座間コミニティー

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「あなたがたのからだを、

2015年04月27日 17時59分59秒 | 聖書

神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)

あなたも経験するだろうか。神の御心がなりますようにと祈りつつも、自分の思いと自分の願いで一杯で、建前は神の御心だが、本音では全くそうではなかったりする。
しかし、反抗する気など全くなく、一応は御心がなりますようにと思っているので、思っているだけに自分でも気づかない。
自分では真剣に祈っているつもりだが、後で振り返ると、委ねる事の意味もわかっておらず、神を信頼もしていなかったとわかる。
メッセージで、学びで、神に委ねる事の大切さを、しょっ中教えられるので、それが良い事と思い、そうしている「つもり」だが、実は自分の思いと自分の願望をしっかり握って放さない。
しばしば、自分がそうあればいいと思っている事を、実際そうだと勘違いする。
反抗したり、逆らっていれば、明らかにわかるが、逆らっているつもりはないので、わからない。
気づかない。何かが漠然とし、混沌としているのだ。
心に確信と満たしが無い。平安が無い。
それで自分でも、何かが違うと薄々感じている。
この問題点は、献げていないところにある。
決して自分を献げてはいない。
心の底を御霊で照らされる時に、献げていない自分を見い出す。
この事を認めることが前進のためのまず一歩だ。
握っているものがないか。
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知識だけが増えて来るので敬虔ではないにしてもそれなりの信仰があるつもりでいる。
本当の自分の姿は見えているだろうか。
信仰は自分が神様に献げるものだ。
みんなと一緒に…はありえない。


今日の聖人の記念日

2015年04月27日 06時09分12秒 | キリスト教

聖ジタおとめ

?-1278年

 ジタは、イタリアの貧しい家に 生まれた。父母の教えに従って、「心は神に、手は仕事に」をモットーによく祈り、よく働いた。13歳のとき裕福な家のお手伝いとなり、生涯そこで働いた。ジタは心やさしく、貧しい人にたびたび食べ物などを分け与えていた。あるクリスマスの夜に、凍えそうな老人に出会い、コートを貸した。実はその老人は天使であったと言われ、そのことによってますます彼女は、人々から尊敬されるようになった。

 ジタは60歳でその生涯を閉じ、遺体は彼女が祈りに通った聖フレディアノ教会に、今も横たわっている。


◆豊かになる方法

2015年04月27日 06時07分57秒 | 聖書

ばらまいても、なお富む人があり、
正当な支払いを惜しんでも、
かえって乏しくなる者がある。    (箴言一一24)

私の尊敬している友人三浦綾子さんは、ある小説の最後に、「人間の価値を決めるものは、その人が地上でどんなに集めたかでなく、どれだけ散らしたか、ばらまいたかである」というようなことを書いておられます。それが私の心にこびりついています。
私たちはだれでも、豊かな人生を望んでいます。「お金も豊か、友達も大勢。いつもにぎやかに人が寄ってくるような、知識も力も豊かな人生」と。ところが、その豊かさの秘密は、受ける側になることではなく、与える側にまわることなのです。
札幌の町の真ん中を流れる川にサケがのぼってきたという話を聞きました。それは四年前に、五センチほどに育ったサケの子を惜しげもなく放流しておいたからでした。ところで、私がつりに行った時のことですが、四、五十匹の小ブナをつってきたことがありました。放してやるのが惜しくてなりません。小さな水槽に入れ、何とかして生かして人に見せてやりたいと努力しました。けれども、二、三日のうちに、酸欠でみな死んでしまいました。
私たちの神は、祝福しようとして待ち構えていらっしゃる神なのです。受けた祝福を惜しげもなく人に流していくと、より多くの新しい祝福を次々に送ってくださいます。自分のためにだけ祝福をためこむ人には、神は新しい恵みを注ぎこめません。今まで持っていたものまでくさって、どんどん貧しくなるのです。
使徒パウロは、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ八32)と言いました。また、イエス・キリストご自身「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒二〇35)と言われたのです。

 


◆神、

2015年04月27日 06時07分10秒 | 聖書

私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。(詩篇六七・六)

私たちが神の与えてくださる霊的祝福をほとんど活用していないのには、驚くほかはない。しかしさらに不思議なことは、私たちがほとんど神ご自身を活用していないことである。神は「私たちの神」なのに、私たちは神に注意を向けることが少なく、求めることも非常にわずかである。困難に会う時、重荷を主の肩に投げかけて支えていただこうとはせず、常に自分で重荷を担おうとする。私たちは故意に主の助けを仰がない。なぜなら主のほうでは「たましいよ。わたしはおまえのものだ。来て望むままに用いなさい。おまえは自由にわたしの倉庫に来ていいのだ。その回数の多いほど歓迎する」と言われるからである。神の富を自由に用いていないことは、私たちの過失なのである。
あなたはすばらしい友をもち、主はあなたを招かれる。だから、日々必要とするものを主から引き出せ。助けを得るために行くべき神がおられる限り、あなたは決して欠乏を感じないし、あなたを支えられる神がおられる限り、決して恐れや失望に陥ることはない。あなたの宝庫へ行き、必要なものを持ち出せ。神をあなたのすべてとすることを学べ。神はあなたにすべてのものを与えてくださる。さらに適切な表現をすれば、神はあなたのためにすべてのものの代わりになられる。そのゆえに、あなたの神を利用するようにお勧めする。祈りにおいて利用せよ。しばしばみもとに行け。主はあなたの神であられる。
神のみもとに急いで行き、必要の一切を訴えよ。暗黒の運命があなたを閉じ込めたなら、あなたの神を「太陽」として用いるようにせよ。敵があなたを襲うなら、主をあなたの「盾」とせよ。主はその民にとって太陽であり、盾である。あなたが人生の迷路で行く道を見失ったら、主を「道案内」とせよ。主はあなたの導き手である。あなたが何者であろうと、またどこにいようと、神は、あなたが求めるそのものであり、あなたが求めるその場所におられ、あなたの願う一切をなすことのできるお方であることを記憶せよ。

 


第2列王記9章21-26節

2015年04月27日 06時05分26秒 | 聖書

9:26「 『わたしは、きのう、ナボテの血とその子らの血とを確かに見届けた。─主の御告げだ─わたしは、この地所であなたに報復する。─主の御告げだ─』それで今、彼を運んで行って、主のことばのとおり、あの地所に彼を投げ捨てよ。」



 使いが帰ってこないので、ヨラム王自身が馬に乗ってエフーを迎えに行きました。

そしてエフーに「元気か」と尋ねました。

ところが、エフーは答えて、こう言いました。

「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行われているかぎり。」と。

つまり、主の怒りを彼に伝えたのです。

ヨラム王は自分に対する反逆が起こったことを知り、逃れようとしました。

しかしエフーの放った矢によって、彼は殺されてしまいました。

その遺体は、エフーの侍従のビデカルに命じられて、以前ナボテの所有地であった畑に投げ捨てられました。

この畑は、イゼベルの策略によって、アハブ王がナボテを殺して奪った地でありました。

主が彼に「必ず報復する」と言われた、その地でした。

主によって報復されたのです。


1列王記14章7-8節

2015年04月27日 06時03分01秒 | 聖書

★帰って行ってヤロブアムに言いなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられます。
『わたしは民の中からあなたを高くあげ、わたしの民イスラエルを治める君主とし、ダビデの家から王国を引き裂いてあなたに与えた。
あなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデは、私の命令を守り、心を尽くして私に従い、ただ、わたしの見る目にかなったことだけを行った。』

■O:今日のコラム
ソロモン王の死後、主はソロモンの不従順によって王国を引き裂いて北イスラエルをヤロブアムに任せられました。
しかし、ヤロブアム王はダビデように主から選ばれたことを忘れ、心から主を愛することよりも自分の力で王国を確立させるために以下のことを行いました。
・金の子牛を造った。
・ベテルとダンに祭壇を安置し、レビ人ではなく一般の民から祭司を任命した。
・自分で勝手に考えた月に祭りを行った。(1列王記12:26-33)
この事によって王自身だけでなく、主から任された国民にも罪を犯させることになったのです。
どれほど主はこのことを悲しまれたでしょうか。預言者アヒヤを通しても、ユダからやってきた預言者を通しても警告されましたが、その心は最後まで主と一つになることはなかったのです。
ダビデは完全な存在ではありませんでしたが、ダビデは主と共に生きることを選び続けた人物でした。
今日においても主は全世界を見渡しご自分と一つ心となる者を探しておられます。
主から与えられた場所と役割の中で私たちも日々ダビデのように、心を尽くして主を愛し従っていきたいと心から願います。

■A:考えてみよう
・任された場所・与えられた役割の中で主はあなたに何を望んでおられるでしょうか。

■P:祈り
おとうさん
今日も私たちの上に立てられている権威ある方々を覚えます。
主にある知恵が与えられ、何よりもあなたと出会うことができますように。
またダビデのように忙しさの中でも、心騒ぐ時も絶望の中にあっても主と共に生きることができるようにどうか助け導いて下さい。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


4月26日(日)のつぶやき

2015年04月27日 01時44分27秒 | キリスト教