座間コミニティー

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◆あなたは神と和らぎ、

2018年05月08日 19時37分32秒 | 聖書
平和を得よ。(ヨブ二二・二一)
もし私たちが正しく「神と和らぎ、平和を得」ようと願うならば、神がご自身を啓示されたように神を知らなければならない。三位一体の本質的一致だけでなく、三位一体の三人格の複数性も知らなければならない。神は言われた。「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と。人は自分の存在の元であるこの「われわれ」について知るまでは、満足してはならない。
御父を知ることに努めよ。深い悔い改めのうちに、神の子どもと呼ばれるに値しないことを告白し、神の愛の口づけを受け、神の永遠の誠実のしるしである指輪をあなたの指にはめ、神の食卓に座し、あなたの心を、神の恵みによって楽しませよ。
また、さらに進んで、神の御子を深く知ることに努めよ。主は、父なる神の栄光の輝きであられるが、言い尽くすことのできない恵みのへりくだりによって、私たちのために人となられた。主のご性質の不思議な複雑さを知れ。主は永遠の神であられるが、同時に苦しみを受けられた有限の人である。主は神性によって水の上を歩まれたが、また人性の疲れのうちに井戸のかたわらに座られた。あなたが、イエス・キリストを友として、兄弟として、夫として、またあなたのすべてとして深く知るまでは満足してはならない。
聖霊のご性質と品性、属性とみわざをはっきりと見るように努めよ。主の霊を見よ。聖霊は初め、混沌の上に働かれ、秩序をもたらされた。聖霊は今、混沌としたあなたのたましいを訪れて、聖潔の秩序を創造される。聖霊を、主、霊的いのちを与える者、光を照らす者、教えさとす者、慰める者、そしてきよめる者として見よ。聖い油注ぎのように、聖霊がイエスの頭上に下られるのを見よ。そしてその後、イエスの衣のすそにあたるあなたの上にもとどまられるのを見よ。
あなたが真に神を知るならば、三位一体に関するこのように理性的な、聖書的な、また経験的な信仰があなたのものとなる。そして、そのような知識こそあなたに真の平安をもたらす。
 
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「子どもは死んだのではない。

2018年05月08日 19時35分49秒 | 聖書

眠っているのです」(マルコ5:39)

会堂管理者ヤイロが、瀕死の娘のために主に助けを求めた。
主が共に出かけられると、長血の女性が割って入った。
一刻を争う時であり、ヤイロの心は急いて、気が気ではなかったろう。
彼女が癒された時、使いが来て娘の死を告げた。

もう主に来て頂く必要はないと。ヤイロの心はどんなであったろう。
絶望が襲おうとする瞬間に、間髪を入れず主は御声をかけられた「恐れないで、ただ信じていなさい」。
別訳では「主はその話している言葉を聞き流して」、「主はその言葉に注意を払わず、心に留めず」となっている。
不信仰な言葉は、聞き流す必要がある。心に入れてはならない。

信仰の言葉である、御言葉を心に入れて、不信仰な言葉には耳を塞ぎ、シャットアウトすることだ。
不信仰の言葉を心に入れると、不安や恐れ、疑心暗鬼に支配され、不信仰に侵食されて行ってしまう。
又、不信仰を招く事柄に「もうだめだ、遅かった」という状況がある。

しかし、神の時がすべてだ。家に着くと、人々は大泣きし、取り乱していた。
娘は知らせ通り、すでに死んでいた。目の前の動かすことのできない現実であった。
しかし主は、「死んだのではない、眠っている」と言われた。

人々は嘲笑った。理性に合わないからだ。
しかし、主の言葉通り、娘は生き返った。どの言葉を受け入れ、どの言葉を聞き流すか、私たちの心が守られるために大切だ。
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心の中でいつも何かの声と会話している。
不信仰な言葉が心に来る時、それを自分のものとしないために、いつも御言葉をたくわえていよう。
不安や苦い思い、聞き流すべき言葉にすぐに気づき、心守られますように。

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おはようございます。

2018年05月08日 13時46分06秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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◆感 情 の 表 現

2018年05月08日 13時44分52秒 | 聖書

愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。
利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(箴言一二16)
ことばを制御できると、人生を制御できると聖書は言っています。しかし、ことばを制御できない場合、舌は小さな火となって、人生の車輪を焼きつくすとも、聖書は言うのです(ヤコブ三6参照)。
怒りのことばは、そのよい例です。それは口を出るとすぐ相手を傷つけ、人間関係を壊し、取り返しのつかないダメージをもたらします。自分自身をばか者にし、みじめにします。気がついた時には、友情も信頼感も平安も、大切なものがもう壊れています。多くの人が、怒って失敗してきました。
怒りの特徴は、「すぐ現わす」という点です。急に相手が憎らしくなって、攻撃のことばがほとばしります。もう一ついえることは、その時、その人は自分中心で、エゴのほか何もなくなっていることです。
自制がぜひ必要です。自制は人格の大切な要素です。ここで怒ってしまえば何を失うか、何が破壊されるかとか、それらの大きな価値などを冷静に考えるのです。すると、怒りのことばを制することができるでしょう。
このようにして切り抜ける経験を重ねることによって、だんだん怒りのことばを爆発させないようになるでしょう。まさに、「利口な者ははずかしめを受けても黙っている」のです。
でも、これでは借り物のようです。ほんものは、分析や計算から出るものではありません。自然に身に備わった柔和な知恵が、必要ではないでしょうか。イエス・キリストこそ、どこを切っても柔和、どんな場合でも柔和な方でした。十字架の上でののしられながら、人々の身代わりとして死なれる時にすら、優しい愛のことばがその口から流れ出ました。彼こそ、神から遣わされて、私たちにほんとうの柔和ないのちと愛を与えに来られた方です。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」(マタイ五5)。
 
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◆いやされた人は、

2018年05月08日 13時43分59秒 | 聖書
それがだれであるか知らなかった。(ヨハネ五・一三)
幸福で健康な人にとっては歳月は短い。しかし三十八年もの間、病んでいたこの人にとって、人生はまことに長いものであったろう。それゆえべテスダの池のかたわらで伏せっていた時、イエスがみことばをかけていやされると、自分の身に起こった変化に気がついて喜び躍った。これと同様に、幾週間も幾か月も失望を重ね、救いをあきらめて嘆息をもらしていた者に対して、主イエスが力あるおことばをかけ、信仰による喜びと平和を与えられるならば、彼は必ず自分の変化を意識するであろう。悪が取り去られたのを気づかないはずはない。いのちを与えられながら、なお無為の中にとどまることは不可能であり、身に受けた変化は人目につかないはずはない。しかしこの病人は自分をいやした方を知らず、その人格の尊さも、その方の使命も知らなかった。イエスの血潮の力を感じる心の中にも、イエスに対する無知が残っている。
しかしイエスに対する知識がないからといって、軽率に人を非難してはならない。たましいを救う信仰を見たならば、その人は救われていると信じなければならない。聖霊は、人に神のご性質を与えるよりはるか以前に、まずその人を悔い改めに導かれる。そして自分の知るところを信じる者は、すぐに自分の信じるところをいっそうはっきり知るようになっていく。とはいえ、無知はやはり悪である。というのは、このあわれな男はパリサイ人に苦しめられた時、反駁することができなかったからである。反対者に応答できるのはよいことであるが、主イエスをはっきり知っていなければ無理なことである。
しかし彼は病気をいやされた後まもなく、無知からもいやされた。イエスは宮の中で彼にお会いになった。その恵み深いイエスの出現の後、彼は「自分を直してくれた方はイエスだと告げた」のである。
主よ。もし私をお救いになったのなら、どうか私にご自身を示してください。私があなたを人々に宣べ伝えることができるために。
 
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詩篇103篇1-14節

2018年05月08日 13時40分30秒 | 聖書

103:10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
103:11 天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。


私たちは罪にまみれ、その心は墨のように真っ黒な者です。

このままで主の裁きの前に立ったら、直ぐ倒れてしまうような、恐れに満ちてしまう者です。

そんな者に、どこに救いがあるのか。

神の前に助けがあるのかと思うのです。

しかし主は、そうした私たちのために主の方から助けのみ手を差し伸べてくださいました。

御子であられるイエス様をこの地にお遣わし下さり、このお方の身代わりの死によって、このお方の贖いと救いを信じ受け入れる者に、そのすべての罪の赦しを与えてくださいます。

 それは、神様からの一方的な恵みです。

完全に、ただ主の憐れみによって与えられた赦しです。

だからこそ、その赦しは確実であり、また真実です。

その恵みを主は、その約束を信じ、信頼する者に与えて下さるのです。

主の一方的な憐れみを信じて、主に頼っていきましょう。

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◆ 私たちはみな、羊のようにさまよい、

2018年05月08日 13時36分34秒 | 聖書

★主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。


■O:今日のコラム
シャローム!御国が来ますように!

最近「トダーの生活」というヘブル的思考で御言葉を黙想するテキストを用いて御言葉を読むことを私自身が取り組んでいます。

「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」(創世記1:3)

創世記1章3節で神様は「光があれ」と仰せられました。ここで使われているのは命令型動詞です。今日の箇所、創世記26章2節の「仰せられた」と同じ言葉です。

神様が「~あれ」と仰せられた時、自然は従いました。私たち人間も神様からの仰せ「~しなさい」という命令型の御言葉に聞き従っているでしょうか?

「そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」 (創世記26:4~5)

創世記26章4~5節には祝福が約束されています。

「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」(申命記28:2)

申命記の28章の祝福の箇所も「聞き従うならば、祝福される」ですし、今継続して読んでいる創世記にも命令型動詞の後には祝福や約束が多く書かれていることに気付きます。

神様の言葉に従ったら「星のように子孫を増し加える」。そのようなことを、私たちが御言葉に従う時、思いや考えによぎるでしょうか?神様のなされることは、はるかに偉大で大きいので、計り知ることは到底出来ません。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

御言葉に従った結果は私たちには予想出来ないでしょう。しかし、分からずとも私たちが神様の言葉に従った後、祝福や奇跡が約束されているので、そこに希望を置きましょう(私自身がそう信じて訓練される渦中にあります)。

では、具体的に何をしたら「命令に従う」というアクションになるのでしょうか?

それは、祈りと礼拝、御言葉の朗読の生活の中で受け取る他にありません。どこかの聖会に参加することや、預言を頂く、そのようにことばを頂いて進むことも時にはあると思います。

しかし、1番重きを置くのは御言葉から祈りの中で受け取ることです。御言葉を朗読する中で神様ご自身からの命令を受け取り、実行することがアクションです。

先日の礼拝の中で「1年間で最低でも1回は聖書66巻の通読をしましょう」というチャレンジがされました。これは私にとっては具体的に従うアクションです。

自分の親、属する教会の牧師先生のおっしゃること、リーダーやメンターからのチャレンジや指導、助言に従うこと、神様が立てられた権威に従うことも神様ご自身の命令に従うことに直結する訓練だと私は思います。目に見える権威に従えなければ、目に見えない神様に従うことは難しいでしょう。

それですので私は今、1年で最低でも3回は66巻通読出来るよう、電車の時間なども使い、聖書朗読に励んでいます。

分かっても分からなくても、神様が立てられた権威に従う時に何かしら見出します。あれこれ言いたいのであれば従った後に言うのが筋です。何もしないで意見を言うのはただの不平不満に過ぎません。

私自身、牧師先生のアドバイス、メンターの助言に従った時は回復、前進、成長を経験し、従わなかった時は何かストップしたように思います。

今という時、私たちは神様からの命令に従う訓練の元に今一度身を置きましょう!自然が神の言葉に従うのに、人間だけが従わない。これはとても大変なことです。

私たち、聖徒たちが神様の命令に従い、神様の奇跡を見て、祝福を受け継ぐ者となれますように!御言葉を朗読し、御言葉から神様からの命令、約束、祝福を受け取りましょう!

「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3)



■A:考えてみよう
・自分が聖書、御言葉から命令、従うべきことを受け取れているか?
・目に見える親、牧師先生、メンター、リーダーにも従順になれているか?
・命令に従うことが出来るように祈りましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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5月7日(月)のつぶやき

2018年05月08日 02時29分42秒 | 仏教
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