座間コミニティー

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◆彼(モーセ)の手は日が沈むまで、

2015年04月16日 17時19分44秒 | 聖書

しっかりそのままであった。(出エジプト一七・一二)

モーセの祈りには非常に力があり、すべては彼の祈りにかかっていた。モーセの嘆願は、実際に戦っているヨシュア以上に敵を恐れさせた。しかしどちらも必要であった。そのように、たましいの戦いにおいても、力と熱情、決断と献身、勇気と強烈さが力を合わせなければならない。そうすればすべてがうまくいく。あなたは自分の罪と格闘しなければならない。しかし戦いの大部分は、密室においてひとり神と共になされなければならない。祈りはモーセの場合のように、主の前に契約のしるしを高く掲げる。杖は、神がモーセと共に働いておられるしるしであり、神がイスラエルを治めてくださるシンボルであった。祈りに励む聖徒よ。神の約束と誓いを神の前に高く掲げることを学べ。主は自ら宣言されたことを拒まれることはない。約束の杖を高く掲げて、あなたが求めているものを得よ。
モーセは疲れた。すると彼の友が助けた。あなたの祈りが衰える時、いつでも信仰にあなたの一方の手を支えさせ、聖なる望みにもう一つの手を支えさせよ。そうすれば、私たちの救いの岩、イスラエルの石の上に座した祈りは継続し、勝利を得るであろう。祈りにおいて衰えないように心せよ。モーセでさえもそれを感じたとすれば、だれが逃れることができよう。公に罪と戦うことは、罪のためひそかに祈るよりもはるかに容易である。戦場で戦っていたヨシュアは疲れなかったが、祈っていたモーセは疲れたということに注意せよ。働きが霊的なものになればなるほど、血肉によってそれを続けることは困難である。それゆえ、私たちは特別な力を叫び求めようではないか。そして、私たちの弱きを助けてくださる神の御霊が、モーセを助けられたように、私たちの手をも「日が沈むまで」しっかり挙げ続けさせてくださいますように。
時々思い出したように祈るのでは益が少ない。終夜格闘しなければならない。人生の「日が沈む」まで、そして祈りが賛美にのまれる国においてさらに輝かしい太陽が照り出すのを見る時まで、手を挙げ続けよ。

 


「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、

2015年04月16日 17時18分47秒 | 聖書

その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」(ローマ6:16)

私達の前にいつも二つの道がある。
古い性質、自我を主張する道と、新しい性質、自我に死ぬ道だ。
内側で葛藤する。二つの内、自分が選択した方が自分の行為となる。
害毒を流すか、神の栄光を現すか、どちらかになって結実する。
ある人が途中で職場に入った時、配置替えがあった。
以前からの人が不満で不快感をあらわにした。
しかし、きちんと対応していた。
ある時、目に余る言葉と態度にプライドが傷つき、一言言い返そうと思った。
瞬間、自我!と思い、「神様!」と心で叫んだ。
その瞬間に出た言葉が「ごめんなさいね。私が入ったために部署が替わって」すると相手は驚き「いいえ、あなたのせいじゃないわ」と言い、それ以後、相手の態度が一変、和やかな良い関係になった。
彼女は一瞬、神を選んだ。
神を選べないから助けを求める事によって。サタンは狡猾で、欲に誘惑して来る。
「一言言えばすっとするぞ」しかし、それは肉だ。
一瞬、肉が快感を得るが、必ず後悔が来て平安を失う。
日常生活は、瞬間、瞬間、自我か御霊かの選択だ。
瞬間、神に助けを求めよう。
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「わたしを呼べ」と言われる神に、瞬間に助けを求めよう。
自分では肉しか選べない。神の助けにより御霊を選べる。
瞬間、瞬間の選択だ。神に介入して頂こう。


今日の聖人の記念日

2015年04月16日 06時01分32秒 | キリスト教

聖マインラード司祭

906年-963年

 マインラードは、スイスのボーデンゼ湖畔の村で、信心深い両親の間に生まれた。5歳のときにベネディクト修道院に預けられ、教育を受けた(当時の教育・文化の中心は修道院であり、ベネディクト会からは多くの優れた聖人・学者が輩出している)。マインラードはベネディクト修道会に入って司祭になり、修道院の中の学校で少年たちの教育にあたった。その後、山奥の小屋で孤独のうちに祈りと黙想の生活を送るようになったが、多くの苦しみ悩む人々が、マインラードに慰めと救いを求めて訪れるようになったので、彼はさらに山奥に新しい小屋を建て、そこで生涯を送った。しかしここも人々の知るところとなり、彼は祈りをもって人々を慰め励ました。

 彼の遺体は小屋のそばに埋められ、この墓で祈る人は慰められて帰るので、多くの巡礼者が世界から訪れるようになった。彼の墓の上には大聖堂が建てられ、その横にはベネディクト会の大修道院、アインジーデルン修道院が建っている。

聖ベルナデッタ

1844年-1879年

 1844年1月7日、フランスのルルドという小さな村で生まれた。非常に貧しい家庭で育ったベルナデッタは、たまにしか学校に行けなかったので、読み書きもできない内気な少女だった。その上病弱で、死ぬまで喘息(ぜんそく)から逃れることはできなかった。

 1858年2月11日、ベルナデッタが14歳のとき、妹と友だちの3人で、家の近くのガブ川の岸辺にたきぎを拾いに行った。すると、目の前の洞窟に不思議な光に包まれた聖母マリアが現れた。しかし、一緒にいた妹と友だちには何も見えなかった。この日から7月16日までの5カ月の間、聖母マリアはルルドの洞窟に18回現れ、「罪びとのために祈りなさい」と、ベルナデッタをじっと見つめながら言われ、彼女は絶え間なくロザリオの祈りを唱えていた。

 ベルナデッタは、家の手伝いをしているときも、ヌヴェール愛徳修道会に入ってからも、臨終の床で耐え難い苦しみの中にあるときも、いつもロザリオの祈りをささげていた。1879年4月16日、35歳の若さで亡くなり、修道院内の墓に埋葬された。死後30年、40年、46年と彼女の墓が開けらたが、遺体は全く腐敗しておらず、1933年12月8日、教皇ピオ11世によって列聖された。ベルナデッタの遺体は、今もヌヴェール愛徳修道会の聖堂に静かに安置されている。聖地ルルドは、年間400万を越す人々が世界中から巡礼に訪れ、聖母マリアが現れた洞窟から湧き出る水によって、今も多くの奇跡が行われている。


◆財産が役に立たぬ時

2015年04月16日 05時59分53秒 | 聖書

財産は激しい怒りの日には役に立たない。
しかし正義は人を死から救い出す。(箴言一一4)

数年前、台風13号が八丈島を通った時には、直径約一メートルの岩を一メートル半も動かしたということです。瞬間風速六七・八メートルの文字どおり「岩起こし」の風でした。
人生にも、「岩起こしの風」が吹き荒れることがあるのではないでしょうか。そんな時、財産は全く役に立ちません。
第一に、戦争とか不景気とか火事や地震の災害の前にも、財産が役に立たない時があります。健康な体と心のほうが必要です。
第二に、心の中に巣くう罪の前にも財産は無力です。希望に満ちたきよい心のほうが必要です。
第三に、死の前には、それこそ財産は無力です。百万ドルやるから助けてくれと言って死んだ百万長者がいます。
これらはみな、やがて来るべき「怒りの日」の予告です。聖書によれば、怒りの日が来ます。世界全体・人類全体が、怒りの日をやがて迎えるのです。すべてのたよりにしていたものは、財産どころか地位も名誉も、その日には助けとなってくれません。
何が助けるものでしょうか。正義は、人を永遠の死から救い出すのです。神を知り神に従い神を愛することだけが助けるのです。神だけが、救う力を持っておられるからです。
この怒りの日のために、あなたも私も準備が必要です。
「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)。

 


第2列王記7章3-8節

2015年04月16日 05時58分08秒 | 聖書

7:6 主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、「あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ」と言って、
7:7 夕暮れになると、彼らは立って逃げ、彼らの天幕や馬やろば、すなわち、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった。



 重い皮膚病に冒されていた二人の人が、町の門の所に座っていました。

ここで待っていても何もないし、また町に入っても飢饉のために助けはない。

いっそアラムの軍の所に行って、自分たちの命をかけてみようと言いました。

彼等は、軍が宿営している所に行きました。

そこには誰もいませんでした。

主が彼等に、大量軍隊の到来を告げる音を聞かせので、彼等は恐怖に陥って、退却してしまったのでした。

その結果、この二人の人は、残された食料を思う存分食べることができました。

主がその業をされたからでした。

人には思いも寄らない方法によって、主はご自分の御業をされたのです。


◆キリストの、

2015年04月16日 05時55分32秒 | 聖書

尊い血……。(Ⅰペテロ一・一九)

十字架の下に立ち、尊い血潮のしたたる両手両足と脇腹を見よ。その御血潮が尊いのは、贖罪の効力があるためであり、それによって民の罪は贖われ、律法の下から解き放たれ、神と和解させられて一つにされるからである。
また御血潮はきよめる力をもつ。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」信者はキリストの御血によってきよめられ、しみや、しわや、そのようなものの何一つない者とされる。おお、私たちをきよめ、多くの不法の汚点を取り去る尊い血よ。あらゆる方法を尽くして神に逆らった私たちを、愛する御子によって神の御前に受け入れられるものとする血よ!
その血はまた、信仰を持続させる力をもつので尊い。血の注がれるもとにいれば、破壊の天使から安全でいられる。神が私たちを見逃された真の理由は、その血をご覧になったためであることを覚えよ。信仰の目のかすむ時、ここに慰めがある。神の目は常に変わらないからである。
また、キリストの血が尊いのは、聖化の感化力のためである。罪を取り去り義とするその血が、新しい性質を躍動させ、また導き、罪を征服させ、神の命令に服従させる。キリストの血管から流れ出る血ほど、聖潔への大いなる原動力はない。
さらにキリストの血がことばに尽くせないほど尊いのは、罪に打ち勝たせる力のためである。「兄弟たちは、小羊の血……のゆえに彼に打ち勝った」と記されている。どうして勝てないことがあろう。イエスの尊い血によって戦う者は、敗北を知らない武器によって戦う者である。
イエスの血よ! 罪はその前に滅び去り、死もまた力を失い、天国の門はその前に開かれる。
イエスの血よ! 私たちがその力に信頼する限り、私たちは勝利に勝利を重ねて前進する。

 


4月15日(水)のつぶやき

2015年04月16日 01時41分54秒 | キリスト教