ある医療系大学長のつぼやき

鈴鹿医療科学大学学長、元国立大学財務・経営センター理事長、元三重大学学長の「つぶやき」と「ぼやき」のblog

「日本の存在感低下、科学論文や特許出願数」に想う

2013年07月19日 | 科学

「日本の存在感低下、科学論文や特許出願数」

これは今日の朝日新聞のある記事のタイトルです。「今年の科学技術白書が厳しい現実を指摘した」とあります。

僕がずいぶんと前から一生懸命訴えてきたことがようやく認識されはじめたのかな、という感じですね。

科学技術白書を覗いてみると

「・近年、山中教授等卓越した研究成果の産出はあるが、全体として論文生産の量・質のシェアや順位が低下⇒我が国の研究活動における存在感の低下を示唆
・我が国の研究費は着実に増加してきたが、米国、中国等主要国の研究費の伸びは、我が国に比べ高い。」

と記載されており、今までは論文の量を書くことがタブー視されていたのが、「量・質」という表現になっていることは、少し進歩したと思います。そして、「主要国の研究費の伸びはわが国に比べて高い」と記載されていることも、少し進歩したと思います。このことは、研究費総額を増やさなければ海外には勝てないということを意味しています。

 しかしながら、財務省や中央省庁の考えが、引き続き「総額抑制+選択と集中」政策であるとすると、日本の競争力の向上はそれほど期待できないと思います。

 さて、昨日は三重大学の創立60周年記念誌のあいさつ文を書きましたが、三重大学の論文数、とくに僕の専門である臨床医学の論文数がどうなっているか、ちょっと気になって調べてみました。

 例によってトムソン・ロイター社のInCitesという簡易データベースを使いました。なお、データは整数カウント法、つまり、複数の大学にまたがる共著論文を、それぞれの大学の論文数「1」としてカウントしたもので、3年異動平均値で示ししてあります。各大学の論文産生のおよその動向を知るには問題はないと考えます。

 まず、附属病院をもっている42の国立大学の臨床医学論文数の平均の推移です。2000年ころから停滞していた論文数が最近少し上向いています。2000年ころからは、国立大学への予算の削減が始まり、また、科学研究費も停滞したころですね。最近論文数が少し増えてきたのは、大学病院に対する急速な予算削減に対する手当てがなされたことや、科学研究費を増やしていただいたことの効果かもしれません。

 ただし、下のスライドにお示ししたように、最近論文数が増加したのは、主として上位の大学であり、これは国の大学重点化政策、あるいは選択と集中政策の影響のように思われます。上位大学と下位大学の差がどんどんと大きくなっています。

 なお、このグラフでの大学群分けは2010-2012年の3年間の論文数の平均値の順に並べて、7大学ずつにグループ分けしたものです。Top7グループは、旧7帝国大学と一致します。


 

 さて、僕の古巣の三重大学の臨床医学の論文数ですが、下に第3グループと第4グループのグラフを示します。実は第4グループの赤の三角のプロットが三重大なんですが、第4グループの1位か2位であり、上から数えると22~23番目ですね。2004年の法人化後も三重大はけっこうがんばって、論文数も増えて、第3グループに入っていたのですが、ちょっと心配なことに、最近論文数が減少し、第4グループになっています。三重大学の全学同窓会長の僕としては、なんとか三重大学に頑張って欲しいものです。



 

  それぞれの大学のカーブは、実に山あり谷ありで、それぞれの大学の苦難の歴史を反映しているように思えます。国の予算の削減に伴って、大学病院の借金返済の負担が増え、大学内の研究人材の減少や研究時間の減少など、地方国立大学が被った多くの負荷の反映であると思います。実は、論文数は大学病院の経営とも密接に関係しているのです。

 次回には、論文数と大学病院の経営の関係性についての僕の分析をお話しようと思います。それは、論文数を増やすためには、研究費総額を増やさなければどうしようもないと僕が確信するに至ったデータでもあります。読者のみなさん、次のブログを楽しみにしていてくださいね。

 

 

 

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近視眼的な教育学部の杓子定規の縮小で潰されかねない、日本国としての貴重な国際交流の取り組み

2013年07月18日 | 高等教育

  鈴鹿医療科学大学の学長を務めさせていただいて、もう4か月近くが経ち、理学療法学科の2年生を対象とした「救急医学概論」の授業も、残すところあと1回になりました。

  さて、実は古巣の三重大学から頼まれていた、創立60周年記念誌への原稿ができあがったので、先ほどメールで送ったところです。記念誌ができる前に、ブログの皆さんに原稿をご紹介することにしましょう。僕の肩書としては、三重大学全学同窓会の会長ということでした。

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三重大学創立60周年に想う

三重大学全学同窓会長

豊田長康

 三重大学創立60周年、そして、素晴らしい記念誌が発刊されたこと、ほんとうにおめでとうございます。

 ただし、前身である師範学校や高等農林学校からの歴史をさかのぼると、60周年どころではなくなります。インターネット上のウィキペディアでは、三重大学の創立は1874年、大学設置が1949年と書かれています。つまり、さらに75年もさかのぼることになり、創立135周年ということになります。

 実は、2011年に長崎大学附属病院の創立150周年記念事業に招かれて特別講演をさせていただいたのですが、長崎大学の設置は1946年と三重大学と同じ年ですが、彼らはポンぺが長崎に病院を開設した1861年を附属病院の創立年としているのです。長崎大学のホームページを見ると、大学の沿革として1857年の医学伝習所設置から書かれており、大学としては、その年を創立年としています。そして、長崎大学は創立時の医学伝習所やポンぺの進取の精神を非常に大切にして承継しており、そのDNAは原爆によっても破壊されることはなかったわけです。

 三重大学も創立135周年という伝統の重みを、もっと主張してもいいのではないかと感じています。1874年は度会県師範学校ができた年です。1875年には三重県の旧藩校の有造館跡に師範有造学校が設立され、1976年の度会県と三重県の合併に伴って、山田師範学校、津師範学校と改称され、1977年に両師範学校の合併により三重県師範学校と改称されたとあります。創立時から、激動の歴史が始まっていることがわかります。

 第二次世界大戦後の1949年に学芸学部(現教育学部)と農学部からスタートした新制三重大学は、1969年工学部設置、1972年医学部と水産学部の県から国へ移管、1983年人文学部設置、1987年生物資源学部設置と、戦後の激動の時代の中で着実に発展をしてきました。この間、歴代の学長先生をはじめ、教職員の皆さんの並々ならぬご尽力があったものと思います。諸先輩方には、よくぞ、ここまで三重大学を発展させていただいたと心から感謝しております。そして、小職が三重大学にお世話になったのは1978年から2009年までであり、激動の60年間の後半の約30年間ということになります。

 しかし、ちょっと残念なことに2000年前後から国立大学は次第に縮小のモードに入って毎年予算が削減され続け、小職が学長に就任した2004年からは法人化という荒波をかぶり、現在、国からは国立大学のミッション再定義と称するヒアリングを受け、一部学部の縮小を余儀なくされつつあります。将来、三重大学は他の大学との統合も視野に入れた再編成を考慮せざるをえないかもしれません。

 そのような時に、たとえ外形や名称が変わろうとも、世代を超えて伝えることのできる三重大学のDNAはいったい何なのか?この60周年記念誌で三重大学のまさに激動の歴史を振り返りつつ改めて考えてみる必要があるのではないかと思います。

 思い起こせば、小職の前任の矢谷隆一元学長も、何度もDNAのことを話題にして挨拶しておられました。伊勢神宮は20年毎に新しく建て替えられますが、その古代建築のDNAが1300年間変わることなく承継されてきたことを例に示されて。

 本年は、ちょうど伊勢神宮の遷宮の年ですが、常に新しく造り替えられつつも、この地域の激動の135年間の学術・文化の基盤を支えてきた三重大学のDNAが、着実に未来へ伝えられることを心から祈念したいと思います。

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 さて、今日僕がブログの読者の皆さんに訴えたいのは、実は、上の原稿の中の、「一部学部の縮小を余儀なくされつつあります。」という部分なんです。これは三重大学教育学部のことです。昨年打ち出された大学改革実行プランにミッション再定義ということが書かれているのですが、三重大学教育学部のミッションは何かと国から問われた時に、「教員養成です。」と答えたとたんに、「では、教員免許取得を卒業要件としていない新課程(いわゆるゼロ面課程)は縮小ですね」ということになるのです。これは、財務省の既定路線ということでしょう。

 このロジックにはなかなか反論しにくい面をもっているのですが、ただ、三重大学教育学部の新課程が縮小されるとなると、日本国にとってたいへん残念なことが生じます。

 それは、僕が三重大学の学長であった時に、教育学部の先生方がせっかく苦労して創り上げた天津師範大学との学部レベルでのダブルディグリー制度「日本語教育コース」が、教育学部の新課程にあるために、維持できなくなってしまうからです。

 海外の大学との学部レベルでのダブルディグリー制度は、極めて珍しいもので、たいへん貴重な存在です。2006年から試行的に始まり、2010年7月には中国政府から合作弁学事業として正式認可され、現在、天津師範大学からは毎年20人の学生が、三重大学に来ています。

 このコースは5年間で、天津師範大学と三重大学の両方の学位が取得できるプログラムで、前半は天津師範大学で日本語を中心に学び、後半は三重大学で教育学の授業を日本人学生に交じって受講します。三重大学の先生が交代で天津師範大学に在駐して、日本語を教えています。

 このダブルディグリー制度は中国人学生に人気のある競争率の高いコースとなっており、優秀な学生が選抜されています。以前、日本へ留学する中国人学生の質が問題になったことがありましたが、現地のきちんとした大学と提携することで、その問題が解決されるわけです。9月の入学式の時には、三重大学の学長が天津師範大学に赴いて、向こうの学長といっしょに入学式の式辞を述べます。

 中国政府も、このようなダブルディグリー制度は経験がなく、最初は半信半疑であったようですが、2011年に、ようやく政府として正式に認可をしたところです。三重大学の努力によって中国政府がせっかく正式に認可した制度を、三重大学自らが潰してしまえば、中国政府は二度と、このような制度を日本のどの大学に対しても認めないでしょう。中国からすれば、三重大学は国立大学ですから、これは国と国との信用問題にかかわることになるのです。

 天津師範大学の先生がたが、この前お会いした時に僕たちにおっしゃっていたことは、中国政府は国策として”孔子学院”を世界各国に作って国の戦略として中国語を広めようとしているのに、日本国は、せっかくの日本語を外国人に教える機会を自ら捨ててしまおうとしているなんて、なんてもったいないことをしようとしているのだろうと、あきれ返っていました。

 今、中国と日本の関係は冷え込んでいますが、冷え込んでいる時こそ、このような現場レベルでの中日の交流を維持することは、極めて重要だと考えます。海外からの留学生をさらに増やすことを掲げている日本政府が、近視眼的に、たいへん貴重な先進的な国際交流の取り組みをみすみす潰してしまうのは、ほんとうにもったいないことです。

 この、ダブルディグリー制度を批判することは簡単です。たとえば、現在中国側からだけ学生が来ており、日本人の学生が向こうに行く制度にはなっていないではないか、という批判です。僕は、だからといって、ダブルディグリー制度をつぶす理由にはならないと思います。いったん潰してしまえば、日本人が向こうへ行けるようなダブルディグリーは永久にできなくなります。まずは、中国からの学生のダブルディグリー制度を確立して、第二段階として日本人学生が中国で学ぶダブルディグリーの拡張に努力すればいいことです。

 この三重大学の天津師範大学との先進的なダブルディグリー制度は、日本国としては絶対につぶしてはいけません。国は、近視眼的な教育学部縮小政策を杓子定規に推し進めるのではなく、日本国としての長期的な国益にかなう現場の取り組みについては、柔軟な政策により守るべきです。まずは、三重大学の学士レベルでのダブルディグリー制度を守り、次はそれを全国の大学に広げる政策を打ち出すべきです。それが、優秀な海外の留学生を確保する最も確実な方法であり、今後、内向きと心配されている日本人が海外に出るための有力なシステムに発展すると考えます。

 

 

 


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国体とチェッカークッキーとトライアスロンと鈴鹿医療科学大学

2013年07月02日 | 科学

 4月に東京から三重に帰り、あっという間に7月になりました。

 今日は「第76回国民体育大会三重県準備委員会の第2回総会」なる会議がホテルグリーンパーク津で開かれました。「鈴鹿医療科学大と国体なんてあんまり関係なさそうだし、それに2021年の開催なんてずいぶんと先の話だし・・・」と感じて、大学内の仕事もたくさんあるし、よっぽどすっぽかそうかと思ったのですが、三重県知事の鈴木英敬さんの名前で招聘がかかると、やっぱり参加せざるを得ませんね。彼は僕の高校の後輩だしね。

 「委員会」と書いてあったので、四角に取り囲むように並べた机に座る情景を思い浮かべていたのですが、会場へ来てみると予想とは大違いで大きな会場にぎっしりと人が座っており、僕は真ん中ぐらいの席。

 名簿に目を通すと、会長は三重県知事で、委員の数が178名。各市町の首長さんや、スポーツ団体をはじめ、三重県の数多くの団体の長の皆さんの名前がずらーと並んでおり、地域の有名人が一堂に会したという感じです。

 まずは、大垣市長の小川敏さんの「ぎふ清流国体・ぎふ清流大会がもたらした地域活性化」というご講演から始まりました。これは1時間近くにわたるたいへんしっかりとしたご講演でした。その中で、国体の岐阜県への経済波及効果は推計で548億円ということでした。確か、三重大学の経済波及効果も500億円に近かったんじゃなかったかな?つまり、地方国立大学の経済波及効果は、ほぼ、毎年国体を開催するに等しいということなんだな・・・。

などと思いをめぐらせつつ、机の上においてあったチェッカークッキー(下の写真の右上)を食べました。どこで作られたクッキーかなと思って袋の裏を見ると「社会福祉法人 夢の郷、三重県津市城山1丁目8番16号」と書いてある。

 スマホでHPを見てみると、「社会福祉法人 夢の郷」は、平成3年に「三重県立こころの医療センター」の家族会が社会復帰施設設置を決議し、平成10年に社会福祉法人夢の郷が認可され、平成11年に精神障害者社会復帰施設開所、生活訓練施設 朝海ハイム(短期入所施設併設)、通所授産施設 クローバーハウス、地域生活支援センター「アンダンテ」が設けられたと書いてありました。その後も様々な施設が造られて現在に至っているようです。そして、クッキーは、朝海ハイムで製造され、クローバーハウスで購入できるとのこと。

 そして、この委員会の席で、国体では、パラリンピックと同じように障害者の競技会が重要な構成要素となっているというご説明をお聞きすると、そういうことでチェッカークッキーと国体がつながっていたのか、と合点がいきました。そして、ひょっとして、と思って鈴鹿医療科学大学のHPを見てみると、医療福祉学科の精神科ソーシャルワーカー(PSW)の主な就職先として、ちゃんと「社会福祉法人 夢の郷」が書いてあるではありませんか。

 そうか、僕は、うちの卒業生が働いている社会福祉法人で、障害を持つ皆さんが一生懸命つくってくれたクッキーを今いただいているんだな、と思いを馳せると、クッキーの味が、また、格別のものになりました。

 さて、次は、今日のタイトルの「トライアスロン」がどう鈴鹿医療科学大学と結びつくかっていうお話ですね。こちらの方は、名簿の中に「三重県トライアスロン協会会長 山田康晴」という名前を見つけたので、鈴鹿医療科学大学の臨床工学科の山田康晴先生と同性同名の人がいるんだな、と思っていたのですが、もしや、と思ってやはりスマホで調べてみたら、どうも同一人物らしい。僕の座っている机の前の席に、後姿が何となく山田先生らしい人が座っていらっしゃるので、お声をかけてみたら、やっぱり山田先生でした。彼は、もう20年くらい前からトライアスロンにはまり、以前は年5~6回くらい大会に参加していたとのこと。鈴大にも”鉄人”がいたということですね。

 国体が開かれることとも関連して、今年は三重県で初めてトライアスロンの大会が開かれるなど、三重のトライアスロン業界もずいぶんと盛り上がっているということでした。

 そして、三重県体育協会の副会長として、この委員会に出席しておられた鈴鹿医療科学大学の藤澤幸三先生とともに、山田康晴先生と記念写真をとりました。藤澤先生は、三重大学の整形外科のご出身で手の外科の専門家であり、また、スポーツ医学の専門家ですね。実は藤澤先生は僕の姉(外科医)の三重大時代の同級生なんです。下の写真は、僕の向かって左が山田先生、右が藤澤先生。

 学長になってから3か月、まだまだ鈴鹿医療科学大学のすべてを把握できていないのですが、今日は、鈴大とはほとんど関係がないと思い込んでいた国体の準備委員会に出席したおかげで、僕の知らなかった鈴大の一面を発見をすることができました。そして、大学は地域といろんなことでつながっているんだな、もちろん国体ともつながっているんだな、ということを改めて実感させられた1日となりました。

 

 

 

 



 

 

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