、ちょっと一服して次回に回すことにします。

 

 

 

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果たして大学病院は無用の長物か?(その9)

2012年02月21日 | 医療

 今日は、大前研一氏の週刊ポスト誌2月10日号の最後に近い部分についてです。

「かねてから大学病院は「白い巨塔」と呼ばれ、患者よりも学会で発表することを優先している、と批判されてきた。大学病院はインターンを薄給で雇えるため、どうしても経営が甘くなりがちである。

 一方、患者は学会で治療や手術の事例を発表するためのモルモットにされる、というきらいがある。それがなければ医学の進歩はないという側面もあるが、そういうことは研究所の役割にして、大学は病院を経営せず、学生の教育に徹するべきではないか。患者の位置づけが不明確な日本の大学病院は、もはや無用の長物になったと言わざるをえないだろう。」 

 「大学病院は白い巨塔」、「大学病院はもはや無用の長物」という、過激な表現の節にやってきました。いよいよ、クライマックスに近づいていましたね。

 これまでは、地域や診療科間の医師の偏在問題の解決のために「大学病院を廃止」するべきという論旨でしたが、この一説では大学が病院を経営することの弊害をあげて、医師の偏在問題の解決以外の理由によっても、「大学病院を廃止」あるいは「大学は病院を経営するべきではない」と主張しておられます。

 大学が病院を経営することの弊害として、大前氏がここであげておられることとしては

1)     患者よりも研究が優先される。

2)     病院の経営が甘い←インターンを薄給で雇える。

の2点です。

 そして、それを解決するための大前氏の提案は、

1)     大学病院で研究せず、研究所で研究をする。

2)     大学が病院の経営をやめる。

の2点です。 

 まず、大学病院における「研究」についてです。 

大前氏がかねてから大学病院は「白い巨塔」と呼ばれ、患者よりも学会で発表することを優先している、と批判されてきた。とおっしゃっているように、実際に患者よりも学会で発表することを優先してきたかどうかは別にして、そのように批判されてきたことは事実ですね。また、以前はそのように批判されてもやむをえない面があったと思います。

しかし、今では、さまざまな制度改革や改善により「患者よりも研究が優先される」ことは基本的にありえません。 

ヒトを対象とする研究は、世界的なガイドラインに従い、事前に倫理委員会の審査を経ないと認められませんし、患者さんに十分な説明をして、同意をいただくことが前提です。また、患者さんはいったん同意した研究協力をいつでもやめることができます。もちろん、研究に協力しないことで、診療上の不利益を被ることもありません。 

また、医学の研究には、大きく分けて、研究所で行う基礎研究と、病院で行う臨床研究あるいは治験、そして、基礎研究と臨床研究の橋渡しをする研究、などがあります。大前氏は、研究は研究所の役割にすべき、とおっしゃっていますが、研究所で可能な研究は、基礎研究と、橋渡し研究の一部であり、臨床研究や治験は病院で行われます。

そして、病院において患者さんにご協力いただく臨床研究は、医学の進歩に欠かすことはできません。 

実は日本の臨床研究は、欧米諸国、そして、最近ではアジアの国に対しても、大きく後れをとっているのです。たとえば、日本の製薬メーカーが新薬を開発した場合には、まず、海外で治験を行うことが普通になっています。日本では、ご協力をいただける患者さんを集めることが難しく、治験体制の確立が遅れたこともあり、時間もかかるのです。日本で承認されるのは、海外で販売された後になることが多くなっています。これは、治験の空洞化問題と言われていますね。 

最近、日本の医学研究の論文数が減りつつあり、欧米やアジアの国に対する日本の国際競争力が急激に低下していることは、この大学病院シリーズのブログの直前の論文シリーズのブログで、ずいぶんと書かせていただきました。

 

大前氏のご提案のように、大学病院での研究をやめて、研究所だけで研究をすることにした場合、日本の医学は惨憺たることになるでしょうね。もっとも、大学病院で研究をしなくても、大学病院以外の病院で研究をするという手もありますが・・・。 

実は、大学病院以外の病院でも、臨床研究や治験はさかんに行われているんです。たとえば、私が学長をやっていた三重大学が中心になって造った「三重治験医療ネットワーク」のHPを覗いてみましょう。http://www.mie-cts.net/ 

 「みえ治験医療ネットワークは、県内全域で迅速かつ効率的な治験を実施するために、三重大学病院と地域の基幹病院(25病院)が中心となって取り組んでいます。ネットワークでは、事務局機能を担う組織として、平成1511月にNPO法人みえ治験医療ネット(以下、「みえ治験医療ネット」)を設立しました。順次、中小規模病院やクリニックもネットワークに参加しており、県医師会、郡市医師会の協力を得て、幅広い領域の治験を実施できる体制の整備を進めています。 

 

三重治験医療ネットワークには、大学病院どころか、三重県内25の基幹病院が参加し、そして、医師会、つまり開業医さんまで参加していただいているんです。

欧米やアジア諸国に負けないように、臨床研究や治験をメディカル・イノベーションやライフ・イノベーションに結び付けようと思えば、大学病院だけの規模では全然足りないんですね。大前氏の提言のように研究所だけの研究に制限したら、それこそとんでもないことになります。 

もう一つ、解説を付け加えておきましょう。これだけの規模の病院ネットワークを束ねて、治験を効率的に実施できるシステムを作り上げることは、そう簡単なことではないんです。三重治験医療ネットワークにご協力いただいている25の基幹病院は、実は、三重大学が医師を派遣している病院がほとんどです。

つまり、50年来批判され続けてきた「医局」がネットワークの基盤になっています。各病院は三重大学との長い付き合いがあるからこそ、治験にもご協力いただけるのです。 

医局には弊害もありますが、そのパワーを上手に生かせば、創造的な事業もできるという事例だと思います。 

以上から、大前氏の大学病院における研究についてのご意見

「大学病院では患者よりも研究が優先される。」

「大学病院で研究せず、研究所で研究をするべきである。」

に対する私のコメントとしては

「大学病院では患者よりも研究を優先することはない。」

「大学病院ばかりでなく、他の多くの病院も巻き込んだ臨床研究体制を進めるべきである。」

ということになります。


 次に、大学病院の経営問題に話を移します。

大前氏が「大学病院の経営が甘くなりがち」とおっしゃっているのは、しばらく前まではその通りだったと思います。ただし、経営が甘くなる理由としてあげておられる「インターンを薄給で雇えるため」ということについては、それも一因であったかもしれませんが、違う見方もできるように思います。

国立大学病院においては、2004年の法人化を契機に、相当な経営改善努力がなされています。それまで国立大学病院へ支給されていた国からの交付金のかなりの額が削減されるとともに、国の特別会計の中で措置されていた病院再開発に係る借入金を、法人化後はほとんど自力で償還しなければならなくなったからです。

 病院現場の懸命の経営改善努力の結果、大学病院の患者数、手術件数は増加し、平均在院日数は短縮され、経費率も下がり、病院の収益は約1.4倍に増えました。平成21年度の42国立大学の病院収益は約7800億円に上っています。ただし、これで利益が増えたというわけではなく、交付金減額と償還金の償還への対応で、ぎりぎりの経営を余儀なくされました。

 一方、病院収益増に伴う負荷は、若手医師流動化と相まって、研究活動の人的インフラである〔研究者数×研究時間〕を減少させ、臨床医学の質の高い論文数は激減して、学術の国際競争力が急速に低下しました。つまり、研究機能を犠牲にして、病院の経営を改善したわけです。

 国立大学病院で経営が甘かった理由としては、法人化前の予算主義、つまり、毎年大学病院に国から予算が来て、現場はそれを一銭も残さずにきっちりと使い切ることが善とされ、一生懸命お金を稼いでも、自分たちで使えずにすべて国に納入されるというインセンティブの湧かない制度が、最大の要因だったと私は考えています。これは、法人化という構造改革によって、まだ縛りは残されているものの、かなり改善されました。

 「大学病院はインターンを薄給で雇える」ということについてですが、まず、インターン制度は、日本では学園紛争により1968年、つまり44年前に廃止されています。その後、研修医制度が始まり、それなりの給与が支払われるようになりました。

ただし、民間の病院の研修医の給与に比較すると安い状態が続いています。それで「若手医師を薄給で雇える」というふうに言い直させていただきます。一概には言えませんが「若手医師を薄給で雇える」という現状は、国公立大学だけではなく、私立大学病院でも似たり寄ったりの状況だと思います。

 実は、大学病院では、若い医師ばかりでなく、指導医の給与も、民間病院や自治体病院や国立病院の医師よりも格段に安いんです。同年齢の医師に比べてだいたい2分の1くらいかもしれません。

 現時点では、給与が安くても、なんとか医師を確保できているので、これを、大前氏がおっしゃるように、経営が「甘くなる」理由としてあげることもできますが、見方を変えれば、人件費を安く抑えて、厳しい経営をしているとも言えるわけです。

 ただし、個人的には、大学病院の医師給与をもっと上げるべきだと思います。

平成20年度の国立大学病院の病院収益に占める人件費の割合は47%で、これはたとえば自治体病院平均の54%(平成17年度)と比較して、かなり低い値となっています。一方、最先端の高額医療機器については一般病院よりも数多くそろえて、国民や地域の皆さんの高度医療に対する期待に応えているわけです。

実は私の所属するセンターは、国立大学病院に対して、再開発や高額医療機器の購入に必要な資金を融資しており、現時点での貸付残高は42の国立大学に対して約87百億円にのぼっています。 

このように、経営という面でも、大学病院は大きく、そして、急速に変化しています。もちろん、さらにいっそうの経営改善努力が必要ですが、大学病院の経営は甘くないレベルに達していると思います。

ただし、大学病院の教育、研究、高度医療、地域医療への貢献といった、国民や地域の住民が期待する公的な使命については、きちんと公的に支援をしていただく必要があります。この支援を削減して診療報酬で賄えと言われても、ただでさえ長時間労働をしている医師たちが、それこそ疲弊をしてしまいます。 

 以上から、大前氏の大学病院の経営に関するご意見

1)病院の経営が甘い

2)大学が病院の経営をやめる。

に対する私のコメントとしては

1)大学病院の経営は大きく改善しており、甘くないレベルに達している。(ただし、公的使命の部分については公的にきっちりと支援していただく必要がある。)

2)いっそうの経営改善努力は必要であるが、もはや経営の甘さは、大学が病院の経営を止める理由にはなりえない。


次回につづく

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果たして大学病院は無用の長物か?(その8)

2012年02月20日 | 医療

 前回は大前研一氏の「大学病院を廃止する」という提案について、私の考えをお話しましたね。今日は、大前氏が、「大学病院を廃止する」とおっしゃる理由についてです。

 つまり

「日本のように大学側が優位に立つと、医学部生が専門を決める際に医局のパワー争いになり、人員が不足している科だけではなく、ボスの力が強い科に人が集まる、ということが起きる。」

の部分です。

 大前氏のロジックは

「大学が病院より優位」⇒「医局のパワー争い」⇒「診療科間の医師偏在」

ということでしょう。これは、一面では正しいかもしれないのですが、私の直観としては「医局のパワー」を弱体化させても「診療科間の医師偏在」の解決策にはならないように思います。

そう私が考えるに至った理由をこれからお話しようと思いますが、その前に「医局」について説明をしておかないと、一般の読者には、さっぱり理解できないでしょうね。 まず、本ブログの大学病院シリーズ(その2)(2月9日)の私の文章を再掲しておきますね。

**************************************************************

「大学病院の地域病院への医師の紹介は、診療科単位(いわゆる“医局”)で行われてきた。 “医局”とは、公的用語ではなく、もとは医師の休憩室等を意味したが、転じて大学病院と関連病院グループ内での医師の人事に係る診療科の医師集団を指すようになった。“医局”はグループ病院内で医師に病院を紹介し、病院に医師を紹介する“閉じられた”人材市場を形成していた。一部に公募で医師を募集する病院もあったが、多くの地域病院は“医局”に依存していた。

この人事慣習は、一方では批判され続けてきたが、一方ではへき地の病院等、自由市場では医師を獲得し難い病院にも医師を供給してきた。

新医師臨床研修制度におけるマッチング方式の影響

従来、医学生は卒後直接“医局”に入り、専門診療科で研修を受けることが多かったが、マッチング方式では、医学生が全国の研修病院の中から希望する病院の順位を提出し、病院は希望した学生の中から採用したい学生に順位をつけ、マッチした場合に採用する。医学生は“医局”の枠に入らずに、全国の研修病院を自由に選べるようになり、“開かれた”市場となって若手医師の流動化が進んだ。流動化は医師を獲得できる勝ち組とできない負け組を生む。多くの地方大学病院は負け組となり、“医局”を構成する医師数が減少して医師供給機能が低下し、“医局”に依存していた地域病院の医師不足を招いた。 」

**************************************************************

実は、「医局」(医局講座制とも言われる)は、50年も前に、医学生たちがインターン制度廃止、大学院ボイコット、医局講座制打倒というスローガンを掲げて闘争を始め、学園紛争にもつながりました。それ以後「医局」は何かにつけ、繰り返し批判され続けてきたのですが、しかし、現在まで存続しています。

私は、「医局」に係ってきた人間ですが、必ずしも「医局」が良いシステムであるとは思っていません。だから、大前氏が「医局」の是非を議論したいということであれば、意味のあることと思っています。

 ただし、ここでは、「医局のパワーの弱体化」「診療科間の医師偏在」の解決になるかどうか、という点に絞って議論します。

 まず、大前氏の「大学が病院より優位」⇒「医局のパワー争い」⇒「診療科間医師偏在」というロジックの最初の段階。どのように「医局のパワー」が強くなるかという話ですね。

 では、「医局のパワー」とは、いったい何なのでしょうか? 

いろいろな考えがあると思いますが、最も大きなパワーの源泉は、医局を構成する医師(医局員と呼ばれる)の数だと思います。医局員の数が多いほど、地域の病院へ医師を派遣できる余裕もできますし、また、研究を進めることができます。この意味では、旧帝大等の有力大学の「医局のパワー」は、地方大学に比較して圧倒的に強いものがあります。

現状では、2004年の新医師臨床研修制度をきっかけとした若手医師の流動化によって、特に地方大学の多くの診療科において医局員が少なくなり、地域の病院に思うように医師が派遣できなくなり、また、研究機能が低下しました。つまり、地方大学においては若手医師の流動化が「医局のパワー」を弱体化させたと考えられます。ただし、旧帝大等の中には、若手医師流動化の勝ち組になったところもあると思います。

ある意味では、大学の病院に対する優位性を弱めなくても、若手医師流動化によって、大前氏の期待通り「医局のパワー」が弱体化したわけです。しかし、その結果、多くの「医局」において、地域病院への医師供給力が低下したと同時に、「診療科間の医師偏在」は改善されるどころか、顕在化したのが現実ですね。

医局員が就職したいと思う人気のある病院のポストを多く確保しておくことも医局のパワー維持には大切と考えられています。例えば、遠隔地の病院に医師を派遣するためには、数年のローテーションの義務を果たせば、人気のある病院に赴任できる、というようなインセンティブも必要です。

人気のある病院のポストを多く確保しているという点では、一般的には古くからある大学ほど「医局のパワー」が強いわけです。新設医大の医局は、魅力ある病院のポスト確保に、たいへん苦労してきました。新設医大の立地する市内や県内の有力病院がほとんど他県の大学の医局に占められているということもめずらしくありませんでしたからね。

アルバイト先の確保も必要です。無給の大学院生に研究をしてもらうためには、アルバイト先は欠かせません。今では、医師にとっての博士号取得は、少数のアカデミックキャリアを目指す人以外は、意味が無くなっていますからね。仮に、もしアルバイト先が無くなってしまうようなことがあれば、それだけでも「医局のパワー」は弱体化するでしょう。

どの医局も、一人でも多くの若手医師を確保しようと、必死に涙ぐましい勧誘をします。それが、大前氏のおっしゃる「医局のパワー争い」ということでしょう。医学生の勧誘のための説明会などに、けっこうなお金も使います。その原資は各診療科の医局員や同門会員(同窓会員)のポケットマネーから支払われます。でも、若い人たちは、しっかりと自分の将来を考えて選びますから、接待の効果はなく、ドブにお金を捨てているような感じもします。

2004年の新医師臨床研修の導入により、医学生はすぐには入局せずに、研修医として全国の研修病院を自由に選択できることになりました。そして、各診療科の良いところも悪いところもじっくり見てから進むべき診療科を選ぶようになりました。このような状況は売り手市場ですから、実感としては「医局のパワー争い」という感覚とはちょっと違うのかなと感じます。

次に、大前氏の「大学が病院より優位」⇒「医局のパワー争い」⇒「診療科間の医師偏在」というロジックの後半の段階、「医局のパワー争い」が、「診療科間の医師偏在」を招くかどうか、という点について考えてみます。

 まず、医学生たちはどのように診療科を選ぶのでしょうか?

やはり、第一には、自分がその診療科に向いているかどうか、ということで診療科を選ぶのではないかと思います。その上で、人それぞれに、さまざまなファクターを考慮に入れて、最終的に診療科を決めることになると思います。

女性か男性かでも選ぶ診療科はずいぶんと違ってきますね。昔にくらべると女性医師の比率は高くなっています。私の専門の産婦人科では、2000年ころから、新しく産婦人科に入る医師については、女性が男性を上回りました。女性医師が結婚出産を経て、引き続き戦力として現場で働いてもらえるかどうかについては、大きな課題となっています。

診療科の将来の需給の見通しも、彼らが考慮に入れる一つのファクターですね。しばらく前は、高齢者人口が増加するというので、整形外科のような科が一番人気でしたね。

産婦人科や小児科は、将来子供の数が少なくなるということで、入局者が少なくなり、そして、それが行き過ぎて、少なくなりすぎてしまった面があります。

また、産婦人科のように、ハードさや訴訟の多さなども、選択に影響しますね。最初は、産婦人科や小児科の医師不足がクローズアップされましたが、その後、しんどいと思われる外科系や内科系の診療科でも、医師不足が表面化しました。また、しんどい診療科の医師がいったん不足し出すと、いっそうのしんどさを想起させ、悪循環のファクターになることも考えられます。

大前氏もおっしゃっているように、収入の多寡も診療科選択の一つのファクターですね。実は第二次世界大戦直後、最も人気のあった診療科は産婦人科なんです。断定はできませんが、産婦人科が一番儲かると考えられたことが要因となったことは否定できません。

日本の場合、病院勤務医の給与は、どの科も基本的に似たり寄ったりだと思います。ただし、産科医については、先般の診療報酬改定で、待遇改善が付帯事項としてつけられたために、一部の病院では給与に差をつけるようになりました。これが産科医増加のインセンティブとなるかどうかは、もう少し様子をみないとわかりませんが、私は大いに期待しているところです。

また、必ずしも診療科の偏在に関係するとは限りませんが、教育体制の充実も診療科選択の重要なファクターです。しっかりとした教育体制が整っている病院には人が入りやすく、雑用ばかりさせられるような病院には入りにくいですね。自分が経験したい各種の疾患や手術の症例数も関係します。一般的な疾患が少なく、重度の疾患の多い大学病院は、初期研修では敬遠されるファクターになるかもしれません。その逆もありえますが・・・。

ボスの人望や魅力も一つのファクターですね。自分の権威を振り回して威張っているようなボスは人気がないですね。学生や若い医師の立場に立って面倒をよく見てくれるボスの方が、人気があります。今は、SNS等を通じた口コミで、悪い評判はあっという間に学生や研修医の間に広がってしまいますからね。2チャンネルで叩かれた医局は再起が難しいことにもなります。

  教育体制の充実や魅力あるボスの存在などについては、診療科固有のファクターではないので、個別の大学においては医師が偏在する要因になりますが、日本全体でみれば、医師の偏在の要因になることは考えにくいと思われます。

 つまり、教育体制の充実や魅力あるボス出現の確率は、日本全体で均すと、各診療科で同程度になるのではないかと推測されるからです。(万が一、日本全体でみて、特定の診療科だけ教育体制が充実せず、ボスの魅力がないというようなことがあれば、診療科間医師偏在の一つの要因になりえますが・・・)

 みなさん、いかがでしたでしょうか?「医局」の現場の内情もお話したので、ちょっとびっくりされた読者もいらっしゃるかもしれませんね。

大前氏の「大学が病院より優位」⇒「医局のパワー争い」⇒「診療科間の医師偏在」というロジックは一面では正しいかもしれないのですが、診療科間の医師の偏在に影響するファクターは他にも数多くあり、また、「医局のパワー」は診療科固有のファクターでないことから、私は「大学病院を廃止」して「医局のパワー」を弱体化させても「診療科間の医師偏在」の解決策にはならないと思っています。

また「医局のパワー」を弱体化させるのであれば、その結果生じる地域病院への医師供給能の低下に対する対策を別に考えておかないといけませんね。ただし、「医局」の是非については、議論する意味があると思っています。

大前氏の次の文章は

 「かねてから大学病院は「白い巨塔」と呼ばれ、患者よりも学会で発表することを優先している、と批判されてきた。大学病院はインターンを薄給で雇えるため、どうしても経営が甘くなりがちである。」

となっていますので、次回のブログでは、いよいよ「白い巨塔」の議論ですね。

(このブログは豊田個人の勝手な感想を書いたものであり、豊田の所属する機関の見解ではない。) 

 

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果たして大学病院は無用の長物か?(その7)

2012年02月17日 | 医療

「大学病院は無用の長物」とおっしゃる大前研一氏の週刊ポストの2月10日号の記事のつづきです。いよいよ、議論も佳境に入ってきますよ。

「大学病院を廃止するのも1つの手だ。ハーバード大学やジョンス・ホプキンス大学など、海外にも大学が病院を経営している例はあるが、その場合は病院側が圧倒的に優位になっている。日本のように大学側が優位に立つと、医学部生が専門を決める際に医局のパワー争いになり、人員が不足している科だけではなく、ボスの力が強い科に人が集まる、ということが起きる。」

 まず、いくらゼロベースでブレーンストーミングすることが大切とは言っても 「大学病院を廃止するという大前氏の表現は、一般の国民に誤解を与える表現ですね。

 ”大学病院”というと、皆さんは、どういう病院を頭に思い浮かべますか?大学(医学部)に付属している病院で、医学の教育や研究が行われている高機能な病院、といった感じですかね?

 ただ、世界的に見ると、大学が付属病院を所有しているケースもあれば、所有していないケースもあります。人によって”大学病院”の解釈が違う可能性があるので、ここでは、大学の関連施設として医学教育および研究を実施する病院を、欧米に倣って”教育病院”(teaching hospital)と呼ぶことにします。”教育病院”とは言っても、教育だけではなく、通常は多かれ少なかれ研究も実施しています。

 この教育病院は、医学の教育や研究を進める上で不可欠のシステムであり、世界中を探しても、教育病院が存在しない国はありません。ただし、その所有形態、あるいは経営形態は、さまざまです。

 もし、大前氏のおっしゃる「大学病院の廃止」が「教育病院の廃止」という意味であれば、これはとんでもないことになります。

 日本の大学設置基準には、医学または歯学に関する学部を置く大学は附属病院を置くことが基準の一つとなっており、日本の医学部または歯学部を有する大学は、附属病院を法的に所有しています。

 一方アメリカでは、基本的には大学が教育病院を所有していない場合が多く、両者間の契約関係で、教育や研究が行われています。その場合、どれだけ大学が病院のガバナンスに関与できるかという点についてはさまざまです。

 大前氏は「ハーバード大学やジョンス・ホプキンス大学など、海外でも病院を経営している例はあるが・・・」と書いておられますが、たしか、これらの大学は教育病院を所有していなかったのではないかと思います(もしまちがっていたらごめんなさい)。しかし、アメリカでもミシガン大学のように、付属病院を所有(own)している場合もあります。

 このような欧米の大学の教育病院の所有形態の多様性は、歴史的なものであると考えられます。英米では最初に病院があって、そこに後からから医学部がくっついて教育の場とするということが多く行われてきました。

 参考までに、アメリカの病院はいわゆるオープンシステムをとっているところが多く、研修医(レジデント)は雇用していますが、必ずしも医師を雇用しているとは限りません。開業医は、自分のオフィスで診た患者に入院や手術の必要性が生じた場合は、契約している病院に入院させて診療し、ドクターフィーを患者に請求します。病院は患者に入院費を請求します。したがって、アメリカの臨床の教授は、同時に開業医であるとも言ええます。だから、日本のように開業医と病院とが競合することは少ないはずです。アメリカの大学と教育病院の関係性にはこのような根本的な医療供給システムの違いも考慮しておく必要があるかも知れません。

 いずれにせよ欧米では教育病院の独立性が強いことは大前氏のおっしゃる通りです。

 大前氏の「大学病院を廃止する」という趣旨が、具体的にどうすることなのかよく分からない面もあるのですが、いくつか考えられる可能性をあげておきます。

1)大学は所有・非所有にかかわらず教育病院を持つべきではない。

2)大学は非所有の教育病院を持ってもいいが、教育病院を所有してはいけない。

3)大学は教育病院を所有してもいいが、ガバナンスを及ぼしてはいけない。

 たぶん、2)か3)をおっしゃりたいのだと想像しています。そうであれば大学と教育病院との関係性、あるいはガバナンスのあり方の問題であって、これは議論する価値のあるテーマとなります。

 先のブログで触れましたように、オーストラリアは医学部は文部省、教育病院は厚生省が管轄していますが、2005年に訪問した時、現地の医学部長にその方式をどう思うのかと尋ねたところ、「厚生省が教育病院を管轄していると医学部での最新の研究成果を臨床に応用しにくく、実は医学部独自で教育病院を所有したいと思っている。しかし、経営のリスクを考えると、踏み切れないでいる。」というような答えが返ってきました。

 また、大学と教育病院の関係性については、国際的な研究会をつくって問題点を検討しているとのことでした。http://www.u21health.org/news/docs/U21Univ-Health_system_discussion_paper.pdf

 欧米は、大学と教育病院のガバナンスが異なることについて、必ずしもその方式を最善と思っているわけではなく、それゆえに生じる教育や研究が進めにくいというデメリットを克服しようと試行錯誤をしている状況と思われます。

 このような状況から、私は、大学が教育病院を所有することによる教育や研究のやりやすさのメリットを生かしつつ、もし所有することによるデメリットがあるとすれば、それを修正するという方策が現実的であると思っています。

 また、逆に、日本においても、所有者の異なる病院を大学の教育病院として活用することは、大いに進めるべきであると考えています。実際三重大学では15年ほど前から、数多くの関連病院で、研修医だけではなく学部学生の臨床自習を大々的に行っています。クリニカルクラークシップと呼ばれる臨床実習、つまり学生が診療現場で医療チームの一員となって患者の診療に係る診療参加型の実習を進めるためには、三重大学が所有する付属病院の病床の規模では小さすぎると判断したからです。

 そして、関連病院の指導医に臨床教授等の称号を与える制度を当時三重大医学部の教務委員長であった私が発案して文科省に申請をし、認めていただきました。当時日本で最初の試みだったと思います。(臨床教授制度については、他の偉い先生もご自分の発案とおっしゃっているので、私だけの発案ではないかもしれないのですが・・・)

 さて、次は、大前氏がこの文章で大学病院を廃止すべき理由としてあげておられることに話を移したいのですが、ブログが長くなりすぎるので、今日はここでいったん置いて、つづきは次回に回すことにしましょう。

次回につづく

(このブログは豊田個人の勝手な感想を書いたものであり、豊田が所属する機関の見解ではない。)

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果たして大学病院は無用の長物か?(その6)

2012年02月14日 | 医療

 大前研一氏が「大学病院は無用の長物」とおっしゃっている週刊ポスト2月10日号の記事の続きです。

「文科省管轄のままで医師の不足や地域偏在の問題を解決できる代案も2つある。1つは「インターネット診断」を認めることだ。日本の現行の医師法では、医師と患者が同じ部屋にいなければ、治療をしたり、診断書や処方箋と出したりしてはいけないことになっている。

 だが、海外ではインターネット診断を認める国が増えている。日本も医師法を改正し、「医師が余っているが不足している地域」の患者をインターネットで初期の診断を行い、投薬だけで済む場合は処方箋を出して地元の薬局で薬を入手できるようにすればよいのである。

 もう1つは、医師が不足している地域に”医療特区”を作り、その中に限り外国の医師免許保有者が診断・治療することを認める。そうすれば、いま欧米で圧倒的に増えているインド人医師などが来日する可能性が高いので、医師の地域偏在はかなり是正することができるだろう。この2つは厚労省にしかできない政策であり、厚労省がその気になれば、すぐに実現可能な政策である。」

  さて、この節では、医師不足や偏在の解決策として、大前氏はインターネット診断および医療特区での外国人医師の診療認可の2つについて、述べておられます。

 まず、インターネット診断についてです。インターネット診断という言葉は、インターネット以外の通信機器も含めた”遠隔医療”という言葉に言い換えても、おそらく大前氏の趣旨を損なわないと思われますので、以下のブログでは遠隔医療と言い換えることにします。(まったく異なるということであれば、申し訳ありませんが・・・)

 遠隔医療の状況については、日本遠隔医療学会のHPが参考になります。http://jtta.umin.jp/frame/j_14.html

 日本遠隔医療学会は遠隔医療の定義を遠隔医療(Telemedince and Telecare)とは、通信技術を活用した健康増進、医療、介護に資する行為をいう。」としています。

 遠隔医療については日本でも以前から検討されており、僻地や離島の医療を補完する医療として期待されています。北海道の旭川医科大学(国立大学)の遠隔医療センターの取り組みは有名ですね。大前氏が「無用の長物」とおっしゃる大学病院で、遠隔医療がパイオニア的に行われているわけです。

 大前氏は「 日本の現行の医師法では、医師と患者が同じ部屋にいなければ、治療をしたり、診断書や処方箋と出したりしてはいけないことになっている。 」と述べておられますが、この点については説明を追加しておきます。

 これは医師法20条問題と言われてるものです。遠隔医療には、大きく分けて医師対医師(または医師対看護師等)と、医師対患者の場合がありますが、問題になるのは医師対患者の遠隔医療です。

 医師法20条には「医療は、医師又は歯科医師と患者が直接対面として行われることが基本であり、…」との記載があり、以前は医師対患者の遠隔医療は合法的にはできませんでした。

 しかし、遠隔医療への期待の高まりや技術の進歩から、1997年12月に厚生省健康政策局長が「直接の対面診療による場合と同等でないにしてもこれに代替しうる程度の患者の心身の状況に関する有用な情報が得られる場合には、遠隔医療を行うことは直ちに医師法20条に抵触するものでない。」との通知を出し、一部の患者に対しては、医師対患者の遠隔医療が合法的に行えるようになりました。 

 さらに、2011年3月に厚労省がこの通知の制限をさらに緩和する方向で改正しました。この間の経緯について日本遠隔医療学会のHPに以下のような説明があります。

***************************************************************************

 厚生労働省 遠隔診療に関する通知

 1997年12月24日に当時の厚生省健政局から発行された医師法20条の解釈および遠隔診療に関する通知が改正され、2011年3月31日に発行されました。

 今回の通知は、2008年の厚労省・総務省の遠隔医療推進方策の懇談会に始まる遠隔医療推進の活動の大きな成果です。

 また、この通知発行には、平成22年度より始まった2年計画の厚労科研(酒巻班)の研究成果が貢献しています。

 この通知により、遠隔診療の法的理解がいっそう明確になり、実施上の障壁が無くなりました。 

***************************************************************************

 参考までに、平成23年3月の改正厚生省健康政策局長通知文(一部)を下に記します。

****************************************************************************

1 基本的考え方

 診療は、医師又は歯科医師と患者が直接対面して行われることが基本であり、遠隔診療は、あくまで直接の対面診療を補完するものとして行うべきものである。

 医師法第20条等における「診察」とは、問診、視診、触診、聴診その他手段の如何を問わないが、現代医学から見て、疾病に対して一応の診断を下し得る程度のものをいう。したがって、直接の対面診療による場合と同等ではないにしてもこれに代替し得る程度の患者の心身の状況に関する有用な情報が得られる場合には、遠隔診療を行うことは直ちに医師法第20条等に抵触するものではない。

 なお、遠隔診療の適正な実施を期するためには、当面、左記「2」に掲げる事項に留意する必要がある。

2 留意事項

(1) 初診及び急性期の疾患に対しては、原則として直接の対面診療によること。

(2) 直接の対面診療を行うことができる場合や他の医療機関と連携することにより直接の対面診療を行うことができる場合には、これによること。 

(3) (1) 及び (2) にかかわらず、次に掲げる場合において、患者側の要請に基づき、患者側の利点を十分に勘案した上で、直接の対面診療と適切に組み合わせて行われるときは、遠隔診療によっても差し支えないこと。

ア 直接の対面診療を行うことが困難である場合 (例えば、離島、へき地の患者の場合など往診又は来診に相当な長時間を要したり、危険を伴うなどの困難があり、遠隔診療によらなければ当面必要な診療を行うことが困難な者に対して行う場合)

イ 直近まで相当期間にわたって診療を継続してきた慢性期疾患の患者ななどの困難があり、遠隔診療によらなければ当面必要な診療を行うことが困難な者に対して行う場合)

イ 直近まで相当期間にわたって診療を継続してきた慢性期疾患の患者など病状が安定している患者に対し、患者の病状急変時等の連絡・対応体制を確保した上で実施することによって患者の療養環境の向上が認めれる遠隔診療(例えば別表に掲げるもの)を実施する場合

(以下略)

****************************************************************************

 このように現時点では、厚労省は、医師法改正ではなく、医師法20条の解釈の弾力化により遠隔医療に対応しています。

 大前氏のおっしゃっている「インターネット診断」が具体的にどのような遠隔医療を指すのか、そして、上記厚生省通知以上の遠隔医療の規制緩和を求めておられるのか、この記事だけではよくわかりません。

 次に、医療特区における外国人医師の診療認可についてコメントしておきましょう。この問題も、大前氏が今回の記事で初めて指摘したアイデアではなく、以前から議論されています。

 2002年の政府の総合規制改革会議が医療特区構想を打ち出した時、いくつかの地域から、外国人医師の診療を認める特区の申請が出ています。この時は、医師不足解消という目的よりも、優秀なアメリカ人医師等を招聘して、わが国の医師の診療レベルや臨床研修のレベルを上げようという主旨が多かったと思います。これに対して日本医師会は猛然と反対しました。

****************************************************************************

医療特区構想に関する緊急決議

 日本医師会は、現在、小泉内閣が推進している医療特区構想に断固反対する。

 以上、決議する。

(理 由)

 日本医師会は、日本の医療にアメリカのイデオロギーを導入し、医療特区における株式会社の医療への参入、混合診療の容認、外国人医師の診療許可など日本の医療制度を根幹から崩壊に導くことは絶対に容認できない。

 国民の健康、身体、生命を市場原理の俎上にさらし、医療の中に豊かな者と豊かでない者との差別を持ち込むことは、日本の医療に長年責任を持ってきた学術専門団体である日本医師会として、断じて許すことができない。

 このことを閣議決定によって推進しようとする小泉内閣に対して猛省を促すものである。

平成十五年三月三十日

第108回日本医師会定例代議員会

****************************************************************************

 次に地域医療崩壊が問題となった時、医師確保に困っていた複数の地域から、外国人医師の診療行為を認める特区を設けるよう要望が出されました。

 たとえば、2007年に新潟県が、日本への留学経験などがある外国人医師に、へき地などでの医療行為を可能とする特区の創設や規制緩和の実施を求める提案書を、内閣官房構造改革特区推進室に提出しています。http://www.cabrain.net/news/article.do?newsId=13167

 しかし、厚労省は2008年3月に出した回答で、現行の臨床修練制度で可能として、これらの医療特区申請を認めませんでしたね。

 大前氏には、以前から多くの地域が申請を出してきたにも関わらず却下されてきた外国人医師医療特区構想が、医師不足や偏在解決の切り札であるとおっしゃるのなら、それでは、いったいどうすれば厚労省や日本医師会をその気にさせることができるのか、持ち前の鋭い頭脳でアイデアを出していただきたかったですね。

 次回につづく

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果たして大学病院は無用の長物か?(その5)

2012年02月13日 | 医療

(このブログは豊田の個人的な感想を述べたものであり、豊田が所属する機関の見解ではない。)

 前回は、大前研一氏の週刊ポスト誌(2月10日号)に対するコメントに関連して、私が関係していた三重県の尾鷲総合病院の産婦人科医師確保問題についてお話をしましたね。では、先をいそぎましょう。

 「とはいえ、文科省が医学部の権益を手放すことはないだろう。その場合、厚労省には選択肢が2つある。1つは、自分で”医師養成学校”を作るという方法だ。そしてもう1つは、「大阪都」のような自治体に委託し、地方が必要とする医師の養成は地方に任せるという方法である。

 橋下徹・大阪市長と松井一郎・大阪府知事は大阪市立大学と大阪府立大学を統合して教育学部を新設し、大阪が必要とする教員は大阪が自前で養成するという構想を発表したが、その医学部版を認めるのだ。自分の地域で必要な医師は、中央のコントロールを受けないで自分たちで育成する、という理想的な形である。

 そもそも日本医師会が主張しているような人口減少による医師過剰の懸念は、日本の医師の能力が高いのならば杞憂である。海外に行って稼ぐことや海外からのメディカル・ツーリズムで稼ぐことができるはずだからである。」

 前回までに、大前氏の主張しておられる医師の地域間および診療科間の偏在対策としての経済的インセンティブや規制的手法については、すでに政府や地方自治体もその一部を実施しているところであり、経済的インセンティブや規制手法の実現は、厚労省が医学部を管轄する・しないとは関係がない、ということをお話しましたね。

 したがって、「とはいえ、文科省が医学部の権益を手放すことはないだろう・・・」以下の文章は、私にとっては無意味ということになってしまうのですが、一般の皆さんの誤解をできるだけ少なくしたいという主旨から、大前氏のいろいろなアイデアについてコメントを加えさせていただくことにしましょう。

 「その場合、厚労省には選択肢が2つある。1つは、自分で”医師養成学校”を作るという方法だ。」

 医師の偏在解決のための経済的インセンティブや規制手法を実施するためであれば、わざわざ厚労省が医師養成学校を持つ必要はないと思うのですが、この記事の後の方を読むと、大前氏は、経済的インセンティブや規制手法による医師偏在対策以外の理由も考えておられるようです。この点については、後日のブログで議論することしましょう。

 次に大前氏が主張しておられる

 「そしてもう1つは、「大阪都」のような自治体に委託し、地方が必要とする医師の養成は地方に任せるという方法である。」

という部分ですが、大阪市はずっと前から、大阪市立大学に医学部をもっていますね。ですから、「大阪都」が新たな医学部を作る必要はないと思われます。

 このような公立の医学部は現在全国に8つあります。大前氏の主張しておられる自治体立の医学部が、既存の公立の医学部とどうちがうのか、この文面からは良く分からない面があります。

 「自分の地域で必要な医師は、中央のコントロールを受けないで自分たちで育成する、という理想的な形である。」

書いておられることからすると、中央のコントロールを問題視されているように思えます。しかし、もし公立大学が(あるいは国立大学や私立大学でも)、地域に必要な医師養成や医師偏在の解消に徹すると宣言すれば、中教審が大学の機能分化を提言していることもあり、文科省としてはむしろ歓迎するでしょうね。

 ただ一つ、国が医学部に厳しくコントロールしていることとして、医学部の学生定員があります。他の学部と違って、医学部の学生定員の変更には、財務大臣、総務大臣、厚生労働大臣、文部科学大臣の署名が必要なのです。このために、医学部の学生定員だけは、つい最近まで低く抑えられてきたのです。この点は、大前氏のおっしゃるように、地域に必要な医師養成を地域が自由にできなかった面がありますね。

 もし、大前氏の問題視される中央のコントロールが国による医学部学生定員の制限を指しているのであれば、議論をする意味が出てきます。

 大前氏のおっしゃるように自治体が独自の医師養成学校を作っても、国のこの制限が適用されるのであれば意味がないことになりますね。逆に、この制限さえ撤廃していただければ、必ずしも自治体立である必要はないかもしれません。

 最近は、医学部学生定員増という方針が、それこそ政治主導で決められましたので、国公私立大学とも定員を増やしましたね。平成19年度から23年度にかけて、国立大学は4090⇒4843人、公立大学は655⇒817人、私立大学は2880⇒3263人に増えています。今回、公立大学は、地域に必要な医師数を自らの意思で増やすことができたはずです。

 実は三重大学医学部の前身は三重県大学医学部で、1972年に国立に移管されています。県立大学から国立大学へ移管された医学部は他にもありますが、私はそれを県立に戻して欲しいと要望する自治体はたぶんないのではないかと見ています。

 ただし、国と自治体と大学の間に、緊密なコミュニケーションがとれるということが前提でしょうね。私は、今回の地域医療崩壊問題をきっかけにして、国と地域と大学のコミュニケーションや連携がずいぶん進んだのではないかと感じています。この3者の連携を、今後いっそう緊密にしていく必要があると思います。

 「そもそも日本医師会が主張しているような人口減少による医師過剰の懸念は、日本の医師の能力が高いのならば杞憂である。海外に行って稼ぐことや海外からのメディカル・ツーリズムで稼ぐことができるはずだからである。」

 ここで、大前氏は厚労省管轄や自治体立の医学部を造ることによる医師数増に対して起きるかもしれない日本医師会の批判に対して、あらかじめ反論しておられるものと考えます。

 私は、医師数増に対する反対者として、日本医師会以外に厚生労働省もあげておくべきだと思います。

 厚労省は、1983年の厚生省保健局長吉村仁氏のいわゆる医療費亡国論に象徴されるように、一貫して低医療費政策、そして医師数抑制政策を堅持してきました。

 厚労省の「医師の需給に関する検討会」は概ね5年ごとに、常に医師過剰となる推計を出してきました。三重県の尾鷲総合病院の産婦人科医師問題に始まる地域医療崩壊が全国的な問題になってからも、2006年7月28日の医師需給に関する検討会報告は、医師が過剰になるというものでした。

 当時NHKテレビで地域医療崩壊問題がとりあげられ、どうして医師を増やさないのかという市民の質問に対して、当時の厚生労働次官は、医師が過剰になるので増やさない、もうしばらく我慢していただければ医師は充足すると答弁しておられました。NHKはその報告書を批判的に報道したことを思い出します。

 当時、私も知り合いの厚労省の医系官僚に、医師を増やすべきである思うと申し上げたら、とんでもないという返事が返ってきました。当時、三重県選出の川崎二郎衆議院議員が厚労大臣になっておられたので、三重の首長たちはこぞって医学部定員を増やして欲しいと陳情に行きました。私も意見を求められたので、医師を増やすべきであると申し上げました。

 この頃、さすがの日本医師会も、医師を増やすべきであるという見解を発表しています。

 そんな状況で2006年8月31日に、川崎大臣のもとで、新医師確保総合対策が打ち出されました。10県10大学で10年間10人医学部学生定員を増やすというもので、その結果、もし、地域に医師を確保できない場合は、逆にその大学の医学部学生定員を現行よりも10人減らす、というひどい付帯事項がついていました。しかし、ともかくもこの対策が、その後のさらなる医学部定員増に結びつく第一歩となりました。

 新医師確保総合対策で、医師数の少ない県の10大学で2008年から10人医学部定員が増やされることになったのですが、その時、川崎大臣から私に電話が入り「豊田学長、三重大が10大学の中に入ったから、しっかり頼むよ。地域枠をぜひとも増やしてください。」と言われました。

 その後、舛添厚労大臣がさらに医学部定員増を実施し、民主党政権においても医学部学生定員を増やす方針がとられ、現在に至っています。

 三重大は医学部学生定員を100人から125人に増やし、地域枠35人という対応をしています。ちなみに地域枠入学者は2010年の時点で全国で1171名になっています。

 これ以上医学部学生定員を増やすべきかどうかについては、議論のあるところです。現在、これ以上増やすと医師過剰になるので、このあたりで留め置いた方がよいという意見が多いようです。

 大前氏の

 「人口減少による医師過剰の懸念は、日本の医師の能力が高いのならば杞憂である。海外に行って稼ぐことや海外からのメディカル・ツーリズムで稼ぐことができるはずだからである。」

という反論は、現下の歯科医師の過剰問題の解決に全く役にたっていない現状からは、日本医師会を納得させるような理由とはならないと思われます。

 実は何をもって医師が過剰なのか不足しているのかを判断することは、たいへん難しいことなのです。私は文科省の官僚からも、日本の医師数がOECDの人口当たり医師数の平均の3分の2ということ以外に、ほんとうに不足しているという根拠はあるのか?不足ではなく偏在だけではないのか?と何回も聞かれました。

 私は、真の偏在というのは、一方が不足で他方が過剰の場合をいうのであって、現在の状況は、一方が不足しているが他方は過剰ではないので、これは真の偏在ではなく不足であると申し上げました。また、若手医師の流動化、つまり医師需給の自由市場化が地域での医師不足の原因になったことは、自由市場のもとでは医師が不足していたことの証であるとお答えしました。

 5年ほど前にオーストラリアへ行った時には、オーストラリアも医師不足と判断して急速に医学部学生定員を増やしていました。その時にどうして医師不足であると判断したのか聞いたところ、オーストラリアでは、公的医療を行っている医師に、診療行為の一部に自由診療を認めるようにしたところ、医療保険会社のカバーする予定価格よりも、高い値段を患者に請求していたことから、医師不足であると判断したということでした。

 不足・過剰の判断を市場メカニズムから判断するというのは一つの方法ですね。計画経済で需給の過不足を判断して調整するというのは、本来たいへん難しいことです。

 一方、医学部以外の学部では、規制緩和で文科省が大学設置をかなり自由に認めるようになったので、市場メカニズムで需給が調整されるようになりました。その結果、さまざまな分野で大学の過当競争が起きていますね。人材育成にはかなり長い年月がかかるので、市場の調整にも時間がかかり、特につぶしのきかない専門職養成では、せっかく長い年月をかけて取得した資格が使い物にならないという悲劇が学生にも降りかかり、その調整に伴うコストには、大きいものがあると感じます。

次回につづく

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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果たして大学病院は無用の長物か?(その4)

2012年02月12日 | 医療

(このブログは豊田個人の勝手な感想を述べたものであり、豊田が所属する機関の見解ではない)

 さて、前回は、たいへん長文のブログになってしまいましたね。今回はあまり長くならないように気をつけます。

 では、大前研一氏の週刊ポスト記事へのコメントをいそぎましょう。ちょっとだけ、前回のブログでご紹介した記事の文章とかぶりますが・・・。

 「そのように地域と専門分野に給料や授業料などでインセンティブを与えれば、医師の最適配分が可能になるはずだ。地方の公立病院の中には、産婦人科医を破格の待遇で迎えているところもあるが、これは人の命にかかわることだから、民主党政権は本来、子ども手当や高校無償化よりも優先し、国の重要政策として実行すべきことである。」

 ”産婦人科医を破格の待遇で向かえているところ”というのは、私が関係していた三重県の尾鷲総合病院のことだと思いますので、ちょっと詳しくコメントしておきます。

 私が、2004年に三重大学の産婦人科教授から、三重大学長となり、後任の新しい産婦人科の教授が赴任しました。

 三重県の南部、つまり、紀伊半島南部の三重県側に、尾鷲総合病院と紀南病院2つの病院があり、それぞれの病院へ三重大の産婦人科から2人ずつ、2~3年のローテーションで産婦人科医が派遣されていました。

 しかし、それぞれの病院から一人ずつ、つまり二人の産婦人科医が同時に開業等で辞める(医局の人事の枠外になる)という事態が起こりました。医師を一人のまま置いておくと、負担の大きさや医療事故のリスク等から、一人で残された医師がまた辞めるという悪循環が起こるので、地域の産婦人科の医療体制を維持しようと思えば急いて補充しないといけません。

 しかし、大学には医局に入る若手医師が少なく派遣する医師が足りない状況でした。おまけにちょうど2004年から開始された新医師臨床研修のために、少なくとも2年間は新たな若手医師が医局に入ってこないという状況がありました。

 一方で、2000年頃から新たに産婦人科医になる若手医師については、全国的に女性が男性を上回る状況となり、三重大の産婦人科でも若手医師は女性医師が大半となっていました。遠隔地の病院に2人体制で産婦人科医師を派遣していても辞める事態になるわけですから、特に若い女性医師を派遣することを考えると3人体制にする必要がある。

 加えて、現場の医師にとって不満の残る体制を放置しておくと、新たな入局者が減って、さらに地域医療の維持に悪循環が生じる可能性があります。2004年の新医師臨床研修の導入により、医学部卒業生は、研修医として各診療科の良いところも悪いところもすべて見たうえで、最終的にどの診療科に入るのか決めることになりましたからね。

 後任の産婦人科教授は、二つの病院のどちらかを医師3人体制にして、分娩や帝王切開を一つの病院に集約化し、もう片方は外来診療だけを大学から医師を派遣してカバーし、その地域全体として、産婦人科の医療体制を維持しようと決心しました。

 そして、尾鷲総合病院か紀南病院のどちらに分娩管理を集約化するのか、関係市町で決めていただくように要請しました。しかし、関係市町間では決めることができず、最終的に三重大学の教授の判断に一任するという結論になりました。

 教授は大学からあえて最も遠い紀南病院に分娩管理を集約化することにより、その地域の産婦人科医療を責任をもってカバーしようとしました。これは、おそらく尾鷲市が予想していた結論と反対の結論であったと思われます。普通は、大学から近い病院を選ぶだろうと考えますからね。

 尾鷲総合病院の産婦人科が外来だけとなり、分娩管理ができなくなるという事態になりかけたので、当時の尾鷲市長は猛然と署名活動を展開され、紀南病院に分娩管理を集約化する決定を覆すことを求めて、6万人の署名を持って学長室にこられました。尾鷲市の人口は約2万人なので、実にその3倍の署名をお集めになったことになります。

 私は、たいへん苦しい判断を求められたわけですが、産婦人科教授の下した決定を支持しました。ただ、医局の枠外にある医師にも範囲を広げて、尾鷲総合病院の産婦人科医師の確保に協力することをお約束しました。

 尾鷲市は、医師紹介業者も介して全国から産婦人科医師を確保する努力をされました。そして、最終的に三重県津市で開業していた医師が行くことになりました。彼は、私が若かりし頃に三重大でいっしょに研究をした仲間でした。その時の提示金額が約5千万円ということで、これは全国的に話題になりましたね。

 しかしその後、5千万円はあまりにも高額ということで尾鷲市議会で問題になり、最終的にその医師は1年程度でやめました。その後、給与を約2800万円程度に下げた上で、別の津市で開業していた医師が勤めています。実は彼も私が若かりし頃に三重大でいっしょに研究をした仲間でした。

 尾鷲総合病院の産婦人科医の問題は、全国的にも有名になりました。しかし、それは三重県だけの問題ではないことが、つぎつぎと明らかとなって地域医療崩壊が表面化し、2006年の新医師総合確保対策、その結果として2008年からの医学部学生定員増につながることになります。

 大前氏の主張されている経済的インセンティブの重要性には私も同感です。ただし、経済的インセンティブの原資をどこから確保するかという問題もあり、また、経済的インセンティブだけでも解決しないことは、このブログでご紹介した三重県の産婦人科医療の一例をとってみてもお分かりになると思います。経済的インセンティブを上手に使いつつ、さまざまな対策を組み合わせて実施する必要があるということですね。

 また、第三の医師の偏在、つまり「病院・診療所(開業医)」間の医師の偏在」については、大前氏はまったく触れておられませんが、前回ご紹介した2009年の財政審建議では、病院医師と開業医の収入の差を少なくするために、病院の診療報酬を高くするという経済的インセンティブが提案されていますね。ほんとうは、健康保険財政に苦しむ国としては、病院の診療報酬引き上げの原資を、開業医の診療報酬の引き下げでまかないたいところだと思うのですが、医師会は到底受け入れられないでしょうね。

 私は、地域医療に対しては、自民党政権、民主党政権の両方とも、地域医療再生基金などの政策も含めて、それなりのご支援をしていただいているのではないかと感じています。今後とも、いっそうの支援の継続を期待しています。

 次回につづく

 

 

 

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果たして大学病院は無用の長物か?(その3)

2012年02月11日 | 医療

(このブログは豊田個人の勝手な感想であり、豊田の所属する機関の見解ではない)

 さて、前回のブログでは、大前研一氏の週刊ポスト(2月10日号)の記事の中の

「医師の不足や地域偏在の問題の元凶は、医師や病院が厚生労働省の管轄なのに、医学部を文科省が管轄していることにある。このシステムのままでは、いくら医学部の定員を増やしても、あるいは医学部を新設しても、医師が人員不足の診療科や地域に行くとは限らない。医師の養成は「医療行政」の問題だから、医学部は他の学部と切り離し、厚労省が必要な人材、場所、制度を作っていくべきなのだ。」

 という、この記事の主旨が述べられている個所をご紹介し、また、私の「大学と地域医療」の一文から、医師不足や偏在について述べた個所をお示ししました。 果たして医学部を厚労省管轄にして問題は解決するのか?これから、この問題について考えてみたいと思います。

 まず、大前氏は、「医学部」を厚労省管轄にすべきとおっしゃっているのですが、これは、かなり珍しいアイデアですね。附属病院だけを厚労省管轄にするというアイデアは、2004年の国立大学法人化に際しても議論されたと聞いています。また、海外ではそのような例があり、たとえばオーストラリアでは、医学部は文部省、付属病院は厚生省が管轄しています。ただし、それがいいのかどうかについては議論のあるところです。

 次に、大前氏が医学部を厚労省管轄にするべきとされる具体的な理由を見ていきましょう。

 日本の場合、医師が何科の看板を掲げるかは自由である。医師免許を取得した者は人間の身体について全部理解しているスーパー・ゼネラリストであり、内科の診断もできれば外科の手術もできるという前提になっているからだ。

 しかし、実際には大学在学中に専門分野を決めるので、血を見たり、手先の器用さが要求されたり、医療過誤で訴えられる可能性が高かったり、診療効率(患者の回転)が悪かったりする外科、産婦人科、形成外科、小児科などは人気がなく、聴診器を当てて薬を出すだけで済む内科は人気が高いのである。

 この問題は医学部を「学問の府」とみなして、文科省が管轄している限り解決できないが、厚労省が管轄して患者の立場から考えればメスを入れることができると思う。つまり、医療行政の一環として診療科ごとに医師を養成し、医療現場の必要に応じて不人気な科の定員を増やし、人気がある科の定員を減らせばよいのである。

 もしくは、外科医の給料を内科医の10倍にすればよい。医師の地域偏在についても、医師が不足している僻地などに赴任する場合は給料を格段に高くすればよいのである。

 あるいは、不足している地域に15年以上赴任する場合は返済不要な奨学金を出す、などの策が自在に設計できる。そのように地域と専門分野別に給料や授業料などでインセンティブを与えれば、医師の最適配分が可能になるはずだ。」

 つまり、診療科間および地域の医師の偏在の対策として、診療科の定員制の導入およびインセンティブ手法をあげておられます。

 医師偏在問題については、すでに200963日付の財政制度等審議会の建議書「平成22年度予算編成の基本的考え方について」においても取り上げられています。医師の偏在には、ア地域間の偏在、イ診療科間の偏在、ウ病院・診療所(開業医)間の偏在の3つがあること、そして、対策としては、①医療費配分の見直し(経済的手法)、②医師の適正配置に向けた検討(規制的手法)、③医療従事者間の役割分担の見直し(高度な技能を有する看護師やコメディカルの活用)、の3つをあげています。

http://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/report/zaiseia210603/zaiseia210603_01.pdf

 経済的手法として、偏在により相対的に厳しくなっている部分に対し、経済的なインセンティブを付与することが考えられるとし、具体的には、診療報酬の配分や報酬体系を見直すとしています。

 規制的手法の導入については、医師の職業選択の自由を制約するといった議論もあるものの、医師の養成には多額の税金が投入されていること等から、医師が地域や診療科を選ぶこと等について、完全に自由であることは必然ではない、と書かれています。そして、ドイツや他の国の例があげられています。

 「諸外国を見た場合にも、例えばドイツでは、従来から保険医の開業には、10の地域や14の診療科ごとに定員枠を設け、開業の制限を行ってきた(規制的手法)ほか、今後は、保険医の過剰地域や過少地域においては、通常の1点当たり単価から減額又は増額されるシステムの導入も予定されている(経済的手法)。そのほか、医療提供体制について国際比較をしてみると、(研修医を含む)医師・保険医の地域や診療科の選択、その活動に当たっては、日本以外の主要国においては、制度的又は事実上の規制や制約といった公的な関与がある。」

 これに対して、610日には、日本医師会が「財政制度等審議会建議に対する日本医師会の見解」を公表しています。

http://dl.med.or.jp/dl-med/teireikaiken/20090610_3.pdf

 その中で「医師の診療科や開業地域の規制について」書かれた部分を引用します。

「財政審建議は、医師の偏在是正について、「医師が地域や診療科を選ぶこと等について、完全に自由であることは必然ではない」として、ドイツ、フランスの開業規制の例を示し、日本への規制の導入を示唆した。しかし、ドイツ、フランスは日本に比べてはるかに医師数が多い。

 財務省は、診療科別医師数の増減のみを示したが、これは机上の計算であり、疾患別の患者数の増減や地域特性も考慮すべきである。たとえば産婦人科医師や外科医師の減少は、きわめて厳しい過重労働や訴訟リスクの高さなどが原因である。財政審は精神科医師数の増加を指摘しているが、その背景には3万人を超える自殺者、うつ病患者や認知症患者の増加がある。高齢化にともなって増える疾患などもある。

 第一に医師不足の解消を図ること、第二に医師が診療科にかかわらず安心して働ける環境づくりを行い、さらに「地域で医師を育てる」仕組みづくりが必要である。」

 また、611日には全国医学部長病院長会議が財政審の建議に対して、計画配置などの規制的手法ではなく、大学の調整力の回復や、労働環境の改善など医療のインフラ整備を行うべきという提言を発表しました。612日に、国立大学医学部長会議が麻生総理宛に要望書を出していますので、その関係個所を引用します。

http://www.chnmsj.jp/youbousyo%20H21%20zaiseiseido.pdf

「医師の適正配置に関して審議会が提言する規制的手法は導入されるべきではない。専門職に強制や規制を強化すれば、その社会や業務が健全に機能しなくなることはギリシア・ローマ以来の歴史が証明している。

 審議会答申では開業の地域規制の例としてドイツの例を提示しているが、ドイツは他の種々の点で社会基盤が異なる上での開業医の規制であることは議論されていない。例えばドイツでは開業するのにホームドクターとしての専門医資格が必要であり、また州立大学医学部に教授が個人ベッドを持っている、などの現状がある。もし国家の医療制度をドイツに習うのであれば、全ての制度をドイツと同じにしなければ、その制度は機能しない。

 また、米国の学生は国費の補助を受けてはいないという指摘があるが、ほとんどの学生は供与制の奨学金を受けているという事実は無視されている。海外の制度の一部を移入する議論は、各国の社会基盤の相違を踏まえて行われなければならない。医師に限らず、全ての学生の教育はその一部を国税によって賄われているが、国立大学医学部における教育には国税を使っているので学生の専門の決定や配置に関しては規制が導入されてもよいという意見は、基本的人権の見地から見ても誤りである。」

 また、この年の8月1日には著名な医療経済学者である二木立・日本福祉大学教授が医師提供の仕組みについてコメントしておられます。

http://www.inhcc.org/jp/research/news/niki/20090801-niki-no060.html

「私が言いたいのは、医療の提供体制については、国家が統制してはいけないということ。医師は自律性がないと力を発揮できない職業だ。僻地勤務義務化などの規制強化は、大きな過ちをもたらすと思う。」

「新臨床研修制度の期間短縮を主導したのは大学病院で、すべての病院団体は期間短縮には反対した。同制度は、劣悪だった研修医の待遇を改善し、プライマリケア医としての能力を高めるという所期の目的を達成しているというのが大方の評価だ。制度発足後、研修医の臨床能力が高くなったことは、いろいろな調査で判明している。今の制度の大枠は維持すべきだと思う。

 ただし、医師不足に直面した地方の大学病院による同制度への批判にも一理ある。医師の地域偏在の解決には、医学部の地域枠(地元出身者の優先入学枠)の大幅拡大が不可欠だ。同時に、医師会や病院団体、医学会などが加わった、都道府県単位での医師配置に関する緩やかな枠組み作りも検討すべきだ。

 根本的な問題解決は医師の数が増えることだが、67年、あるいは10年かかる。併せて、日本学術会議が昨年提唱した全科共通基準の専門医制度の確立も必要だ。今のような自由放任型の学会専門医制度ではなく、必要数を定める制度にすべき。そうなれば、診療科目ごとの偏在も是正されていくだろう。」

 以上のような医師偏在についての議論を考え合わせると、日本の医療供給体制の歴史や外国とのあまりにも大きな違いを考えると、診療科の定員制をただちに強硬に実施することは、厚労省が医学部を管轄するかしないかに関係なく、困難な情勢であると思われます。

 インセンティブ制度については、”外科医の給与を内科医の10倍にすればよい”、というような極端な表現ではありませんが、以前から検討されています。実際、産科医に対しては、安倍政権の時に、待遇改善を条件として産科の診療報酬がすでに上げられていますね。一部の大学病院では産科医の給与が他の医師よりも多くなっています。そして、その効果も徐々に表れつつあるのではないかと感じられます。

 また、外科医については、平成22年度の診療報酬改定で外科手術を中心に引き上げられました。ただし、外科の収益増を外科医の給与に反映するかどうかは各病院の判断にゆだねられており、現実にはあまり変わっていないのではないかと思われます。これは厚労省が医学部を管轄する・しないに無関係のファクターです。

 大前氏は経済的インセンティブの必要性を強調するために、”外科医の給与を内科医の10倍にすればよい”という極端な表現をしておられますが、全体の医師数が不足している状況では、人気のある診療科が必ずしも医師が余っているとは限らず、また、一つの診療科を救うと、モグラたたきのように別の診療科が医師不足に陥る危険性もあるので、きめの細かい調整が必要と思われます。

 また、返済不要な奨学金を出す制度も、昭和47年開学の自治医科大学がずっと実施してきましたし、現在医学部学生定員増に伴って返済不要奨学金を自治体が出す地域枠も整備されたところです。

 また、以前から、僻地の自治体病院の医師の給与は、都会の病院の医師の給与よりも相当高く設定されています。その分、自治体の財政を圧迫しているわけですが。この財源を何らかの形でさらに確保していただけるのであれば、大前氏のご提案のように、僻地の医師確保には追い風になると思います。この財源の確保についても厚労省が医学部を管轄するかどうかとは無関係のファクターです。

 結局、厚労省が医学部を管轄したとしても、今の情勢では診療科の定員制の導入は難しいのではないでしょうか?また、海外では、厚労省が医学部を管轄していない国でも診療科や専門医の定員制が導入されています。診療科の定員制度やインセンティブ制度を作ることは、医学部を厚労省の管轄にする・しないとは別の次元の話のように思えます。

 5年ほど前にオーストラリアの大学病院を視察したのですが、オーストラリアでも僻地への医師供給にたいへん苦労していました。医学部入学の徹底した地域枠とともに、専門医資格の条件として地域での一時的な診療経験を義務付けていました。

 歯科医師くらい医師数を増やせば、市場原理だけで偏在問題も解決するかもしれませんが、医師数をある程度増やすだけでは医師偏在の問題は解決せず、私も何らかのマイルドな規制的手法と経済的手法の併用が必要であると考えています。

 私の勝手な意見としては、具体的には二木氏のおっしゃるように、全科共通基準の専門医制度の確立とその必要数の制定、および、オーストラリア方式で、地域での一時的な診療経験を経済的インセンティブを与えるとともに専門医資格認定要件とするくらいなら、日本の現状でも許容範囲ではないかと考えています。これは、すぐには実現できないかもしれませんが、状況が整えば厚労省が医学部を管轄するかどうかとは関係なく実現可能だと思います。

 ただ、大前氏とは若干違う趣旨で、私は大学病院の管轄には、文科省だけではなく厚労省も加わるべきであると思っています。私は、三重県選出の川崎二郎衆議院議員が厚労大臣であった時に、いろいろなお願いをしたのですが、その中の一つに、大学病院は文科省と厚労省を超越した部署が管轄するべきである、もしくは密接に連携をして管轄するべきであると進言したことがあります。

 私の意見を聞き入れていただいたのかどうかは、まったくわからないのですが、進言して間もなく、2006年から文科省高等教育局医学教育課の課長(現在は企画官)は、厚労省から派遣された医系官僚になっています。文科省と厚労省の交流人事には、役所の現場ではいろいろとやりにくい点もあろうかと思いますが、私は、更にいっそう交流人事を深めて欲しいと思っています。

 すなわち、現在では、医学部および附属病院は、制度的には文科省の管轄ですが、文科省と厚労省の両省がいっしょに管理をしていると申し上げていいでしょう。

 またまた、超長いブログになってしまいましたが、今回のブログをまとめますと、医師偏在の対策として医師数増とともに規制的手法と経済的インセンティブの併用が必要であるという基本的な方向性では、大前氏の意見と同じですが、日本の医療供給体制の現状に合うような現実的な対応が必要であること、そして、まだ不十分かもしれませんが、いくつかの対策はすでになされていること、そして、その実現は厚労省が医学部を管轄するかしないかには関係がないと思われることをお話しました。

 また、医学部の管轄を文科省から厚労省に移すことは現実的な対応ではないと思いますが、厚労省も大学病院に加わるべきであるということについては、大前氏の意見と共通した部分があります。現実的には、文科省医学教育課と厚労省の交換人事がすでに行われており、この交流はさらに強固なものにするべきであると考えます。

 次回につづく

 

 

 

 

 

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果たして大学病院は無用の長物か?(その2)

2012年02月09日 | 医療

(このブログは豊田の個人的な感想を述べたものであり、豊田が所属する機関の見解ではない)

 前回のブログでは、大学病院の地域医療への貢献について、国民と大学関係者の間で、大きな認識の隔たりがあることを説明しました。私はこのずれを小さくすることは、たいへん重要と思っています。大学関係者は、データに基づいて、どれだけ大学病院が地域に貢献しているのか、もっともっと積極的に説明(広報)する必要がありますね。

 さて、大前氏の週刊ポスト誌の記事の主旨は、まず、比較的最初の方の一節

「医師の不足や地域偏在の問題の元凶は、医師や病院が厚生労働省の管轄なのに、医学部を文科省が管轄していることにある。このシステムのままでは、いくら医学部の定員を増やしても、あるいは医学部を新設しても、医師が人員不足の診療科や地域に行くとは限らない。医師の養成は「医療行政」の問題だから、医学部は他の学部と切り離し、厚労省が必要な人材、場所、制度をつくっていくべきなのだ。」

と、最後の一節

「とにかく医師不足の問題は文科省や大学に任せていたら、是正できない。根本的な解決策は、厚労省が実務面から市場原理で医師を最適配分する仕組みを作り上げることに尽きるのだ。」

 の二つに書かれています。医師の偏在には、地域間の偏在、診療科間の偏在、病院ー開業医間の偏在の3つがあると言われていますが、今回とりあげられているのは、そのうちの2つ、地域間の偏在と診療科間の偏在の解決方法です。

 二つの節の間には、その解決方法として、いくつかのアイデアが書かれており、その中でも、「厚生労働省が市場原理で医師を最適配分する仕組をつくること」が決定的な解決策であると考えるに至った理由が書かれています。

 地域における医師の不足と偏在の問題は、残念ながらまだ解決されていません。そのような状況に対し、大前氏は、持ち前のクリアカットな思考方法で、一刀両断的に解決策を提案しておられます。

 果たして、医学部を厚生労働省が管轄することによって、医師の偏在問題は解決するのでしょうか?

 これに対する私のコメントは、後日のブログに回しことにして、きょうのところはIDE現代の高等教育2011年12月号に書いた「大学と地域医療」という小文の中から、医師不足と偏在問題に関係する個所を下にお示ししておくことにしましょう。ちょっと長くなりますけどね。

***********************************************

IDE現代の高等教育2011年12月号地域と結ぶ大学より

「大学と地域医療」

2.大学病院による地域への医師供給機能の変化

 この問題は社会に大きな影響を与えたので、紙幅を割いて説明する。

(1)地域病院における医師不足の表面化

大学病院の地域病院への医師供給機能は徐々に低下しつつあったと考えるが、一気に表面化したのは、新医師臨床研修制度が導入された2004年以降である。最初は小児科や私の専門の産婦人科など、特定の診療科に限られていたが、多くの診療科の医師も地域病院で不足し、“地域医療崩壊”が社会問題化した。まず、大学病院が槍玉にあがり、マスコミは大学病院が地域病院から派遣医師を引きあげた結果であると報道した。ただし、これは一面的な見方であると考える。

一方、地域病院からの医師の立ち去りもクローズアップされた。勤務医は開業医に比べ激務であり、疲弊した医師が病院を立ち去ると、残された医師がさらに激務となり、連鎖的に医師が辞めて病院崩壊につながるとされた。

また、新医師臨床研修制度は、医学部卒業生に国が指定する研修病院での2年間のローテート研修を義務付けるもので、大学病院の医師供給機能に大きく影響した。ただし、私はあくまできっかけであり、徐々に起こりつつあった現象が一気に加速されたと考える。それを理解するには、大学病院の地域への医師供給の仕組みと研修制度のマッチング方式について知る必要がある。  

(2)大学病院の地域病院への医師供給機能

大学病院の地域病院への医師の紹介は、診療科単位(いわゆる“医局”)で行われてきた。 “医局”とは、公的用語ではなく、もとは医師の休憩室等を意味したが、転じて大学病院と関連病院グループ内での医師の人事に係る診療科の医師集団を指すようになった。“医局”はグループ病院内で医師に病院を紹介し、病院に医師を紹介する“閉じられた”人材市場を形成していた。一部に公募で医師を募集する病院もあったが、多くの地域病院は“医局”に依存していた。

この人事慣習は、一方では批判され続けてきたが、一方ではへき地の病院等、自由市場では医師を獲得し難い病院にも医師を供給してきた。

(3)新医師臨床研修制度におけるマッチング方式の影響

従来、医学生は卒後直接“医局”に入り、専門診療科で研修を受けることが多かったが、マッチング方式では、医学生が全国の研修病院の中から希望する病院の順位を提出し、病院は希望した学生の中から採用したい学生に順位をつけ、マッチした場合に採用する。医学生は“医局”の枠に入らずに、全国の研修病院を自由に選べるようになり、“開かれた”市場となって若手医師の流動化が進んだ。流動化は医師を獲得できる勝ち組とできない負け組を生む。多くの地方大学病院は負け組となり、“医局”を構成する医師数が減少して医師供給機能が低下し、“医局”に依存していた地域病院の医師不足を招いた。 

これは、高速道路を地方と都会の間に建設した時に起こる“ストロー現象”と類似する。高速道路により住民の流動化が進むと、負け組から勝ち組へ人の移動が加速する。通常は都会が勝ち組で、地方の過疎化が一気に進む。ただし、“加速”するだけであって、高速道路がなくても、負け組から勝ち組への人の移動は徐々に進む。 

(4)医師の不足か偏在か?

地域医療崩壊の原因が医師不足なのか、偏在なのかが議論された。2006年の厚生労働省医師需給検討会の報告書では、近い将来医師過剰になるので、医師の偏在(地域間の偏在、勤務医・開業医間の偏在、診療科間での偏在)対策を主にすべきとされた。

ただし、不足と偏在は密接に関連するので、二者択一は困難であると感じる。これは配給制度を例にとると理解しやすい。食料が不足すると、自由市場では食料を得られる人と得られない人(偏在)が生じるので、国は配給制度をとる。実は、自由市場下では医師を獲得できない地域病院へ“配給”の役割を果たしてきたのは“医局”であった。私は、自由市場においては、わが国の医師数が少なすぎたと考える。

(5)医師不足と偏在への対策

地方からの強い要請や、わが国の人口あたり医師数がOECD諸国で最低の部類であること等から、国は長年にわたる医師数抑制政策を転換し、医学部学生定員は07年度7625人から11年度8923人へと1298人増えた。また、地域医療に従事する医師を確保する目的で地域枠が設けられ、地方公共団体による奨学金制度も整備された。

研修制度についても2年目のローテーションの自由度を増して実質上の1年化を期待し、研修医が多く集まる地域の定員に若干の制限が設けられた。

また、診療科間の偏在対策として、産婦人科勤務医の待遇改善を条件に産婦人科の診療報酬が引き上げられた。また、2010年に病院の診療を中心に診療報酬が引き上げられた。

地方公共団体からの寄付により地域医療をテーマにした寄付講座を設置した大学も多い。大学教員が地域医療の現場で学生や研修医を指導し、地域医療に関心のある医師を養成する取り組みである。

このように医師不足と偏在の対策が並行して実施されているが、一旦生じてしまった若手医師流動化を元にもどすことは困難と考えられ、また、医学部学生定員増の効果が出るのはまだ数年先である。短期の解決は困難と思われるが、大学には国や地方公共団体と連携しつつ、地域医療の維持に組織として対応することが求められている。

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次回につづく

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果たして大学病院は無用の長物か?(その1)

2012年02月08日 | 医療

(このブログは豊田の個人的な感想を述べたものであり、豊田が所属する機関の見解ではない)

 論文数についてのブログを書いている最中ですが、大学病院問題についてのブログも適宜織り交ぜて書いていこうと思います。ですので、Eさん、Fさんのご質問に対するコメントは、すみませんがもう少し遅れます。

 大前研一氏の2月10日号の週刊ポスト誌での記事”「ビジネス新大陸」の歩き方”の一部がネット上でも紹介され、関係者間でつぶやかれています。医療関係者が投稿したと推測されるつぶやきでは、とんでもないというような批判的な意見が多いようです。

「日本の大学病院は無用の長物 学生教育に徹せよと大前研一氏」

http://www.news-postseven.com/archives/20120201_83863.html

「外科医の給料を内科の十倍にすれば医師不足解消と大前研一氏」

http://www.news-postseven.com/archives/20120203_83918.html

 大前氏のご著書は私も何冊か読ませていただいており、大いに参考にさせていただいています。でも、今回の氏の記事の一部には、国民に対して誤解を招く個所があるように感じます。大前氏の発言は、国民の多くの人に影響を与えると思いますので、大学病院のあり方を一生懸命考えてきた者として、国民に誤解をあたえそうな部分については、ブログでコメントをさせていただこうと思います。

 これは、大前氏に反論しようといいうことではなく、大前氏の日本の医療を良くしようというお気持ちをくんだ上で、私なりの大学病院に対するコメントをしつつ、国民の大学病院に対する誤解を招かないようにしたい、ということが主旨です。

 また、「IDE現代の高等教育」誌の2011年12月号「地域と結ぶ大学」に、「大学と地域医療」という私の一文が掲載されましたので、その内容の紹介もしていこうと思います。

 まず、大前氏の今回の記事を読んで感じたことは、国民の大学病院に対する非常に厳しい見方(誤解も含めて)は、近年の大学病院の現場の相当な改善努力にも関わらず、昔とあまり変わっていないということです。これは、一生懸命大学病院の改善・改革しようと取り組んできた者にとっては、非常に残念に感じるところです。

 実は、2年前の事業仕分けの現場で、仕分け人のお一人(医師)から、”私には大学病院はコンクリートの塊にしか見えない”と言われたことを思い出します。その時私は、「個別の事例で大学病院をご不満に感じられたこともあるかもしれませんが、大学病院が地域医療に大きく貢献していることはデータできちんと証明できます。」というような説明をさせていただいたように思います。

 IDE(特集「地域と結ぶ大学」)の一文の最初の部分に書いた内容を以下にお示しします。

****************************************************

 大学と地域医療

 はじめに

 近年、大学の第三の目的として「社会貢献・地域貢献」が重視されるようになった。ただし、「社会貢献・地域貢献」は「教育」や「研究」と同列ではなく、あくまで「教育」「研究」を通した「社会貢献・地域貢献」であるという意見が強い。

従来から大学は「教育」を通して人材を供給し、「研究」を通して科学の発展に寄与し、社会と地域に貢献してきた。しかし、最近は、社会や地域に対する、より直接的な貢献が求められている。特に国立大学は法人化によりそれに拍車がかかった。社会や地域からの理解と支持なくしては、存続が必ずしも保障されなくなったことが一因と考える。大学(医学部)付属病院(以下大学病院)もその例外ではない。

本稿では「大学と地域医療」について、大学病院、特に国立大学病院に生じた変化についてお話しする。ただし、この小文は、三重大学臨床医学教授職・学長職経験者の目から見た個人的な“感想”にすぎず、バイアスや勘違いも多々あると思うが、お許しいただきたい。また、筆者が所属する機関の見解でないことをお断りする。

1.地域医療貢献についての国民と大学関係者の認識の隔たり

2007年に私は大学病院の危機的状況を新聞紙上に投稿し、それがきっかけとなって、複数の新聞社の記者に話をする機会を得た。大学病院の使命として「教育」「研究」「高度医療」「地域医療貢献」の4つをあげ、国からの予算削減等により、使命機能が低下しつつある現状を説明した。しかし、後で一人の記者から「大学病院はそもそも地域に貢献していないではないか」と批判された。私は、大学病院の地域貢献が全く理解されていない事実に愕然とした。

その指摘に、そう言われてもやむを得ない面があったと思うと同時に、社会や地域から「貢献している」と評価されない限り、貢献したことにならないことを改めて認識した。大学は社会や地域が真に求める貢献を「実践」すると共に、それをデータにもとづいて国民に見える形で「広報」することが極めて重要である。

***************************************************************

次回につづく

 


 

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なぜ(注目度の高い)論文数を増やす必要があるのか?(Q&Aその2)

2012年02月07日 | 科学

(このブログは豊田個人の勝手な感想を書いたものであり、豊田が所属する機関の見解ではありません。)

 前回のブログに対して、さらに質問をいただきましたので、今日も引き続きQ&Aです。ただし、「(注目度の高い)論文」というように、少しタイトルを変更しました。

*****************************

Dさん(前のブログの質問も含め、たくさんのご意見をいただいています。)

 「注目されている、被引用回数の多いということは、大半、同じ分野の研究者が注目し、引用するのではと思っています。よく分かりませんが、研究成果増→イノベーションの創出増→地域の経済成長(GDP増)ということも今ひとつ理解がしにくいのです。むしろ、地域の経済成長の具体的事例からイノベーションの必要性を述べられ、そのバックボーンに研究成果増というご説明があって、大学の研究も基礎研究だけでなく応用研究が必要で、その為には研究費と研究員の増が必要というようなご説明は如何でしょうか?」 

Eさん

 「研究者数+研究時間」はその通りだと思うんですが、インパクトのある論文をエンカレッジする仕組みを同時に作る必要性を感じています。論文は出そうを思えばいくらでも書けてしまいますから。」

Fさん

 「とてもわかりやすい説明をありがとうございます。ただし、いわゆる「理系」以外の場合は論文をどのように考えているのでしょうか?」

*****************************

 良いご質問ばかりで、それぞれお答えに時間がかかります。紙面の関係上今日はDさんのご質問だけにコメントし、Eさん、Fさんは後日にさせていただきますね。

 Dさんのご質問、少し、理解しにくい点もあるのですが、私なりに言い換えると

”地域経済成長のためにイノベーションの創出が必要である点についてはわかるが、注目度の高い論文数増とイノベーションのリンクがわかりにくい。したがって、「注目度の高い論文数」を主張するよりも、イノベーションの成功事例を挙げて、そのバックボーンとなっている大学の存在意義を主張し、研究費と研究員の増についても、イノベーションと直結しやすい応用研究の充実を主張するのがいいのではないか?”

 ということでしょうか?

 Dさんがお感じになっていることはよく理解できますね。もし、大学の研究が生み出すイノベーションの効率や費用対効果を計算すると、現時点では非常に低い値になってしまうかもしれませんからね。

 民間企業でも、アイデアが製品化されて成功するのは、俗に1000に3つと言われています。大学の場合は製品化を目的に研究することは少ないので、製品化の成功率は民間企業よりもはるかに低いはず。そんな低い値を計算して、国民の理解を得ることは、なかなか難しいでしょうね。

 民間企業の場合は、研究開発投資を最終的に回収しなければなりませんが、むしろ大学や公的研究機関の研究は、必ずしも研究開発投資がすぐに回収できないような、つまり民間では実施困難な研究をするところに意義があるとも言えます。そうすると、民間企業と同じ基準で評価をすることは適切でないとも思われます。

 私も、Dさんがおっしゃっているように、成功事例によって大学や公的研究機関の意義を訴えることには、大賛成です。確率は小さくても、今までに、けっこうたくさんの成功事例が蓄積されており、そのバックボーンとして、大学や公的研究機関の基礎研究があってはじめて可能になったという説明は可能だと思います。また、すぐには製品化に結びつかなくても、将来人類の役に立つかもしれない”夢”を研究者が語ることも大いに効果があると思います。

 ただし、今の国の厳しい財政状況の中で、個別の成功事例や夢だけで、果たして国民や為政者の皆さんのご理解得られがるのか、ということを心配しています。予算の削減局面では、効率や費用対効果が明確に説明できない事項から”無駄”というレッテルを張られて削減される傾向にありますからね。

 したがって、成功事例をあげて、あるいは大きな夢を語ることによって研究の意義を訴えるとともに、可能な部分については、研究開発投資⇒注目度の高い論文数⇒イノベーション創出⇒経済成長というリンケージを可及的に明らかにする努力が必要ではないかと思っています。

 Dさんの

「注目されている、被引用回数の多いということは、大半、同じ分野の研究者が注目し、引用するのではと思っています。」

というご意見は、まったくその通りですね。でも、たとえ同業者の間の評価であったとしても、注目度の高い論文を産生している研究プロジェクトはイノベーションに結びつく確率が高いようです。逆に、同業者から無視されて、後世になって大きなイノベーションに結びついたケースも多々ありますけどね。

 文科省科学技術政策研究所が最近(2011年12月)リリースした調査資料ー203「科学における知識生産プロセス:日米の科学者に対する大規模調査からの主要な発見事実」(長岡貞男、伊神正貫、John P. Walsh、伊地知寛博)の中の「研究プロジェクトのアウトプットの状況」から、日本のデータを下に引用します。調査対象は70%以上が大学等、10~20%が公的研究機関、約5%が民間企業です。高被引用度論文産生群とは、ある学問領域で被引用数がTop1%の論文を産生している研究プロジェクトを指します。

                高被引用度論文産生群 通常群

 研究プロジェクトに費やした人月    100       72

 生み出した査読付き論文数(中央値)  15        8

 特許出願                 39%       22%

 研究成果の実施許諾や譲渡     14%        7%

 高被引用度論文を産生した研究プロジェクトでは、通常群に比べて産生した論文数も多く、特許出願率も高く、研究成果の実施許諾や譲渡も多いという結果です。そして、人月(お金)も多くかかっています。アメリカでも数値は違いますが、同じような傾向を示しています。

 また、論文が直接製品化に結びついていなくても、間接的に結びついている例はたくさんありますね。前のブログで、特許におけるサイエンス・リンケージをお話しましたが、特許の審査報告書に引用されたということは、その論文が直接製品に直結したわけではありませんが、間接的に製品産生に結びついたと考えられ、そのような間接的な経済波及効果まで計算すると、けっこうな値になるかもしれません。

 成功事例としては、有名な青色発光ダイオードの研究がありますね。徳島の日亜化学工業におられた中村修二先生がおこされた青色LED訴訟がたいへん有名ですが、その基礎になった研究としては名古屋大学の赤崎勇先生、天野浩先生が有名ですね。これは、大学での公的な基礎研究がバックボーンになって、大きな経済効果をもたらした一例でしょう。この研究のおかげで、一時期、名古屋大学の特許関連収入は日本の大学の中では最も多額でした。このような事例は大いに大学における研究の意義を主張してもいいと思います。

 ただ、実は、日本の大学全体の特許関連収入は高々10億円までで、米国の大学の特許関連収入24億ドルに比較すると、200倍くらい違うのです。これは、なんとかしないといけませんね。

 このように、特許関連収入だけで計算すると、日本の大学は惨憺たる数値しか出てきませんが、その間接的な経済波及効果まで計算すると、多少ましな数値が得られる可能性もあります。米国の産学連携の経済効果は2006年の時点で約10兆円と言われています。

 ちなみに文科省の「地方大学が地方に及ぼす経済効果分析」によれば、三重大学は県内総生産の0.3%を占め、県内生産誘発効果は428億円と計算されています。(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/houjin/07110809/004.pdf

 この428億円には、産学連携によるイノベーションの経済波及効果については含まれていません。それを加えると、さらに大きい値になると思います。

 最後にDさんの大学の研究も基礎研究だけでなく応用研究が必要で、その為には研究費と研究員の増が必要」というご意見には、私も基本的には賛成です。

 2008年のリーマンショックがおこる直前にアメリカのカリフォルニア大学アーバイン校に、医療ロボット研究についての連携協定を交わしに三重大学長として訪問したのですが、当時、当大学の特許関連収入が日本の大学全体の特許関連収入とほぼ同じ額で、工学部の教授の90%がベンチャーを立ち上げる、という話を聞き、また、キャンパスの中に民間企業のオフィスがずらーと並んでいる姿を見て圧倒され、おまけに、トヨタの電気自動車がキャンパスを走っており、また、日立の寄付した研究所があって、愕然とした気持ちで帰ってきました。

 

 この図は、上記の科学技術政策研の調査資料-203から引用したものですが、研究プロジェクトには、1)基礎原理の追及、2)現実の具体的な問題解決という2つの基本的な動機があり、それをマトリックスに表示したもので、ストークスによる研究分類と言うそうです。

 「基礎原理の追及」と「現実の具体的な問題解決」の両方が非常に重要とする研究は第二象限(パスツール象限)、「基礎原理の追及」だけが非常に重要とする研究が第一象限(ボーア象限)、「現実の具体的な問題解決」だけが重要とする研究が第四象限(エジソン象限)に振り分けられ、第三象限は、それ以外となっています。

 上の図は高被引用度論文産生群のデータで、下の英語の図は通常群のデータを示しています。

 これを見てわかることは、高被引用度論文産生群では、日米ともパスツール象限やボーア象限が多く、どちらでもない第三象限が少ないということです。また、米国は日本に比べて、パスツール象限が多く、どちらでもない第三象限が少なくなっています。

 パスツール象限の「基礎原理の追及」と「現実の具体的な問題解決」の両方を目指す研究には、たとえば、さまざまなイノベーションに応用できる”要素技術”の研究開発が含まれると考えられます。そうすると、結果的に論文も注目を集めて数多く引用されると考えられます。

 たとえば、先ほどの青色発光ダイオードの研究もそうですし、iPS細胞の研究もそうです。実は、昨日三重県でロボットスーツHALの開発者である筑波大学教授の山海嘉之先生の講演を聞いたのですが、これなどもまさにすばらしい要素技術の研究の賜物ではないかと思います。

 おそらく、米国の研究をイノベーションに結びつける圧倒的な力は、このあたりの差から来ているのでしょう。日本においても、どちらともつかない研究を極力少なくして、「基礎原理の追及」と「現実の具体的な問題解決」の両方を目指す研究、つまり重要な要素技術などの研究(結果的に被引用数が高くなる研究)への挑戦を増やしつつ、それをイノベーションにつなぐ仕組みの強化が必要なのだろうと思いました。

 そのためには、人も時間もお金も必要なのですが、Eさんがおっしゃっておられるようにインパクトのある論文をエンカレッジする仕組みを同時に作る必要性」があるということでしょう。

 それとDさんのお気持ちの中には、おそらく「注目度の高い論文数」を目的化するような表現に違和感をお感じになるのだろうと思います。「注目度の高い論文数」というのは、あくまで目的を達成するためのKPI(key performance indicator)の一つにすぎません。目的は人の役に立つ研究をすることであり、そのKPIの一つが注目度の高い論文数であるという位置づけを常に明確にする表現を心がけないといけないですね。

 人の役に立つ研究(KPIの一つが注目度の高い論文数)⇐研究者数×研究時間×研究費×研究体制×研究者の能力×α

 Dさんへのお答えになっているでしょうか?

 

 

 

 

 


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なぜ論文数を増やす必要があるのか?(Q&A)

2012年02月04日 | 科学

(このブログは豊田個人の勝手な感想を述べたものであり、豊田が所属する機関の見解ではない)

 前回までのブログについて、いくつかのご意見をいただいたので、今日はそれに対する答えです。つまりQ&A。

 まず、Aさんのつぶやき。

「ただ、個人的にはあまり中身のない論文書いても、論文出版するのにもお金はそれなりにかかるわけで、それこそ税金の無駄だと思う。要するに単に数の問題だけじゃじゃない。」

 まったく、その通りですね。今回は「なぜ論文数を増やす必要があるのか?」というタイトルにしましたが、ちょっと誤解を招く表現だったかもしれません。

 まず、「なぜ、質(あるいは注目度)の高い論文数を増やす必要があるのか?」というふうに”質(あるいは注目度)”という言葉を入れると、多少誤解は少なくなるかも。

 私がアメリカのバンダービルト大学に研究留学していた時のボスは、河野哲郎という方で、インスリンの作用の研究では有名な研究者でした。実は、彼の論文数は他の研究者に比べるとかなり少なかったんです。でも、彼の論文は、追試が100%可能ということで、他の研究者から一目置かれていましたし、彼も、他者から絶対の信頼を抱かれる論文を書くことを信条としていました。

 トムソン・ロイター社などの学術論文データベースが整備され、私が教授になった20年前の日本にも、インパクト・ファクターや被引用数という”ビブリオメトリクス(bibliometrics)の手法が紹介され、大学の理系の教員選考では、たとえば有名な学術雑誌に掲載される英語の論文数の多寡が大きく影響するようになりました。これは、ある面では教員選考に客観的な資料を提供する手段となりましたが、一方ではその行き過ぎも反省されるようになっていると思われます。

 私の知っている臨床医学の先生で、英語のファーストネームの論文を圧倒的にたくさん産生している方がおられました。だいたい月1回のペースで論文を書いておられたかもしれません。非常にまじめで、夜中も3時~4時まで研究をしておられました。しかし、彼は結局、教授選考で落とされました。彼の努力を知っている私としては残念に思ったのですが、同じような研究ネタで、少しだけやり方を変えては論文数を増やしているというふうに受け取られて、マイナスの評価になったのだと思います。

 あくまで、”論文数”は研究成果の一つの指標であり、このように”論文数”を増やすことだけが目的化してしまうとおかしなことになりますね。しかし、”論文数”は、研究活動を推測する上で重要な指標であることには間違いないと考えます。

 そもそも数値目標というのは、多かれ少なかれそういう面をもっていると思います。数値だけが目的化してしまうと、おかしなことになりますが、適切な数値目標を設定して、その裏にある真の目的を見誤らずに使えば、目的実現のための有効な手段になるのではないでしょうか。そして、完璧な数値目標というものはありませんが、目的を実現する上で、最も誤差の少ないと思われる数値目標がKPIということになるのでしょう。

 私は、学術やイノベーションの国際競争力について、国としての数値目標を設定するべきではないかということを新聞にも書きました。そして、いくつかの指標がある中で、”国民一人あたりの質(または注目度)の高い論文数”がKPIの候補になりうるのではないかと思っています。それを、まず、台湾並みの1.5倍にしてはどうか、というのが、最近の私のブログで書いた主張でしたね。

 そしたら、Bさんから、”では、国立大学全体の目標を質の高い論文数を1.5倍にすることにして、それを、各大学に割り振りましょうか。”というご意見をいただきました。それを聞いていたCさんからは、”そんなことをしたら、大きな大学で外部資金を多額に獲得できる大学は可能かもしれませんが、地方大学ではとても無理なのではないですか?”というご意見もいただきました。

 いわゆる、数値目標のノルマ的な割り振りですね。これでは、現場が疲弊するだけで、目標達成は不可能でしょう。

 最近ではあまり言われなくなりましたが、企業の管理技術にTQC(total qulity control)というものがあり、その中核をなすのが”方針管理”とされています。”方針”というのは目標+方策というふうに理解しています。この方針管理においても、まずトップが大きな方針を決めて、それが各部署に振り分けられて展開されていきます。ただし、方針(目標+方策)の展開であり、成果目標だけではなくプロセスも展開されていくので、いわゆる数値目標のノルマ的な割り振りとは違う面をもっています。

 先のブログでも書きましたように、論文数を増やすための方策としては、まず人的インフラとして研究者×研究時間を増やすことが必要であり、これを1.5倍にする必要があると思います。そして、そのためには、国による支援をどれだけするべきか、現場の大学の自己努力をどれだけするべきか、ということになるんだと思います。また、国及び大学現場の双方に、構造改革が必要になると思います。

 ”論文数も金次第”ということを申し上げましたが、基本的にお金を削減して論文数を増やすことは困難であると考えます。国としては数値目標実現のためには、それなりの予算を確保する努力が必要でしょう。

 現場の努力としては、たとえば教員の研究時間をできるだけ多く確保すること。そのためには、教員の雑用を減らしたり、会議の時間や回数を減らしたりすることも必要になりますね。経営努力によって剰余金が出そうであれば、極力教員や補助者の数を増やすことに使うべきでしょう。もちろん、優秀な教員を確保できる選抜方法や人事制度・評価制度の改革も必要です。

 国家公務員の人件費削減改革を、そのまま国立大学法人や研究機関に適用していては、どうしようもありませんね。

 附属病院ですと、医学部予算や交付金で措置されている教員の診療負担に病院の経営をたよるのではなく、診療の収益の中で医師の人件費をカバーすることができるような経営効率化をめざすべきですし、そのためには病院の再開発についても、高機能を保ちつつ、できるだけコストカットをする努力をするべきでしょう。ただし、このような経営努力をした大学への交付金を削減しているようでは、とても実現は不可能です。経営努力で浮かしたお金は、すべて論文数1.5倍増という目標の達成につぎ込まれるべきです。

 Dさんからの質問

 「私が誤解していたのは、大学の研究は民間に比べて、当然基礎的研究であると思っていました。従って、比較的お金を要しない、しかし長時間かかる研究と言う認識でした。従って、全分野の論文の数と、お金がかかるということには、勿論お金が必要な研究はあるでしょうが、若干抵抗を感じますが如何でしょうか?やはり分野別とか、基礎研究と応用研究が分けられたような表現が必要ではないでしょうか?(確な分類は困難でしょうが)」

 Dさんのおっしゃるように大学や公的な研究機関の研究は民間に比べて当然基礎研究主体です。ただし、基礎研究も相当お金がかかりますけどね。ノーベル賞につながったスーパーカミオカンデによるニュートリノの検出にはかなりのお金が使われています。

 文科省科学技術政策研究所の科学技術指標2011によれば、性格別研究開発費について以下のように記載されています。

 「性格別研究開発費とは、総研究開発費を基礎、応用、開発に分類したものであるが、日本は自然科学分野のみの研究開発費を分類している。

○2009 年度の日本の性格別研究開発費のうち基礎研究の割合は全体の15.0%、そのうち大学部門が占める割合は51.3%と多い。

○各国の最新年の性格別研究開発費のうち、基礎研究の割合が大きい国はフランスであり、全体の25.4%である。一方、一番小さい国は中国で、全体の4.7%である。また、基礎研究費の使用部門別内訳を見ると、大学部門が最も大きいのはフランス、米国、日本であり、公的機関部門が最も大きいのは中国であり、企業部門が最も大きいのは韓国である。」

 また、Dさんがおっしゃるように、分野別でもお金のかかり方は違いますね。先ほどの宇宙やロケットの打ち上げ、あるいは素粒子の研究などには、1件あたり多額の研究費がかかる基礎研究がありますね。もちろんお金のそれほどかからない研究もあるわけですが。

 お金のかかる研究をやめてお金のかからない研究をやれば、当然少ないお金で、論文数が多くなるわけです。以前のブログでお示ししたように、研究費あたりの論文数を計算すると、旧帝大よりも地方大学の方が多くなります。これは、地方大学では1件あたりのお金のかからない研究を多くやっているので、そういう結果になっているのだと思います。では、地方大学だけの研究でいいのかというと、そういうことにもならないと思います。

 また、注目度(質)の高い論文は、大規模な研究体制で生まれる確率が高く、お金がたくさんかかっているというデータがあります。

 論文に影響する因子は複数あるわけですが、お金は、その因子の大きな部分であり、データで見る限り、大枠では、特に注目度(質)の高い論文数はお金に左右されます。もちろんお金のかからないように努力するべきですが、お金をかけずに、質の高い論文数を増やすことは、言うはやさしくして実際には困難であると考えます。

 今のわが国の国立大学での論文数の減少が、研究者×研究時間という人的インフラのダメージによるところが大きいというのが私の見解ですが、この人的インフラの回復にはお金が必要です。(お金を国から支援してもらうか、自己努力で稼ぐか、構造改革で他の部分を削って研究にお金を回すかは別にして)

 お金を減らしつつ論文数を増やせというのは、竹やりで外国と戦えといっているのと同じで、お金を確保していただいて、その上で最大限の効率化や構造改革の努力をして、質の高い論文を増やす努力をしないと、現場が疲弊をするだけで、外国には勝てないと思っています。

 Dさんからは、他にもたくさんの質問をいただきました。今日はこのくらいにして、また、順次お答えしていきたいと思っています。






 


 



 

 


 


 

 

 

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