座間コミニティー

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◆正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。

2013年09月04日 17時05分02秒 | 聖書

(レビ一九・三六)

度量衡は、すべて正しい基準によらなければならない。たしかにクリスチャンは、このことを彼の仕事の上で考える必要はないだろう。仮に世界中から正義が消え失せても、それは自明のことだからである。しかし、道徳および霊的なことを測る他のはかりがあり、これはしばしば検査する必要がある。
私たちが自分自身を測り、また他人の品性を測るはかりは全く正確であろうか。一〇グラムほどの自分の美点を一キログラムにも計算し、他の人の一キログラムほどもある美点を一〇グラムほどにしか計算していないのではないか。
クリスチャンよ。度量衛を見よ。私たちが自分の試練や患難を測るはかりは、基準どおりであろうか。私たちよりもはるかに苦しまなければならなかった使徒パウロは、自分の苦難を軽いと言った。しかし私たちは、しばしば自分の苦難を重すぎると考えている。たしかに、重さに狂いがあるに違いない。私たちは、不正な取り引きをしたと天の法廷に報告されることがないように注意しなければならない。
また、自分の教義上の信念を測るはかりは全く正確だろうか。恵みの教理は、みことばと同じ重さをもつべきである。重すぎても軽すぎてもならない。しかし、多くの人々には、どちらかの皿が不当に重いのではないかと思えるのである。
真理に正しいます目を与えることは大切である。主にある友よ。この点において注意深くあれ。私たちが自分の義務や責任を測るますは小さすぎる。富む者が神の事業のためにわずかしかささげないのは、正しいエパであり、正しいヒンであろうか。教職者が栄養不良になっている。それが正当な扱いと言えるだろうか。貧しい者がさげすまれ、不敬虔な富む者が賞賛を博している。それが正しいてんびんであろうか。
友よ。このリストをさらに長くすることも可能であるが、それをあなたの今夜の仕事とし、不正なすべての度量衡を発見して、それを打ちこわせ。

 

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◆セックスの落とし穴

2013年09月04日 08時22分31秒 | 聖書

他国の女の口車は深い穴のようだ。
主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。(箴言二二14)

主の憤り・主の怒り、それに主ののろいということばさえ、聖書によく出てきます。しかし神が、私たちのように自分勝手なちっぽけな感情で、怒ったりのろったりされるはずはありません。神はねたむほどに私たちを愛し、私たちのことを心配してくださるので、こう言われるのです。
神が心配しておられる一つのことは、他国の女、つまり男性を性的に誘惑しようとしか考えていない、妻以外の女の誘惑に陥ることです。どんなに多くの人々が、この深い落とし穴に落ちこんでしまったでしょうか。他のいろいろのことなら、手足がどろでよごれたり、かすり傷を受ける程度ですむことがあります。しかし、このセックスについての落とし穴は、深い穴であって、人間の心の髄までくさらせてしまうけがれたるつぼなのです。
教養があり、善悪をわきまえており、しかも能力ある実力者ダビデ王も、聖書によると、このセックスの落とし穴に落ちこみました。そして、日照りで地割れするような魂の苦悩の中で苦しんだのです。しかし、彼がそこから脱出しえた恵みと回復の喜びの歌も聞いてください。
「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた」(詩篇四〇1―2)。
ねたむほどに私たちを愛される神は、イエス・キリストの十字架の血の中に、脱出の道ばかりか新しい人生まで備えていてくださるのです。

 

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◆わたしの心だ。きよくなれ。

2013年09月04日 08時21分29秒 | 聖書

(マルコ一・四一)

初めの暗黒は、全能者の「光よ。あれ」との命令を聞いて、ただちに逃げ去り、そこに光が現れた。主イエスのみことばも、権威において、その古い力あることばといささかも変わらない。贖いは創造と同様に、力あることばをもつ。イエスが語られると、事はたちまち成る。主が「わたしの心だ。きよくなれ」と言われるとすぐに病は逃げ去った。
この病気には希望も回復のしるしもなく、自然の力をもっては全くいやすことができなかった。しかし主のただ一言によって、その場でいやされた。罪人はこの病よりももっと悲惨な状態にある。彼にこの病人のように、「イエスのみもとにお願いに来て、ひざまず」かしめよ。信仰が乏しくても、それを働かせよ。「お心一つで、私はきよくしていただけます」という程度の信仰でもよい。信仰を働かせることがよい結果をもたらすのは、疑う余地がない。イエスはみもとに来る者をことごとくいやし、一人も退けられなかった。
今朝の聖句の前後を読む時、イエスがこの病人に触られたという点に敬虔な注意を払うべきである。この病人は、律法にある規則を破って家の中に入った。しかしイエスは、彼を叱責されるどころか、彼に会うためにご自身も律法を破られた。イエスはご自身と病人を交換された。イエスは病人をきよめられたが、彼に触ることによってレビ記中の律法に定められた汚れを受けられたのである。そのように、イエス・キリストは罪を知らない方であるのに、私たちのために罪となられた。私たちが主にあって神の前に義とされるためである。
あわれな罪人がイエスの幸いな身代わりのみわざを信じてみもとに行くならば、すぐに御手の恵み深い力を知るであろう。パンを増やし、また沈もうとしているペテロを救い、悩んでいる聖徒を支え、信者に栄冠を授けるその同じ御手が、すべての求める罪人に触れると、彼はすぐにきよくされる。イエスの愛は救いの源である。主は私たちを愛し、ながめ、触れてくださる。こうして私たちは生きるのである。

 

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ヨシュア記19章40-48節

2013年09月04日 08時19分18秒 | 聖書

19:47 ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。


ダン部族の相続地のことが語られています。

通常は、相続地の境界線のことが記されているのですが、このダン部族には、そのことは記されていません。

記されているのは町の名前のみです。

それは、彼らがはじめに与えられた土地に定着することができないで、後になって北の方の土地に移住をせざるを得なくなってしまったからでした。

彼らにはこの土地が狭かったからでした。

ですから後になりますと、この土地は、ベニヤミン族の土地に併合されていきました。

 この土地で有名なのは、「アヤロンの谷」です。

エモリ人やペリシテ人との戦いが、この地でなされました。

ダビデがペリシテ人を破ってこの地を征服した後、ソロモンが支配しました。

後には、主都から見て北西の方面の地域を守るための要塞が作られたところです。

この要塞は、この地方の守りの要となりました。


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テモテへの手紙 第一 4章7b-8節(箴言28 章)

2013年09月04日 08時13分19秒 | 聖書

★  むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。 

■O:今日のコラム

うちの牧師は、肉体と敬虔のために、両方怠らず鍛錬をしている、素晴らしい牧師です。毎日何百回と腹筋をしていると!そして、毎日何時間も祈りとみことばに費やしていると!!!その面では、かなり尊敬しております(笑)。

パウロはここで、「身体も霊も鍛える必要がある。だけど、霊を鍛える方が大切だよ」って言っていると思います。

肉体の鍛錬はそのまんま身体を実際的に鍛えることですが、「敬虔のために」 鍛錬するってどういうことなのかと思い、調べてみたところ、英語では“Godliness”と訳されており、それを直訳すると 「神を敬うこと」 だそうです。

神を敬うとは、一言で言えば、神様を喜ばせることだと私は思います。私たちが日々、神様の前に清い生活を保ち、礼拝を捧げ、感謝することを神様は喜ばれます。(テサロニケ人への手紙 第一 5章12-23節参照)

身体を鍛えることは、健康の為にすごく必要ですし、体力がないと動くことができないですし、やりたいことができません。

しかし、皆さんは、体力があるのに、動くことができるのに、やる気力が全然なくて、結局何もしなかったって経験ありますでしょうか?

例えば、祈り会、または礼拝のとき、身体は疲れていないし、元気だけど、神様に賛美する気じゃない、歌いたくないと感じるときは、完全に霊が元気ではありません。そんな時、私はよく、祈ります。「聖霊様、私を励ましてください。力づけてください。アパパパパパ~(異言で祈りだす(笑))」

このときこそ、鍛錬の時なのです!!
鍛錬って自分の感情でやりたい、やりたくないではなく、やってからこそ出てくる成果です。

だから、最初は異言で祈りたくない、歌いたくないって思っても、シンプルに自我をおき、異言で祈り、「ハレルヤ」っていう賛美を小さい声ででも口ずさみます。そうすると、霊が鍛えられていき、元気になり、しまいには、身体も異様に元気になりすぎて、跳びまわったり、笑い転げたり、叫んだり(^。^)

パウロは、敬虔のための鍛錬は今と未来のいのちに有益だと言っています。

例えであったように、鍛錬によって、私の今のいのちは実際的に益を受けています。そして、それだけではなく、未来(肉体が朽ちてから)でも、この鍛えられた霊は有益であるということです。

素晴らしいことじゃないですか?
肉体はどんなに鍛えても朽ちてしまう。けど、霊は鍛えたら鍛えただけで、朽ちることなく、永遠の私たちの財産になっていくのです!

そして、このすぐ後の9節でパウロが最後にパンチを利かせます。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。」アーメン!!!

■A:考えてみよう

トレーニングとは1日で結果がでるものでもないですし、続けていく必要があります。そして、最初はしんどくても、だんだんと強くなっていくと、身体が慣れてきます。

霊を鍛えることも一緒です。日々の積み重ねがとっても大切です。一緒に主と時間を過ごし、霊がいつも元気でいられるように鍛錬していきましょう。

■P:祈り

主よ、私の霊を起こし、鍛えさせてください。日々、あなたを喜ばせたい!私の肉の思いが反対の方向に行っているとき、聖霊様助けてください!そして、私の自我と肉をあなたの御前におき、あなたの導きに従わせてください!!

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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