今年度から、私は内閣府総合科学技術会議の「基礎研究および人育成部会」という会議の委員として出席をしているのですが、その会議で配られた資料には、日本の学術論文数が減少していること、そして、若手教員(研究者)の比率が減っていることを含め、たくさんの日本の研究機能についての分析データが示されていました。
日本の若手研究者の減少については、以前のブログでもご紹介したように、最も有名な科学誌の一つであるNature誌の3月20日号にも記事が掲載されていましたね。http://www.nature.com/news/numbers-of-young-scientists-declining-in-japan-1.10254
そして、資料の中で私が目を留めたのは、エルゼビア(Elsevier)社のスコーパス(Scopus)という学術文献データべ―スによる、日本の学術論文数の変化を示したグラフでした。
今まで、私は、主としてトムソン・ロイター社の学術文献データベースにもとづいて分析し、日本の学術論文数が停滞し、国際シェアが低下していることを皆さんにお示ししてきましたが、エルゼビア社の学術文献データベースも、トムソン・ロイター社と並んで、世界の大学のランキング等にも採用されている、たいへん有名なデータベースですね。
日本と海外諸国の最近の学術論文数の推移を示してあるのが下の図です。米国と中国は他の国よりもはるかに多くの論文を書いており、スケールが違うことにご注意ください。
さて、この図をみると、少し太めの赤線で示されている日本の論文数が、多くの国々の中で唯一異常とも感じられるカーブを描いて減少していますね。いつから減少しているかというと、国立大学が法人化された翌年の2005年から増加が鈍化して2007年から減少に転じています。他の国はすべて、右肩上がりです。
トムソン・ロイター社のデータベースによる分析(5年移動平均値)では、日本の論文数は少し早く2000年頃から停滞を示しており、エルゼビア社ほどはっきりと増減を示していません。エルゼビア社では、トムソン・ロイター社ではすでに停滞している2003年頃から増加し、そして、2007年から減少に転じています。
データベースによって、収載する学術誌の選び方や変更の仕方が違うので、二つの会社のカーブが多少異なっていることは不思議な事ではありません。ただし、データベースによって、その“くせ”のようなものがあり、一つのデータベースだけにこだわって分析をすると、過ちを犯すリスクがあると思います。やはり複数のデータベースで確認することが、大切なことですね。
トムソン・ロイター社のデータベースでは2000年頃から日本の論文数が停滞しているので、2004年からの国立大学法人化とは必ずしも一致せず、その原因についても法人化と必ずしも関係のないことも影響したのではないかと考えられてきました。たとえばその前後から始まった国立大学教員の定員削減も原因の1つの候補ですね。政府支出研究費が頭打ちになったのも2000年頃からなので、大きな要因の一つであると思います。
一方、エルゼビア社のデータベースでは、2004年の国立大学法人化の数年後から論文が顕著に減少しており、これを見ると、まさに国立大学法人化、あるいは、法人化の時期と一致して起こった何かが原因であることを思わせるデータですね。減少に転じるのが2004年から少し遅れているのは、何らかの原因が論文数に反映されるのにはタイムラグがありますから、それで説明できるかもしれません。
エルゼビア社のデータでは、唯一日本だけが異常なカーブを描いており、これは、徐々に、自然の流れで生じたことがらではなく、突然に、人為的・政策的に生じた現象であることを思わせます。
このカーブを見せられたら、たとえ法人化そのものが原因ではなくても、他の国は国立大学を法人化することを躊躇するでしょうね。まだ韓国と台湾が国立大学を法人化していないのも、わかるような気がします。
私は、各大学の裁量を増やすことが法人化であると解釈すれば、法人化そのものが論文数減少の原因にはなりえないと思っています。台湾の国立大学は、法人化をしていないのに、各大学の裁量を増やして、論文数が増えていますからね。法人化によってさらに裁量が増えたら、ひょっとしてもっとパフォーマンスがあがるかもしれません。
そんなことから、裁量を増やしたたことが論文数の停滞~減少につながったのではなく、法人化と同時期になされたさまざまな政策、たとえば運営費交付金の削減や、新たな運営業務の負担増、特に附属病院における診療負担増、政策的な格差拡大による2番手3番手大学の(研究者×研究時間)の減少、などが影響したのであろうと考えています。
もっとも、トムソン・ロイター社のカーブとエルゼビア社のカーブのどちらが、研究力を真実に近い形で反映しているのかわからないわけですが、いずれにしても2000年頃から法人化後にかけて、日本の学術論文は停滞~減少傾向にあり、他国がすべて右肩上がりであることから、研究面での国際競争力が急速に低下したことは、まぎれもない事実と考えていいでしょう。
また、いずれのデータベースでも、収載する学術誌を増やしていけば、その国の学術論文産生数が実際には増えていなくても、見かけ上増える可能性があります。たとえば、私がかつて出入りをしていた大阪大学の微生物病研究所がずっと昔から発行していたBiken Journalという学術誌が、比較的最近トムソン・ロイター社のデータベースに収載されたので、収載された時点からのBiken Journalの論文がデータベースの論文としてカウントされて、その分日本の論文数が増えたことになります。
一方、データベースの論文数が減った場合は、実際にも、日本が産生する論文数が減った可能性が非常に高いわけです。「停滞」でも実際は減っている可能性があります。また、データベースが一部の学術誌の収載を止めることがありますが、この場合は、その学術誌のレベルが低いと判断して収載を止めるわけです。実際には論文数は減っていないかもしれないが、質の低い論文が除かれて見かけ上データベースの論文数が減るということが、理論的には生じ得ます。いずれにしても、データベースの論文数が減るということは、極めて芳しくない結果です。
このような論文数減少のカーブを描いた国立大学法人化第一期(2004~09)において、国立大学法人評価がなされ、その点数によって運営費交付金が大学間で傾斜配分されても、いったいどういう効果があるの?と問いたくなりますね。国立大学法人評価やそのインセンティブは、国立大学全体としてのパフォーマンスを向上させることが目的であると思いますが、法人化第一期の国立大学の研究のパフォーマンスは下がっているわけですからね。もっとも、私が学長をしていた三重大学は評価によってご褒美をいただいた大学の一つなので、ありがたく頂戴しているわけですが・・・。
さて、いつもご意見をいただくDさんから、今回もご意見をいただきました。
「国立大学への運営費交付金の削減が研究機能の低下につながり、それが優れた論文(研究力の一つの尺度)の数を減少させているということは、私なりに理解できるのですが、それなら来年から交付金の額が増えれば解決かというと、そう簡単にいくのでしょうか?研究費以外の要因はどうなのでしょうか?」
論文数の分析の結果「では、政策にどのように反映するべきか?」というご意見と承りました。非常に重要なご質問ですね。国においても来年度概算要求に向けていろいろな政策が検討されていると思いますが、これについては、次回のブログから考えていくことにいたしましょう、読者の皆さんからも、どうすればいいのか、どんどんアイデアやご意見をいただけるとうれしいです。
(このブログは豊田個人の感想を述べたものであり、豊田の所属する機関としての見解ではない。)
先生には言うまでもないことですが…
技術というものは(研究に限らず)積み重ねによって改善,更新を繰り返していくものですから,日本が過去10年で世界の第一集団から脱落したからといって「予算を増やせばすぐ追いつける」というものではなく,一度失った遅れを取り戻すために持続的・継続的に予算を付け続ける必要がありますね.
しかも,他国だって必死で走り続けているレースですから,今から全力で予算を付けても「いつかは追いつける」などという保証はどこにも無いというか,どちらかというと既にゲームオーバーの可能性の方が高いと思います.
それと,アカデミア脱落者(注:研究者としては脱落していませんが)として感じることは,00年代初頭あたりまでに学術系パーマネント職に付いた世代と,その後の世代の間における極端な格差です.一般企業の就職と同じ構図ですが,年を取って不良資産化した連中をクビにできないシワ寄せによって入り口が絞られまくりました.その代わりにPD職で数年間のスパンで一時的な成果を量産させようとしたのが00年代ですよね.しかし,そんな短期間の雇用ばかりで長期的・持続的な研究成果が出るはずもないですし,そもそもPDを使う側の研究者のプロジェクト・マネージメント能力が低いために,結果的にPD個人の能力に依存した研究になりがちで,PDの経験が何のスキルアップも産まず,win-winどころかlose-loseな雇用体系になってしまっているのが日本の研究現場ですね.
…というような現状を鑑みて,私の知っている大学教員でも「最近は学生が博士を希望しても全力で止める」と公言している人が何人もいます.私の周囲で学位を取った者はかなりの割合で企業に就職しています.特に優秀な人材であれば,日本で学位を取ってから学術系を目指して不幸な人生を送る位なら,最初から米国で学位にチャレンジするべきというのは否定できない事実でしょう.その結果,さらに国間格差が開くという悪循環ですね…
国として競争力を取り戻すためには,既得権を廃止して,若くても能力のある人材を優遇するような制度にしなければならないでしょうね.若手をPD職で雇用するなら,上の世代は「最低でもPD以上の成果を出さない限り雇用する価値が無い」という認識を常識にしなければならないと思います.が,そういう基準でクビにするような制度が実現できるかといえば,制度を決める側の連中がそんな自分の首を締めるような制度を作るわけはないですよね…
大学法人化と結びつけるのはちょっと無理があるのでは。1990年代からの長期的な変動や、国際的に共通した論文数の変動傾向を鑑みれば、2000年頃から始まったコンスタントな論文生産者の減少が理由ではないかと。
自然科学の研究は、何も研究費の多寡でのみその生産性が左右されるものではありませんが、ある程度の研究費がなければアイディアだけでは論文は書けません。科研費の配分の傾斜をなくすことと、事後成果の検証が厳密に行われることが必要でしょう。
大学が法人化されたことによって、ともすればすぐ成果が出やすくまた説明しやすい応用分野への研究が重要視され、基礎科学分野が軽視されます。この傾向は日本の将来の科学技術の発展に大きな禍根を残すことになるのではと危惧します。
まぁ、そんなことを考えないで、おじさんおばさんのことは完全に無視して、今のこれらからの若者のことだけを考えていきたいです。
ちなみに私は地方大学でPD、をしています。1歳と6歳の子供がおり、全力で研究なんてできません。低空飛行でもいいから続けていこう、という気持ちです。今では、教員数削減、地方大学では教授が数名やめたって、助教を雇うことはありません。
でも、後数年、そうしたら、世代交代が始まるのだろうと思います。その時、なにが変化するのか、まったく予想できません。
まとまりないコメント、お許し下さい。
でも海外の大学のように寄付を集める努力を日本の大学はしているようには思えない。世の中に自分たちのやっている事は世に必要で大切なものだから、それに寄付してください。と胸をはって日本の大学は人様に言えるのだろうか。
研究テーマの発掘力(問題探求力)低下もあるのではないでしょうか?大学に入学するという目標で少年少女時代をすごし、大学に入学して即その力量がつくのは難しいように感じます。
単発の研究にとどまらず、それらを束ねて大規模に実績を出す時代に来たと思います。各大学や講座というバイアスから独立してデータ集積などを行うことで競争力が増すような気もします。
書いて書庫に眠る論文なら、少なくなることはさして問題ではないと思うのです。
先生のブログでも書かれているとおり、研究者の数、質、研究費など様々な要因により増減することはわかりますが、いずれも無限に増えるものではないし、それならば減少することも自然にありえるはずです。
また、人口が一様に増加している国であれば研究者数は自然に単調増加しうることもわかりますが、すべての国で人口が一様に増加しているわけでもないはずです。
私には、むしろ、(日本以外の)すべての国で一様に増加していることのほうが異常に思えるのですが。
若手研究者を取り巻く状況では、結果が出るかどうかもわからないような研究などしたら、次の契約までに結果が出なくて、職を失う危険と隣り合わせの状況に追いやられた若手研究者が多く存在します。このような状況では、研究面でのおもしろさを感じるいとまもないのではないでしょうか。この状況で後輩に対して本気で勧誘できるでしょうか。
若手研究者はpermanentの職や次の仕事を必死に探しています。この状況で、研究を腰を据えてできる人は尊敬に値しますが、多くは疲弊して耐えられなくなっていくのではないでしょうか。
夢が見られることがなくならないような政策を期待いたします。