私たちは主を「獅子のほら穴、ひょうの山」から見てきたが、主はその美しさを失われなかった。病の床から、墓のそばから、私たちのたましいの花婿に目を注いだが、主は「すべてがいとしい」以外の何ものでもなかった。多くの聖徒は、牢獄の中から、火あぶりの炎の中から主を仰いだが、決して主を非難することなく、その無比の美しさをたたえながら死んだ。
救い主の任務の一つ一つを見、そのすべてが比類ないことを発見するのは、言語に絶する喜びではないだろうか。それはあたかも万華鏡を回して、新しい無比の恵みの組み合わせを見るようではないだろうか。飼葉おけの中において、そして永遠において、十字架において、そして御座において、園において、そして御国において、犯罪人の中で、あるいはケルビムの中で、主は至るところで「すべてがいとしい」。
主のご生涯の一つ一つのちょっとした行動、またそのご品性の一つ一つの特色を注意深く調べてみよ。主は王者の威厳をもたれるとともに、細部においても麗しいことがわかるであろう。あなたの心のままに主を判断せよ。主を非難することはできないであろう。主をはかりにかけて量れ。重さに不足されることはないであろう。永遠も私たちの愛するお方に、一点の影も見いださないであろう。否、むしろ、歳月とともに、主の隠れた栄光はますます輝きを加え、言い尽くすことのできない美しさが、天国を慕う人々の心にさらに注がれるのである。