座間コミニティー

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◆キリストは、私たちにとって、

2013年09月25日 16時01分10秒 | 聖書

神の知恵となり……。(Ⅰコリント一・三〇)

人の知性は安息を求めているが、生来、それを主イエス・キリスト以外に求めようとする。教育を受けた人に至っては、回心の後においてすら、キリストの十字架の単純さを、尊敬と愛をもって見ようとしない傾向がある。昔ギリシヤ人が捕えられた古い網にからまれており、哲学と啓示とを混同しようとしている。洗練された思想をもち、高度の教育を受けた人の陥りやすい誘惑は、十字架にかかられたキリストの単純な真理から離れ、いわゆるもっと理知的な教理を作り出すことである。このため、初代教会にグノーシス主義が入り、さまざまな異端がはびこった。これがネオロジー(新教義)となり、かつてドイツで流行し、今もある神学者をわなに陥れている種々の異説となった。
友よ。あなたがどんな人であっても、また教育がどうであろうと、哲学化された神学では、決して安息は見いだせないことを心に留めよ。あなたは、ある偉大な思想家の説を受け入れ、また他の深遠な推論家の夢を受け入れるかもしれない。しかし、もみがらは穀物に比べて何であろうか。これらの説は、純粋な神のみことばに比べればもみがらのようである。正しい筋道を通っても人間の理知が得るものは、真理の初歩にすぎない。そして、それすら確かさを欠いている。しかし、キリスト・イエスの中には、すべての知恵と知識が満ちあふれている。クリスチャンがユニテリアン(イエスが神であることを否定する教派)や広教会(英国教会の中の自由主義)の思想体系で満足しようとする試みは、すべて失敗する。
しかし天国の真の相続人は、農夫の子の目をも喜びに輝かせ、敬虔な貧しい者の心をも喜ばせることができる。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」この雄大にして単純な事実に帰るべきである。イエスを信じて受け入れる時、最も高度の理知でも満足するのである。しかしイエスを離れては、新生した心は安息を見いだすことができない。
「主を恐れることは知識の初めである。」「これを行なう人はみな、良い明察を得る。」

 

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ヨシュア記24章29-33節

2013年09月25日 11時05分27秒 | 聖書

24:31 イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。


ヨシュアは110才で死にました。

彼と行動を共にしたアロンの子エリアザルも、死にました。

そして民は、彼らをそれぞれの地に丁重に葬りました。

 ところでその民のことを彼らは、ヨシュアが生きていた間、つまり霊的な指導者がいて民を導いた間、また主が民の上に豊かな祝福を注いでくださったということを、身をもって知っている民の指導者である長老たちが生きていた間は、民はこの主に従い仕えていた、と語っています。

そこには暗黙のうちに、そのような指導者たちが天に召されていくと、民の心は次第に変わっていったと告げていることを見るのです。

ここでは、主にある民にとって大事なことを伝えています。

それは、御言葉を語り、また御言葉によって民を導く霊的な指導者が、いつでも必要だということです。

教会も、御言葉が失われると、滅びに向かうのです。


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◆酒  に  酔  う

2013年09月25日 07時21分03秒 | 聖書

わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。
争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。
ゆえなく傷を受ける者はだれか。
血走った目をしている者はだれか。
ぶどう酒を飲みふける者、
混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。(箴言二三29―30)

酒に、自分というものの支配権・コントロール権を売り渡してしまった酔っぱらいの姿が、絵のように描かれています。故人となった落語家の圓生あたりにこの聖書のことばをテキストとして演じさせたら、泣き上戸・けんか上戸・ぐち上戸の目の血走った姿を、さぞかしじょうずにやってのけるだろうと思います。
二三章の後のほうを見ますと、異様なものを見たり聞いたりする幻聴幻覚、ねじれごとをしゃべる放心状態、もうどうにもならないのにもっと飲みたいという飢餓状態も描かれています。「一杯人酒を飲み、二杯酒酒を飲み、三杯酒人を飲む」とは、うまいことを言ったものです。酒は口から飲むのに、全身にまわって、手も足も口も酒が支配し、手が舞い足が踊り口が歌い出します。ギリシャの賢人ダイオゼニスは、つがれた酒をすぐ地面にこぼして捨てるので「惜しいじゃないか。むだにして」ととがめられ、「それでも酒を飲んで、私と酒の両方をむだにするよりましだ」と言ったと聞きました。
新約聖書は、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」(エペソ五18)と言っています。神の御霊に満たされて酔え、酒に酔っぱらうなというのです。しかし、エゴが支配していてはできないことです。
 口は賛美の歌うたい
 手は喜びの舞いを舞い
 足は奉仕の道を行く
人は、陶酔を求めます。神の愛と喜びの中に、最も高貴な陶酔があるのではないでしょうか。

 

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◆こうして神ご自身が義であり、

2013年09月25日 07時20分19秒 | 聖書

また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ三・二六)

私たちは信仰によって義と認められたため、神との平和をもっている。良心はもはや私たちを責めず、さばきも今や罪人に不利とはならない。記憶は過去の罪を顧みて深くそれを悲しむが、来るべき罰を恐れない。キリストが神の民の負債を支払って、神の領収書を受け取ってくださったからだ。だから神が一つの負債に対して二重の支払いを求めるほど不条理な方でない限り、キリストが身代わりになって死なれたたましいが、一人でも地獄に落ちることはあり得ない。
神を義なる方であると信じることは、御霊によって啓発された性質の根本原則の一つである。私たちは神が義でなければならないと感じる。これは初めは恐怖をもたらす。しかし、神は義であるというこの同じ信仰が、後に私たちの確信と平安の柱になるとは驚くべきことである。神が義であられるなら、罪人であり、身代わりのない私は滅びるよりほかはない。しかし主は私の代わりに立ち、私のために罰を受けられた。それゆえに、神が義であるならば、キリストにあって立つ罪人の私は、今や罰せられることはない。主が身代わりとなられたたましいに律法を適用する余地はなく、神はそのたましいの前に態度を変えられるのである。
罪の結果当然受けねばならない神の怒りのすべてを、主が身代わりになって受けられたために、信者は「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」との勝利の叫びをあげることができる。訴えるのは神ではない。神は私たちを義とされた。訴えるのはキリストでもない。主は私たちのために死に、よみがえられた。
私は自分が罪人でないから希望をもつのではない。私は罪人であり、主が私のために死んでくださったので、希望をもつのである。私の信頼は自分の聖さにではなく、主が汚れている私の義となられたことにある。私の信仰も私自身にはなく、キリストがどんな方であって、どんなことをなさり、また現在私のために何をなさっておられるかにある。義の獅子の背に、希望という美しい少女が女王のように座している。

 

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エステル記3章4-6節、4章16節(聖書本文は口語訳)

2013年09月25日 07時17分30秒 | 聖書

★  3:4-6  彼らは毎日モルデカイにこう言うけれども聞きいれなかったので、その事がゆるされるかどうかを見ようと、これをハマンに告げた。なぜならモルデカイはすでに自分のユダヤ人であることを彼らに語ったからである。

ハマンはモルデカイのひざまずかず、また自分に敬礼しないのを見て怒りに満たされたが、
ただモルデカイだけを殺すことを潔しとしなかった。彼らがモルデカイの属する民をハマンに知らせたので、ハマンはアハシュエロスの国のうちにいるすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの属する民をことごとく滅ぼそうと図った。

★  4:16 「あなたは行って、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとにへ行きます。わたしがもし死ななければならないのなら、死にます」。

■O:今日のコラム

9月24日の朝です。今日1日も、神様に従っていきましょう。神様だけを恐れる覚悟をもっていきましょう。これからこの様な時代がくるからです。

スポーツを見に行く時を想像してください。自分の大好きなチームを応援するために、ユニフォームも着て完璧なスタンバイ。でも、会場に着くと周りには敵のユニフォームを着た人ばかり。非常に気まずい雰囲気です。一瞬ひるむかもしれません。しかし、周りがいくら敵を応援していても、自分の応援するチームは変わりません。

そして、気付くのです。この会場がホームゲームだということに。周りはアウェイのチームでした。

僕らが周りにだけ目を奪われるならば、絶望感がくるかもしれません。でも、神様を見るならば、僕らの周りの周りには、天の味方が満ち溢れているのです。僕らの賛美は、天の賛美と一致していくのです。

僕らが神様以外のモノを拝まなければならない状況が職場や学校や地域であるかもしれません。しかし、僕らがすることは、天のお父さんを求めていくことです。

上司の忠告や先生方の言うことは必ず聞きましょう。でも、もしあなたの信仰を揺るがそうとする言葉を言うのならば、その言葉だけには従ってはいけません。勇気をもって、「私は神様だけを礼拝します。神様以外のモノを拝むことはしません。」と宣言しましょう。

日本の歴史の中で、踏み絵をしていた時代がありました。そこでは多くの犠牲がありました。その過去を経て、今、僕らがこの時代にイエス様の十字架と復活の信仰をもつことができるのは、素晴らしすぎる神様の恵みです。

人間の想像したことのない見たことも聞いたこともない神様の愛を信じることができるのは、聖霊様による理解しかありません。

信仰は恵みです。だからこそ、この恵みを感謝して受け取り続けていきましょう。

断食をもって、主を求める時をもつことは、これからの備えとしても大切なことです。イエス様は、終わりの時代にイエス様を信じる者は苦しみをうけると言っています。(マタイ24章など)

でも、僕らの戦いは、いつでもホームゲームです。僕らが賛美を口から出すとき、天の味方が僕らの周りを取り囲んでくださいます。イエス様が、隣に居てくださいます。神様だけを礼拝しましょう。

■A:考えてみよう

神様の恵みが僕らの力の源です!

困難にある時、神様を見上げよう。

天の味方が僕らと共に居てくださるならば、あなたは何ができますか?

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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